自分を認めて他人を許す

 自分も含め、あらゆる人々をあるがままの姿で受け入れられていれば、どんな人が目の前に現れようと、腹が立ったりイライラすることはありません。この「自分も含め」という部分がポイントで、自分で自分を認められていない間は、いくら他人を受け入れようと努力してもまず難しいと思います。

 なぜなら自分で自分を許せない部分があると、必ずそれを他者に投影させて見るようになり、その投影を見ることで、怒りやいらだちといったストレスを感じるようになるからです。自分の内面にある許しがたい側面を、他人という姿に映し出して見ているわけです。そうした投影は、その許しがたい側面を自分が認めて受け入れることでしか終わらせることはできません。

 

 ですので、もしあらゆる人をあるがままに受け入れられるようになりたければ、相手を見るより自分の内面に向き合うことを優先させた方が断然近道です。


 私は何を手放したがっているのだろう。

 どのような思い込みが、本当の私らしさから遠ざけているのだろう。

 私を縛っている信念はなんだろう。

 何がなくなれば、私が私らしく伸び伸びと生きられるだろう。


 こうしたことを、一つ一つ解きほぐしていきます。特にどのような時に自分はストレスを感じやすいか、そしてどのようなタイプの人を見た時に最もネガティブな感情が湧き起るのか、そういったことを手掛かりに考えると、自分の中にある信念が浮かび上がってくると思います。


 わがままで、常に相手を思い通りにさせようとする人を見るとイライラするのであれば、自分にも周囲をコントロールしようとする部分があるのかもしれません。そして、そのようにコントロールしようとする生き方を本当は窮屈に感じており、もうそこを手放したいと心の奥底では望んでいるのかもしれません。

 自分が心から楽しいと感じることを仕事にして生き生きと輝いている人を見ると、嫉妬心を感じてしまうという場合は、自分も本当はそのように生きたいのだけれど、そうした願望を押し殺そうとする縛りがどこかにあるのかもしれません。自分らしく生きることを阻害する縛りを自らが生み出しているために、”どうせ自分にはできない””自分には無理だ”といった思いを抱くようになり、ますます願望から遠ざかる状況を造り出すことになります。あの人にはできて、自分にはできないという思いが強ければ強い程、「できて」いる人を見た時に虚しさや羨望・嫉妬を感じやすくなります。

 自分よりも物質的に恵まれた暮らしをしている人を見るといらだちが起こるのであれば、もうそのような物質的な豊かさにとらわれない生き方をしたいと、本当は望んでいるのかもしれません。物質的な豊かさをいくら追求しても、それだけで本当の心の充足感は味わえません。そのことにどこかで気づいてはいるのだけれど認めたくない自分の思いが、”豊か”に見える他人を映し出し、いらだちという反応をしているのかもしれません。


 自分の中にある、もう必要のない古い信念に気づき、それを手放していくと、心がどんどん軽くなり、今まで自分を縛っていた束縛から自由になります。縛りがなくなり、自分は本当は限りなく自由で制限のない存在でいられるのだということに気づくと、自分を否定的に見ることが減り、他人と比べて劣った人間だという認識がなくなっていきます。そうして自分を受け入れられるようになっていけば、今までよりもずっと、他者を寛容な視線で見ている自分に気づくでしょう。他人に自分を投影して見ることが減るので、否定的な感情を抱くことがなくなっていきます。

 たとえどんなにネガティブに見えるような行動をとっている人を見ても、自分もそのような経験を経て気づきを得たことを知っているので、「ああ、今あの方は学びの最中なのだな」と受け入れて流すことができます。


 そもそも、自分を肯定して生きられるようになれば、グンと波動も上がり、”嫌な人”を身近に引き寄せること自体が減っていきます。自分の波動領域から極端に離れている人は、決して近づくことができないのです。そして反対に、波動が上がったことで、自分にとって望ましい人や出来事がやってくることになり、人生はますます好転していくことでしょう。


 このように、「感情が湧き起る→自分の中の何が反応しているかを知る→受け入れて手放す」というステップを地道にコツコツと繰り返していけば、気づいた時には少し前の自分と全く違う自分に変わっていることに驚くと思います。誰かが代わりにやってくれることができない孤独な作業ですが、自分を束縛して制限をかけているのも自分であれば、その鎖を外すのも自分でしかないことにどうぞ気づいてください。