武将の悲哀

 戦国時代の書物を読んでいると、あの時代の武家社会に浸透していた、もののふとしての共通概念、パラダイムの影響力を強く感じます。いわゆる「義」を重んじ、主君に忠義を誓い、領土を守ることと拡張することに心血を注ぎ、武士としての名に恥じない生き方・死に方を全うする。

 特に、武士としてはその死にざまが無様であることは大変恥ずべきことであるという認識が強かったようで、切腹の仕方もいかに潔く豪傑であるか、ということが重要でした。

 ある記録に次のような記述があります。敵に追い詰められたある武将の奥方が脇差で自決した後、供をしていた乳母が同じ脇差で喉を突いて果てます。すると、そばに控えていた付き人の男が、「女がこのように潔く死んでいるのに、男としてこれに劣るわけにはいかない。この場を去って城に戻り、戦に参陣して活躍したとしても、周囲にみせる顔がない」といって、戦場に戻る選択をせず、そこで腹を十文字に掻き切り、はらわたを引き抜いて喉を突いて(この切腹の仕方は潔いものとされていた)果てました。

 このように、武士として逃げる姿勢をみせることは、当時は大変恥ずべき事でした。あの時代、自分が武士として潔く生き・死んだことが、いかに周囲や子孫に伝わるかということを、強く意識していたことが伝わってきます。「面目」「末代までの恥」「末代までの名誉」という文言は、この時代の文章に頻繁に出てきます。

 また戦国の世では、主君が亡くなるとその後を追って臣下が自殺をする「殉死」という風習がありました。影響力のあった武将が亡くなると、二桁にも上る殉死者が出ることもあったようです。更に、殉死の殉死(主君の後を追った臣下の臣下がその後を追う)などもありました。今では考えられない風習ですが、この時代は、臣下が主君に対して命を投げ出して忠義を示すことの意義が、非常に大きかったのです。

 

 

 武士というと、勇猛果敢で豪胆なイメージがありますが、戦いに明け暮れていた武士たちが、一方では芸能を愛し、洗練された和歌や文章を残していることを、様々な記録によって知ることができます。信長公が舞を好み、自らも時々舞っていたことは有名ですが、他にも茶の湯や相撲を楽しみ、武具や装束も細部までこだわりをもって作らせるなど、おしゃれのセンスでも当時の最先端を走っていたようです。一流の絵師に描かせた安土城の数々の襖絵は、息をのむほどの美しさであったと、訪れた人が記しています。多くの戦場で勇壮な立ち居振る舞いをする一方、繊細で優美なセンスの持ち主でもあったようです。

 伊達政宗公の父である輝宗(てるむね)公は、能を好みました。奥州という都から離れた場所にありながら、能楽に力を入れ、能楽師を雇ったり能楽堂を立てたりと、戦闘だけでなく芸術の振興にも努めていました。そんな輝宗公でしたから、跡取りである息子政宗に対する教育にも力を注ぎ、遠方から著名な僧侶を招いて、政宗の教育者にあてがいます。政宗は幼少の頃より頭脳明晰だっただけでなく、和歌もよく詠んだとのことで、11歳の時に一族の連歌の会に参加した時の歌「暮わかぬ月になる夜の道すか(が)ら」が残されています。当代一流の僧侶から教育を受けた成果もあってか、政宗は武芸のみならず文芸の才も花開きました。23歳の時、小田原攻で初めて秀吉の元に馳せ参じた際、遅参を責められてしばしの間幽閉を余儀なくされます。首も飛ぶかもしれないという危機的な状況の中、政宗は大胆にも千利休に茶の湯を習いたい、と申し出ます。奥州のどんな田舎者がやってくるのかと思っていた秀吉は、政宗の意外な文化人ぶりと豪胆さを面白く思ったのか、遅参を許し、その後も何かと目をかけるようになります。

 

 源平合戦の時代から戦国時代末期まで、瀬戸内海を中心に活躍した村上水軍ですが、こちらも豪傑な海賊集団のイメージからは想像できないような、繊細で哀愁漂う数々の歌を残しています。村上水軍の1グループである三島村上水軍は、伊予の国大三島に鎮座する大山祇(おおやまつみ)神社を信仰していました。合戦に赴く前には、よくここで先勝祈願を行い、その際風流なことに奉納連歌を行っていました。そこで詠まれた膨大な数の歌が、今でも神社に残されています。その一部をご紹介します。

 

旅衣末はるかなるやどりにて 

こぎぬる船にかねぞくれける

なか(が)き日もわずかになみの浦つたい

なきにし雁もこえかすむなり

 

とにかくに今際(いまわ)の身こそ悲しけれ

末は必ず仕えん御ほとけ

とうほども涙にちぎる秋の袖

したしかりつる中のふる塚

 

ますらをが弓づるほのかにかき鳴らし

はばさす玉こそ世にはあだなれ

武士(もののふ)は老いても心ゆるさじな

よむ歌にこそ名をものこさめ

 

あかつきの別れの鳥は鴫(しぎ)の声

田面(たも)の庵を出るますらを

ねざめてはそれかあらぬかほととぎす

なごりかなしきよこ雲のそら

 

のがれても世のほかならぬ山の中

幾度なれし戦いのにわ

数々の思いあまりて捨る身に

つらきむかしぞいまもくるしき

 

やみとなる心は月もなにならで

あさくおもうな親と子の中

別れてもただうちそうる心して

親のすがたをのこすうつし絵

 

ろうたきの匂いもふかき夕まぐれ

これをや恋のかたみともせん

物おもうこいのみちこそ哀れなり

こころの末をいつかしられん

 

手枕にむすびとめてよ夜半の夢

あさくなりぬるあかつきのそら

かたみとぞ思う扇に手をそえて

折々におう人の移り香

 

慕えども今朝の別れを留めかねて

散りゆく花のおしき雨かげ

夜な夜なの面影のみやしたうらん

なかなかきえぬ袖のうつり香

 

 

 これらは皆、戦いに赴く前の海軍武士たちが交互に詠んだ歌です。心の内が込められた歌の数々を読んでいると、故郷や家族、恋人の元を離れて戦地へと向かう武士たちの、胸が詰まる程の哀愁が伝わってきます。勇ましい武士とはいえ、人は人です。時流と環境に抗えず、大きな波に身を委ねざるを得なかったこの時代の武士たちは、表向きの勇猛さはさておいて、心の内では人間としての苦しみや悲しみ、葛藤を抱えていたのではないか。心の底から喜び勇んで戦場に向かう人など、本当はいなかったのではないだろうか。そんな風に感じます。

 

 そんな切ない武士の心情が強烈に伝わってくる、一つの遺書があります。信長の小姓として最期まで付き従った森蘭丸の兄、森長可(ながよし)の残した書状です。

 長可は、父可成(よしなり)の代から信長に仕え、可成が浅井・朝倉軍との戦いで討死した後、13歳で家督を継ぎます。勇猛果敢な武将として数々の戦で名を挙げ、信長が本能寺で死んだ後は、秀吉につくことを選びます。そして、本能寺の2年後に秀吉と家康が戦った小牧・長久手の戦いにおいて討死、27歳で生涯を閉じることになります。その戦いの直前に書いた遺書が残っています。

 大切な壺や茶碗、刀の類を誰それに渡してください、といった内容と一緒に、「母は生活できるだけの堪忍分を秀吉様からもらい、京に入るように算段してください」と母親を気遣う文、そして、末の弟千丸のことを、「千丸に私の跡を継がせるのはいやでございます」と書いています。更に、娘のおこうについて、「京の町人のところに嫁がせるようお願いします。薬師のような人に嫁がせるのがいいと思います」と書いているのが胸を突きます。長可には、蘭丸の下に坊丸、力丸、千丸という3人の弟がいたのですが、蘭丸・坊丸・力丸の3人は、本能寺の変で同時に亡くなっています。千丸自身は信長の小姓になりたいと望んだとのことですが、幼少ゆえにまだ奉公に上がってはいなかったので、命拾いをしました。

 父親と3人の弟を戦で亡くし、自分自身もこの後の戦いで討死するかもしれない。そんな状況の中で、武士としての家の存続よりも、1人の人間として、生き残った末の弟の身の上を案じているのが印象的です。もしかしたら、夫と息子を相次いで亡くした長可の母親の胸の内を慮った可能性もあります。戦国の世ではよくあったこととはいえ、3人(そしてすぐに4人目も)の息子を次々に亡くした母親の気持ちはいかほどのものだったか、記録には残っていませんが、察するに余りあります。そして、娘には武家に嫁がせたくない。そんな素直な父親としての心情も、痛々しいほど伝わってきます。いくら武勲を挙げ、名誉を得たとしても、家族を亡くす痛みや、家族を残して散る身の虚しさを、自分以外の愛する人には味わわせたくない。そんな人としての率直な想いが、この遺書から滲み出ています。

 

 

 義を重んじ、名誉の死を望んだ武家社会の道徳概念と生死観。それは確かに強烈に浸透していたたに違いありませんが、必ずしも全員が、そのパラダイムに完全に飲み込まれていたわけではないように感じます。盲従しようにも仕切れなかった哀しき武士たちも、少なからずいたのではないか。芸術を愛し、繊細な心の内を歌という形で残し、家族の幸福を願ってできる限りの対処を望んだ、人間としての武士たち。世の無常さに直面しつつ、人としての心を失わずにいかにして自分を保っていたのか。あのような時代に生きることは、繊細な人であれば特に、タフな経験であっただろうと思います。

 

 

【参考文献】

 

「仙道軍記;岩磐軍記集」歴史図書社

「伊達史料集(上)」戦国史料叢書10 小林清治

「村上水軍全史」新人物往来社 森本繁

「戦国武将の手紙を読む」中公新書 小和田哲夫

 

信長考

 織田信長という人は、意思の力を使って現実を動かしていく能力に長けていた人なのだろうと思います。

 

 一度決めた日程は、何があっても決して変更することがなかったといいます。時には大嵐の中出陣したり、船頭も止める程荒れた海を渡る決断をすることもあったようです。絶対に渡れる状況ではないと思われた川でも、信長軍がいざ入ってみると、なぜか無理なく渡ることができ、後日同じ場所を渡ろうとしても大変な深さで無理だった、といった逸話もあります。

 

 またある時、火起請(ひぎしょう:昔の裁判の一種で、両者決着がつかない場合、熱した鉄を持たせ、持てなかった物の申し立てを虚偽とした)が執り行われている現場を通りかかった信長は、熱した鉄を取り落とした左介という人物が騒いでいるのを見て、同じように熱した鉄をよこすように言いつけます。そしてそれを自ら手の上に受け取ると、三歩歩いて棚に置き、「この通りだ。見ていたな」と言って、左介を成敗させたといいます。自分が無事に受け取る姿を見せることで、文句を封じたわけです。

 

 信長は、現実は意思の力で動かせることを知っており、自分が「こうなる」と決めたことは、必ずその通りになるという自信があったのではないかと思います。また、直観力も鋭い人だったようです。戦という、生きるか死ぬかの瀬戸際で数多くの経験を積むうちに、不可能を可能にしていくコツのようなものを身につけていったのかもしれません。

 

 信長は、人心掌握術にも長けていたようで、どうすれば人は動くのかをよく知っていたようです。ある場所に城を築こうとした際、信長は、最初に大変険しい土地を選び、そこに城を建てると宣言します。家臣たちは、難儀な場所に城を築くものだと不満を抱きます。するとしばらくしてから、今度は最初に言った土地よりもやや建築しやすい土地を選び、「この場所に変更した」と触れを出します。最初に比べればまだましな土地に変わったことで、家臣たちは喜んで城の建築に取り掛かった、といいます。本当は、最初からその土地に建てるつもりだったのです。

 

 また、建築などの工事を行う際には、現場に美しく着飾らせた若者を呼び、笛や太鼓で拍子を合わせて囃し立て、場を盛り上げさせたそうです。工事に携わる人々は、皆調子よく仕事をした、といいます。大変重く大きい石を運ぶ際には、石に美しい布を被せ、たくさんの花で飾らせて、やはり笛太鼓で囃し立てる中、信長自らが馬に乗って先導し、たちまちのうちに移動が完了したこともあります。

 

 

 比叡山を焼き討ちにしたり仏僧を容赦なく殺戮した信長ですが、神社に寄進をしたり、自ら参拝していた記録があることから、信仰心がなかったわけではないようです。

 ただ、最晩年(といってもまだ40代でしたが)の頃は、自らを神にみたて、自身の代わりとなるご神体を祀らせた神社を造って人々に参拝を命じるなど、徐々に驕りが加速していったように感じます。

 現実が次々と自分の思う通りに動いていき、公家や天皇さえも動かせるほどの力を持った信長は、驕りという誘惑に打ち勝てなかったように思えます。力を持った時に謙虚さを保つことほど、難しいことはないのかもしれません。 

 

 

                                       〈参考文献〉

『完訳フロイス日本史』ルイス・フロイス著/中公文庫

『信長公記』太田牛一著 中川太古訳/新人物文庫

 

聖ヒルデガルトの治療法

 ヒルデガルトの預言書『病因と治療』を読んでいると、すっかり”科学的な”論拠に基づく説明に慣れてしまっている現代人の私にとっても、なぜか深い部分でストンと腑に落ちる文章に出会います。例えば、

 

「夏、体内がとても熱いのに大食すると、血が温まりすぎて体液は有害なものとなり、肉はぶよぶよと膨れあがる。それは空気が熱すぎるからである。もしこの時期に小食を守れば、病気に罹ることはなく、健康でいられることができる」

 

「深い悲しみの中にある人が元気を取り戻すためには、適切な食べものを十分に摂る必要がある。それは悲しみに打ち負かされないためである。大きな喜びにある時は、小食を心がけるべきである。こうした時、血は緩んでおり、さまよっているからである。このような時に大食すると、体液は嵐のようになって激しく発熱する」

 

「体格ががっちりしていて健康的で、腱(神経)が丈夫で、強い食欲を持った美食家の中には、肉や贅沢な飲食物に惹かれる人たちがいる。彼らの血は蝋のような色に変色し、どろどろになっている。それがため、血は正しい経路を流れることができないのである。こういう人は健康体であるため、熱や体の衰弱によって血が減るということはなく、血はむしろ肉や皮膚の中へと広がっていく。その血が有毒な体液で肉や皮膚を侵し、その部位を変色させて潰瘍だらけにするのである」

 

「容器の中で圧力をかけてチーズを造るには、凝固した牛乳を常に加え続ける必要があるように、赤子や子供にも、彼らが十分に成長するまでずっと飲みものや食べものを与え続ける必要がある。そうしなければ赤子や子供は成長できず、死んでしまうであろう」

 

「年をとり老衰した人たちにとって、飲食物の補給は必要不可欠である。というのも、血と肉が減る年齢になると、食べ物によってそれを補わねばならないからである。人間は大地のようなものである。大地は湿り過ぎても害になるが、湿り気が少なすぎたりなかったりしても肥沃にはならない。このように、大地は程よい水分を必要とするが、それは人間においても同じである」

 

 

 科学的なメカニズムをとうとうと説明されるより、人体の機能がより多元的にダイナミックに表現されているヒルデガルトの記述を読む方が、なるほどそうなのだなと因果関係がより明快に理解できる感じがします。

 

 『病因と治療』の後半部分は、具体的にどのような方法で心身の不調を治したら良いのか、とても詳細な説明が多岐にわたって書かれています。多くは植物(特にハーブ)の力を使った方法です。例えば肝硬変の治療法については次のようにあります。

 

「種々雑多な食べものを節制もせず分別なく食べていると、肝臓が損なわれ硬化してくる。フキタンポポとその倍量のオオバコの根、ナシの木に着くヤドリギ周辺にできるどろどろしたものをフキタンポポと同量用意する。

 フキタンポポとオオバコの根に、千枚通しなどの小さな道具を使って穴をあけ、その穴に前述したドロドロしたものを詰める。これを純粋なワインに入れ、そこにクルミの木の葉や小枝に出来るマメ状の瘤(こぶ)を1ペニーウエイト分加える。食事とともに、あるいは単独に、温めずにこれを飲む。フキタンポポの熱と冷は肝臓の腫れを鎮め、オオバコの熱は肝臓の硬化を防ぎ、ナシのヤドリギにできるどろどろしたものの冷はリヴォル(毒素)を減らし、クルミの木の葉や小枝の瘤は、その苦さにより悪い体液を運び去る。これらは温めず、ワインにそのまま漬けるだけにする。こうすることで、より穏やかに肝臓に達することができるからである」

 

 このように、種々様々なるハーブや自然界の原料を用いたありとあらゆる治療方法が紹介されており、その情報量は膨大です。ヒルデガルトの元には、遠方からも多くの患者たちが訪れ、その名声は皇帝や教皇の元にまで届いたといいます。

 植物の持つ、人体に対応する癒しの力を活用することで、当時の病める人々を数多く癒していたわけです。自然界の恵みのありがたさと、人間に与えられた救済の力を感じます。

 

  興味深い治療法だなと思ったのは、癲癇(てんかん)の治療法です。「モグラの血を乾かしたものにメスのアヒルのくちばし、さらにメスのガチョウの足の皮と肉を取り除いたもの」をすり潰した粉末を用いた治療法なのですが、それを布で包んだものを、「最近モグラが地面を掘った場所に三日間置いておく」とします。なぜモグラかというと、「モグラはふいに姿を現したり隠れたりする習性をもっており、また地面を掘ることに慣れているので、その血は、同じように現れたり引っ込んだりする癲癇に有効である」からとのこと。そして混ぜ合わせた粉末をモグラが穴を掘った場所に置かなければならないのは、「その土の方が他の土よりも健康であるため、これらの粉末は自らの液汁と生命力とを、その土の液汁と生命力から授かるからである」。

 モグラの血の物理的な成分のみならず、モグラという生き物が持つ習性とエネルギー的な質までもを取り入れた、まさに波動療法的な治療法ともいえます。

 この他にも、ハーブを乾燥させる場所と時間を少しずつ変えて、24時間全てのエネルギーを取り入れる方法があったり、また、使用する水にもよく細かい指定がなされています。川の水には空気の質が入っている、泉の水は湿性が強い、井戸水には乾の傾向がある、等々、病気の質と治療の方向性によって、水さえも使い分けていたのです。ヒルデガルトの治療法にはよくワインが登場するのですが、熱や温のエネルギーが必要な場合は過熱しますが、それがかえって邪魔になるケースでは、「温めてはいけない」と書かれています。

 

 今から800年以上も前に、物理的なアプローチだけでなく、エネルギー的なアプローチも同時に行う、こんな多次元的な治療法が行われていたことに新鮮な驚きを覚えます。

 

 

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聖ヒルデガルト

 今から800年以上も前、ドイツ(当時は神聖ローマ帝国内)の修道女であったヒルデガルトという人は、神から与えられたとする聖なる預言をいくつかの書物にまとめました。預言というのは、高次の存在からの情報です。預言を受ける人の心の状態、意識の高さ、いかに自我意識から己を切り離せているか、によって、受け取る預言の質と正確性が変わってきます。

 古から人類に多大な恩恵を与えてきた数々の預言の書は、より純粋な媒体を通して伝えられ、その質の高さとメッセージの正確さをもって、時代を超えて現代にまで残されている情報といえます。

 

 ヒルデガルトの時代、修道院は祈りと学びの場であると同時に、病人を治療する病院のような役目も果たしていました。当時は、薬といえば主に植物の成分など、自然界に存在する物質から作られていました。ヒルデガルトも膨大な植物学の知識を活かして、庶民から王侯貴族まで多くの人々の心と体の病を癒したといいます。彼女の残した預言の書の1つ、『病因と治療』には、宇宙の成り立ちから人体の構造、病気の原因とその治療方法まで、明快な論理性に基づく具体的な説明が、詳細に記されています。

 

 地動説が出てくる時代より遥かに昔の、自然科学の考えが未発達であった中世のあの時代に、理路整然と宇宙と生命の仕組みを解釈することは、個人の力では到底困難だったのではないかと推察します。やはり、ヒルデガルト自身が述べているように、「神の命ずるところに従って」与えられた知識であると思わざるを得ません。

 

 ヒルデガルトによると、この世界は、4つの元素から成り立っているといいます。それは、「火・空気・水・土」のことで、これら4つの元素は互いに絡み合い、結合し合って一体であるとしています。また、植物を始めとする自然界の生物を「温・冷・湿・乾」の性質に分類したり、人体は4種類の体液から構成されるなど、東洋の陰陽五行やアーユルヴェーダの考えとも共通する部分があります。

 

 また、人体と月との関係性において、ヒルデガルトは次のように述べています。

 

「月が満月に向かって大きくなる時に、人の血は増加し、月が小さくなる時に、人の血は減少する」

 

 その理論は、植物にも同様のようです。

 

「根から葉を生じる木もまた月の満ち欠けに伴い、その樹液を増減させている。月の満ちてゆく時期に伐採すると、木の中には樹液や湿が残っているため、虫や腐敗によって木が消耗する率は、月が欠けてゆく時期に伐採したものに比べると、高くなる。月が欠けてゆく時期に伐採すると、月が満ちてゆく時期に比べて、樹液がやや減少しており、木はより堅くなっている。堅くなった木の中では、月が満ちてゆく時期に比べて虫が育ちにくく、木の腐敗によって受ける損害も、月が満ちてゆく時期に比べれば少ない」

 

「よいハーブとは、月が満ちてゆく時の、薬効が高まった時期に採取したものをいう。この時期のハーブは、月が欠けてゆく時に摘んだものと比べると、舐剤や軟膏などを含め、あらゆる薬用に適している」

 

 昔から、満月の夜にハーブを採取するハーバリスト達は数多くいました。満月の夜にハーブの薬効が最も高まると考えられていたからです。そのため、魔女は満月の夜に集会を開くというイメージが持たれたとも言われています。

 女性の月経周期が月の満ち欠けの周期と連動していたり、満月の日には出産の数が増えるなど、人体と月との関連性は昔から言われ続けてきました。ヒルデガルトの唱える説とも重なります。

 

 

 「痛風」の説明の部分では、「人が種々雑多な食べ物を食べると、有害な体液が過剰になってあふれ出し、抑制が効かなくなって体中を過剰に流れ、ついには下半身に降りていき、脚と足を侵すようになる。この体液は、本来あるべき上半身に昇ることができずに降りてきたものである。この体液は下半身に留まってリヴォル(毒素)へと変化し、硬くなる。こうして脚と足は痛風を病むようになり、その痛みによって、歩行は困難になる」

 と書かれてあります。そしてなぜ女性は男性と比べてこの病気になりにくいかというと、女性はたとえ暴飲暴食をして有害な体液が増加したとしても、「月経によってこうした体液を排出している」ために、痛風には罹りにくいのだそうです。実際現代医学の説によると、女性が痛風になりにくいのは女性ホルモンが尿酸を腎臓から排出するのを促しているからなのだそうで、ヒルデガルトの記述と何となくリンクします。

 これ以外にも、女性は月経があることで、様々な有害な物質を体外に排出しており、そのことで体のバランスが保たれている、という説明が何度も出てきます。女性にとって月経とは浄化でもあるとのことです。

 

 

 宇宙誕生の話や人体の仕組みと病気のメカニズムなど、ヒルデガルトの預言は壮大で深淵です。時として説明が難解だったり、果たしてそれは本当なのだろうかとつい疑問符がついてしまうような記述も出てきますが、800年以上の時を経てもまだ色褪せない普遍的なテーマや、現代にも役立つ実践的な知識がちりばめられています。それと同時に、ヒルデガルトという人の、この世の真理に向き合う真摯な姿勢と、神への献身が伝わってきます。

 

参考文献:『聖ヒルデガルトの病因と治療』ポット出版、ヒルデガルト・フォン・ビンゲン著

 

 

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ロイヤル・タッチ

 その昔、ヨーロッパ特にフランスやイギリスの王様は、病を癒す「不思議な手」を持つと信じられていました。病気を持った人が王様の手に触れられると(”ロイヤル・タッチ”)病が治ると信じられていたため、多くの人々が王の元に殺到したといいます。「信じられていた」だけでなく、王が手を触れた多くの人が実際に病が癒えたという記録が残っています。かの有名なエリザベス一世にも、癒しのパワーが備わっており、多くのロイヤル・タッチを施しました。

 かつての王様が特別なヒーリングパワーを持っていたのか、それとも、その時代の人々の王権に対する信仰が癒しの力を呼び起こしたのか。プラシーボ効果を唱える人もいますし、当時の王様が民衆に対して威力を見せつけるためのパフォーマンスとして行っていたという説もあります。

 何が真実かはわかりませんが、とにかく中世から近代に至るまで、歴代の王様が膨大な数の人々の病を、手で触れることで癒していたことは事実のようです。

 

 福音書にも、イエス様が数多くの病人に手をかざしてヒーリングを行っていた記述がたくさん出てきます。興味深いのは、ある時イエス様が故郷ナザレに行った時の話です。そこで人々は、

 

「これはあの大工の息子ではないか。母はマリヤで、兄弟たちは皆私達の所に住んでいるではないか。この人は、こんなことを皆どこから覚えてきたのだろう」

 

と言い合います。イエス様は、

 

「預言者が尊敬されないのは、その郷里と家族のところだけである」

 

 と言い、その場所では奇跡を起こすことができませんでした。人々が信じなかったからです。イエス様は何度も何度も、「信仰(信じること)」の大切さを人々に説きます。

 

わたしを信じる者は、わたしを信ずるのではない。わたしを遣わされた方を信ずるのである

(ヨハネによる福音書)

 

 奇跡が起こる時というのは、そこに関わっている人間個人の力を信じた時というより、その人を動かしている大いなる力を信じ、身を委ねられた時に起こるのではないかと思います。人は媒体に過ぎず、私達を動かしている存在はもっと高い所にあります。その存在を介してのみ、人は癒され、救われ、浄化されると思うのです。

 

 

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