責めたくなるのは人の性(さが)

 今から何百年も昔、ヨーロッパを中心にペストが猛威を奮った時代がありました。一度罹患した人の致死率は約9割ともいわれ、当時はまだ特効薬もなかったため、まさに死の病でした。ペストが蔓延した地域は、村と言わず町といわずたちまち死者が膨れ上がり、人口の3分の1から多い所で5割ほどまで減ってしまったほどでした。

 現代のように衛生学・医学・細菌学の知識が発達しておらず、原因も対処法も漠然としていた当時の人々にとっては、得体の知れない伝染病に対する恐怖心たるや、いかばかりだったかと推察されます。

 

 そのような状況で、どこからともなく流れてきた噂に、

 

「この病気は、ユダヤ人が井戸に投げ込んだ毒から発生している」

 

 といったものがありました。当時の社会においてユダヤ人は、キリスト教下にある人々から疎まれる存在でした。確実な根拠もないまま、この噂は瞬く間にヨーロッパ中に伝わり、各地でユダヤ人に対する暴力や虐殺が相次ぐことになります。虐げられたユダヤ人は東へと逃げたため、東ヨーロッパにユダヤ人の居住地が多くなったといわれています。その後時代が進み、第二次世界大戦の時、東欧の多くのユダヤ人が、今度はナチスの手によって虐殺の対象となっていきます。

 

 

 日本においても、1923年に起こった関東大震災の際、混乱の内に「朝鮮人が暴動を起こしたり、毒をまき散らしている」といったうわさが人々の間を飛び交ったことがありました。こちらも確固たる証拠もないままに、当時日本に住んでいた多くの朝鮮人達に刃が向けられ、大勢の方が犠牲になったといわれています。

 

 

 そして今、コロナウイルスが世界中の脅威となっている状況下で、特定の国や人々が非難の対象となり、やり玉にあげられています。人類が何百年もの間繰り返してきた、”大きな災害が起こると、その時の社会においてやや忌み嫌われている存在に怒りの矛先が向かう”流れがここにきても起こっていると感じます。

 

 

 人は、説明のつかないような不幸や災害が身に降りかかった時、この災難をつくり出したのは誰なのか、誰が悪いのかと、責める相手を無意識に選んでしまうものなのかもしれません。どうして自分がこんな不幸な目にあわなければいけないのか。どうして自分が苦しまなければいけないのか。納得がいかなかったり、受け入れられなかったりすると、誰かのせいにしたくなるのです。

 

 

 誰かを恨んだり、怒りを抱えたまま生きるのがしんどくなった時。恨みや怒りを手放したいのだけれど、自分の中の何かが抵抗しているように感じるのであれば、どこかで自分が、この「人を責める」という誘惑に負けていないか、一度ゆっくり内側を見つめてみるといいかもしれません。人を責めないという選択は、かなり大きな決心が必要になるし、抵抗に打ち勝つパワーがいります。人間の、人類全体の抱える大きな闇に立ち向かうことでもあるからです。

 

 

 でも不可能なことではありません。誰でも、本当はできることだと思います。