他人を責めれば、自らも責めることになる

 新約聖書の中に、イエス様がおっしゃったといわれる次のような言葉があります。

 

『汝、人を裁くことなかれ。しからば汝らも裁かれざらん』

 

 最近のテレビ番組を見ていると、辛口コメンテーターと言われる人や、他人の欠点をあげつらって笑いを取る芸風の方がもてはやされているように感じます。世間のニーズと合致している部分があるのだろうと思います。

 

 他者を批判することが習慣づいている方々は、きっととても苦しいだろうなと思います。なぜなら、他者を批判的にみればみるほど、人としての在り方や生き方の幅を自ら狭めていくことになるからです。

 

 例えば、「子供を産んだ後にも仕事を続ける女性」を良く思っていない人がいたとします。そのように捉えていると、もし自分や自分の配偶者が子供を産んだ後に仕事がしたくなった時、「子供を産んだ女性が働くことはよくない」という信念を自分で自分に植え付けてしまっているので、葛藤が生まれて苦しむことになります。

 「同性愛者」に対して批判的な目を向けている人がいたとします。同性愛者に対して非難の目を向けているので、いざ自分の身内やとても身近な人に同性愛者が現れた際、その方を受け入れたいのに受け入れられないことに苦しむことになるでしょう。また同時に、世間的にマイノリティーになることを恐れて生きるようにもなります。自分がそういう人々を非難するように、自分もまた世間に非難されるだろうと考えるからです。

 「周囲を気にせず趣味に没頭する人」を快く思っていない人がいたとしたら、その方は自分が夢中になる何かを見つけるチャンスを、自らの信念によって遠ざけることになります。もし夢中になる何かが見つかったとしても、それに「没頭する自分」をどこかで認めることができずにいるので、心の底から楽しむことは難しいでしょう。

 他人の欠点を逐一責めるクセがついている人は、自分が何か失敗した時に自分を責めることになります。「完璧」でない自分を許すことができず、いつまでも自分を完全に受け入れることができないままでいることでしょう。なぜなら、「完璧」でない人は非難されるべきだという価値判断を抱いているからです。


 

 人を裁く、人を非難するということは、自分の世界にどんどん制限を生み出し、自由の範囲を自ら狭めていくことになります。他人を責めているようで、実は自分自身を苦しめています。「こうあるべき」「こうあってはいけない」という固定観念を作りだせば出すほど、自分自身がその観念に縛られ、窮屈になっていきます。心は本当は自由を求めているのに、それとは反対の意識が生まれていきます。

 自らが生み出した制限によって、自分の世界が狭くなっていく。「汝、人を裁くことなかれ。しからば汝らも裁かれざらん」というイエス様の言葉は、そうした因果関係を表しているのではないかな、と最近思うようになりました。