他人を責めない

 今の世の中では、道徳に反する行為をしてしまった人は、様々な形で処罰を受けるようなシステムになっています。法的な処罰や金銭的な処罰、風評・社会的な制裁、心理的な制裁などなど。

 現世的には、その人が犯した「罪」に見合った分だけ、全ての人が公平な処罰を受けるとは限りません。中には、犯した行為が上手に隠されて、責め苦を受けないまま見過ごされる人もいますし、反対に誤解されたり間違って疑われてしまったために、冤罪で刑罰を受ける人もいます。

 そういう事例を見聞きすると、一見この世は不公平で不条理なようにも思えてきます。けれど、霊的な世界では、人間のあらゆる行為は平等に裁かれ、その人がまいた種は一粒残らずその人が刈り取る仕組みになっています。霊的な裁きは完璧なのです。エネルギーの世界では例外なく、自分が発したエネルギーは何らかの形で、自分の元に帰ってくるようになっています。

 

 例えばAという人が他人を傷つける行為をしたとします。Aはその行為によって責められ、咎められ、刑罰を受けることになりました。Aは処罰が重くなるのを恐れて、実は心の中では何一つ反省していないのに、心を入れ替えたかのように振る舞いました。自らの行為を省みることなく、刑期を終え、晴れ晴れと俗世間に戻り、また元の生活を続けます。

 現世的には、Aは罪を償って許されたかのように見えますが、魂レベルでは何一つ向上していないので、Aはいずれ何らかの形で、自分の犯した行為の結果を受け取ることになります。それは今の人生で生きている間に起こるかもしれませんし、来世に持ち越すかもしれません。いずれにしても、己の行為を省みて心を入れ替える作業が行われないうちは、繰り返し繰り返し、気づきを与えられるような出来事が身に降りかかることになるでしょう。

 

 このように、霊的な裁きは完全完璧だということが理解できると、この世で起きている事象がどんなに不公平に見えたとしても、それは表面的なことでしかないのだなと思えてきます。霊的な世界では誰もが平等に、自分の行為の結果を受け取る仕組みになっているということが分かっていれば、たとえ気に障る行為をした人がいたとしても、自分の手を汚してまで制裁を加える必要はないのだなと落ち着いてとらえられるようになります。わざわざ自分が「教えて」あげなくても、いずれその人が自分で学ぶ日がくるでしょうから、放っておけばいいのです。天の完璧なタイミングに任せておけば、全てがうまくいきます。

 

 

 身近な人との関係でも、自分が傷つけられて怒りが湧いてくると、どうしてもその人を何かしらの形で懲らしめてやりたいとか、同じ目に合わせてやりたい、といった思いを抱いてしまうことがあります。けれど、そのようにして自分も同じような悪しき行為に走ってしまえば、その行為の結果が今度は自分の元に跳ね返ってくることになり、自分自身も恨みを買う羽目になります。

 それよりも、天の裁きは完璧なのだと理解して、その力にゆだねてしまった方が楽だと思います。自分が手を汚して無駄に負のカルマを背負うよりも、怒りは手放して、ただその事象から何が学べるのか、ということに焦点を合わせてみれば、きっと心が救われる道が見えてくると思います。そもそもその人との関係性でお互いが何かしら学ぶべきことがあったからこそ、その出来事が起こったのですから。

 結局は学ぶべきことを学ばない限りは次のステップに進めないので、私だったら、同じ場所に停滞するよりは、自分が次のステージに上がって負の連鎖から脱出する道を選びます。他人が変わろうが変わるまいが、関係ありません。

 

 次のステージに上がるためには、他人を責めず、ただ赦すこと。それしかないと思います。赦すということは、受け入れることです。人を変えようと思う気持ちから離れて、己の心の持ち方を変えれば、コントロールしようがない出来事に一喜一憂することなく、ただ中立に物事を眺められるようになります。他人を責めていても、自分にとってプラスになることなど1ミリもありません。悪しき思いを宇宙に放出し続けるより、起こった出来事を、自分が一つ上の段階に飛躍できるチャンスだととらえましょう。実際、そのようにして一つ一つ赦して手放していけば、魂の成長が進み、もう以前のような災いが身に降りかかることがなくっていくので、結果的に救われることになります。