光と闇Ⅶ

 私たちの耳に囁いてくる悪魔の囁きは、大きなものから小さなものまで、内容も形態も様々です。闇の度合いが深い、非常に邪悪な悪魔の誘いは判別もつきやすいので、気を張っていればよほどのことがない限りそちらに引きずり込まれることはないでしょう。闇サイドにどっぷりとつかってしまっている人間というのも、見て明らかなのでこちらもわかりやすいかと思います。

 やっかいなのは、光なのか闇なのか、一見わかりづらいようなやり方で近づいてくる輩です。神や仏のような高尚な存在を装ったり、その人のためになるかのような表現で、甘い誘惑の言葉を囁いてきたり。先日書いたヨガの講師の例のように、物理的な成功を収め、富や名声を得だした段階で巧妙に罠を仕掛けられたりします。そして、今度は罠に引っかかって堕ちてしまった人が、他の人を引き込む側に周り、巧妙な手口で自分の勢力を広げようとします(本人が表層意識では無自覚でやっていることも多いです)。自分がたいそうな存在であることをアピールしてきたり、物理的な富に固執していたり、人からの称賛に酔っているようなタイプの人は、大概この虚栄心の罠にはまっていると思っていいです。

 

 闇の存在は、人間が生き生きと光の存在として活動することを厭います。なのでよく、人がいざアクションを起こそうとする前の段階で、あの手この手で邪魔をしてきます。

 

「自分には才能がない」

「失敗するかもしれない」

「周りに反対されるかもしれない」

「お金がないからできない」

「馬鹿にされるかもしれない」

 

・・・この類の囁きを本気で信じてしまい、本当は動きたいのに重たい腰が上がらず、ぐだぐだとやるべきことを先延ばしにしている人は、たくさんいるのではないでしょうか。やるべきことを先延ばしにしている人というのは、往々にして何かしらの言い訳をしてきます。「お金がない」という口実はよく耳にしますが、自分が無力であると強く信じてしまっているがために、「お金がない」という状況を自ら創り出している場合もあります。目の前にある現実は、その人が信じている世界なのです。変えたからったら、意識を変え、言葉を変え、行動を変えればいいのです。言葉もエネルギーです。「できない」と言い続けていたら、できないままです。それを一度、「できる」に変えてみてください。何かが変わってくると思います。

 日本人の習性として、自虐的に自分を表現することがよくあります。「私は〇〇だから」(〇〇の中にはネガティブな表現が入ります)などと言って、自分を卑下したような言葉を吐いているのをよく耳にします。あれなどは、呪いの呪文を口から出しているようなものです。誰の得にもならないのに、なぜ皆そのようなことをいうのだろうと思います。自分に対して卑屈になっている人が、他の人を幸せにすることができるでしょうか。

 

 それまでの習性や行動を変えるには、かなりのエネルギーがいります。それが億劫だったり、不安だったりして躊躇してしまう人間の心の隙に、悪魔は入り込んできます。怠惰な心や恐怖心を、どんどん煽ってきます。何も変えずにこのままでいる方が「安全である」と、人間を信じ込ませようとするのです。そして、なんとなくそこに留まっていた方が安心するような錯覚を起こさせます。

 

 

 

イエス様はよくたとえ話を用いて民衆に福音を説きました。その中の一つに、「タラントのたとえ」というお話があります。

 

「天の国は、旅行に出かける人が僕(しもべ)たちを呼んで財産を預けるようなものである。

 

ある人が、僕たちそれぞれの力に応じて、一人には5タラント、一人には2タラント、一人には1タラントを渡して旅行に出かけた。5タラント預かった者は早速行ってそれを働かせ、他に5タラントを儲けた。同じように、2タラント預かった者も他に2タラントを儲けた。しかし1タラント預かった者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。かなり日が経ってから主人が帰ってきて、僕たちと貸し借りを清算した。まず5タラント預かった者が進み出て、他の5タラントを差し出して言った。

『ご主人、5タラント預かりましたが、ご覧ください、他に5タラントを儲けました』

主人が言った。

『感心感心、忠実な善い僕よ、少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』

2タラントの者も進み出て言った。

『ご主人、2タラント預かりましたが、ご覧ください、他に2タラントを儲けました』

主人が言った。

『感心感心、忠実な善い僕よ、少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』

最後に1タラント預かっていた者も進み出て言った。

『ご主人、あなたは種をまかないところで刈り取り、金をまき散らさないところで集める、きつい方と知っていたので、商売をするのが恐ろしく、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。そら、お返しします』

主人が答えた。

『怠け者の、悪い僕よ。私がまかない所で刈り取り、まき散らさないところで集めることを知っていたのか。それなら、私の金を銀行に入れておくべきであった。そうすれば帰ってきたとき、元金に利子をつけて戻してもらえたのに。では、その1タラントをその男から取り上げて、10タラントを持っている者に渡しなさい。誰でも持っている人にはさらに与えられてあり余るが、持たぬ人は、持っているものまでも取り上げられるのである。さあ、この役に立たない僕を外の真っ暗闇に放り出せ。そこで喚き、歯ぎしりするであろう』

――――マタイ25

 

 「タラント」というのは古代ギリシャやローマで用いられた通貨の名前ですが、英語で「才能」という意味を表す"talent"(タレント)という言葉は、このお話から派生したといわれています。

 

 私たちは神様から皆、何かしらの才能を与えられています。何も与えられていない人など、一人として存在しません。勇気をもってそれを生かそうとする人を、神様は応援します。恐れに邪魔されて、せっかくの贈り物を無駄にしてしまうのは、もったいないことです。