学校というもの

 私が地に足をつけてこの世での現象生活を楽しめるようになったのは、子供の存在も大きかったです。特に上の子(♀)は、私と違って最初からこの地球を満喫するために生まれてきたようで、幼い頃から何でも一生懸命、真剣に、そして楽しそうに取り組んでいました。私が小さい頃は、何をするにも違和感のようなものを感じていましたし、「こんなことやって何になるんだろう」と冷めた思いがあって本心から楽しめず、何でもやらされている感がありました。今思えば可愛げのない子供でした。お遊戯や運動会の出し物なども、大人の言う通りに動くのが嫌で、わざと嫌そうにやったり、ふてくされてつまらなさをアピールしたりもしていました。随分と無駄なエネルギーを使ったものです。

 「こうしなさい」と言われること自体が窮屈な感じがしたし、制限をかけられていることにストレスを感じていましたから、学校生活などはまさに苦行でした。上から制約ばかり押し付ける大人にも心の中で反発していました。

 このように、とにかく自分の今いる環境を否定ばかりしていたのです。これでは楽しむ余裕なんて生まれないでしょう。心はいつも暗く、憂鬱でした。自分がそうしていたのですが。

 

 それに比べて娘は、保育園や幼稚園で先生に言われることに素直に反応し、ニコニコと楽しそうに課題なり遊びなりをこなしていました。お遊戯や発表会なども全身全霊でエネルギーを注ぎ、「させられている」などと微塵も感じていないようでした。

 私が小学校に入学する時などは、もう自由がなくなるのが嫌で嫌で、とても憂鬱な気持ちで入学式に臨んだものでしたが、娘は違いました。小学生になれることが嬉しくて、何か月も前から入学式が待ちきれず、指折り数えていました。「どうしてそんなに学校が楽しみなの?」と聞くと、「だってお勉強ができるんだもん♪」と満面の笑顔で答えました。自由だとか制限だとか、そういった観点でとらえてはいないようでした。

 

 待ちに待った小学校の入学式。私はかつての自分が味わったつらい学校生活の記憶が蘇り、朝から憂鬱な気持ちでいたのですが、娘はルンルン。嬉しくて嬉しくてたまらないようで、学校に行く道すがらも喜びで満ち溢れ、いざ学校に着いたらテンションはマックス。周りの子供達が緊張でこわばった表情を浮かべる中、娘1人だけ、はちきれんばかりの笑顔でいました。指定された机に座って、ずっとニコニコしていました。

 

 私は、あまりに素直に学校生活の始まりを喜んでいる娘を、羨ましく思いました。同時に、自分も本当はこのように楽しむことができたのだ、とも思いました。ジワジワと、後悔の念が湧きあがってきました。

 娘が毎日学校生活を心からエンジョイしている姿を見るにつけ、その思いは強くなっていきました。私は、10数年にも渡る学校生活を、他の誰でもない自分の意思で、つまらないものにしてしまったのです。

 

 目の前にある現実を、苦しみとみなすのも楽しみとみなすのも、自分次第なのだなと思います。嫌な所ばかりを探して、そこにフォーカスしてしまえば、そこは嫌な場所になります。その一方で、喜びとみなすことができれば、そこは喜びの場所になります。自分の見方1つで、場所の意味が変わるのです。

 

 娘の「学校」に対する愛のおかげで、私も次第に「学校」というものに対する見方が変わってきました。今までは、学校とは制限を受ける所、自由が奪われる所、という印象が強かったのですが(もちろん、勉強を教えてもらえる所という認識はあり、その部分は感謝していました)、娘の目を通して見てみると、多くの学びと経験を提供してくれる所、お友達との出会いがある所、楽しいことがたくさんある所、なのです。苦手だった「先生」達(申し訳ないのですが)も、大人になってから接してみると、先生も他の大人同様、悩んだり葛藤したりしながら、生身の人間として子供と接しているのだなあ、ということがわかり、苦手意識よりも親近感を抱くようになりました。実際、私がそのような見方をしているためか、素晴らしい先生に出会うことが多く、今まで抱いていた先生という職業の方々に対する認識も本当に変わりました。まったく、かつての自分は偏見だらけで、先入観があったせいで、いろいろなことがうまく回らなかっただけなのだなと思います。

 

 今いる場所を、せっかくだったら楽しみを感じながら過ごしていたい。それは誰でもそうなのではないかと思います。もし楽しめていないとしたら、その原因を周りのせいにするのではなく、そういう場所にしている自分の内側を見つめてみると、何かが変わるかもしれません。