ジャッジをしない

 瞑想を習慣的に行うようになって10年ほどになりますが、まだまだ足りない、もっともっと瞑想の時間を取らなければいけないな、と感じています。そのくらい、長年の間に蓄積されていった心の”垢”のようなものは強力に張り付いているものですし、リリースしなければいけないこともたくさんあります。

 

 それでも、瞑想を続けていくうちに、以前と比べればだいぶ、頭のおしゃべりが減りましたし、物事を色をつけてみないようになってきました。

 

 物事や他人に対して「ジャッジをしない」ことは、本当に難しいものです。私たちは、物心ついてから、たくさんの偏見や思い込み、思考パターンを知らず知らずのうちに身につけてきました。その時の自分を守るために必要だったケースもあるかもしれません。けれど、いつまでも必要のない偏見や思い癖を持ち続けると、自分の世界を狭め、受け取れるものも受け取れなくなってしまいます。そして、偏見は特に、悪しき感情や思考を産み出す根本原因になり得るので、偏見を抱けば抱くほど、自分が苦しくなります。

 瞑想と同時並行で私は、とにかく物事や人を「色付け」しないで見る訓練をするようにしてきました。自分の身に起こった出来事も、目に映る景色も、他人の言動も、それに対して自分が色付けさえしなければ、それらはただの現象・事象でしかなく、良くも悪くもない、ただそれが「ある

」「起こった」というだけのことでしかありません。あらゆる物事は、本来全て中立なのです。中立な見方をするようになると、何かに執着したり、とらわれることが減っていきます。

 

 誰かから攻撃されたとしたって、その出来事に色付けさえしなければ、冷静に眺めて冷静に対処することができます。色付けをせずに眺めれば、必要以上に反応することもなくなります。自分が悪かったことがもしあれば、そこは素直に認めて今後に生かしていけばいいのであって、そのことで自分を責めたり、卑下することもありません。罪悪感や自己嫌悪は、不必要な反応です。人から攻撃されたことを、中立の目で見ていないことで起こります。

 起こった出来事を中立の目で見れば、攻撃してきた人の立場や、その人の抱える問題に対しても、冷静に目を向けることができるようになります。相手の言動にばかりフォーカスして、それに対して感情的に反応してしまうと、いつまでもその出来事を受け入れることができないし、怒りを抱き続けることになります。冷静な目で見ることができないということは、真実に気づくことができないということです。

 他人に攻撃をする人のことを、冷静に眺めてみれば、その人の中にある、不安や恐れ、悲しみ、寂しさ、苦しみが見えてきます。そしてそれは、その人が抱える問題であって、そこに関して自分は、個人的に責任を負う必要はないということも理解できるようになります。

 

 

 物事にジャッジをしないということは、ネガティブなジャッジだけに限りません。必要以上に、「良い」ことや「ポジティブ」にとらわれてしまうと、その反対である「悪い」ことや「ネガティブ」を意識するようになり、両極性の罠にとらわれることになります。そもそも、自分が「良い」と判断している時点で、中立ではありません。

 

 

 

 アンジェリックエッセンスに、割と最近出た『Quiet Mind』(クワイエットマインド)というエッセンスがありますが、これなどは、頭のおしゃべりを静め、「無」の状態に近づけてくれる助けとなってくれると思います。バッチの『ホワイトチェストナット』も頭を静めてくれますし、囚われが強い場合は、オーストラリアンブッシュの『ボロニア』もお勧めです。こうしたエッセンスを取りながら、瞑想を継続して、根気強く、不必要な偏見や思い込みを手放す作業を進めていくと良いかもしれません。