自分は特別な存在だというのはエゴの声

 心のお荷物が減っていくと、確かに現実も変化していきます。魂の目的にフィットした方向に軌道修正されていくという感じです。とはいえ、浄化が必要な間(おそらく死ぬまで)は、何を手放せば良いのか、そこに気づかせるような出来事が起こり続けます。

 

  心のお掃除が進んだからといって、現実で何事も起こらなくなるわけではありません。何の「問題」も起こらなくなるなんてことはありません。生きている限り、予想外の出来事も、受け入れがたい現実も、たくさん起こります。ただ、そういった出来事が起こった時に、その人がどれだけ執着を手放せているかどうかで、反応が違ってきます。同じ出来事でも、人によって感じ方やショックの受け方、そしてそこから何を学び取るのかが異なってくるのは、そういうわけです。出来事はただ起こったことでしかなく、良いも悪いもひどいも素晴らしいも本来ないのです。

 

 辛い思いをたくさん抱えている人は、自分がどれほど大変な思いをしているか、どれほど悲惨な幼児期を過ごしたか、どれほど恵まれずに不幸であったか、とうとうと語ります。もちろん、心の傷を癒すためのステップとして、まずその傷に向き合い、感情を解放することは大切なのですが、そこにずっと固執していると、次に進むことができません。

 自分は不幸であった、もしくは自分は不幸である、という考えを手放せずにいる時は、「なぜ自分ばかりがこんな苦しみを味わわなければいけないんだろう」という憤りを抱いていることが多いです。その裏には、自分が受けた不幸は、本来受けるべきではなかった、もしくは受けずに済んだはずのものであるという思いがあり、自分の身に起きた現実を否定し、受け入れることに抵抗があります。そして、自分の身に起こった現実を、誰かのせいにしたり、何かを責めることで、自分で責任を取ることを放棄してしまいます。

 

 確かに、自分の身に起こった受け入れがたい現実を、誰かのせいにしたり、自分以外の何かに責任を負わせることは簡単かもしれません。けれどそのような考えでいるということは、怒りや恨み、憤りの感情と共に生きるということであり、それは必ずその人の心と体を蝕んでいきます。そして、復讐心に基づいた、見返してやりたいというエゴに支配された人生、不幸を恨んで悲しみと嘆きに満ちた人生は、生産性がなく、息苦しいものです。どうして自分ばかりがこのような目に遭わなければいけないのだろうという被害者意識も、裏を返せば「自分は特別である」というエゴの声から来ています。自分は特別であるから、本来このような不幸は受けるべきではないと思っているのです。

 また逆に、自分は「特別」な存在だから、神様が私を選んで、こんなにたくさんの不幸を授けてくださったのだという考えも、やはり思いあがった自我意識のなせる業です。自分の身に起こった不幸を誰かにひけらかしたり、いかに自分が困難と「闘って」いるかということを周りに知らしめる必要も本来ありません。誰かに自分のことを話したいと思うのなら、その動機がどこから来ているのか、注意深く眺める必要があります。

 

 

 過去を清算し、過去に縛られず、過去を振り返らず、自分の身に起こったこと全てを粛々と受け止め、誰のせいにもせず、誰も責めず、(必要以上にアピールもせず)、ただそこから学ぶべきことを学び取って、今後の人生と他者のために生かしていく。難しいことですが、結局一つ所に留まって恨み節をつぶやいているより、1人でも多くの人に知ってもらおうと躍起になるより、ずっとずっと自由で楽で、縛られない生き方であるような気がします。