怒りについてⅢ

 怒りが生じる時の、もう一つのパターンを挙げます。それは、

 

「自分の中にある、”こうあるべき”という信念と、相反する言動をとっている人を目にしたとき」

 

と、

 

「自分の中にある、”もう手放した方が良い”習性やくせ、価値観を体現している人を目にしたとき」

 

です。

 

 私たちは、自分の内面を映し出して見せてくれる人を引き寄せることがあります。そういった場合、知らず知らずのうちに、相手に自分自身の姿や価値観を投影させて見てしまいます。そして、その反応として様々な感情が生じるのです。

 

 たとえば、ある人が、「人前に出る時は、きちんとした服装でなければいけない」という信念を持っていたとします。そうした時、その人の目の前に、「人前に出ているのに、とてもだらしない恰好をしている人」が現れたとします。すると、自分が強く信じている”こうあるべき”ルールに従っていないその人に対して、憤りをおぼえます。「どうしてきちんとした格好をしないのだろう」「もっとちゃんとした服を着るべきなのに」といった考えが渦巻き、それに伴った怒りやイライラといったネガティブな感情が生じます。

 ちなみにこの時、たとえ同じ信念を抱いていたとしても、「人は人、自分は自分」という許容がきちんとできていれば、さほどネガティブな感情は生まれません。信念自体に自分がどれだけ縛られているか、そして自分とは異なる考えや価値観をどれだけ受け入れられているか、相手の事情を察して慈愛の心で受け止めるゆとりがあるかどうか、という心の状態が関わってきます。

 

 また、ある人が、自分の遅刻癖を何とかしたいと考えているとします。自分の時間にルーズなところが嫌で、直したいと思っています。そうした時、自分と似ている、時間にルーズで遅刻ばかりしている人を目にしたとします。まるで自分の嫌な部分を鏡で映したようなその人の行動をみて、自分をみているかのように感じ、なんとなく嫌な気持ちになったり、その人に対して怒りの感情が芽生えることもあります。

 

 このようにわかりやすい事例もありますが、その人自身もあまり気づいていない、自分の深い部分にある”質”や観念、パターンを他者が映し出していることもあります。そうした場合、その人をみるとなぜこんなにイライラしてしまうのか、一見わからないことが多いです。負の感情から解放されたければ、自分の内面を深く見つめる必要があるのですが、なかなかそうしたところまで踏み込まないまま過ごしている人が大半かと思います。誰だって、自分の内側に深く入っていくことは怖いのです。また、とても大変な作業であることもどこかでわかっているので、なかなかお掃除の第一歩に踏み込めずに躊躇している人も多いかと思います。

 

 

 このパターンの怒りは、「寛容」「慈愛」「手放し」が鍵となります。どちらかというと、「手放し」に集中した方が良いです。そもそも、心のお掃除がある程度進まない限り、人間が「寛容」「慈愛」の心を持つことは難しいです。だから、仏教の教えでは繰り返し、執着を手放すことを教えているのです。

 自分の中にある、不必要な思い込みや価値観、パターンをどんどん手放していくことで、他者に対しても寛容になり、慈愛の心を持つことができるようになっていきます。子供じみた言動をとっている人がいたとしても、かつての自分の姿だと思えば、責めるのではなく、慈愛の気持ちでみることができます。何かに躓いてもがいている人がいたとしても、ああ今この人は何かを学ぼうとしているのだな、と寛容に見守ることができます。