他人の感情的攻撃をかわすには

 ”嫉妬心”を表す英語の表現に、"green-eyed monster"というイディオムがあります。直訳すると、「緑色の目をした怪物」。シェイクスピアの戯曲で用いられた表現からきています。

 実際に嫉妬に狂った人の目の色が緑色に変わるということはないのでしょうが、私たちの感情が瞳の中に宿り、そしてその宿った感情が私たちの物事を見る目にバイアスをかけるという原理は理解できます。激情のために、冷静な視点を見失うという心の状態が、目の色が変わった怪物という言葉で上手く表わされていると思います。

 

 バイアス、偏見、で思い出すある出来事があります。学生の頃、日本に来たばかりの留学生の諸々のお手伝いをする、ボランティアサークルに入っていたことがありました。ある時、そのサークルの命を受けて、私はあるフランス人留学生(男性)の学務手続きを手伝うことになりました。指定された日に待ち合わせの場所に行ってみると、その人はもうそこに来ていました。私が声をかけると、とても不機嫌そうな様子で私のことをジロッと睨み、むすっとした表情のまま、スタスタと歩き始めました。こんにちはもよろしくも、何の挨拶もないままです。私は意味がわからず、初対面のこの人から、なぜいきなり嫌悪感を抱かれなければいけないのだろうかと、かなり混乱しました。

 その人としばらく一緒に過ごしてみて、私にはだんだんわかってきました。そのフランス人は、私という個人ではなくて、日本人、アジア人全般を小馬鹿にしていたのです。話す会話の節々から、態度から、私を見る目つきから、そのことが明瞭に伝わってきました(ではなぜ留学先に日本を選んだのかという疑問が湧いてきますが)。私が実体験として、人種や肌の色という分類で他人から差別的に扱われた、初めての経験でした。

 

 

 偏見という言葉が表す通り、「偏った見方」は、物事を中立に眺めることを難しくします。また、嫉妬や怒り、悲しみ、恐れといった感情を抱いている時もまた、自分が目にする景色に色付けをすることになり、結果として物事を善か悪か、白か黒か、好きか嫌いかのような二分法的な見方で眺めることになります。全ての出来事は本来中立で、意味なんかありません。意味づけをしているのは、私たちの物の見方、観念、思い込み、クセ、感情です。

 

 不妊治療に何年もの歳月を費やした女性が、治療中の精神的につらい時期、道で妊娠している女性や小さな子供連れの女性を見ると、嫉妬で怒りが湧いてきた、と話していました。全然知らない赤の他人に対してです。この場合、嫉妬の怒りを向けられた女性には当然ながら何の非もないわけで、怒りをぶつけられたとしても当然責任を感じる必要はありません。

 こうしたことは、私たちの日常でたくさんたくさん起こっていると思います。いわれのない怒りをぶつけられたり、差別や偏見の目で見られたリ、羨望もしくは侮蔑のまなざしを向けられたり。逆に私たちの方が、街で見かける人に対して、バイアスのかかった目で見てはジャッジしたり、感情が動いたり、ということだってあります。

 

 

 もし、今の私が、学生時代のあの時の自分(かなりショックを受けていた)にアドバイスをするとしたら、こんな風に言ってあげると思います。

 

「その人の態度を、個人的に受け止めなくていいんだよ」

 

 あのフランス人留学生は、私という個人の資質や性格や人となりをみて、あのような冷徹な態度をとったわけではありません。日本人である私を見た時、差別的な物の見方、偏見、思い込み、私的な好みというフィルターを通して眺めたために、彼の中の侮蔑的思考が刺激され、感情が動き、中立的な立場をとる冷静さを失ってしまったのです。彼は、自分の心の内に潜んでいた闇を、私に投影して見ていたにすぎません。彼のそれまでの人生の過程で、時間をかけて、育まれていった闇でしょう。偏見や思い込みが強ければ強いほど、愛とは対極的な態度をとらざるを得なくなります。それだけ負の感情が膨れ上がるので、自分をコントロールすることが難しくなり、相手を思いやる心の余裕がなくなります。

 

 

 誰かがもし、自分に向かって感情をぶつけてきたり、批判的なまなざしを向けてきたとしたら、それを私的に受け取らない方が身のためです。そんな風にいちいち他人から向けられる負のエネルギーを受け止めていたら、身が持ちません。本来、受ける義務も必要性もありません。

 その人がこちらに向けてきている負の感情は、その人の個人的なものです。その人が抱えている個人的な問題や、個人的な偏見が生み出しているものです。私はたまたまその場にいただけで、その人の心を動かす刺激やきっかけとなったかもしれませんが、「原因」となったのは私ではありません。個人的に受け取らないことです。たとえ家族という身近な関係同士でも、です。

 そして私たち自身も、他人や物事を見る時に、バイアスや個人的な問題・思い込みを通して見るのではなく、できるだけ中立の視点を保てるように努力したいものです。そうすれば、必要以上に感情に振り回されることもなく、冷静さをキープすることができます。そしてそれが、理解と受け入れにつながっていくのではないかと思います。