怒りについてⅠ

 敏感で繊細なタイプの人というのは、人の思いや場の雰囲気を感じやすく、尚且つ「相手を喜ばせたい」という奉仕の精神を持ち合わせていることが多いです。ですから、様々な場面で、相手の希望や期待を敏感に察知し、自分の本当の思いを押し殺してでも、相手が喜ぶ道を選びがちです。

 物心がつく頃から自然とそのような習慣が身についている場合、あまりにもその生き方がなじみ過ぎて、選択の判断基準が「自分の思い」ではなく、「家族の希望」や「一般常識」「風習」「伝統」はたまた「自分に強い影響力を持つ人の生き方」等に自然となってしまっているかもしれません。自分がその状態であることに気づいていないこともありますし、気づいていたとしても、今更根本的な生き方を変えられないと思っていたり、これが自分なんだ、とか仕方ない、とあきらめてしまっていることも多いです。いつの間にか、本当の自分の思いに従って突き進むより、相手や周囲に合わせていくことに安心感を抱くようになり、それが本来の自然な生き方であると、自分で自分に言い聞かせるようになっていったりします。

 

 こうした生き方を長らく続けていくと、一見周囲と軋轢もなく平和に暮らしているように見えるかもしれませんが、本当の自分の思いは成し遂げられていないままなので、心のどこかに違和感を覚えるようになります。

 

 そしてその違和感が、「怒り」という形で、表面化してくることがあります。 

 

光と闇Ⅹ

 "Out of sight, out of mind." (去る者は日日に疎し)

 

 英語にも日本語にも、同じような意味のことわざがあります。英語バージョンだと、直訳すれば「視界に入らなくなれば、思考からも去る」といった感じでしょうか。

 

 世の中には光もあれば闇もあります。光に目を向けている人もいれば、闇に引っ張られている人もいます。そして私たちは、そのどちらにも惹きつけられることがあります。

 

 苦手だなと思う人がいた場合。苦手だと思えば思う程、その人のことが気になり、気にしていたくないのにいつも気にしてしまう、考えたくないのに常にその人の顔がちらつく、ということはよくあります。それは知らず知らずのうちに、その人のことに意識をフォーカスしてしまっているからです。「あの人のことなんて考えたくもない」と強く思うことでむしろ、強い念が発生してしまっています。

 人に限らず、苦手な場所やシチュエーション、エネルギーに対しても、拒絶する気持ちを強く持つと、逆にそこに強くフォーカスしてしまうことになります。

 

 良くも悪くも、自分がそれにどのように「反応」しているかどうかが、その人のエネルギーフィールドに影響を与えます。闇に力を与えたくなかったら、そして自分が闇に支配されたくなかったら、そこに意識を向け過ぎないことです。拒絶するより受け入れた方が、影響を受けずに済みます。”受け入れる=愛”のパワーの方が本来強いのです。

 

 意識のコントロールには、ある程度の訓練も必要かと思います。雑念や頭のおしゃべりばかりを聞いてしまっている状態だと、闇に引っ張られやすいです。そのような状態であれば、まずは頭と心を鎮めることから始めることをお勧めします。

 気をそらす、自分が何にフォーカスするかを決める、望まないシチュエーションにエネルギーを与えない・・こうしたことは、常に思考や想念で一杯な状態だと、集中して行うのが難しいです。まず自分をニュートラルな状態にしてからの方が、やりやすいです。

 

 

 

 「闇」、この世のネガティビティは、恐怖心をツールとして世界のエネルギーを操ろうとしていますが、「闇」の存在そのものが、実は恐怖心でできているということを、私は確信しています。

 有名人でも身近な人でもどちらでもいいので、自分が知っている、わかりやすく「闇」に引っ張られている人を一人挙げてみてください。そしてその人の一挙手一投足を観察してみてください。その人はなぜそのような行動をとっているのでしょうか。なぜ嘘ばかりついているのでしょうか。なぜ自分を強く見せようとしているのでしょうか。それはその人自身が恐怖心に支配されているからに他なりません。何かを失うことを極端に恐れているはずです。時々見せる子供じみた言動も、自分の見せかけの強さが傷つけられたと感じた時の、感情的な反応です。

 

 恐怖心に支配されている人を、そもそも必要以上に怖がらなくてもいいように思います。どれだけ力を持っているかのように見えても、所詮それは張りぼての虚像です。一部の人を騙すことで持ち得ている、脆い、見せかけの力です。そのような虚像は、何かのバランスが崩れた時、あっという間に崩壊してしまうことでしょう。

 

 

光と闇Ⅸ

 「光と闇」シリーズのブログの一番最初に、昔のアニメの話を書きました。昔のアニメや漫画にはよく、ダークヒーローが登場していました。主人公に敵対する、悪の権化のようなキャラクターです。嫉妬深く狡猾で、意地が悪く破壊的。常に主人公を陥れようと画策しています。

 

 なぜかダークヒーローには、必ずと言っていいほど取り巻きがいました。悪魔の子分達です。たいてい、子分達も意地悪で、卑屈です。それでいて、常に親分であるダークヒーローの顔色を窺っているような、小心者として描かれることが多かったように思います。

 

 人が人に惹かれる(異性の関係に関わらず)時。それは必ずしも、愛に基づいて惹かれているとは限りません。人は時として、相手の持つ”傷”に惹かれることがあるのです。光にはもちろんとてつもないパワーがありますが、闇にもパワーがあります。闇側も常に、パワーを拡大させそうとしているのです。

 闇のパワーの吸引力を侮っていると、痛い目にあいます。特に、自分の心の状態によって、はねつける力が弱まっていることがあります。判断力が鈍っている時は、相手の嘘やまやかしに簡単にひっかかりがちです。それはそれで経験であり学びなので、決して悪いことではないのですが、パターンやメカニズムを知っておくと、何度も同じ間違いを繰り返すことはなくなるかと思います。

 

 相手の傷に惹かれている時というのは、たいてい、惹かれる側も似たような傷を持っています。同じ学びを同時にさせられる目的で、引き寄せられる場合もあります。または、共依存の関係にありがちですが、自分の満たされない思いを満足させるため、敢えて被害者のような立場を選んでいることもあります(この場合は無意識下で行っていることが多い)。それから、ダークヒーローに付き従う子分達のように、自分には力がないと信じている人が、一見力がありそうな人につくことで、自分自身が大きくなったような気がして満足感を覚えていることもあります。

 闇の力が基盤となっている集団というのは、案外秩序を重んじます。細かいルールやヒエラルキーを構築することで、組織としての盤石性を維持しようとしているのです。誰が「ボス」かということにこだわるのは、権力に依存しているためです。また、恐怖心を抱かせるような「罰」をつくって、集団から逃れにくくしたりします。そして、一人一人には力がないと信じ込ませます。愛ではなく、恐怖で支配しているのです。

 

 集団に限らず個人と個人の関係でも、このようないびつなパワーバランスが存在していることもあります。自分がそのような関係性に陥っていると感じる時は、一度離れて冷静になり、そこで何が起こっているのか、深く洞察してみるといいです。

 

 自分のことだけではなく、相手のことを心から思っている人は、

 

☆自分のことを必要以上に大きく見せたりしません

☆相手が無力であるかのようなことを言ったりしませんし、そのように思わせるようなこともしません。

☆相手の恐れを助長するのではなく、「怖がらなくても大丈夫」だという言葉がけをします

☆自分の立場が上であるという態度をとりません

☆相手を利用して自分が得をするような姑息な手段をとりません

☆物理的な恩恵を相手から期待しません

☆自分の傷を、相手を傷つけることによって埋めようとしません

☆自分の傷を、相手に癒してもらおうと期待しません

☆相手が自分と違う意見だとしても、それを尊重します

☆相手の人生の選択を、尊重します

 

 これらのことはそのまま、自分が相手にしていないかどうかを確かめる指標にもなります。人と人との関係性は、一方通行ということは絶対にありえません。私たちはつい、相手のせいにしてしまいがちですが、その人に惹きつけられたということは、自分の中にも何かしらの理由、要素があったということです。愛に基づいた関係性はポジティブに拡大しますが、傷に基づいた関係性は、長続きしなかったり、ある時突然空中分解してしまったり、どちらかが病む結果になったりと、その人たちが本来の姿で生き生きと輝く妨げとなります。

 

「魅力」にも様々な種類があるということです。

 

光と闇Ⅷ

 地球には、エネルギーが特別に高い場所や、反対にとても低い場所があります。特別ではなくても、そこそこ高い場所や、そこそこ低い場所もあります。太古の昔から地殻活動が活発な地域(火山があるような場所など)は、押しなべてエネルギーが高い傾向があるようです。それは、元々その場所がエネルギーが高いから地殻活動も活発になるのか、もしくは地殻活動が何度も起こったことによってエネルギーが高まったのか、どちらかはよくわかりません。

 また、エネルギーにも様々な種類があり、その場所に行くと元気がもらえるようなパワースポットもあれば、その場所の波動を浴びることで一気に浄化されてスッキリする、といった場所もあります。反対に、低い波動の場所に行くと、ぞわぞわしたりなんだか暗い気持ちになったり、体調が悪くなったりもします。

 元来その土地が持つエネルギーの影響もありますが、人間の活動によって、その場所の波動が上がったり下がったりすることも当然あります。人間がポジティブな意識でポジティブな行いをしていけば、自然とその場所の波動も上がり、何でもなかったような場所がパワースポットになったりします。また逆に、凄惨な殺人事件など、とてもネガティブな出来事が起こったような場所は、その行いによってポータルが開いてしまい、悪の存在が活発に動きまわるようになったりします。その時関わった人のネガティブな「念」や意識がこびりついていることもあります。

 

 当然、ネガティブな波長を発しているような場所はできるだけ避けた方が良いですし、できれば高い波動を発している場所に身を置きたいものです。けれど、人間生活していれば、日々様々な場所を訪れますし、中には避けて通れない場所もあるかと思います。望むと望まざるとにかかわらず、「あ、ここは明らかに良くない場所だな」といった場所に足を踏み入れてしまった場合。対処法としては、大きく分けて「防御」と「浄化」が鍵になるかと思います。

 

 まず「防御」ですが、そういった場所に身を置いたとしても、守ってもらえるよう、神仏などにお願いをすることです。見えない世界のことは、見えない世界にいる存在の管轄領域であり、得意分野です。私達は常に、そうした存在から何かしらのご加護を受けていますが、ピンチにいる時や、特別守りの力を高めてもらいたい時は、明確にお願いをすることが大事です。高次の世界にいる存在というのは、とても謙虚で、私達の自由意思の邪魔を決してしてきません。こちらが窮地にいるような時でも、依頼されなければ手助けができないのです。ですから、守ってもらいたい時や助けてもらいたい時は、遠慮せずにはっきりと、「助けてください!」と意思表示をした方がいいです。私たちを助けたくて手ぐすね引いて待っている存在達が、喜んで助けに来てくれます。

 それから、ネガティブな場所にいる時でも、ネガティブに波長を合わせないことです。これはなかなか難しいかもしれませんが、意識するだけでだいぶ引っ張られにくくなります。どんなに雰囲気が悪くて気がすさむような場所にいても、自分が光でいれば、ネガティブな影響を受けるのが少なくて済みます。過去にも書きましたが、闇よりも光の方が強いのです。愛と希望、慈愛、いたわり、そういった意識を保ってその場をやり過ごしてください。光をイメージするのも効果があります。自分を光で包み、その場所全体も光で包みます。

 お守りやお札、天然石、魔除けの力が宿ったグッズに頼るのも一つの手かと思います。そういったものを何か常に身に着けておくと安心です。もちろん、フラワーエッセンスにもプロテクション系のものは色々ありますから、そういったものを毎日とっていると、大きな助けとなってくれます。

 

 次に「浄化」ですが、これは本当に様々な方法がありますし、個人的に合う合わないもあるかもしれませんので、参考程度に読んでください。低い波動の影響を受けてしまった時に、一般的に効果があると思われるやり方を挙げておきます。

 

☆海塩を入れたお湯につかる

・・・浄化系のフラワーエッセンスを入れると尚効果的です。もちろん、浄化系のフラワーエッセンスを飲むのもおすすめです。

 

☆深く何度も息を吐く

・・・吐く時に悪いものが口から出ていくイメージで。この時に、やはり高次の存在に浄化を手伝ってくれるようにお願いすると良いです。悪いものに対して「出ていけ!」と強く命令すると更に効果的です。

 

☆神社にお参りをする

・・・できればパワーの強い神社が望ましいです。霊験あらたかなお寺でも良いです。もし、何か悪いものが憑いてしまったなと感じ、お参り程度では落ちないようでしたら、ご祈祷を頼むのも一つの方法です。

 

☆セージを焚く

・・・セージの浄化パワーは本当に強いので、家に常備しておくことをお勧めします。これさえあれば怖くない、という程頼りになります。ネットで簡単に購入できます。

 

☆笑う

・・・ふざけているようですが、人は笑うことで波動が一気に高まります。波動が高まると低い波動の影響を受けにくくなるので、できればたくさん笑っていた方がいいです。ニコニコ笑うだけでなく、時には声を出して心から笑ってみましょう。お笑いの動画など、今は様々なコンテンツがあるので便利です。笑うことで病気が治った話などは、世界各地にあります。

 

 

 ほんの一例を挙げてみました。こうした物理的な方法で、地球上のネガティブなエネルギーの影響をできるだけ少なくするやり方もありますが、やはり一番大切なのは、常日頃からポジティブな意識で生活していることだと思います。確かに神社やパワースポットといった高波動の場所に行けば、その時に一気に波動が上がります。けれど、家に帰って普段の生活に戻った際、後ろ向きでうじうじした考えで過ごしたり、物事のネガティブな面ばかりを見て、不平不満や文句がひっきりなしに浮かんでくるような思考パターンでいれば、せっかく高まった波動もまた一気に下がってしまいます。

 海塩やフラワーエッセンス、天然石、護符などの高波動のグッズを使うのも、私は結局は対処療法だと思っています。体調を崩したり病気になった際、病院へ行ってお薬を飲むなどして何らかの治療をします。よくなった後、もし不摂生を続けたり、病気を引き起こしたネガティブな思考パターンでいれば、またいずれ体調を崩したり病気に罹ったりするでしょう。薬や治療というのは、対処療法であって、根本的に人を癒す力はまた別にあると思います。

 たとえばフラワーエッセンスも、飲んだその時に何かしらの変化が起きます。たいていは、「気づき」があります。そもそもエッセンスがとても波動が高いものなので、飲んでいるだけで波動が上がり、ポジティブになっていきます。環境が変わることも多々あります。けれど、ただ飲んでいるだけで具体的に行動を起こさなかったり、自分を見つめなおすことを怠っていると、エッセンス本来の効果は半分程度で止まってしまうように思います。飲み終わった時に、また元の状態に戻ったりします。エッセンスはその人が本来の輝きを放ち、生き生きとポジティブに生きていくお手伝いをするものであって、それにすがるだけでは足りないのです。ツールはツールでしかありません。その人の人生を突き動かしていくのは、その人の意思であり、行動であると思います。この力が一番大きいのです。

 

 ということは、この世の闇も悪も、仕組みを理解すれば、極端に恐れる必要もなくなるのではないでしょうか。確かに闇は存在します。でも、そちらにフォーカスを合わせることなく、なすべきことをこなしていれば、必ず守られます。光を選ぶか闇を選ぶか、その選択権は、私達に委ねられています。闇に堕ちたくなかったら、選ばなければいいだけです。選んでいないと思っても、闇に引っ張られているのであれば、深いレベルでは選んでいます。光を選ばない理由が、何かしらあるはずなのです。

 

 

光と闇Ⅶ

 私たちの耳に囁いてくる悪魔の囁きは、大きなものから小さなものまで、内容も形態も様々です。闇の度合いが深い、非常に邪悪な悪魔の誘いは判別もつきやすいので、気を張っていればよほどのことがない限りそちらに引きずり込まれることはないでしょう。闇サイドにどっぷりとつかってしまっている人間というのも、見て明らかなのでこちらもわかりやすいかと思います。

 やっかいなのは、光なのか闇なのか、一見わかりづらいようなやり方で近づいてくる輩です。神や仏のような高尚な存在を装ったり、その人のためになるかのような表現で、甘い誘惑の言葉を囁いてきたり。先日書いたヨガの講師の例のように、物理的な成功を収め、富や名声を得だした段階で巧妙に罠を仕掛けられたりします。そして、今度は罠に引っかかって堕ちてしまった人が、他の人を引き込む側に周り、巧妙な手口で自分の勢力を広げようとします(本人が表層意識では無自覚でやっていることも多いです)。自分がたいそうな存在であることをアピールしてきたり、物理的な富に固執していたり、人からの称賛に酔っているようなタイプの人は、大概この虚栄心の罠にはまっていると思っていいです。

 

 闇の存在は、人間が生き生きと光の存在として活動することを厭います。なのでよく、人がいざアクションを起こそうとする前の段階で、あの手この手で邪魔をしてきます。

 

「自分には才能がない」

「失敗するかもしれない」

「周りに反対されるかもしれない」

「お金がないからできない」

「馬鹿にされるかもしれない」

 

・・・この類の囁きを本気で信じてしまい、本当は動きたいのに重たい腰が上がらず、ぐだぐだとやるべきことを先延ばしにしている人は、たくさんいるのではないでしょうか。やるべきことを先延ばしにしている人というのは、往々にして何かしらの言い訳をしてきます。「お金がない」という口実はよく耳にしますが、自分が無力であると強く信じてしまっているがために、「お金がない」という状況を自ら創り出している場合もあります。目の前にある現実は、その人が信じている世界なのです。変えたからったら、意識を変え、言葉を変え、行動を変えればいいのです。言葉もエネルギーです。「できない」と言い続けていたら、できないままです。それを一度、「できる」に変えてみてください。何かが変わってくると思います。

 日本人の習性として、自虐的に自分を表現することがよくあります。「私は〇〇だから」(〇〇の中にはネガティブな表現が入ります)などと言って、自分を卑下したような言葉を吐いているのをよく耳にします。あれなどは、呪いの呪文を口から出しているようなものです。誰の得にもならないのに、なぜ皆そのようなことをいうのだろうと思います。自分に対して卑屈になっている人が、他の人を幸せにすることができるでしょうか。

 

 それまでの習性や行動を変えるには、かなりのエネルギーがいります。それが億劫だったり、不安だったりして躊躇してしまう人間の心の隙に、悪魔は入り込んできます。怠惰な心や恐怖心を、どんどん煽ってきます。何も変えずにこのままでいる方が「安全である」と、人間を信じ込ませようとするのです。そして、なんとなくそこに留まっていた方が安心するような錯覚を起こさせます。

 

 

 

イエス様はよくたとえ話を用いて民衆に福音を説きました。その中の一つに、「タラントのたとえ」というお話があります。

 

「天の国は、旅行に出かける人が僕(しもべ)たちを呼んで財産を預けるようなものである。

 

ある人が、僕たちそれぞれの力に応じて、一人には5タラント、一人には2タラント、一人には1タラントを渡して旅行に出かけた。5タラント預かった者は早速行ってそれを働かせ、他に5タラントを儲けた。同じように、2タラント預かった者も他に2タラントを儲けた。しかし1タラント預かった者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。かなり日が経ってから主人が帰ってきて、僕たちと貸し借りを清算した。まず5タラント預かった者が進み出て、他の5タラントを差し出して言った。

『ご主人、5タラント預かりましたが、ご覧ください、他に5タラントを儲けました』

主人が言った。

『感心感心、忠実な善い僕よ、少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』

2タラントの者も進み出て言った。

『ご主人、2タラント預かりましたが、ご覧ください、他に2タラントを儲けました』

主人が言った。

『感心感心、忠実な善い僕よ、少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』

最後に1タラント預かっていた者も進み出て言った。

『ご主人、あなたは種をまかないところで刈り取り、金をまき散らさないところで集める、きつい方と知っていたので、商売をするのが恐ろしく、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。そら、お返しします』

主人が答えた。

『怠け者の、悪い僕よ。私がまかない所で刈り取り、まき散らさないところで集めることを知っていたのか。それなら、私の金を銀行に入れておくべきであった。そうすれば帰ってきたとき、元金に利子をつけて戻してもらえたのに。では、その1タラントをその男から取り上げて、10タラントを持っている者に渡しなさい。誰でも持っている人にはさらに与えられてあり余るが、持たぬ人は、持っているものまでも取り上げられるのである。さあ、この役に立たない僕を外の真っ暗闇に放り出せ。そこで喚き、歯ぎしりするであろう』

――――マタイ25

 

 「タラント」というのは古代ギリシャやローマで用いられた通貨の名前ですが、英語で「才能」という意味を表す"talent"(タレント)という言葉は、このお話から派生したといわれています。

 

 私たちは神様から皆、何かしらの才能を与えられています。何も与えられていない人など、一人として存在しません。勇気をもってそれを生かそうとする人を、神様は応援します。恐れに邪魔されて、せっかくの贈り物を無駄にしてしまうのは、もったいないことです。

 

 

光と闇Ⅵ

 イエス・キリストが荒野で断食をしていた際、語り掛けてきた悪魔の言葉の一つは、

 

「もしお前が私にひれ伏して拝めば、この世の国々とその栄華を全てお前にくれてやろう」

 

というものでした。イエスはこれに対し、

 

主である汝の神を拝し、ただこれにのみ仕えなければいけない

 

という聖典の言葉をもって悪魔(サタン)を退けます。

 

 

 人が魂の修行を重ね、ある程度の智慧と経験がつき、現世において何らかの分野で他者に教えるレベルの技術なり知識なりがついてきた頃。情熱をもってその業に励めば、それなりに人がついてきます。事業も成功し、金銭も潤い、人気はますます上がるでしょう。フォロワーも増え、知名度が増し、仕事の依頼が次から次へと舞い込みます。こうした、現世的な”成功”を手に入れた段階で、イエスにも囁いた悪魔の誘惑に負け、虚栄心の罠にはまっていく人の姿を、私はこれまでたくさん見てきました。

 

 人を癒す仕事や、元気づけるような仕事に就いている人でさえ、この悪魔の囁きをきいてしまっていることがあります。初めは純粋な気持ちで、人を助けたい、癒したい、誰かの役に立ちたい、と始めたはずなのに、世間の賞賛や認知を手に入れ始めると、次第に最初のピュアな動機を忘れ、もっと認められたい、もっと支持者を集めたい、もっと儲けたいという欲へと駆り立てられて、あちら側の誘惑に屈してしまう。

 うまくいっている時こそ、悪魔の囁きに気を付けて、自分が一体何のためにこれをやっているのか、冷静に見つめなおす必要があるように思います。うまくいっているかのように見えても、その人を動かしている原動力が”欲”なのであれば、エネルギーが濁り、波長が乱れるので、結局はどこかの段階でうまくまわらなくなるものです。集まってくる人も、それなりの人がくるようになります。

 

 かつて、少しの間だけですが通っていたヨガ教室があります。そこのオーナー(兼インストラクター)は、とてもエネルギッシュな人で、人を引き付ける魅力がありました。スタジオはできたばかりで綺麗で、雰囲気も明るかったので、たくさんお客さんが集まってきていました。レッスンの内容も工夫を凝らして飽きないようにしていましたし、口コミで人気が更に高まり、一時は人数制限をしなければいけないほどレッスンもいっぱいでした。

 そんな状況に、オーナーは非常に満足している様子でした。何人もの弟子がいて、その弟子たちは皆、カリスマ的オーラを放つオーナーに心酔しているのがわかりました。オーナーが言うことは絶対で、意見を述べることや、オーナーより目立つことは許されていないようでした。技術を高めるために外部のレッスンを受けることも禁止されている、とそのうちの一人は言っていました。

 

 ある時、私はたまたまそのオーナーと話をする機会がありました。スタジオの隣にある事務所のような場所に、レッスン後にお茶を自由に飲んで良いスペースがあり、そこで話していました。その部屋の壁には、古事記に出てくるような時代の衣装を着た女性が描かれた、大きくて派手な絵が飾られていました。

「あの絵の女性は誰ですか?」

と私が聞くと、オーナーは、突然黙り、私の目をじっと見つめると、声を潜めるようにしてこう言いました。

 

「あの絵はね、私よ。私。あの絵に描かれているのはね、天照大神(あまてらすおおみかみ)。私はね、こうして人間の姿をしているけどね、本当はあれが私の姿なの」

 

 何と答えたらいいかわからず絶句している私をしり目に、その人は満足そうな表情を浮かべていました。

 

 その後すぐ、私はそのスタジオを辞めました。辞めてから数年程経った頃、ふと、あのスタジオはどうなっているのだろうと気になり、久しぶりにホームページを覗いてみたことがあります。すると、一時の権勢は見るからになくなっているのが、ホームページを見ただけでも明らかでした。2桁はいたであろうインストラクター達のほとんどが、いなくなっていました(特にオーナーに心酔していた人達が辞めていました)。レッスンの数もごっそりと減り、スケジュールはすかすかでした。あれほど頻繁に開催されていたイベントの類も、全てなくなっていました。強気の値段設定だった単発レッスンの値段も大幅に下がり、人が来ていないのがみてとれました。

 

 私は、自分が天照大神だと述べた時のオーナーの顔が思い浮かびました。あの人気絶頂だった時、彼女は悪魔の囁きをきいてしまったのだなと思いました。

 

 神様は、私達にたくさんのものを与えてくれます。求めれば、特にです。与えられた贈り物をどのように活かすかは、私達の選択に任されています。

 

 そして、悪魔の囁きは、狡猾で、人間の耳には甘いものです。力を手に入れ始めた人間に、それはますます強く語りかけます。なぜなら、あちらの存在は自分たちのパワーを高めたいからです。力を持っている人間を動かしたがるのは、そのためです。光の領域にいる(もしくはそこに向かって努力をしている)人は妨害しようとし、闇に足を踏み入れた人は更に引きずり落そうとします。闇に引っ張られて堕ちていく人の姿を見るのは悲しいことです。

 

 現世的な成功を手に入れた時ほど、気を引き締めていかなければいけないのだと思います。

 

 

光と闇Ⅴ

 古今東西、多くの為政者たちは、集団心理を都合よくコントロールするツールとして「恐怖」を利用してきました。21世紀の現在においても、恐怖心を植え付けることで国民を黙らせ、反抗させないように抑え込んでいるリーダーたちはたくさんいます。暴力的で理不尽な見せしめを行うと同時に、従順な人には安定や富を与える。こうした飴と鞭を使い分ける手法により、人々から意思と自由を奪い、抵抗する力を弱らせているのです。

 

 こうした支配・被支配の構造は、国家規模に限らず、組織やグループ、仲間内やパートナー、家族の間においてさえも、実はよく起こっていることです。相手に恐怖心や無力感を植え付けて、自分の立場を優位にさせようとする。こうしたパワーバランスは、実は一対一の関係性において頻繁にみられます。支配する側がかなり意識的に行っていることもあれば、本人も何が起こっているのかよくわからないうちに、そういう関係性なってしまっている場合もあります。

 

 やっかいなのは、多くの場合、支配される側の立場の人の方が、そうしたパワーバランスの渦中にいるという事実に、なかなか気が付きにくいということです。もしくは、自分がいびつな関係性に陥っていることに気づいていたとしても、そこから抜け出すことが困難に感じていることが多いです。相手との関係性において、自分は無力だという認識を抱いてしまっていますから、そう簡単に抜けられるはずがない、と信じ切ってしまっているのです。

 冷静な視点でみてみれば、誰かにコントロールされ、自分の望みや思いが押し殺されている状況自体が、不自然で歪んでいます。けれど、相手に力を明け渡してしまっている人というのは、今の状況が「変わる」ということに対してさえも恐れを抱き、アクションを起こすより現状維持を望んでしまうことが多いのです。

 

" The devil you know is better than the devil you don't know."

(知らない悪魔より、知っている悪魔の方がまし)

 

 本当はこんなことは嘘で、悪魔は悪でしかないのですが、恐怖心や無力感というものは、人の理性や判断力を鈍らせ、真実を見る目を曇らせてしまいます。そして、変化を起こす決断力や、行動を起こす勇気が湧き起こらないまま、自分には力がない、弱い存在だと勘違いしたまま、他の誰かに自分の意思決定機関を委ねてしまうのです。

 

 支配・被支配の関係性に陥っている場合、被支配側にいる人は、受け身の姿勢でいることが多いです。元々穏やかで、周囲に自分を合わせるのが得意な、受け身の態勢を取りがちな性格の人が被支配者側になりやすいように思います。そのためか、誰かとの関係性に対して、今のような状況になっているのは、相手がそれを望んでいるからだと思う傾向が強いです。本当は、人との関係性において、一方だけの思いが現実化するということはありません。現実に起こっていることは、自分自身が招き寄せていることです。一方通行ではなく、双方の思いが結実したことによって、起こっています。

 ですから、生き方や人生を誰かにコントロールされ、自分は無力なのでそれに従うしかない、と思い込んでいるかもしれませんが、その状況を望んでいるのは、自分自身でもあるのです。望んでいるというとやや語弊があるかもしれませんが、少なくとも、「そうなるもの」だと深く信じているために、現実がそうなっているわけです。宇宙はシンプルに、そんなあなたに対してぴったりの、人を支配するのが得意な人物をあてがっているだけです。

 

 では、そんないびつなパワーバランスから抜け出したい時はどうしたらいいか。答えは簡単です。「もうこんな関係性から抜け出す」と強く決心することです。自分は無力なのではなくて、無力だと思い込んでいるだけです。まずは、そう思い込んでいる自分と決別するのです。そして、宇宙に宣言します。私は自分の意思と自由を取り戻します、と。

 まずはこの決意表明を行ってください。意思の力は絶大なので、この宣言がきっかけとなり、エネルギーが動き出します。おそらく想像以上のスピードで、相手と対峙するシチュエーションがやってくるはずです。その時に、いつもの恐怖心に負けないこと。相手と闘うのではなく、自分の中の恐れと闘っていると思ってください。そして、勇気をもって自分の発すべき言葉を述べ、とるべき行動をとってください。毅然とした態度で。

 

 人をコントロールしたがる人というのは、本当は案外コンプレックスにまみれていて自分に自信がなかったりします。それまで弱いと思い込んでいた人が、急に自信に満ちて堂々とした態度をとってきたりすると、ひるんで目を泳がせたりします。これまでの、自分にとって都合がよかった関係性が終わることを察して、怒りをぶつけてくるかもしれません。しかしこの怒りというまやかしに負けてはいけません。怒りこそ、恐怖心の表れだからです。相手は恐れているのです。

 

 信じてほしいのは、闇よりも光の方が強いということです。恐れや悪意に対して、こちらが愛と善意で応じれば、必ず勝てるのです。これは、現実世界でも、見えない世界でも同じことです。闇は光に勝てないことを知っているので、あれこれと小手先のまやかしテクニックを使って、相手を騙そうとしているだけです。

 

 闇に焦点を合わせるのではなく、光に焦点を合わせてください。そうすれば、光のパワーを味方につけ、見える世界でも見えない世界でも、助けてくれる存在が現れるはずです。信じる気持ちと、希望を捨てないこと。どんな状況でも、心から自分が望みさえすれば、変えることができます。

 

光と闇Ⅳ

 幼い頃、私は人の話をいとも簡単に信じてしまう子供でした。あまりにも疑いなく何でも信じてしまうため、ある時遊びに行った家にいた年上のお姉さん達が面白がって、「このぬいぐるみの犬は夜になると動くんだよ」とか「あそこにおばけがいてこっちを見ているよ」などと言って私を怖がらせ、すっかり信じている私を見て皆で笑っていたことがありました。

 

「この子は何でも信じちゃうから気をつけた方がいいよ」

 

と、その中の一人が誰かに耳打ちしているのも聞こえました。けれど私は、その人たちが話していることは全部本当だと心から信じていたのです。それはなぜかというと、その時はまだ、人が嘘をつくこともある、ということを知らなかったからです。

 

 成長するにつれ、さすがに人の言っていることの全てを丸々信じることは減っていきました。この人は本当のことを言っているのか、嘘を言っているのかの判別ができるようになっていきました。

 そして更に、たとえその人が心から信じて話していることだとしても、それは私にとっての真理とは限らない、ということもだんだんわかってきました。数々の失敗を重ねて感じるのは、世の真理というものは、思っている以上にひっそりと存在している、ということです。真理に到達した人ほど自己顕示欲がなくなるものですし、今の社会のシステムの中では、真理そのものが裏に隠れてしまうのも、無理のないことです。世界三大聖人といわれる釈迦・孔子・イエスキリストはどの人も、自分で書物を残していません。この三人が語った言葉が、伝聞で残っているだけです。

 一方で、「皆私の話を聞きなさい」と言わんばかりに自らをアピールしてきたり、自分の言っていることが他の情報より正しい、価値がある、といった傲慢さが感じられたり、売り上げを伸ばしたいという金銭欲が見え隠れするような存在には要注意です。

 

 世の中には、アピールがとても上手な人たちがいます。それは単なるテクニックの問題であり、その人自身の価値や、言っている内容の純粋性とは関係ありません。むしろ、必要以上にアピールに力を入れているということは欲の表れですから、そういった人の口から出てくる情報も、それ相応のものと考えた方が良いでしょう。

 

 欲というものは、その人が捨てようもしくは制御しようと決心しない限り、雪だるま式に大きくなり、やがてはその人自身もコントロール不能になるレベルにまで肥大化していくものです。小我の欲に基づいて手に入れたものは、それを手に入れた瞬間に魅力を失い、また次に欲しいものが現れます。その終わりのないサイクルに飲まれ、我を失い、道を踏み間違えたまま、力だけを蓄えていく為政者たちが、世の中に溢れかえっています。

 

 そうした強欲な人たちがなぜここまで権力を持ち得るのか、不思議に思うかもしれません。けれど、悲しいかな、そういう人たちにパワーを譲り渡してしまっている人々がそれだけたくさんいるということなのです。

 

 正義感ではなく、我欲に基づいて力を拡大しようとする人が、他の人々をコントロールする際に、共通して用いるツールがあります。それは、恐怖心です。

 

 

光と闇Ⅲ

 右のイラストのイメージは、昔からよく使われるモチーフで、馴染みがある方も多いかと思います。

 

 アイルランド人のローナ・バーン(Lorna Byrne)さんは、幼い頃から日常的に天使や天使的な存在を目にしてきた人で、その経験をいくつもの本に記しています(日本語に翻訳されているものもあります)。ローナさんには、普通の人間と同じように天使が見えるそうなのですが、天使たちは常に人間をサポートする活動をしていて、このイラストのように、人が何かをしようとしている時や迷っている時、決断をするときなど、ひっきりなしにその人のためになる言葉を囁きかけているそうです。けれど、天使たちも私たちの意思を妨害することはできないので、いくらその人のためになることを助言しても、その人自身が決断しない限り、無理やり考えや行動を変えることはできないとのこと。この宇宙には自由意思の法則が働いているので、天使であってもそのルールには逆らえないのです。ちなみにローナさんによると、天使たちは、たとえ人間が自分たちの助言を聞かず、悪の道に進んでいったとしても、決して見捨てることはしないそうです(悲しそうな顔はしているとのことですが)。

 

 一方、アメリカ人のブレイク・ヒーリー(Brake Healy)氏は、幼い頃から天使的な存在だけでなく、悪魔的な存在も同じように目にしてきた方です("The Veil", "Indestructible", "Profound Good")。ヒーリー氏によると、天使的な存在達は確かに、私たち人間を守ったり導いたり、絶え間ない援助の手を差し伸べてくれているそうです。それと同時に、悪魔的な存在達もまた同様に存在していて、私たち人間に対し、すきを見ては誘惑したり憑りついてみたり、妨害を加えようと常に機をうかがっているとのこと。興味深いのが、そうした悪魔的な存在は、人が善意に基づいた決心をした瞬間にパッと離れたり、ポジティブな行動をし続けていくうちにだんだん小さくなって終いには消えていくということです。

 

 結局、目に見えない存在達は、私たちをサポートしたり妨害しようとするけれど、根本的に方向性を決めているのは、私たち人間の意思であるのだなと思います。目に見えないエネルギーは確かに存在していますし、多かれ少なかれその影響は人間世界に及んでいます。しかし、光の存在を味方につけてポジティブに歩んでいくか、闇の存在に翻弄されて目的を失い、停滞し続けたり堕ちていくかどうかは、自分たち次第というわけです。

 

 

 

 映画「スターウォーズ」に出てくるダースベイダーというキャラクターは、元々は天才的な能力をもった、純粋な若い騎士でした。しかし、力を得たいという望みをもった時、暗黒面の存在の甘い言葉に誘われ、その誘惑に乗ってしまいます。暗黒の力を手に入れると同時に、彼はダークサイドに堕ちていってしまうのです。

 

 この物語は、私達人間の「力(パワー、フォース)」に対する憧れと欲望、そして誘惑に負けて相手の罠にはまり、闇に堕ちていく様をよく表していると思います。私達は、常にこの誘惑には意識的でいなければいけません。なぜなら、闇が渇望し、どんな手段を用いてでも手に入れようと絶え間ない攻撃を仕掛けている理由とはまさに、この「力」を手に入れたいがためだからです。

 

 

光と闇Ⅱ

 ~下なるものは、上なるもののごとく、上なるものは下なるもののごとし~

 

 

 聖書によると、イエス・キリストは、群衆の前に出て教え導く前、荒野にて40日間の断食修行を行ったとあります。そこでイエスは、悪魔(イエスは「サタン」と呼んでいます)にそそのかされ、試されますが、どの誘惑にのることもなく、これを退けます。悪魔は離れ去り、代わりに神の使い(天使?)達がやってきてイエスに仕えた、とあります。

 

 私たちは多かれ少なかれ、日々、この「悪魔」との闘い、葛藤を繰り返しながら生きているのではないでしょうか。

 

 「悪魔の囁き」は本当に存在するのです。というのは、悪魔そのものが存在するからです。私はこの事実を自分の中ではっきりと認めるようになってから、何が光で何が闇なのか、自分の中のこの声は光から来ているものなのか、それとも闇からきているものなのか、判別しやすくなりました。それと同時に、世の中の人々の言動を駆り立てているものが、光を目指してのものなのか、それとも闇の誘惑に負けてのものなのかということも、よりわかるようになりました。

 

 闇―――悪、悪魔、敵、サタン、ネガティビティ、Dark Entity, etc... 様々な呼び方があると思いますが、こうした言葉を、「あちら側」にいる存在・エネルギーの総称として使おうと思います。

 

 おそらくこの文章を読まれている方は、目に見えない存在、見えない世界の存在を信じ、同時にそれらの存在を日常的に感じておられることと思います。フラワーエッセンスやアンジェリックエッセンスは、高い波長の善なるエネルギーでできていますが、光の存在の助けを借りてつくられています。私たちがエッセンスを取り入れると、そのバイブレーションの影響を受け、私たちの光の部分が刺激を受けたり、増幅されたりします。

 

 高い波長が存在するということは、その逆の低い波長も存在するということで、低い波長を放つ存在もいるということになります。

 

 光の世界の中には、当然ですが様々な存在がいて、役割分担があったり、なかなかにシビアなヒエラルキーがあったりするようです。

 

 そう、そしてそれは闇の世界にも当てはまります。様々な存在、役割分担、ヒエラルキー。闇の世界の手下のような存在から大ボスまで、ありとあらゆる形態、力をもった存在達が跋扈しています。

 

 精神世界やスピリチュアリズムに関心がある人の多くは、光の世界に惹かれ、また自分自身も光であろうと努力していたり、光でありたいと望んでいると思います。けれど、残念ながら必ずしも全員が光の影響を多く受けているとは限りません。中には自ら望んで闇の存在に焦点を当て、そうした存在とコンタクトをとったり、それらの力を借りることによって人間世界での勢力を拡大しようと目論んでいる人もいます。

 または、本人が気づかないうちに、闇の存在の影響を強く受けてしまっていることもあります。相手は非常に狡猾で巧妙な手口を使ってきます。あたかも光の存在であるかのように人間に近づき、囁き、惑わせ、道に迷わせたりもします。”恐れ”のもつパワーを用いて人をコントロールするやり口は、そうした存在の常套手段です。特に人間が弱っている時や、困難な状況に陥っている時、欲にまみれている時など、ターゲットになりやすいです。そうした時は、私たちの波長も乱れがちで、ネガティブな存在と波長が合いやすくなるからです。

 

 

 見えない世界には、光だけではなく闇も確かに存在していること、そしてそうした存在は常に、あの手この手を使って私たちを罠に陥れようとしていること。そうしたことに意識的でいるだけで、誘惑の落とし穴に落とされることがだいぶ回避されるのではないでしょうか。敵から身を守るためには、相手をまず知ることが大事です。恐れるのではなく、落ち着いて向き合うこと。そして必要な手段をとること。

 

 何より、どのような存在がやってきても常に軸がぶれない真の自分自身でいること。そのような強い存在になるために、どんな努力も惜しまないでください。結局、究極的にはそれしか自分の身を守る手段はないのですから。

 

 

光と闇Ⅰ

 私が子供だった頃、日本はアニメ全盛期時代でした。毎日夕方になると、テレビでは何かしら楽しいアニメがやっていましたし、お気に入りのアニメがある曜日は、朝からワクワク楽しみに過ごしていたものです。中でも一番夢中になって見ていたのは、世界名作劇場のような外国のお話や、ファンタジーものでした。兄がいたので、男の子向けの戦闘ものや、アドベンチャーものもよく見ていました。

 

 戦闘・アドベンチャー系のお話では、必ずと言っていいほど、主人公(やその仲間たち)に対抗する、「敵」が出てきます。それらの「敵」は、「悪」をわかりやすく体現している存在たちでした。意地悪で狡猾、力を破壊のために使い、暴力的。見た目や言動も、相手を威嚇したり、恐怖心を煽るようなものばかり。アニメの中の話とはいえ、人に恐怖心を抱かせる手法の効果は、ブラウン管を通しても伝わってきたものです。

 アニメや映画、小説、ゲームなど、子供が夢中になる話には、普遍的なテーマが流れているものが多いと感じます。そこに何かしらの真理があるからこそ、子供達が純粋に反応するのだと思います。

 アニメの中のお決まりのパターンは、初めは弱かった主人公が修行をして強くなり、悪の権化である敵のボスを倒す、という流れです。子供心に、主人公が紆余曲折を経ながら、諦めることなく敵に立ち向かっていく姿に、爽快感を覚えたものです。

 

 

 大人になり、物事はそう単純じゃないかのように見えたこの世界。長い間、光を求め、光を目指すあまり、光以外は否定し、拒絶する癖がついていました。自分も自分以外も、光以外の部分は見たくないし認めたくもない。そこに「ある」ということを、なかなか受け入れられなかったのです。

 

 しかし、長い間模索して迷走して問いかけて、己に向き合いながら求め続けていった結果、やはりどうしても避けて通れない道があると気づいたのでした。

 

 光に向かって歩んでいくためには、まずは目を背けずにきちんと、正面きって向き合わなければいけない。拒絶するのでも否定するのでもなく、存在をまず認めて、その本質を知る。

 

 

 

 

 その覚悟を決めて以来、私は徹底的に「闇」と向き合うことにしたのです。