人を責めたくなったら

 最近のマスコミの報道をみていると、芸能人や有名人で何か「失敗」をしてしまった特定の人物をやり玉にあげ、その人が打ちのめされて再起不可能になるまでとことんバッシングをし続ける傾向があるように思います。1つどこかが取り上げたら、まるで待ってましたと言わんばかりに他のメディアも一斉に報道合戦に参加、その人を意図的に不利な立場に立たせるような、偏った内容の報道を一方的に発信しています。その人を精神的に痛めつけることを目的にしているかのような意地悪な視点を背後に感じますし、「失敗」した人を、視聴者を引き付けるネタとしてしかみていないのだな、とも思います。

 そうした一方的で表面的な報道は、見る側にとっても、いたずらに悪しき感情だけが引き起こされるので、その人の事情やそうなった経緯、裏側にある背景といった、問題の本質が見えにくくなってしまうのではないかと思います。

 

 社会に不調和をもたらす人がいたとしても、その人をひたすら非難するだけでは、問題の根本的な解決にはならないはずです。そもそも、何か「失敗」してしまった時、本人が一番落ち込み、反省し、次は繰り返さないようにしようと気を付けるものではないでしょうか。周りがとやかく責め立てる必要はないように思います。むしろ、強く批判されたことで心が折れてしまったその人から、次につなげるチャンスを奪うことの方が、社会全体にとっても損失ではないかと思うのです。失敗した人を責め立てる人は、その人が反省していることの証として、消沈している姿を見せることを誠意の表れのように感じているのかもしれません。けれど、そのような欲求は個人的なエゴでしかなく、失敗した人にとっても、本質的な改善につながるものでもないと思います。

 失敗をしても内省をするどころか、非難されたことに逆上したり、意地になるなどする人がいたら、その人には何を言っても無駄でしょうから、そもそも非難をするだけ逆効果でしょう。そういう人には、根本的に心を入れ替える環境を提供するか、心の闇を吐き出すお手伝いが必要だと思います。ただ責め続け、怒りをぶつけるだけだったら、ますますその人は心を閉ざし、いたずらに社会に対する増悪を募らせるだけでしょう。

 

 ということから、私はそもそも誰かを必要以上に責め立てたり、反省を無理やり促すようなことはする意味がないと思っています。子供を叱る時も、責めたくなる気持ちが芽生えたら、一度立ち止まって、ただ自分の怒りを発散させたいだけではないのか、と自問自答します。もちろん、人間ですから感情が動くことは当然ありますが、できるだけ自我を満足させるだけの叱責はしないように気を付けています。本当に、そのようなことをしても良いことなど1つもないのがわかるからです。

 子供でも、何かいけないことをした時には、自分が一番わかっています。そんな時に、親が感情的に怒ったとしても、子供も感情的に反応するだけで、冷静さを失って反省するどころではありません。せいぜい、厳しい顔をして子供の目(左目の方が効果があるようです)を見つめ、「それはいけないことだ」ということを一度しっかり伝えれば十分なように思います。感情的に怒ってばかりいると、子供は親が激高しないようにビクビクするクセができてしまい、親の顔色を窺って行動するようになったり、言動の基準が親を満足させることになったりしがちです。親としては子供が自分の言いなりになることは楽なのかもしれませんが、抑制が長く続けばいつか何らかの形で爆発する時がくるでしょうし、誰かの物差しに合わせて生きていけば、その分自主性が育たず本来持っている創造力が開花しづらくなります。小さな子供でも、親がただ感情を刺激されて怒っているのか、それとも自分がいけないことをしたことを伝えたくて叱っているのか、ちゃんとわかっていると思います。

 

 自分自身が何か「失敗」をしてしまった時だって、周りに直接叱責してくる人がいなくても、自分で反省したり、何がいけなかったのか考えますし、そもそも自分がしたことの結果を受け取るのは自分自身なのですから、それだけで十分教訓となっています。そこに傷口をえぐるような他人の叱責が加わったら、無駄に落ち込み、意気消沈して自分を必要以上に責めてしまうでしょう。

 

 人を責めたくなったら、私はなぜ責めたくなってしまうのか、自分の内面の何がその人を非難しているのか、己を見つめます。その人を直接責めることにエネルギーを使うのではなく、己を見つめ直す良い機会だと考えます。社会全体の病巣がみえることもあります。それだって社会を構成している一人一人に関係していることなので、究極的には自分も含めた全体の責任だと思っています。私達は大元でつながっているので、誰か1人が行ったことは、私達全体に響いてくるのです。だからこそ、自分が発する想念や、自分の行いには責任を持とうと思っています。