罪の意識を手放す

 罪悪感。「罪」の意識。これらは、私達が生まれながらにして抱いているものではありません。この世に生まれて自我意識が形成される頃から、徐々に植え付けられてきたものです。元々、私たちは「罪」を持っていることはありませんし、これからもないでしょう。あるのは、ただ「学び」だけです。

 

 バッチ博士の言葉です。

 

『自分の純粋な欲求や、心の底から湧き起こってくる願いを、他の人の欲求や願いと混同してはなりません。他の人の望みが心に植え付けられてしまうことは、非常によくあります。例えば、分別という言葉はそれを意味する別の言葉と言えるでしょう。人は、自分の普段の振る舞いを世間がどうとらえるかについて、気にするべきではありません。魂だけが、私たちのために責任を負っているのであって、私たちの評価というのは、神の与り知るところのものです。ですから、人間の罪とは、たった1つ―魂の指示に従わないこと―これだけしかありません。魂の声に従わないのは、神、そして隣人に対して罪を犯すことを意味します。願望や直観、欲求を抱くのは、決して自分勝手ではありません。自分を大切にし、自分にとっていつも適切で、心身に健康をもたらすものです。』(『エドワード・バッチ著作集』より)

 

 大抵、私たちはこの逆の状態を経験しています。つまり、「(親や世間といった)周囲の声にそぐわない自分」を責め、そして自分の心の声、つまり魂の声に沿った生き方を選ぶことに罪の意識を感じてしまうのです。バッチ博士は、本来の人の生き方はその反対で、魂の声を優先させるべきだと言っています。

 バッチ博士は更に、『病気とは、魂の導きに従わなかった末、身体に現れた結果です』と述べています。人が本当に進むべき道から外れた時、身体が病気という形をとってそのことを教えてくれるのです。体は魂の状態を映し出すので、その人の内面の不調和が体に現れて病気になるわけです。『人がしなければならないことは、自分の個性を大切に守り、自分らしい人生を生きること、人生という海を渡る船の船長になることだけです。そうすれば、全てがうまくいきます。』

 

 バッチフラワーの講習を受けていた時のこと。休憩時間に、一緒に講習を受けていたある方が、「最近体のあちこちをぶつけるんですよね」という話をされました。すると、先生が「怪我が多い時は、パインをとるといいですよ」とおっしゃいました。パインが必要な状態とは、自分で自分を責めている時です。それは、心の中で自分で自分をいじめているような状態といえます。心の中で自分を痛めつけているので、実際に「痛い目に合う」ような出来事を引き寄せてしまうということなのでしょう。

 私たちが心の声を無視し続け、頭で考えたことや他の人のいうことを優先させて生きていると、心と体のバランスがとれなくなり、様々なことがうまくいかなくなります。アクシデントや事故という形で現れたり、怪我や病気という形で現れたりもします。それらは、心の声から外れれば外れる程、大きな事象となってやってきます。私たちが本来の進むべき道に気づくまで、次から次へとやってきます。

 逆にいえば、私たちが魂の導きに沿った生き方を選び、心の声に従って行動していれば、こうしたトラブルは起こらないということになります。それどころか、私たちが望む人生を送るための様々なサポートがやってくるようになります。それは人だったり、アイディアだったり、情報、お金、チャンス、等々あらゆる形でやってきます。何より、人が心から望む人生を送っている時というのは、生き生きとしていて、パワーが漲り、魂との調和がとれていて、幸せです。かつてあんなに気になっていた他人のいうことも、気にならなくなります。自分の心の声に従うのが、自分にとっても周囲にとっても幸せの一番の近道だということが、だんだんわかってくるからです。

 

 自分の身に起こることが何かうまくいかなかったり、最近トラブルが多いなと感じていたり、体のどこかに不調がある場合、それは「あなたの選択が、あなた本来の道から外れていますよ」という、魂からのメッセージだと捉えてください。アクシデントや病気といったネガティブな事象は、本当の意味ではネガティブなのではなく、私たちが魂の望み以外の声を聴いてしまっているということを教えてくれる、サインなのです。

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