武将の悲哀

 戦国時代の書物を読んでいると、あの時代の武家社会に浸透していた、もののふとしての共通概念、パラダイムの影響力を強く感じます。いわゆる「義」を重んじ、主君に忠義を誓い、領土を守ることと拡張することに心血を注ぎ、武士としての名に恥じない生き方・死に方を全うする。

 特に、武士としてはその死にざまが無様であることは大変恥ずべきことであるという認識が強かったようで、切腹の仕方もいかに潔く豪傑であるか、ということが重要でした。

 ある記録に次のような記述があります。敵に追い詰められたある武将の奥方が脇差で自決した後、供をしていた乳母が同じ脇差で喉を突いて果てます。すると、そばに控えていた付き人の男が、「女がこのように潔く死んでいるのに、男としてこれに劣るわけにはいかない。この場を去って城に戻り、戦に参陣して活躍したとしても、周囲にみせる顔がない」といって、戦場に戻る選択をせず、そこで腹を十文字に掻き切り、はらわたを引き抜いて喉を突いて(この切腹の仕方は潔いものとされていた)果てました。

 このように、武士として逃げる姿勢をみせることは、当時は大変恥ずべき事でした。あの時代、自分が武士として潔く生き・死んだことが、いかに周囲や子孫に伝わるかということを、強く意識していたことが伝わってきます。「面目」「末代までの恥」「末代までの名誉」という文言は、この時代の文章に頻繁に出てきます。

 また戦国の世では、主君が亡くなるとその後を追って臣下が自殺をする「殉死」という風習がありました。影響力のあった武将が亡くなると、二桁にも上る殉死者が出ることもあったようです。更に、殉死の殉死(主君の後を追った臣下の臣下がその後を追う)などもありました。今では考えられない風習ですが、この時代は、臣下が主君に対して命を投げ出して忠義を示すことの意義が、非常に大きかったのです。

 

 

 武士というと、勇猛果敢で豪胆なイメージがありますが、戦いに明け暮れていた武士たちが、一方では芸能を愛し、洗練された和歌や文章を残していることを、様々な記録によって知ることができます。信長公が舞を好み、自らも時々舞っていたことは有名ですが、他にも茶の湯や相撲を楽しみ、武具や装束も細部までこだわりをもって作らせるなど、おしゃれのセンスでも当時の最先端を走っていたようです。一流の絵師に描かせた安土城の数々の襖絵は、息をのむほどの美しさであったと、訪れた人が記しています。多くの戦場で勇壮な立ち居振る舞いをする一方、繊細で優美なセンスの持ち主でもあったようです。

 伊達政宗公の父である輝宗(てるむね)公は、能を好みました。奥州という都から離れた場所にありながら、能楽に力を入れ、能楽師を雇ったり能楽堂を立てたりと、戦闘だけでなく芸術の振興にも努めていました。そんな輝宗公でしたから、跡取りである息子政宗に対する教育にも力を注ぎ、遠方から著名な僧侶を招いて、政宗の教育者にあてがいます。政宗は幼少の頃より頭脳明晰だっただけでなく、和歌もよく詠んだとのことで、11歳の時に一族の連歌の会に参加した時の歌「暮わかぬ月になる夜の道すか(が)ら」が残されています。当代一流の僧侶から教育を受けた成果もあってか、政宗は武芸のみならず文芸の才も花開きました。23歳の時、小田原攻で初めて秀吉の元に馳せ参じた際、遅参を責められてしばしの間幽閉を余儀なくされます。首も飛ぶかもしれないという危機的な状況の中、政宗は大胆にも千利休に茶の湯を習いたい、と申し出ます。奥州のどんな田舎者がやってくるのかと思っていた秀吉は、政宗の意外な文化人ぶりと豪胆さを面白く思ったのか、遅参を許し、その後も何かと目をかけるようになります。

 

 源平合戦の時代から戦国時代末期まで、瀬戸内海を中心に活躍した村上水軍ですが、こちらも豪傑な海賊集団のイメージからは想像できないような、繊細で哀愁漂う数々の歌を残しています。村上水軍の1グループである三島村上水軍は、伊予の国大三島に鎮座する大山祇(おおやまつみ)神社を信仰していました。合戦に赴く前には、よくここで先勝祈願を行い、その際風流なことに奉納連歌を行っていました。そこで詠まれた膨大な数の歌が、今でも神社に残されています。その一部をご紹介します。

 

旅衣末はるかなるやどりにて 

こぎぬる船にかねぞくれける

なか(が)き日もわずかになみの浦つたい

なきにし雁もこえかすむなり

 

とにかくに今際(いまわ)の身こそ悲しけれ

末は必ず仕えん御ほとけ

とうほども涙にちぎる秋の袖

したしかりつる中のふる塚

 

ますらをが弓づるほのかにかき鳴らし

はばさす玉こそ世にはあだなれ

武士(もののふ)は老いても心ゆるさじな

よむ歌にこそ名をものこさめ

 

あかつきの別れの鳥は鴫(しぎ)の声

田面(たも)の庵を出るますらを

ねざめてはそれかあらぬかほととぎす

なごりかなしきよこ雲のそら

 

のがれても世のほかならぬ山の中

幾度なれし戦いのにわ

数々の思いあまりて捨る身に

つらきむかしぞいまもくるしき

 

やみとなる心は月もなにならで

あさくおもうな親と子の中

別れてもただうちそうる心して

親のすがたをのこすうつし絵

 

ろうたきの匂いもふかき夕まぐれ

これをや恋のかたみともせん

物おもうこいのみちこそ哀れなり

こころの末をいつかしられん

 

手枕にむすびとめてよ夜半の夢

あさくなりぬるあかつきのそら

かたみとぞ思う扇に手をそえて

折々におう人の移り香

 

慕えども今朝の別れを留めかねて

散りゆく花のおしき雨かげ

夜な夜なの面影のみやしたうらん

なかなかきえぬ袖のうつり香

 

 

 これらは皆、戦いに赴く前の海軍武士たちが交互に詠んだ歌です。心の内が込められた歌の数々を読んでいると、故郷や家族、恋人の元を離れて戦地へと向かう武士たちの、胸が詰まる程の哀愁が伝わってきます。勇ましい武士とはいえ、人は人です。時流と環境に抗えず、大きな波に身を委ねざるを得なかったこの時代の武士たちは、表向きの勇猛さはさておいて、心の内では人間としての苦しみや悲しみ、葛藤を抱えていたのではないか。心の底から喜び勇んで戦場に向かう人など、本当はいなかったのではないだろうか。そんな風に感じます。

 

 そんな切ない武士の心情が強烈に伝わってくる、一つの遺書があります。信長の小姓として最期まで付き従った森蘭丸の兄、森長可(ながよし)の残した書状です。

 長可は、父可成(よしなり)の代から信長に仕え、可成が浅井・朝倉軍との戦いで討死した後、13歳で家督を継ぎます。勇猛果敢な武将として数々の戦で名を挙げ、信長が本能寺で死んだ後は、秀吉につくことを選びます。そして、本能寺の2年後に秀吉と家康が戦った小牧・長久手の戦いにおいて討死、27歳で生涯を閉じることになります。その戦いの直前に書いた遺書が残っています。

 大切な壺や茶碗、刀の類を誰それに渡してください、といった内容と一緒に、「母は生活できるだけの堪忍分を秀吉様からもらい、京に入るように算段してください」と母親を気遣う文、そして、末の弟千丸のことを、「千丸に私の跡を継がせるのはいやでございます」と書いています。更に、娘のおこうについて、「京の町人のところに嫁がせるようお願いします。薬師のような人に嫁がせるのがいいと思います」と書いているのが胸を突きます。長可には、蘭丸の下に坊丸、力丸、千丸という3人の弟がいたのですが、蘭丸・坊丸・力丸の3人は、本能寺の変で同時に亡くなっています。千丸自身は信長の小姓になりたいと望んだとのことですが、幼少ゆえにまだ奉公に上がってはいなかったので、命拾いをしました。

 父親と3人の弟を戦で亡くし、自分自身もこの後の戦いで討死するかもしれない。そんな状況の中で、武士としての家の存続よりも、1人の人間として、生き残った末の弟の身の上を案じているのが印象的です。もしかしたら、夫と息子を相次いで亡くした長可の母親の胸の内を慮った可能性もあります。戦国の世ではよくあったこととはいえ、3人(そしてすぐに4人目も)の息子を次々に亡くした母親の気持ちはいかほどのものだったか、記録には残っていませんが、察するに余りあります。そして、娘には武家に嫁がせたくない。そんな素直な父親としての心情も、痛々しいほど伝わってきます。いくら武勲を挙げ、名誉を得たとしても、家族を亡くす痛みや、家族を残して散る身の虚しさを、自分以外の愛する人には味わわせたくない。そんな人としての率直な想いが、この遺書から滲み出ています。

 

 

 義を重んじ、名誉の死を望んだ武家社会の道徳概念と生死観。それは確かに強烈に浸透していたたに違いありませんが、必ずしも全員が、そのパラダイムに完全に飲み込まれていたわけではないように感じます。盲従しようにも仕切れなかった哀しき武士たちも、少なからずいたのではないか。芸術を愛し、繊細な心の内を歌という形で残し、家族の幸福を願ってできる限りの対処を望んだ、人間としての武士たち。世の無常さに直面しつつ、人としての心を失わずにいかにして自分を保っていたのか。あのような時代に生きることは、繊細な人であれば特に、タフな経験であっただろうと思います。

 

 

【参考文献】

 

「仙道軍記;岩磐軍記集」歴史図書社

「伊達史料集(上)」戦国史料叢書10 小林清治

「村上水軍全史」新人物往来社 森本繁

「戦国武将の手紙を読む」中公新書 小和田哲夫