福音書

 学生時代、『聖書研究会』というサークルに入っていたことがあります。友人に誘われて顔を出したのがきっかけだったのですが、サークルの中でクリスチャンでなかったのは、私とその友人の二人だけでした。(しかしその友人も、後に洗礼を受けることになります)

 

 イスラム世界を研究し、コーランを読むようなゼミに所属していたので、自分の中でバランスをとるために、世界三大宗教のうちのもう一つも勉強したいと思っていたのです。ちなみに最後の一つは言わずと知れた仏教ですが、こちらは日本人として生まれ育ったために、幼い頃から馴染みがありましたし、ある程度の知識もありました。私は、カトリック系の幼稚園に通っていた頃から、イエス様の教えには心に響くものを感じていました。イエス様は何を伝えようとしていたのだろうか。聖書を勉強すれば、それがみえてくるかもしれない、と淡い期待を抱いていました。

 

 サークルは週に一回、近くの教会の牧師さんを招いて行われていました。毎回、牧師さんが取り上げる聖書(新約の方)の一説を皆で読み合い、言葉の裏にある意味を推測しあったりして、読み深めていくものでした。私達学生が1人1人思うところを述べた後、牧師さんがまとめて解説してくれるのですが、その解説を聞いているだけで、何とも厳粛な気持ちになり、静謐な空気が流れていくのを感じたものです。

 その時の私は、聖書の本当の意味とか、イエス様が言わんとされていたことを、まだまだ浅いレベルでしか理解できていなかったと思います。牧師さんがおっしゃる言葉も、何かとても癒される空気感を感じるのだけれども、その”意味”までは深く入っていかなかったように記憶しています。腹の底で腑に落ちる感覚が得られず、理解したくても、読めば読むほど疑問が湧いてくるのでした。

 

 

 大学を卒業し、慌ただしい社会人生活が始まると、聖書研究会に入っていた記憶も次第に遠のいてゆき、聖書を手に取ることも読むこともすっかりなくなっていました。

 やがて今の主人と出会い、とんとん拍子で結婚することが決まり、それを機に前々から辞めたいと考えていた会社を寿退社という名目で辞めることにしました。ところが、あれほど結婚退職を望んでいたにも拘わらず、結納の直後に、私はマリッジブルーに陥ってしまったのです。自分でもなぜだかわからないこの憂鬱感をどうしたら良いのだろう。何をしても空虚に思えるやりきれなさを何とかするために、その頃実家に一時的に帰省していた私は、幼い頃から通った本屋に毎日入り浸り、心を救ってくれる本を探し求めました。昔からいつも、辛い時に心を救ってくれたのは本でした。

 するとある時、ふと手に取った本を読んで、私はガーンと頭を金づちで殴られたような衝撃を受けます。それは、仏教の教えに基づいて、投稿者からのお悩みに回答する、ある著名人の書いた本でした。様々な悩みがある中で、その方の答えは、一本筋が通っており、不動の信念があるのを感じたのです。

 私は、自分が仏教に馴染みがあり、何となく理解できていると感じていたけれど、実は深いレベルでは全然理解できていなかったことを思い知らされました。仏教の教えって何だろう。本質的なものを理解したい。そう考えるようになりました。

 そこから、様々な仏教関連の本を読み漁り、般若心経なども勉強しました(全て独学ですが)。そんな風に過ごしているうちに、気づいたらマリッジブルーもどこかに消えてしまっていました。思えば、あの時期が、私が深く魂の世界を探求したいと願うきっかけになったような気がします。

 

 スピリチュアルな世界に惹かれていき、子育ての合間にその手の本をたくさんたくさん読んでいるうちに、私はある時、「福音書」をもう一度きちんと読んでみたい、と強く感じるようになりました。なんとなく、イエス様の教えこそが基本中の基本で、全ての原点になるものなのではないだろうか、と直感的に思ったのです。

 大人になり、そこそこの社会経験を積み、精神世界の知識もある程度深めた段階で改めてイエス様の言葉と行いの記録に向き合ってみると、若い頃には全く気付かなかった教訓が、深く自分の中に浸透していくのを感じました。イエス様のおっしゃったとされる言葉の裏側に隠れた深淵な意味も、ハートに直接訴えてくるような力強さがあります。

 

 

 仏教、イスラム教、キリスト教を学んでみて、私は大元に流れる教えは一つなのではないかと感じています。それぞれ表現の仕方は違いますが、根本には共通した真理があって、そこをいかに解説・解釈するか、という部分でどんどん枝分かれしていったのではないかと思うのです。

 

 

 今でも、時々福音書を開いてはイエス様の言葉に触れ、勇気づけられ、心を浄化しています。日々どんな出来事が起こっても、真理の道さえ見失うことがなければ、何も怖くないのだということを、常に教えてもらっているような気がします。