松島で「罪悪感」について考える

 日本三景の一つ、松島に行ってきました。「松島」というだけあって、島々は見渡す限り松ばかり。あの島も松、この島も松、どこもかしこも松、松、松。こんなに一度に松を眺めたのは初めてです。(正確に言うと、中学時代に遠足で松島に来ているはずなのですが、悲しいことに記憶がほとんど残っていません)

 

 圧倒されそうなくらいの松を見ていたら、ふと「そういえば、松(=pine)はバッチフラワーにもあった」ということを思い出しました。バッチフラワー38種類の一つ、「パイン」です。パインは、『罪悪感を感じ、様々な事柄に対して、自分が悪い、自分のせいだと自分を責めてしまう時』にとるレメディです。

 松の葉はとげとげしていて、触ると思わず手を引っ込めてしまうくらい痛いです。私たちが自分で自分を責める時、チクッと刺されたような心の痛みを感じるのと、松の葉のとげとげしい形状がよく対応しています。

 ルース・ベネディクトは著書『菊と刀』で、日本の文化は外的な批判を恐れる「恥の文化」で、欧米の文化は内的な良心を意識する「罪の文化」であると述べています。いつの頃からか、私達は自分の行いや生き方を特定の規範と結び付けて捉える習慣がつき、そこから外れると「罪悪感」を覚えるようになってしまったようです。

 物心ついたときから、世の中の常識や世間体、風習や社会通念などを教え込まれ、それらを守らないと「恥を知りなさい」「人様に顔向けできない」「常識知らず」etc...様々な表現で責められます。生まれたときには何にも縛られていなかった私たちですが、繰り返し教え込まれて時には責められていくうちに、次第にそういった形を持たない集団意識の波の中に飲まれていき、気づいたら縛られて生きていくことになってしまうのではないでしょうか。

 子供はとても純粋である上に、親や周囲の大人たちから愛されることを望んでいます。お父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃん、先生たちが言うことをちゃんと守らないと愛してもらえないと思い、たとえ自分の本心から外れていたとしても、大人達のいうことを素直にきいて、無条件に受け入れてしまう傾向があります。自分の本当の気持ちを封印させて、周囲の意見を優先させてしまうのです。

 そうなると、「罪悪感」というのは、湧き上がってくる自分の気持ちを抑えるために便利なツールとなっていきます。愛してもらうためには、自分の気持ちを押し殺した方が都合が良いと思い込んでいるので、そのためには心の声など聞こえない方が良いわけです。たとえ聞こえてきたとしても、それは「いけないことなのだ」と自分に言い聞かせます。そんな望みを持つ自分は「悪い子なのだ」と責めます。

 

 あたり一面の松を眺めていたら、まるで松が語り掛けてくるような気がしてきました。「もう手放していいんだよ」と。

 罪悪感の蓄積が大きく、それをいつまでも手放すことができずにいると、自分が自分らしく生きていくことの障害となってしまうことがあります。自分には幸せに生きる権利などないと思ってしまったり、「世間のひとたち」が認めるような生き方しかしてはいけないと、自分に制限をかけてしまったり。

 本当は、どんな人も「罪悪感」など感じる必要はないのではないかと思います。全てのことに意味があり、全てのことが自分を成長させるために起こっていると思えば、あらゆることが起こるべくして起こっているはずです。自分が過去にしたこと、言ったこと、そして過去を含めた今の自分全てを受け入れ、認めてあげましょう。

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