全ては自分次第

 心の中に湧き出る感情や思いは、自分自身が生み出している。このことには、だいぶ早い段階から気づいていました。けれど、どうしたら湧き出る感情や思いに圧倒されずに済むのか、そしてそもそも、物事や人や言葉に対して必要以上に反応してしまうことをどうやったらやめられるのか、ということに関しては、長いこと無力なままでした。反応してしまうこと自体は、元々そういうタイプなのだから仕方ない、自分でどうにかできるものではない、とさえ思っていました。世の中にも「エンパス」や「HSP」といった言葉が浸透していき、それらのチェック項目の多くに当てはまる自分は、うまれつきの敏感体質で、人より過敏に反応してしまうのは当然で致し方ないこと、一生この気質と付き合っていくしかない、と思っていました。

 

 確かに、敏感体質自体は、生まれ持ったものであって、なくなるということは一生ないかもしれません。けれど、敏感であることと、自分がどのように「反応するか」ということは、本来別問題です。敏感であることは変えられないかもしれませんが、自分が何に対して、どのように反応するかということは、私が選ぶことができるのです。自分が見たり聞いたり体験したことと、それに対する反応は、切り離すことができます。どんな出来事が起ころうが、どんな人が周りにいようが、どんな言葉を投げかけられようが、それらに対して自分は無力なのではなく、その事象をどのようにとらえるかに関しては自分が完全に主導権を握っています。自分の身に起こったことを受け入れ、咀嚼し、経験という財産として、智慧として役立てていくかどうかを決めるのも、その人次第です。

 

 起こった出来事に対して、受け身でいることも、否定し続けることも、一つの選択です。どのような選択をとるのかは、その人の自由です。被害者でいることも、他者を責めることも、運命を呪うこともできます。自由です。ただし、別の選択肢をとることもできます。

 

 

 私はある時から、自分の身に起こった全てのことを受け入れることに決めました。いつまでも過去の出来事を思い返しては悪しき感情や思いを産み続けることに嫌気がさしていましたし、環境や他人を責めている自分も嫌でした。過去に縛られ、他者を責めるというループから抜け出さない限りは、真の平安は訪れないだろうと、直観でわかっていました。

 

 ただし、このように心の中で決心することと、実践することは、また別問題でした。当然、それまで長いこと続けてきた習慣は、そう簡単に変えられるものではありません。せっかく心に決めたのに、気づいたらまた同じことを繰り返して嫌になることもたくさんありました。今でも、完全にすべてを受け入れられているわけではありません。特に、不条理なことが起こった時などは、憤慨することもあります。けれど、いきなり完璧になることを目指すのではなく、ある程度は、人間なのだから弱い部分もある、くらいに柔軟に考えるようにしています。最初から完璧を目指そうとすると、できていない自分を責めたくなってしまうからです。

 

 

 

 完ぺきではないにしても、それまでの自分とは決別しようと思い、あきらめずに忍耐と訓練を続けてきた効果は、絶大でした。まず、他者を責めないようになったことで、恨みや怒りといった感情に支配されることが減り、とても楽になりました。恨みや怒りを抱いて生きることは、本当はとてもつらくて苦しいことです。

 

 理解しがたいような出来事が起こったり、到底受け入れがたいように感じられる人に出会った時でも、まず最初に、

 

私はこの出来事とこの人を愛します

 

と宣言するようにしています。その時点で、どんなに自分のエゴが拒絶していようが、とにかくこう宣言するのです。当然、宣言したからといっていきなりそれができるとは限りません。たくさんの葛藤も生じます。それでも、とにかく「愛します」という意思にすがりつくのです。どんな感情が沸き起こってこようとも、その意思だけは絶対に死守します。

 

 すると、不思議なことに、物事はそのように動いていくのです。最初は絶対にできないように思えたことでも、できるようになりますし、思ってもいなかったようなプロセスを経て、望む方向に導かれていったりします。自分が変わるだけでなく、相手が変わることもあります。環境が変わることもよくあります。助けてくれる人や情報がやってきたりもします。

 あらゆることがスムーズにいくとは限らず、落ち込むことや、希望を失いそうになることもありますが、とにかく、信じることさえやめなければ、天は裏切らないのだなあと思います。