聖典から学ぶ

 本屋さんに行くと、自己啓発・精神世界関係の本の売り場面積が、数年前に比べて格段に大きくなっているのを感じます。それだけ、人々の間で意識の変革が起こり、目覚めが進んでいるのだろうなと思います。

 私自身もその手の本はいろいろと読み漁ってきましたが、ここ最近は、古い時代に書かれたものに立ち返って読むことが増えました。特に、お釈迦様やイエス様の言葉には、真理が持つ説得力と、不動の力強さを感じます。

 

 古代から受け継がれる数々の聖典のどれ一つをとっても、この世で多くの人々が追い求めている「富」や「名誉」の取得を人生の目標にすべしなど書かれているものなどありません。真理を悟った人々が説いているのは、”得る”ことではなく、”捨てる”こと、欲を満たすことではなくそぎ落とすこと、己を喜ばせることよりも他者に尽くすこと、この身をいかに世のために生かすかということです。『我』を捨て、大いなる力をいかに信頼し、いかに身を委ねるかということが、どの本にも、表現を変えて繰り返し書かれています。

 

 イエス様やお釈迦様の生き方そのものが、深淵なる教えでもあります。イエス様もお釈迦様も、物を持たず、質素な身なりで、食べ物などは人々に恵んでもらいながら、伝導の旅を死ぬまで続けました。お釈迦様は、お世話をしてくれるお弟子さん達が常にたくさんいるにも関わらず、托鉢に出ていました。托鉢、つまり物乞いです。

 今の世で、家も物も持たず、ボロを纏い、人に食べ物を恵んでもらう人といったら肩書はどうなるでしょう。物質的な富や肩書、地位などが、人間の真価といかに関係ないものかがわかります。

 

 

 「自分が本当にやりたいことがわからない」とおっしゃる方がたくさんいます。何か具体的な目標がないと、人は不安になるのかもしれません。けれど、人生とは、”目標”のためにあるものなのかなと思うと、そうではないようにも思います。イエス様やお釈迦様は、”目標”を達成するために、この世で生きていたわけではないように思うのです。

 余計なものをそぎ落とし、真理を探究し、大いなる力に身を委ねる準備ができたら、自ずと、自分が取るべき行動が見えてくるものだと思いますし、それは自然な流れなのだろうと思います。生き方に迷いがあるということは、まだまだ心のお掃除が必要だということなのではないでしょうか。お掃除に集中する時期だということです。そして、それは誰かが決めてくれるものではなく、自分が決めることです。自分自身が、余計なものを手放す決心をしない限り、それはなくなりません。ずっとついて回ります。そして、繰り返し繰り返し同じ学びがやってきます。

 

 本当に「楽」に生きる方法は、実は大昔から人々に教えられてきたということが、書物を読むことでわかります。ただそこにあっても、更にはそれを読んだとしても、その人の準備が整っていない時には、言葉がただ素通りしていくものです。知ることと実践することの違いがそこにあります。そして、真理の道を歩んで実践していくことが、いかに大きなチャレンジかということを、日々痛感しています。