「聴く」ということ

 福島の実家にいた頃、家には時々、近隣の農家の方達が自分で作った農作物を売りに、リヤカーを引いてやってくることがありました。

 ある時、呼び鈴が鳴ったのでその時留守番をしていた私が出ると、背中に大きな籠をしょったおじいさんが立っていました。自分が作った立派な枝豆を売って歩いているのだそうです。

 おじいさんは、自分の枝豆がどんなに美味しくて他と違うかということを、饒舌に語り出しました。私が黙って聞いていると、おじいさんは枝豆の話から今度は自分の人生について語り始めました。これまでどのようにして農業をやってきたか、どんな農作物をつくっているか、病気になって体が一時不自由になったけどこうしてまた頑張って仕事をしている、家族もいなくなったし今は自分1人だ、体が動くということはありがたいことだ、etc...次々に語り、話は永遠に続くかのように思われました。それでも私がおじいさんの話を聞き続けていると、おじいさんはしばらくしてから話をやめ、ポツリと

 

「・・・あんたが話を聞いてくれるから、たくさんしゃべっちまった」

 

と言いました。そして、特に枝豆を売りつけるでもなく、そのまま帰っていきました。

 

 私は昔から、自分が話すことよりも、”聴く”ことの方が得意でした。人が話すのを聴いていると、いつまでも聴いていられました。そして、あなたはよく聴いてくれるから何でも話せる、あなたに話していると心が楽になる、スッキリした、等、ただ聴いているだけでそんな風に言ってもらえることがたくさんありました。

 小さい頃はただ単純に、話の内容そのものに興味がありました。少し大きくなると、その話をしている人自身に興味が湧いてくるようになりました。この人は何を感じ、何を伝えたくて、話しているんだろう。私にわざわざ話をしてくれるなんて、ありがたいことだなとも思っていました。誰かの話を聴くことは、たくさんの刺激と学びを与えてくれます。更に、話を聴くことで、その人がスッキリしたり癒されたりするなんて、お互いにとってなんと素晴らしいことでしょうか。

 

 だいぶ大人になってから、「傾聴」という言葉を知った時、ああこれこそが、私が大切にしたいと思っていることだな、と思いました。ただ聞くのではなく、心から「聴く」。心から聴くためには、こちらがその人そのものを受け入れようという姿勢でいなければいけません。聴く側のどこかに、批判的な態度があれば、その人はもう本音を言う気持ちがなくなります。そういう雰囲気は、語らずとも感じ取るものです。

 

 喫茶店などに行くと、会話をする人々の間に、何とも柔らかな”癒し”の空間が出来上がっているのを目にすることがあります。相手と仲良しで気持ちを許し合っている関係だと、心の内を話し、それを受け止め、浄化される、という循環ができるのです。特に、聴く側の人の心の器が広く、ジャッジせずに相手の話を聴いている姿を見ると、その人の姿が一瞬仏様の姿と重なってみえることもあります。

 

 人は、思っていることや自分の中にある感情を言葉に出すことによって、自分でも気づかなかった己の本心を知ることができます。言葉に組み立てるという作業は、自分の気持ちを整理することでもあるので、混乱していた心の中身が客観的に見えるようになって、解決策に自然と導かれるのです。どんな悩みでも、問題でも、答えはいつでもその人の中にあります。モヤモヤとした心の中身が整理されてスッキリした時に、ぱっと解決策が浮かんでくるのは、ただそれまで見えていなかった答えがはっきりと見えるようになっただけです。

 

 誰かの話を心から受けとめて聴くという行為は、その人の心の整理のお手伝いをすることでもあるのです。