ポジティブな世界観に変わると

 若い頃、私はとてもネガティブ思考でした。世の中の暗い出来事にばかり目が行ってしまい、暗いニュース、暗い出来事、暗い話をたくさん見たり聞いたり、そんなことをしているためにますますネガティブ思考に陥り、世界はなんて暗いのだろうと、ため息をついて過ごしていました。

 テレビやラジオをつければ、どこかで起こっているテロや紛争のニュース、どこの国がどこを攻撃した、泣き叫ぶ群衆の姿、おぞましい事件や事故のニュース、どこの誰が誰を殺した、誰を騙した、憤る被害者の言葉・・そんな内容のものばかりが飛び込んできます。

 

 少し前までの自分は、そういったニュースを「見なければいけない」ものと思い込んでいました。世の中で起こっている”暗い出来事”を知っておかなければいけない、知る義務がある、という考えがありました。ですから敢えてそういったニュースに触れ、本を読み、話を聞き、それとは反対の明るい世界には目が行かないようになっていました。

 自分がとても楽しい時間を過ごしている時など、ふっと昨日見たニュースのことが頭に浮かんできたものです。「今とても大変な目にあっている人が世界のどこかにいるのに、自分ばかりこのように楽しく過ごして良いのだろうか」と、楽しむことに罪悪感を抱いてしまったり、平和な日常を幸せに過ごすことは、”不幸な人達”に申し訳ないという気持ちがありました。

 どこかで大きな災害などが起きた時には、社会全体が一緒に「苦」を味わわなければならない、といったムードに包まれ、娯楽的なイベントが中止になったり、ひっそりと行われるような風潮があります。個人的にも、そのように考えていました。辛い出来事を経験している人のことを考えれば、自分も同じような気分に浸って苦しみを共有するべきだと考えていました。

 

 けれどある時、意識と現実との関係性に気づいて以来、私はこのように他人の苦しみを自分の中に取り込んでしまったら、ますます不幸になる人が増えるばかりなのではないかと考えるようになりました。もちろん、苦しんでいる人を見たら自分も心が痛みますし、共感することが良くないとは思いません。ただ、世の中の暗い出来事に必要以上に引っ張られて、皆がネガティブな意識状態でいたら、いつまでも不幸な出来事はなくならないでしょうし、世界も暗いままです。もし世の中の不幸を本当に減らしたかったら、人々の意識がポジティブに変わっていくしかないわけです。世の中の出来事は、人々の意識を投影しているものだからです。人々がネガティブな意識で満たされているよりも、できるだけ多くの人がポジティブな意識状態を保っていた方が、それに伴って引き起こされる現象もより明るいものとなっていくはずなのです。

 そのように考えるようになってからは、今までのように”暗い”ニュースを見るのをやめ、極力目にすることも耳に入れることも避けるようになりました。反対に、できるだけ明るい話題、明るいニュース、楽しい番組、前向きな気持ちになれるような本や映画などに触れるようになりました。自分が話す言葉もエネルギーですから、なるべく前向きな言葉を話すよう、気を付けるようになりました。ネガティブなことばかり話す人とは、距離を置くようになりました。

 もし見るつもりがなくても、暗いニュースが目に入ってきてしまった時などは、そこに自分までネガティブな意識を注力するのではなく、『そこに携わっている全ての人が最高最善の形で幸せになりますように』という祈りのエネルギーを注ぎ、その出来事に自分なりにポジティブな意味づけを行うようにしました。見るつもりがなくても目に飛び込んできたということは、何かしら自分に関係があるということです。かつての私は、暗い出来事の暗い部分にだけ意識を向けて、自分のネガティブな一面を増長させるだけでした。けれど今は、そのような”暗い”ニュースに反応している自分の中に何があるのか、何を手放せばこうしたニュースが自分の世界からなくなるのか、内観するようになりました。

 そのようにして、世の中全ての人達の意識からネガティブな要素がなくなっていけば、悲惨な事件も事故も、テロも戦争も、あらゆる不幸がなくなっていくだろうと私は信じています。世界が変わるには、一人一人の意識が変わっていくしかないと思っています。

 

 ネガティブな事にばかり目を向けていたかつての自分と、ポジティブな意識状態をキープできるようになった今の自分を比べてみると、引き寄せる人や物や出来事が、驚く程変化したことに気づきます。相変わらず世界のどこかでは毎日”暗い”事件が起こっているかもしれませんが、少なくとも自分が現実に見ている世界ではそのようなことは起こっていません。世の中のどこかでは不幸がまだたくさんあることを知っていても、私はその不幸を選ばないという道を選ぶことができるのです。それは負けでも逃避でもなく、全ての人に「選択の自由」が与えられていて、何を選ぶか自分で決めているというだけです。

 お年寄りの苦労話などを聞いていると、「人生とは苦しみである」という信念を根強く抱いていることを感じることがあります。「人生とは苦しみだ」と定義づけを行うのも、そしてそのような人生を送るのも、その人の自由です。けれど一方で、「人生とは楽しみだ」と定義づけを行い、そのように人生を送ることも本当は可能だし、そのような人生を選ぶことも自由なのです。