ゆるすということ

 しばらく前に、息子のクラスで喧嘩が起こり、ある男の子がもう1人の男の子の顔に軽い傷をつけてしまったことがありました。その出来事をその日の晩酌時に夫に話していたら、夫が子供の頃、友達同士で戯れていた時に負った傷の話になりました。夫は、その時のことをずっと忘れていたようなのですが、話しているうちにいろいろな記憶が蘇ってきたようでした。

 

「そういえばあの時、とばっちりをくらって怪我をしたのはオレの方なのに、先生は『ボーっとしていたお前が悪い』とかいってオレが叱られたんだ」

 

 と夫。そんなことを思い出したせいか、その時のやるせない、悔しい思いがふつふつと湧き出てきたようで、

 

「あー、いろいろ思い出したら腹が立ってきた!もうやめよう、この話」

 

となって、その話はおしまいになりました。

 

 それを聞いて私は、夫はまだその時のことをゆるせていないのだなと感じました。話している間、夫の怒りの感情がこちらにも伝わってきました。もうその出来事が起こってから30年以上も経っているにもかかわらず、根本的にその出来事をゆるせていないので、思い出すと怒りが湧いてくるのです。

 

 このような”ゆるせないこと”は、小さなものから大きなものまで、多くの人が未解決の問題として、内側に抱えているものです。もう還暦をとっくに過ぎた女性タレントが、とあるテレビ番組で、子供時代に父親から受けた心理的虐待の話をしながら泣いていたことがあります。過去を手放せているかいないかは、年齢や、起こった時期は関係ありません。その人が、自分の身に起こった出来事を受け入れ、ゆるせているかどうか次第です。

 

 夫は、少年時代に起こったある理不尽な出来事を、ゆるさないという選択肢をとりあえずとったようでした。今は彼の中でゆるすタイミングではなかったのかもしれません。まあ普段は忘れているようなので、日常生活に支障をきたすような深刻な問題にはなっていないようです。

 ただ、その人の中で、その出来事(やそれに関わった人物)のことを常に反芻し、その度に怒りや憤りや悲しみなどネガティブな感情に苛まれ、苦しみ続けているようであれば、それは確実に、その人のエネルギーレベルを下げ、幸せを阻害する要因となっています。相手を恨んでいるようで、実は、自分自身が、自分の思いによって不幸になっているのです。

 

 ゆるすゆるさないというのは、相手があるようで完全に自分自身の問題です。相手は関係ありません。自分を傷つけた人が反省していようといまいと、忘れていようと覚えていようと、生きていようと死んでいようと、相手の今現在のシチュエーションは全く、これっぽっちも、微塵も関係ありません。ゆるしというのは、100%自分の問題です。

 恨み、ゆるせないと思っている人がいたら、その人に報復したい、自分の思いを伝えたい、と考えるのは、人間としてごく自然なことなのかもしれません。けれど、仮にその人に復讐をしたり、自分の思いを伝えられたとして、それができたからじゃあその人をゆるせるかというと、そうとは限りません。自分の中でゆるせていなければ、相手に何をしたって、相手がどう変わったって、ゆるせないものはゆるせないままです。

 

 他人の問題は、他人が責任を負うもので、私ではありません。私は、私の問題の責任を負えばいいだけです。どうせ私の問題に相手は関係ないのだから、もうその人のことを考えるのはやめて、ベクトルを完全に自分に向けた方が、手放しがスムーズに進みます。