他人の想念 vs 内なる強さ

 世の中には、想念の力が一般的なレベルと比較して特別強い人がいます。ポジティブな想念であれネガティブな想念であれ、その人の抱いている”念”の渦がとても大きいため、近くで接している人にも多大な影響力が及ぶことがあります。

 

 その人と話していると、まるでその人から出ている感情と思考のボルテックスの中に自分も引き込まれていくような感覚がし、自分の軸が揺り動かされ、冷静な視点と高い見地から物事を眺めることが難しくなる場合。特に、相手のネガティブな想念に反応してしまっている時は、穏やかで落ち着いた状態の時には全く及ばないような考えが浮かんだり、恐れが触発されて不安感が高まったり、エゴに対してエゴで応酬してしまったり(喧嘩にも陥りやすい)と、あまり好ましい結果にならないのが普通です。

 

 その人の想念に反応しているということは、多かれ少なかれ、その人の抱いている恐れや怒りなどの自我意識(エゴ)と似たものが自分の中にもあるということなのですが、なかなかそこには気づきにくいし、認めたくないものです。

 まずはそういった想念の渦に巻き込まれないためには、想念が人一倍強い人とは距離を置くのが一番ですが、ただそれだけでは、また似たようなシチュエーションがやってきた時に(それは必ずやってきます)何の解決にもなりません。

 私の中の何かがその人の想念に反応して動揺しているのだから、その何かが解決されないうちは、またいつかどこかでそれが刺激された時、再び動揺の渦に巻き込まれることになるでしょう。

 

 大抵は、その人の執着と自分の執着は、根本部分で同じ種類のものです。執着の度合いは異なるかもしれませんが、ベクトルは同じであることが多いです。人よりも秀でていたい、人に認められたい、賞賛されたい、バカにされたくない、負けたくない。

 こうした欲は誰もが内に抱いているものですが、そうした欲望を自分の行動の規範にするのか、それとも、エゴの声と魂の声とを切り離して考えるのか。エゴの声を聞くのは慣れていますし、世の中で多くの人が陥っているエゴベースの競争の波に流されるのはたやすいです。けれど、エゴの声を原動力としたボルテックスに自分も巻き込まれていけば、恐れや怒り・不満などが増長されることがあっても癒されることはありません。欺瞞と自己満足、見せかけの豊かさや優越感などは、現世的な充足は与えてくれるかもしれませんが、本当の意味での心(魂)の充足感を与えるものではありません。目に見えるゴールなど、真の幸せとは全く関係ありません。むしろ、形に執着する心をいかに解放していくか、手に入れるよりもいかに手放していけるかが、真の安寧と充足感に繋がっていく唯一の道だと思います。

 

 自分がどの道を選ぶのか、決意が固まっていない状態だと、他人の想念の渦、つまりエゴのパワーに飲まれやすくなります。他者に力づくで引っ張られているようで、本当は自分の内面のエゴに屈しているだけです。

 もし、自分がエゴの声を聞かずにぶれない信念を保ち続けることができたら、どれほど想念のパワーが強い人が目の前に現れたとしても、迷うこともなければ、動かされることもありません。内面の城を頑丈にすればするほど、外野の声は入ってこられず、たたくこともできず、次第に攻撃することを諦めて退散していくでしょう。