執着と意識レベル

 学習漫画の伝記シリーズが好きな我が家の子供達。いろいろな人物の伝記がありますが、生き方に共鳴した人物の伝記は、何度も繰り返し読んでいます。先日、お風呂に入りながら娘が言いました。

 

「マリーアントワネットって、”いい人”だったのかなあ?」

 

 そこから、そもそも”いい人”とはどういう人なのか、という話になりました。娘のいう”いい人”とは、つまり人として尊敬に値する人物なのかどうか、というニュアンスで言っているようでした。つまり、”意識レベル”が高い人、とういうことです。意識レベルが高ければ、それだけ人格が上がり、エゴにまみれた行為とは無縁になって、逆に他人を救済するような言動が中心になっていきます。

 意識レベルという言葉を出したら娘はよくわからないようだったので、私は次のように説明しました。

 

 この世に人間として生きた人の中で、今まで最も意識レベルが高かった人は、イエス様とお釈迦様だったと思う。有名なところではガンジーなんかもかなり意識レベルは高かっただろうね。意識レベルが高くなればなるほど、持ち物や住むところ、地位なんかに興味がなくなっていく。執着がなくなるから。そういう意味では、マリーアントワネットは意識レベルがそんなに高かったというわけではないかもしれない。(*ファッションやプライドに固執していた若い頃の話。全てを失った死の直前の彼女は違っていたかもしれません)

 

・・・話を聞くと娘はなるほど!といった反応をし、

「私、マザーテレサやナイチンゲールも意識レベルが高かったと思うな」

と言いました。二人とも、娘が幼い頃から尊敬している人物です。

 

 

 意識レベルが上がると、現世的な富や地位や賞賛に興味がなくなり、他者に尽くす道を歩むことになるのは、古今東西の覚者達に共通する生き方のようです。意識レベルが上がる=執着が剥がれれる、ということです。そうなれば、物質的な事柄に満足することがなくなり、代わりに魂の充足感を高めることに専心したくなるのが自然の流れです。

 

 意識レベルと三次元的な地位や富は、当然ながらリンクするわけではありません。むしろ、学歴や年収、肩書きといった立ち位置や、住居、財産といった物質的なもの、家柄や血筋などの優生意識、賞賛やプライド等に強いこだわりがあるのであれば、その分だけ自我意識にとらわれているということなので、意識レベルはかえって低くなります。そういったことに固執すればするほど、エゴがどんどん肥大化して意識の覚醒は遅れるばかりでしょう。

 若い頃、私は大学に行けばこの世の『真理』が学べるかもしれない、と考えていました。受験勉強に力を注ぎ、それなりに学力レベルが高い大学を目指しました。その方が、より『真理』に近い知識が得られるだろうと思ったからです。

 けれどいざ大学に入ってみると、私は失望することになりました。教授といわれる人の中にもいろんな人がいて、意識レベルが高い人もいれば、逆の人もいたのです。中には、頭脳的な能力が並はずれて高いけれど、内面が幼稚で学生にエゴを振りかざす人もいました。

 大学の授業では、私が本当に知りたいと思っていた、魂の学びはあまりできませんでした。世の中の仕組みを統計立てて考える思考能力や、論理的に考える力はついたと思います。けれど、結局そのような「学問」は、この世の真理を解明するというより、ただ分析して客観的に眺めるテクニックでしかないことに気づきました。むしろ、講義以外の所で得た経験や人との関わりにおいて、より多くの学びと気づきが得られたくらいです。(結果的にそこで得られた知識と経験が今に役立っていることは事実なので、大学に行けたことには心から感謝しています)

 

 そのようなわけで、IQや知識と意識レベルもリンクしているわけではない、ということを身を持って知りました。

 

 社会的に有名だとか家柄が良いとか年収が高いとかいった指標で、意識レベルを測ることはできません。その人がいかに自我意識から解放されていて、魂の学びを深めているか、というのが、意識の目覚めを表す指標であるように思います。