2017年

4月

06日

全ては神の御業

 イエス・キリストが亡くなった後、残された弟子たちは、ある話し合いをしました。12人の使徒のうちの1人であったユダは、イエス様を裏切って反対勢力に引き渡す手助けをした後、それで得たお金である地所を手に入れました。ところが、その場所でユダは、高い所から”さかさまに落ちて”死んでしまいます。

 弟子たちは、そのユダの代わりに誰を使徒に加えるか、神に祈った後、なんとくじを引いて決めることにします。その結果、くじはマッテヤという人物に当たり、彼が使徒に新たに加えられることになったのでした。

 

 こんな大事な決め事を、くじで決めるとは。現代人の私達の感覚では、安直とも思えてしまいます。けれど、神の御業に身を委ねる感覚が強かった昔の人にとって、くじの結果というのは神の御心を表すものであり、今よりも神聖な儀式だったのかもしれません。

 

 易やタロットといった占いもまた、神の啓示を目に見える形で表す方法として、古代から伝えられてきました。全ては神の御業、亀の甲羅や動物の骨に入ったヒビも、シャッフルした後に選ばれたカードも、この世を動かしている見えざる手によるメッセージであるのです。

 

 私が幼い頃、毎年お正月になると、南相馬市の祖父母の家の近くにあった小さな神社でおみくじを引くのが習慣でした。不思議なことに、「お年玉がたくさんもらえますように」とか、「○○を買ってもらえますように」といった、お金にまつわる願い事をすると、その後に引いたおみくじの中には必ず小さな小さな”金の神様”が入っていました。お金に関係のない願い事の時には、金の神様は入っていませんでした。これは私に限ったことではなく、毎年おみくじを一緒に引いていた兄やいとこたちにも同じように起きた現象でした。

 

 子供の通っている学校では、PTAの役員決めの際、委員長や副委員長といった役職を決めるのはいつもくじでした。そうした方が誰からも文句が出ないからなのでしょうが、そもそも人は潜在的に、くじの結果には逆らう感覚が起こらないものなのでしょうか。なぜか、くじの結果には有無を言わさぬ説得力があります。

 そして、くじで決まったメンバーというのは、なぜか常にしっくりくるのが不思議です。やはりくじには、神聖な力が働いているとしか思えません。

 

 来週、娘の中学校の入学式が行われます。式が終わった後、保護者は全員集められ、そこで一斉にくじを引かされることになっています。3年間全てのPTAの仕事がその場で割り振られるとのことです。委員長クラスのヘビーな仕事を引くのか、それとも軽い手伝い仕事が当たるのか。神の采配に委ねます。こんな風に考えていた方が、謙虚に取り組めるような気がします。

 

2017年

1月

18日

就活課のOさん

 長い間記憶から消えていて、これまで思い出すこともなかったのに、ここ最近になってなぜか脳裏によく浮かぶ出来事があります。

 

 通っていた大学の就活課には、世話人をしている、Oさんという男性がいました。当時で、もうそろそろ引退してもおかしくないくらいの年齢だったように記憶しています。

 Oさんは、学生の間ではちょっとした有名人でした。就職活動をしている先輩達が、

 「Oさんに叱られちゃったよ~」とか、「Oさんにアドバイスもらったら、内定もらえるようになった」

 といった感じで、Oさんのことを話すのをよく耳にしていました。

 

 就職なんてまだまだ先、と思っていたのに、いつの間にか自分にもその時期がやってきました。それまで自分がどんな仕事をするかなんて真剣に考えてこなかった私は、まあなるようになるだろうと、大した準備もせず、随分とのんびり構えていました。やる気も情熱もさしてありませんでした。それでも、周りの友人達が動き始めたのに触発される形で、しぶしぶ思い腰を上げ、なんとなくリクルートスーツを買って、なんとなくそれっぽい恰好をし、なんとなく興味がある分野の会社を取りあえず受けることにしました。

 そんな調子で、はなから熱意もビジョンもないままに始めた就職活動は、当然うまくいかず、面接を受けども受けども次の面接の返事がもらえません。同じ時期に活動を始めた友人達が次々内定をもらう頃になって、さすがにこの状況はまずいかもしれないと思い始めた私は、何がいけないんだろう、自分の何が間違っているんだろう、と自問してみました。内定をいくつももらっているような達人に話を聞いて、その人のまねをしてみたり、全然興味がない分野の会社も受けてみました。けれど、ちぐはぐな自分を演じれば演じるほど、空回りをし、余計に良い結果から遠ざかっていくような気がしました。私は、自分が出口のない迷宮にハマりこんでしまったような焦りと混乱の中にいました。

 

 そんな精神的に行き詰った日々を過ごしていた頃、ある日大学に行くと、たまたま前を通りかかった就活課に、Oさんが一人でいらっしゃるのが見えました。いつもは学生で賑わっている就活課が、その時は誰もおらず、Oさんの手も空いているようでした。私は、それまで『自分の力で内定を取る!Oさんには頼らないぞ』と妙な強がりがあって、就活課に足を踏み入れることもしなかったのですが、その時はなんとなく吸い寄せられるようにして、部屋の中に入っていきました。

 

 部屋に入り、Oさんと目が合うと、私の口から

 

「あの~、就職活動をしているんですけど、まだ内定がもらえなくて・・・」

 

 という言葉が出ました。

 

「どういう分野に興味があるんですか?」

 

「今絞っているのは、不動産業界です」

 

するとOさんは私のことをジッと見てから、こう言いました。

 

「あなた、おっきい会社ばかり受けてるんじゃないの?」

 

「・・・あー、そうですね。そういう会社がほとんどです」

 

「それはやめなさい。あなたみたいな人はね、中くらいの会社がいいの。中堅どころを受けなさい」

 

 Oさんはそのようにハッキリと言いました。あなたみたいな人・・?今日初めて会ったのに、私の何がわかるというんだろう?その時はとても不思議に思いました。

 

 けれどそんな私にお構いなく、Oさんはさっさと会社のリーフレットが並んでいる棚の所に歩いて行きました。そこから、迷うことなく、ある会社のリーフレットを一枚取り出すと、

 

「あなた、こういう会社を受けてみなさい」

 

 と言いました。それは、私が見たことも聞いたこともない会社でした。都内の、ある分野に特化した、中堅クラスの不動産会社でした。

 

「いいですか、今日この会社に連絡をして、面接の予約を取りなさい。わかりましたね」。

 

 

 Oさんの、なぜだかわからないけれど妙に力のある言葉に押される形で、私はその日のうちにその会社に連絡をとり、面接を受けることになりました。そして、面接はとんとん拍子で進み、それまで何をやってもうまくいかなかったことが嘘のように、あっさりと内定をもらったのでした。

 

 

 ずっとそのことを忘れていたのに、最近なぜだかあの出来事をよく思い出します。最近、プロフェッショナルな仕事をする人というのは、「知識、経験、直観」という3つのスキルを併せ持っているものだなあ、と気づいたことがあり、そんなことを思っている時にふと、Oさんの姿が浮かんできたのです。今考えれば、Oさんはまさに、「知識、経験、直観」を使ってお仕事をされていたと思います。長年多くの学生を見てきて、一目見ただけで、その人にマッチする会社がパッと閃く勘が養われていったのだろうと思います。更に、閃きに必要な情報や知識も持ち合わせていました。

 

 ちなみに後日、内定が決まったことを報告がてら、Oさんにお礼を言いに行くと、Oさんはあっさり、

 

「ああ、そうですか。それはおめでとうございます」

 

 とだけおっしゃって、それ以上のことは特に何も言いませんでした。いつも淡々と、お仕事をされていました。

 

 Oさんは、かつては私の中で「就職先を紹介してくれた就活課の人」でしかありませんでしたが、今となってみると、その仕事ぶりに何か強烈なメッセージを感じるのです。

 

 

2017年

1月

06日

あけましておめでとうございます

 新しい年になりました。

 

 去年一年間、うぶすなにはたくさんのお客様が来てくださり、電話・メールセッションも含めて私自身もたくさん刺激を受け、多くのことに気づかされ、学ばせていただいた一年間でした。本当にありがとうございました。私もまだまだ自分が学びの途上にあることを自覚しておりますし、本当に未熟な部分もたくさんあります。皆さんと一緒に学び、精進し、成長していけるように、日々の努力を惜しまないつもりですので、今後とも温かい目で見て頂ければ幸いです。

 

 うぶすなを始めたばかりの頃、友人などにお仕事の話をしたら、「えー、そういうのって、どんな人が来るかわからないし、怖くないの?」といった反応をされることが多かったのを覚えています。私自身は、そういった意味での不安や心配など考えたこともなかったのですが、一般的にカウンセリング的なお仕事というと、なんとなく不安定な人たちが来る、というイメージがあるのでしょうか。

 実際にうぶすなにセッションを申し込んできてくださる方達は、本当にお世辞でもなんでもなく、心優しくて穏やかで、とても繊細な方達ばかりです。こちらが恐縮してしまうくらい、腰が低くて遠慮深い方が多いです。皆さん本当にお優しいので、私の方が癒されてしまうこともたくさんあります。

 

 繊細で敏感、そして心優しく愛情深い。そういったタイプの方というのは、子供の頃からたくさんたくさん傷つき体験を繰り返してきていらっしゃるので(そして心優しいが故に受け身の姿勢でいることが多い)、すっかり元気をなくして「私なんて・・」という自己否定感に覆われてしまっていることが多いように感じます。私にはそれがとても勿体ないことに思われるのです。

 

 繊細で敏感であるということは、生まれ持った気質ですので、変えることはできません。そもそもその人が生まれ持った気質・性格というものは、ギフトでもあります。

 確かに、人よりも敏感で繊細であるということは、それだけショックやダメージの影響も大きくなるということですから、辛い思いをすることが多いかもしれません。そして、私は何かが周りとズレている、ものの考え方やとらえ方が他の人達と何か違う、という感覚から、孤独感にさいなまされてきたかもしれません。誰にも(家族にさえも)理解してもらえないという孤独感です。一見、損しているように思われることもあるかもしれません。

 けれど見方を変えれば、人よりも繊細で敏感であるということは、大きな武器でもあると思うのです。自分にしかない感性を生かして、他の人にはできない形で、社会の役に立つことができるかもしれません。自分と似た気質で悩み多き人生を送っている人に、エールを送ることができるかもしれません。自分が苦しみから脱した暁には、きっとその経験が、今度は誰かの助けとなる日がくるはずなのです。苦しみの渦中にいる間は、なかなか前向きにとらえることが難しいかもしれませんが、どんな出来事でも何か意味があって起こっていると思います。

 神様からもらったギフトを使って、自分のカラーを最大限に輝かせ、与えられた使命を貫くことが、そもそもこの世に生まれてきた目的なのではないでしょうか。過去にどれほど自分が受け入れられなかったとしても、それがその人の価値や存在意義を落とす理由にはならないと思います。たまたま、周りがそういう人たちだったというだけです。究極的には、そんな環境を自ら選んで生まれてきたわけですから、責任は自分にあるともいえます。つまり、誰も悪くないのです。

 もしかしたらあなたは、敢えてそうした厳しい環境を選んで、自分の意思の強さを試すという課題をもって生まれてきた勇気ある魂なのかもしれません。周囲に馴染めず、受け入れられないという厳しい環境に身を置きつつも、意思の力を強く持つことで自己尊厳を取り戻す、というハードなミッションを携えてきたチャレンジャーかもしれません。そんな自分に、お疲れ様、がんばってるじゃん、私!と、どうぞ励ましの言葉をかけてあげてください。

 

 フラワーエッセンスにも、そんな繊細で敏感で傷つきやすく心優しいチャレンジャーをサポートするものがたくさんありますので、心が折れそうな時、行き詰った時には、ぜひ遠慮なくご相談ください。

 

 

 

2016年

7月

25日

恐れからの解放~その②

 意識の覚醒が始まってくると、人は否が応でもこの恐れに向き合わざるを得なくなるようです。それは、

 

「自分の心の中を知る恐れ」。

 

それまで、臭いものに蓋をするように、見ないようにしてきた心の中身。そこに本当は何があって、何が主張していて、何が出て行きたがっているのか。

 

自分の内面に潜むトラウマや古い傷、エゴ、恐れ、執着、こういったものに面と向き合って取り組もうという意識に至るだけでも、相当な時間と勇気とエネルギーが必要になります(一度決心してしまえば、あとは自然な流れで浄化が進んでいきます)。

 

大多数の人は、自分の内面に真摯に向き合う前に、身に起こっていることを他人や環境のせいにしたり、「これが運命だから」となどと言って諦めたり、はなから変わることは無理だと信じていたりします。そうして、思考や感情に支配された状態で、納得がいかないまま、自分の心の状態がそのまま反映された現実に住み続けることになります。人生とはそういうものだと自分を無理やり納得させて、思考と感情に自分を同化させた人生をこれからも送り続けるか。それとも、思考と感情にとらわれる生き方から脱皮して真の自由と喜びを感じながら生きるか。

 

 

 私は、とらわれのない真の自由を手に入れるには、心を浄化する必要がある、ということには気づいていました。それで、いろいろな本を読んだり、瞑想をしたり、ヒーリングを受けたり、エッセンスを飲んだり、とにかくあれこれと試してみました。こうした行動は、だいぶ私をエネルギー的にクリアーにしてくれたと思います。けれど、それでもまだ私は逃げていました。自分の心に真正面から向き合う決心がつくまで、外側のツールに頼っていたのです。自分以外の誰か、自分以外の何かが、自分を浄化してくれると思い込んでいました。もちろん、ある程度まではしてくれました。でも、本当に本当に自分がクリアーになって、とらわれから自由になるには、自分が一番知りたくない自分の姿、心の中身を、私自身がまずきちんと知る必要があったのです。結局他人や何かのツールに頼ったとしても、それらは自分の中身を見るためのお手伝いをしてくれるに過ぎず、そこからもう一歩踏み出して、本当の自分を知り、解放していく作業は、自分がやるしかないのです。

 

 自分の内面に向き合うことをずっと避けてきたからこそ、ヒーリングツールや、スピリチュアルな指導者などに頼って、それらが何とかしてくれるだろう、私を救ってくれるだろうと考えていたのです。

 

 精神的なグルを追い求めてあちこちのセミナーを転々としたり、物理的なツールに必要以上に頼ったり、師と仰ぐ人がいないと不安になってしまう人は、まだ自分の力を信じられていないか、恐れを手放せていないのかもしれません。もちろん、ツールや指導者は心強いですし、助けとなってくれることもたくさんあります。けれど、それらがメインではありませんし、必要以上に頼りすぎてしまうと、依存や執着を生み出すことにもなります。結局、自分以外の何かに拠り所を置いているうちは、魂の成長はある程度のところでストップしたままだと思います。誰もが、自分と宇宙(神)との絆を直接感じることができる能力を授かっているのですが、他者に依存していては、その感覚がいつまでも鈍ったままです。

 

 

 ちなみに、あれほど長い間怖くて避けていた(自分が怖がっているということにさえ気づかせなかった)、「自分に向き合う」という作業ですが、勇気を出してやってみると、意外と怖いものではなかったことをぜひともお伝えしておきます。それはまったく、拍子抜けしてしまうほどです。実際にやってみると、まったく怖くなどありませんでした。結局、恐れとは未知なるものに対面した時生じる感情なのだと思います。心の中身が未知なるものであるという思い込みを外して、思い切って向き合ってみようと決心してみた瞬間、それは未知なるものではなくなりました。そして、自然と恐れも消えていきました。

 

 私の場合、一つ一つ、目の前にある「問題」と向き合う形で、自分の中にある思い込みやトラウマなどを見つめ、解放していきました。例えば、誰か強烈な個性を持つ人が目の前に現れて、その人との関係性に悩んでいたとしたら、その人のことを避けたり責めたり攻撃的になったりするのではなく、

 

「私の中の何がこの人を引き寄せたのだろう」

「私はこの人との関係性から、何を学ぶことができるのだろう」

「この人は、鏡となって、私に何を見せてくれているのだろう」

「私は、自分の中の何を解放させたら良いのだろう」

 

と自問していきました。真摯な気持ちで、落ち着いた状態で問いかけてみると、何か深いところから応え(気づき)がやってきます。そして、その応えを受け入れ、愛と共に浄化し、解放していきました。

 

また、子供や友人や外で見かけた誰かの言動に対して、感情が大きく動いたときにも、同じように、

 

「私の中の何がこの感情を引き起こしているのだろう」

「私の中のどんな思いが反応しているのだろう」

「この人の言動は、私の何を鏡として見せてくれているのだろう」

 

といった問いかけをしていきました。

 

 本当に地道な作業ですが、一つ一つ、何か”問題”が生じる度に、真摯に向き合いました。そして、どんどん解放していきました。

 

 

そして、どんどんどんどん心が楽に、軽くなっていきました。

 

 

2016年

7月

21日

恐れからの解放~その①

 最近、引き寄せの法則もだいぶ世の中に広く周知されてきて、多くの方が自分の内面が外側に反映されているという事実に気づいてきているようです。

 

 それでもまだ、そこに気づいているにも関わらず、いざ自分の身にゆゆしき事態が降りかかった時、やはり「〇〇が悪い、自分は悪くない」という発想になって、誰か他の人を責めたり、文句を言ったり、状況のせいにしたりというパターンに陥っていらっしゃる方をよくみかけます。

 

 私も、引き寄せの法則、波長の法則を頭で理解してからも、しばらくこのパターンからなかなか抜け出せずにいました。

 

 それは、人間の中に根本的にある、大きな「恐れ」の影響を強く受けていたからだと思います。その恐れとは、

 

『自分が変わることへの恐れ』

 

『自分が完璧ではないということを認める恐れ』

(*人間の本質は完璧ですが、この世に顕現している姿は、まだまだエゴの虜になっているという事実)

 

そして何より大きいのが、

 

『自分の心の中を知ることへの恐れ』

 

です。

 

 人は他人のことは手に取るように心の中まで見抜くことができても、自分のこととなるとさっぱりわからなくなったりします。それは、実は見えていないのではなくて、「見ないようにしている」からだったりします。知りたくないのです。認めるのが怖いのです。

 

 現状に不満があっても、その原因が自分の内面にあると認めるくらいなら、他人を責めていた方が幾分か楽だったりします。変わるためには大きなエネルギーがいるので、その勇気がないうちは、「このままで良い」「変われっこない」といったエゴの声を聞いてしまったりします。また、敢えて自分にとって耳障りの良いことを言う人の言葉だけを取り入れたりします。

 

 

 私がまず最初に取り組んだのは(10年近く前の話です)、自分が「変わろう!」と強く決心したことでした。その時の私は、自分が大嫌いで、世の中が嫌で、いろんな事から逃れたくて、不満だらけでした。けれどそんな心の状態にもほとほと嫌気がさしていました。いい加減、グチグチと文句を言ったり、世の中で上手くいっている(ように見える)人を羨んだり、自分はダメな人間だと卑下したり、といった状況から抜け出したかったのです。そこである時、自分は変わろう、変われるんだ、と強く意思決定をしてみました。とりあえず、心の中で叫んでみました。

 

 

 強く決心した辺りから、何かが変わり始めました。大々的にすぐに変化が起こったわけではありませんでしたが、少しずつ、サポートのようなものがやってくるようになりました。それは本だったり、気づきだったり、人だったり、チャンスだったり、お金だったりもしました。その時の私に必要なものや情報が、ちょうど良いタイミングでやってきました。なんだかわからないけれど導かれるようにして、学んだり、出かけたり、挑戦してみることにしました。

 1つの学びが終わると、また別の扉が開いて、新たな学びが始まる、そんな流れでした。(その流れは今でも続いています)

 

 学びの過程で、様々な意識改革が起こっていきました。とにかくいろんな所から情報がやってくるのですが、最初の頃は、情報をただインプットするだけで、腑に落ちる所まで理解するのはもっと後になってからでした。

 

 それは私の中に、例の「恐れ」がまだまだ大きく居座っていたからです。

 

自分が完璧ではないということを認める恐れ』。

 

 これがかなり手ごわかったです。当然どこかでは、自分がまだまだ魂の成長過程にいて、学ぶことがたくさんあって、未熟な存在だ(そして学び成長するためにこの世にやってきた)ということは知ってはいるのですが、それを完全に受け入れるには、謙虚であり続けなければいけません。私にはこの謙虚さが足りていませんでした。どこかで、自分は特別な存在だ、自分は他と違う、と思っていたかったのです。また、そのような甘い言葉をささやく人もいました。そういう人の言葉を信じさせるのは、エゴのなせるわざです。

 

 自己啓発系のセミナーなどに行くと、この「自分は特別だ」という思いに支配されている人が驚く程多いことに気づかされます。自分が「選ばれし者」だと思う自己陶酔や、自意識過剰はエゴが肥大化している証拠です。人が意識の覚醒が始まってすぐの段階では、このエゴの虜になりがちなのかもしれません。中には、自分がスピリチュアルな指導者だと勘違いしている、エゴに取りつかれた「先生」もいました。肩書きや財産、権力、知名度、物理的な能力、見た目、儲けなどに固執しているようだったら、まだまだエゴの強い影響下にいるといえます。また、自分の思想を他人(”弟子”)に押し付けたり、徐々に洗脳していき自分の支配下に置く行為もまた、エゴです。真の覚者は、真理を教え広めようとはしますが、それを聞いた人がどうとらえようと気にしませんし、他人が変わろうが変わるまいが、結果や反応には頓着しません。賞賛や報酬も期待しません。受け取ることはあるかもしれませんが、少なくとも賞賛や報酬が目当てでやっているのではなく、奉仕の心が先にきています。

 

 自我意識をできるだけそぎ落として、エゴの支配から逃れることこそが、真の覚醒道なのだなと気づいた辺りで、私はいい加減自分が「完璧」ではないことを認め、謙虚になろうと決心しました。

 

 案外、恐れというのは、一度認めてしまえば後はさほど怖くないものです。なんと皮肉なことに、私はずっと、恐れから逃れることを恐れていただけで、恐れていたことそのものは、実は「怖く」はなかったのです。恐れとは、向き合うのが怖いからそこに在り続けるのであって、正面から向き合ってみると、意外と怖くないものなのです。それどころか、かつて自分が恐れていたことから解放されていくのは、自由を得ていく過程でもありました。自分の中から恐れがなくなっていくのは、何とも心地が良く、私はどんどん楽に、そして軽くなっていきました。

 

 

2016年

7月

05日

前世考

 物心ついた頃から、今の肉体は仮住まいであるという感覚がありました。今回の生が終わったとしても、魂が消滅するわけではない。と同時に、今回の生以前にも、私は過去に別の人間として別の場所で生きていたことがある。そういったことも感じていました。

 

 大人になって、スピリチュアルな世界への探求が進んでくると、その感覚は尚更強いものとなっていきました。そういった方々に共通する感覚なのかもしれませんが、私も「前世」に強い関心があった時期があります。

 何となく、自分で「過去にこういう人生を生きていたことがある」といった感覚があったり、夢やビジョンで前世かなと思われる光景を見ることがあったりはしましたが、もっと詳しく、たくさん知りたいと思っていました。

 

 そんな風に思っていたある日、自称前世が見えるという方に、「あなたは過去に~という人生を送っていたことがありますね」と言われたことがありました。確かに言われてみれば自分でもそのような感じがしないでもないな、という内容でした。そしてまた別の日に、霊感があるという別の人からも同じようなことを言われたのです。

 

 その時私が感じたのは、「ふーん・・」という感覚でした。自分で思っていたより、トキメキも驚きもしませんでした。

 

 そもそも、その方々が言っていることが真実かどうかなんて確かめようがありませんし、極端な話、口から出まかせを言っている可能性だってあります。もしくは、確かにその人達の脳内ではそのようなビジョンが見えたのかもしれませんが、それだって、その人が自分の感覚の世界で作り上げ、映し出して見ているだけであって、真実かどうかなんて誰にもわかりません。

 私は別にその人達の言っていることを信じなかったわけではないのですが、その時に、「たとえその話が本当だとしても、それがなんなのだろう」と拍子抜けしてしまったのが事実です。実際、"So what?"だったのです。

 

 その時に言われた前世の生き方は、確かに今の人生とリンクしている部分がありました。おそらく私は、その時の人生でやり残したこと、後悔している部分、物足りなかったことなどを埋めるために、今世生きている面もあるのでしょう。それは何となくわかります。

 けれどそんなことを言ったら、その前の人生からも私はおそらくやり残したことを引き継いできているはずで、更にその前の人生からも、その前からも・・と数えきれない程の人生で得た経験と課題を背負ってきているわけです。連綿と積み重なってきた数々の人生における膨大な時間と学びと関係性が、複雑に絡み合って今の人生に事象として表れてきていると思います。前世1つをとって、更にその一場面だけを切り取ってみたとしても、今の人生の全体像が分かるほどの情報にはならないどころか、1つの側面に縛られて偏見と執着を生み出しかねません。

 私はこれまで、自分の前世が〇〇だった、と知名度の高い歴史上の人物の名前を挙げて自慢してくる方に何度かお会いしたことがありますが、そのようなことを口に出して言っている時点で虚栄心と驕りがある証拠だし、そもそも本当にエゴの影響下にない程進化した魂の持ち主であれば、自分の前世を含む過去に全く縛られていないでしょうから、過去世での自分の姿にも執着がないはずなのです。

 

 前世から引きずる課題が今世でも表面化し、今現在の悩みとして向き合うということはよくあることです。けれどそんな場合でも、焦点を当てるべきは「今」であると思います。過去の人生からどんなものを受け継いできたとしても、それら全てが集結しているのが今の姿です。今の自分は、過去の人生全ての総決算なわけです。過去世に縛られて今目の前に広がる現実を見ないようにしても、問題を先延ばしにするだけで、何の解決にもなりません。ましてや、前世として作り上げた姿(幻)に引っ張られ、本当の私は別のどこかにいるように思って今の自分から逃避していては、魂の成長は得られないままでしょう。

 現実に向き合う=己に向き合う、ということです。前世という言葉からも、なんだかロマンチックでワクワクするような響きが感じられますし、惹きつけられるのもわかります。かつての私もそうでした。けれど、だからこそ自分が今向き合うべき現実から遠ざける逃げの手段にもなり得ると思います。

 前世を否定するわけでも考えてはいけないと思っているわけでもありません。ただ、あまりそちらに引っ張られてしまうと、地に足が着かない考えになったり、今の自分や今の人生、現実生活のことが疎かになってしまう危うさも秘めているようにも思います。

 

 

2016年

7月

04日

自分の直観とインスピレーションで生きていく時代

 何年か前のこと。ある時突然、私は自動書記というものがでるようになっていました。パソコンの前に座ると勝手に手が動き、キーボードを次々とたたくのです。自分の知らない知識や、知らない情報が次から次へとやってきました。初めは驚きましたし気味が悪いとも感じましたが、その時自分が知りたい情報を訪ねるとその答えが返ってきたりしていましたので、単純に便利だなと思いましたし、そんな状況を愉しんでもいました。霊的なガイドやスピリットたちと繋がって、そうした存在達が色々な事を教えてくれていたようです。元々見えない世界に対する興味がとても強かったこともあり、私はようやくこれで自分が”見えない世界”と繋がることができたのだ、と嬉しくもありました。

 

 ところが、しばらくすると、キーボードをたたく手の動きが次第に鈍るようになっていきました。何も考えなくとも勝手に手が動いていたのに、だんだん重たく感じるようになり、終いには無理やり自分で動かしているような感覚になっていきました。そして、打ち込む文章の内容も、なんだか気味が悪いものになっていき、私は「あ、これはもう終わりにする時だな」と察しました。

 

 

あれは一体なんだったんだろう、とずっと考えていました。

 

 今、こうして文章を打っている時は、何となく頭に浮かんでくる言葉を文章にまとめているという感じなのですが、自動書記とは違って、自分の意思がそこにはあります。毎回何となく「こういうことを書こうかなー」という考えが先にあって、パソコンの前に座ると、そのことに関する言葉が次々と浮かんできます。それをそのまま書き起こしています。頭はどちらかというと空っぽにしていた方が、言葉が浮かんできます。自動書記やチャネリングというものとは違うのかもしれませんが、完全に「私」の言葉かというと、そうでもないような気がします。

 自分自身の経験を書くこともありますが、どこかからやってくる情報や言葉を受け取ってそれを書き起こしている、ということも多いです。そんな時「私」は、ただ媒体になっているだけのような感じがします。

 

 セッションをしている時も、最近はどちらかというと頭でいろいろと考えるのをやめて、パッと浮かんできた言葉をそのままお伝えすることが多くなりました。その方が、お客様の反応も大きいように感じます。頭で考えて出した答えより、潜在意識にスコーンと入っていくようです。

 

 セッションに限らず、日常生活を送る中でも、例えば今日の献立は何にしようかとか、どのお店で買い物をしようとか、どの本を読もうとか、そういった一つ一つの小さな選択を行う際にも、最近は頭で考えるのではなく、パッと浮かんだ直観や、「なんとなくこっちだな」といった勘に頼ることが多くなりました。そのようにした方が、結果的に満足のいく結果になることがわかったからです。

 きっと、潜在意識で受け取った答えの方が、私が本質的に必要としている情報により近いのだろうと思います。また、リラックスしている時やボーっとしている時に多いのですが、「ポンッ」と閃き(インスピレーション)がやってくることがあります。それは、ずっと私が知りたかった情報であることもありますし、なぜ今その情報が来たのだろう、と疑問に思う内容であることもあります。けれど、しばらくすると、その時にやってきた情報が今の私にとって必要な情報だったのだなということがわかるようになります。

 あれこれと頭で答えを導こうとするよりも、ベストなタイミングでベストな情報はやってくるものだと信じて、あとは宇宙の采配に身を委ねていた方が何事もうまくいく、と最近は確信しています。

 

 しばらく前までは、いわゆるチャネリング本などを読み漁っていた時期がありましたが、そうした本とも最近は少し距離をおくようになってきました。また、霊能力があると称する人の言葉にも、さほど興味が湧かなくなってきました。そういった他者の口を介して発せられる言葉よりも、私の中にダイレクトに飛び込んでくる、直観やインスピレーションの方が、より私の本質が必要としている答えに近いことがわかってきたからです。

 私達には、宇宙と直接繋がることができる能力が本来備わっているのですから、誰かの手を借りなくても、必要な情報は全て受け取ることができると思います。チャネラーやチャネリング本などの知識も役に立つことはあるのですが、あまり他者に頼り過ぎてしまうと、私達がせっかく持っている、自分で宇宙と直接繋がる能力が鈍ってしまうのではないかとも思います。

 

 これからは、何かの媒体に頼るのではなくて、私達一人一人が、宇宙とのパイプを強くしていく時代になっていくようです。意識が覚醒していく過程においては、他者の力を借りることも必要なのかもしれませんが、あるところまできたら、あとはもう自分が直接繋がる力を磨いていく段階に入っていくのでしょう。

 

 自動書記をしていた一時期よりも、今の私の方が、より宇宙とのパイプの強さを感じています。あの時のあの体験は、もしかしたらそのことを私が学ぶためのものだったのかもしれません。

 

2016年

6月

16日

エゴか、愛か

 世の中では様々な人々の栄枯盛衰が取り沙汰されていますが、見ていると宇宙の根本原理はどんな人に対しても例外なく働いているのだなあ、と思います。

 人が行動を起こす時、大元の動機が我欲(エゴ)からきているものなのか、そうではなく他者を喜ばせたいという奉仕の心からきているものなのかというところで、行きつく先の明暗が分かれているように感じます。

 

 個人的な欲求を満たすため、すごい人だと賞賛されたいため、贅を味わいたいため、人を羨ましがらせたいため、・・こうした自我の欲望に基づいて動いていると、途中で上手くいかなくなって計画が頓挫してしまったり、それなりの成果しか得られないまま終わったり、ある程度までは望み通りにいったとしても最後の最後で大きな痛手をくらうことになるなど、結局は心の底からの満足感が得られない結果に終わってしまうようです。

 反対に、無償の心で、周りの人々を喜ばせたい、誰かの役に立ちたい、困っている人を助けたいといった動機で動いていると、さして苦労もないまま導かれるように道が拓け、多方面からサポートがやってきたり、思いもよらぬところから金銭的な援助が舞い込んで来たりして、まるで自分が何かの力で動かされているような感覚を味わうことができます。

 

 それはやはり、この宇宙の本質は愛なので、その純粋な愛に近ければ近いほど、宇宙のパワーの恩恵をより多く享受することができるからだと思います。我欲は愛のエネルギーを濁すものなので、我欲が強い人はその分純粋な愛(宇宙)エネルギーを受け取ることができません。

 我欲まみれの人が一時的にこの世の春を享受しているからといって、その状態がそのまま続くとは限りません。天は、ある程度まで成功させて、一見うまくいったように思わせておいて突然ドーンと奈落の底に落とすようなこともするのです。そうすることがその人の目を覚まさせるために最も有効な時は、そのようになります。ですから、あの人はあんなに自我の欲望を満たしているのに何もかもうまくいっていて不公平だ、と思う必要はありません。結果として自分が蒔いた種はどこかで必ず刈り取ることになっているので、今は良くても、後になって我欲に基づいた数々の行為の結果を受け取るはずです。それは宇宙の法なので、例外はありません。宇宙は完璧に公平にできています。

 

 

 自分の中のエゴをどれだけ削って心をきれいにしていくか、難しいけれどそれが一番の幸福の道なのだなと思います。

2016年

6月

06日

喧嘩には愛

 先日、オバマ大統領が広島を訪問し、原爆慰霊碑に献花をしました。献花・・花を捧げる。この行為が、どんなスピーチよりもどんなパフォーマンスよりも、”想い”が伝わるメッセージになるのだなあ、と見ていて感じました。 

 

 考えてみても、自分が誰かに花を贈りたいと思う時は、その相手に何かしら自分の気持ちを伝えたい時ですし、反対に好きではない相手に花を贈ろうと考えることはまずありません。

 そして、人から花をもらった時はとても特別な感じがしますし、他の贈り物にはない何かがそこにはあります。花には本当に、癒しと愛のパワーが秘められているのだなと思います。

 

 オバマさんが、被爆者の方と対話をし、その後優しく抱擁する姿が印象的でした。敵対する関係性がほぐされていくのは、こういう時なのではないかと思いました。お互いがいがみ合って、相手が悪い、自分は悪くない、と突っぱねているだけでは、関係が悪化することはあっても、良くなることはないものです。子供のケンカでもそうです。お互いを責めているうちは感情が治まらず、憎しみだけが増強されていきます。

 相手に歩み寄って、憎しみの気持ちを一度脇に置き、「あなたと良い関係を築きたいです」というメッセージを送ることで、相手にもその想いが伝わり、頑なな心がほぐれていくのだと思います。

 

 環境を良い場所にするのも愛だし、人との関係を良くするのも愛。国と国との関係を良くするのもやはり愛なのではないかと思います。相手を責めているうちは良い関係は築けないので、今回少しでも歩み寄れて良かったなと思います。

 

 オバマさんは愛の力を知っている方なのだろうなと感じました。

2016年

6月

03日

学校嫌いだった私の後悔

 先週末は、子供の学校の運動会でした。娘にとっては最後の運動会。学校大好きの娘は、特別感慨深いものがあるようで、メインの組体操に向けて毎日倒立などの練習を頑張っていました。来てくれた人達が感動するような組体操にしたい、といって。

 そういった姿勢を見ていると、学校嫌いで学校行事にも真剣に参加してこなかった自分の小学生時代との違いをつくづく感じます。運動会など、「なんでこんなことやらなければならないの」とふてくされながら参加していたように思います。

 そもそもなぜ学校が嫌いだったかというと、人から何かをやりなさいとか、強制的にさせられることに抵抗があったからでした。それから、学校の先生の言っていることが全部正しいとは思えないのに、ただ先生というだけで素直に従わなければいけないことにも納得がいきませんでした。

 そんなわけで、入学当初から学校と言うものに息苦しさを感じ、どんどん嫌いになり、どんどんふてくされて、反抗的になっていったのでした。ただ勉強自体は嫌いではなかったというかむしろ好きでしたし、表だって反抗するようなこともあまりしませんでしたから、一見真面目な生徒ではあったかもしれません。けれど心の中では常に、学校という組織と先生という存在に、不信感と嫌悪感が渦巻いていました。

 

 今思えば、私がそんな思いを抱いていたからこそ、私の中から「学校嫌い」という波長が放出され、ますます「嫌だな」と思うような事象を呼び寄せていたのかもしれません。先生との相性もあまりよくありませんでしたし、周囲とのいざこざもしょっちゅうありました。小学校生活で、楽しかったなという記憶はほとんどありません。

 

 そのように考えるようになったのは、娘が心から楽しそうに学校生活を送っている姿を見てからです。入学前から「早く学校に行きたい」と学校生活に憧れを抱き、入学を指折り数えてワクワクしている娘を見て、私はひそかに、「あんなふうに今は楽しみにしていても、実際学校に入ったら実はさほど楽しくない現実に遭遇してがっかりするのではないだろうか」などと考えていました。けれど、いざ学校生活が始まってみると、全くその逆でした。娘の「学校好き!」「学校楽しい!」という内面の状態がそのまま現象化したようで、素晴らしい先生、仲間、行事、出来事、etc..に恵まれ、本当に楽しいをキープしたまま最終学年を迎えるところまできたのです。

 

 そんな風に生き生きと学校生活を送る娘の姿に感化され、私も次第に「学校」に対する不信感や自身のトラウマが薄れていきました。大人になってから学校の先生に接してみると、自分の中にあった”怖い”とか”権威的”といったイメージが必ずしも全ての先生に当てはまるわけでもないということに気づき、むしろ先生という職業が尊く思え、感謝の念が湧いてくるようになりました。

 もし私が、最初から「学校大好き」「学校ありがとう!」という気持ちで過ごしていたら、現実もきっと変わっていたに違いありません。そのように思えなかった自分が今となっては悔やまれますが、何かそこにも意味があったのでしょう。

 

 どんな組織にいても、どんな環境下にいても、自分がその場所を愛して、感謝の気持ちを心から抱いていれば、その場所が輝き、自分にとって最高の場所になるのだろうと思います。どんな国のどんな街に住んでいても、どんな家に住んでいても、同じことが言えるのかもしれません。

 今自分がいる場所に不満を感じながら過ごしているのと、愛と感謝の気持ちを抱きながら過ごしているのとでは、現実が変わってくるのでしょう。

2016年

5月

24日

心と体を繋ぐヨガ

 ヨガをするようになってから、「体の声」が聴きやすくなってきたように思います。

 ヨガという名前は元々、「軛(くびき)」(馬車でいう馬と荷台を結ぶ横木)の語源からきており、『心と体を繋ぐもの』といった意味合いがあります。その名の通り、ヨガをやっていると、体だけでなく自然と心も落ち着いてくるようになり、何か体と心のパイプが太くなっていくような、そんな感覚があります。本当に心と体は繋がっているのだなあ、と強く感じます。

 

 ヨガをやっていると、自然と体の深層に意識がいくようになります。今日の自分の体調はどうか、とか、体のどの部分が柔らかくて、どこが凝り固まっているのか、とか、内臓の調子はどうかとか、普通に生活していると気づきにくいことに気づきます。また、ただ体を動かすだけではなく、「気」の流れまで意識して行うと、体の中を流れるエネルギーの循環もよくなるようです。

 そのような風にしてヨガを続けてきたら、体のちょっとした不調にも、今まで以上に敏感に気づくようになりました。例えば、一昔前だったら、「お腹が痛い」という漠然とした不調があった時、それが具体的にどの臓器(胃、小腸、大腸、etc...)が発している痛みで、何が原因なのか、ということまではなかなかわからず、ただ胃腸薬を飲んでおしまい、ということが多かったです。それが、体の声をよく聴くようになった今では、大体何が原因で、どの臓器が悲鳴を上げているのかが何となくわかるのです。さっき食べた〇〇が原因で腸にウイルスがはびこっているんだなとか、大腸がやや詰まり気味だなとか、胃が荒れている、肝臓が疲れていてるとか、そういったことが自然と感じられます。具体的な不調がわかると、ピンポイントで対処することができるので、治りも早くなります。大体の場合は、ハーブやホメオパシー、食餌療法で治します。

 

 

 また、ヨガで体を動かしていると、溜めていた感情が湧き出てくることがあります。体を曲げたり伸ばしたり、ねじったりしているうちに、体の中に溜まっていた感情が放出されるようです。大きく呼吸しながらゆっくりとヨガを行うことで、体の隅々がほぐれていき、それと共に、しがみついていた古い感情や想念が浄化されていくのだと思います。心と体は繋がっているので、どちらかがほぐれると、もう片方もほぐれるのです。

 最近は、「トラウマ解消ヨガ」といったプログラムもあるようで、トラウマの解放の1つの手段として、ヨガが取り入れられているのが興味深いです。

2016年

5月

23日

ヨガで腰痛がなくなる

 一週間ほど前、朝起きたら腰に激痛が走りました。なんとなくその数日前辺りから、腰に軽い痛みがあり、少し骨がずれているのかな?とは感じていました。そのような状態の時に、寝ていた姿勢がよくなかったようで、骨のずれが広がってしまい、痛みとなって表に出てきたのでした。

 

 腰を曲げるのはもちろんのこと、頭を動かしたり腕を上に上げただけでも思わずうなってしまう程の痛さです。しばらくは生活に支障が出ることを覚悟しました。

 

 普通なら(というか今までの私の感覚では)、このような状態になった時、できるだけ体を動かさずに安静にするところなのでしょうが、私はふと、「ヨガをやってみよう」と思いました。普段からヨガはしているのですが、こういう時にも、リハビリとしてやってみる方が良いのではないかと思ったのです。

 

 恐る恐るやってみると、前屈などの動きだと強烈な痛みを感じるのですが、「猫のポーズ」のような腰を反らす動きはむしろ痛みが減ることがわかりました。また、いろいろなポーズを試していくうちに、どの動きの時にどのように腰の骨が使われるのかということが、普段よりも明確に感じ取れました。痛みが教えてくれる感じです。

 

 痛みが強い動きはそれ以上しないように気を付けながら、いつもの流れでヨガを一通り終えた後、腰の痛みがかなり軽減していて驚きました。私は、この腰痛はヨガで治る、と直観で思いました。日常の動きも、特別制限することなく、普段通りに生活を続けました。ある程度体を動かしていた方が、体のバランスが元に戻っていくスピードが上がることを確信したからです。

 それから毎日、痛みと向き合う形でヨガを続けた所、日に日に腰の調子が良くなっていき、最初に激痛を感じた日から約1週間たった今は、日常ではほとんど痛みを感じない程度にまで回復しました。(激しい前屈などをすると、まだ少し痛みがあります)

 

 ヨガは内底筋が鍛えられるので、骨を支えている組織が強化され、骨格に異常が出た時でも、体を元に戻す力が強くなります。人間の体は、何もしなくてもバランスを取り戻そうという力が働くものですが、今回は適度に体を動かしたことで、その力が増幅されたようです。

2016年

4月

21日

夢や目標がなくても

 子どもの頃、よく「大きくなったら何になりたいの?」という質問をされていました。また、学校の文集などにも必ず「将来の夢」を書く欄がありました。そんな時、私はいつも戸惑っていました。なりたい職業など漠然としたものはありましたが、果たして自分が「何になりたいのか」と改めて聞かれると、一体自分は「何」になりたいのだろうか、とわからなくなってしまったのです。

 

 それは、今でも同じであるように思います。一体私は「何」になりたいのだろうか。「夢」はなんなのだろう。

 

 少し前までは、具体的なビジョンを持って、「それ」になることを目標にし、「そこ」に向かって一生懸命努力することが、私のなすべきことなのかと考えていました。具体的な仕事に就いて、具体的な売り上げや規模の拡大を目指して、より多くの人に認知されるような、影響力を高めていくことが人生の目的のように思っていました。

 元々目標を定めたら一直線に進む、がむしゃら気質なこともあって、一つ一つのことに最大限の力を注いで突き詰めていかなければ、やる意味がないとすら考えていました。

 

 けれど、次第にそんな風にして「何か」を目指してひたすら頑張るだけが、この世に生きる本当の目的なのだろうか、と疑問が湧いてくるようになってきました。そうした疑問は、振り返ってみれば子供時代からずっと抱き続けていました。けれど、周りに影響されたり、大人になるにつれ自分の中の虚栄心が育っていく過程で、いつの間にか「生きる」という本質を忘れかけていたのでした。

 このまま具体的な「何か」になることだけを目指して生きていっても、きっと自分は本当の意味で幸せになることができないだろうな。そんな思いが大きくなっていきました。

 

 学生時代ずっと仲良くしていた友人が、社会人になってしばらくしてから、大病を患って実家に帰ることになりました。彼女なりに精一杯病と闘って、驚くほどの生命力で、何年も頑張り通しました。どんな時でも弱音を吐かずに明るく振る舞っていた彼女が、一度だけ、私に「つらい」というメッセージを送ってきたことがありました。「私は何のために生きているんだと思う?教えて」と言われた時、私は何と答えたら良いのかわからなかったけれど、「私にとって、〇〇ちゃんが生きているだけで嬉しい。自分がこうなりたい、と考えていた人生と違う人生になったかもしれないけど、私はそのことで〇〇ちゃんが変わったとは思わないよ。〇〇ちゃんは自分のことをもっと愛してあげてほしい」と伝えました。

 本当のそのように思っていました。学生時代のはつらつとした姿、社会人になってバリバリ働く姿、病気になって休んでいる姿・・繰り返し受けた手術の影響もあって、見た目も変わったけれど、私の中では、彼女の本質の部分は何一つ変わっていませんでした。

 

 私は、その人がどのような生き方をしていようと、何をやっていようと、どんな姿形であろうと、その人の本質の部分はずっと同じだと思っています。

 

 世の中では、何か目に見える形で大きな仕事を成し遂げた人や、記録を達成した人、影響力を持つ人ばかりが賞賛され、そうではない人達がまるで負け組であるかのように捉えられている気がします。本人達もそのように考えているから、具体的に大きなことを成し遂げていない自分がまるで役立たずのように思えたり、「すごい人たち」に比べて大したことのない人間のように思えてしまうのです。実際には、「すごい人」も「大したことない人」もいないはずなのに。

 ただ「生きる」だけでいいのではないでしょうか。どんな風に生きるのか、それは個々人の完全な自由だし、縛られる必要もないし、誰にも責められることではありません。やりたいことがあったらやればいいし、やりたくないことはやらなければいいし(やってもいいけれど)、失敗してもいいし、目標を立てても立てなくてもいいし、仕事をしてもしなくてもいいし、勉強してもしなくてもいいし、大金を稼いでも稼がなくてもいいし、何でもいいんだと思います。

 

 自分が「何か」になろうとしている時は、つらかったです。なぜなら、その時はまだその「何か」になっていないわけで、今の自分は未完成でダメな状態だと思っていたからです。具体的な夢や目標を持つことは、ワクワクしたり、生きる気力や活力につながることではあるけれど、そこに縛られてしまうと、今の自分や、そうならなかった時の自分を好きになることが難しくなってしまいます。こうなりたいと思っていた自分になれなかったとしても、それはそれで全然問題なし、そんな自分も人生も全部アリです。

 

 何でも、必要以上に縛られると苦しめられることになるのだなあと思います。「夢」や「希望」といったポジティブな言葉でも、そうなることがあるのですから。たとえそれが良いことと思われていることでも、執着になってしまうと苦が生まれるのだと思います。

2016年

4月

18日

「こうあるべき」から自由になる

 「苦しみ」とはどんな時に感じるのでしょうか。

 

 それは、今の状況が、自分が「こうあるべき」と考えているものとは異なっている時に強く感じるものではないかと思います。 

 

 いろんな方のお悩みを聞いていると、『本当は自分はこうありたいのに、こうあるべきなのに、そうではない』というシチュエーションに苦しみを感じていらっしゃることが多いようです。また、自分の身近な人や周りの人たちが、『こうあってほしいのに、そうではない』という時にも、ネガティブな感情が湧きおこってきて、苦しむようです。

 

 ということは、そもそも「こうあるべき」がなかったら、苦しみを感じることはなくなるのではないでしょうか。

 

 全くそれがなくなるのは難しいかもしれませんが、少なくとも、あらゆることに関して、「こうあるべき」「ああでなければいけない」といった固定観念でいっぱいの状態よりは、より多くの事柄に関して「これでいいんだ」と認めることができていた方が、そのままの状況を受け入れられるので、心が苦しむことはないと思います。批判的な思いを抱くことがなくなると、ネガティブな感情に支配されることもなくなり、自分に対しても、他人に対しても優しくなれます。

 

 

 では、どうやったら「こうあるべき」という思いがなくなるのかというと、それは一つ一つ、自分の内面にある固定観念を見つけ出しては手放していくしかないのではないかと思います。いきなり聖人のような境地を目指すのではなくて(それをやってしまうと、できていない自分にまた苦しむことになります)、少しずつ、自分を浄化していくのです。

 自分を苦しめている思い込みに気づくためには、感情や思考で頭がゴチャゴチャしていては難しいので、時々リラックスした状態で自分を見つめ直すことが大切になってきます。誰かと話したり、瞑想をしたり、お風呂に入ってリラックスしたり、自然の中をお散歩してみたり、ただボーっとしてみたり。副交感神経がオンになっている時の方が、ひらめきや内なる心と繋がりやすくなります。

 

 今、様々な事件や災害などのニュースが目に入ってきますが、こうしたニュースを見聞きした時も、「こうあるべき」という固定観念を抱いたままですと、「ひどい、なんでこんなことが起こるんだろう」とか、「許せない」といった憤りや怒りなどの感情が大きく湧いてくると思います。人間なので当然そうした感情は抱くと思いますが、いつまでもそれに支配されてネガティブな精神状態が続くと苦しくなります。

 もし、「こうあるべき」という感覚で見ることがなかったら、起こったことをそのまま受け入れることができますので、否定的な感情に襲われることなく、冷静さを保つことができます。感情に支配された状態ではなく、理性で捉えることができるので、物事を客観的に眺め、自分がそこから何を学ぶことができるのか、そうならないためにはどうしたら良いのか、今自分にできる最良のことは何なのか、といったことを冷静に考えることができます。何か問題が起こった時、感情的になることで余計状況が悪くなることはあっても、事が上手く進むことはほとんどないのではないでしょうか。

 

 

 誰にでも多かれ少なかれ、「こうあるべき」「こうでなければいけない」といった思い込みはあるものです。成長の過程で様々な人や情報から受けた影響もあるでしょうし、過去の経験からそのような価値観になっていったこともあるでしょう。 

 けれど、そうした固定観念にがんじがらめになっている間は、心の平安は訪れないままだと思います。なぜなら、自分という存在、他人、そして世の中というものは、頭の中で「こうあるべき」と考えているようになど絶対にならないからです。

 

 一度、「こうあるべき」「こうでなければならない」という自分を縛っている観念を全て取っ払ってみると、とても楽になれると思います。私もまだまだ浄化の過程にいますし、日々葛藤だらけですが、自分の内面に意識的になろうと決めてから、だいぶ心の中がスッキリしてきました。以前は気になって仕方がなかった他人のことや、人の目線など、かなり気にしなくなりました(少しは気にしますが、ものすごく気にしていた以前と比べると、だいぶ減りました)。また、世の常識とされる考え方にもずっと縛られて生きてきましたが、そうしたことからも解放されて心が軽くなりました。社会にはびこる感情的な想念の影響を受けなくなってきたのです。また、びっくりするような人に出会っても前ほど動揺しなくなりましたし、自分の価値観と異なる生き方をする人を批判的に見ることもなくなってきました。

 自分を縛っているのは、周りでも環境でもなんでもなく、自分の内側にある「こうあるべき」という固定観念でしかないのだな、と思います。本当は、誰でも意思の力で、自由になれるのです。

2016年

3月

28日

必要なものは必要な時にもたらされる

 私が波動療法や肉体次元を超えた”魂”の世界に興味を持つようになったのは、今から7~8年くらい前のことです。

 

 何がきっかけでそちらの世界にひっぱられるようになったのかというと、ハッキリとしたきっかけがあったというよりも、少しずつそうした分野に触れる機会が増えていき、自然と意識が変わっていったように思います。その頃私は、ただ漠然と生きているより、私が今この生を生きている意味や、この世の仕組みや宇宙の真理を理解したい、と思っていました。この世はなぜ存在するのか、「私」という存在はどこから来たのか、古今東西あらゆる宗教が言っている「神」という存在はいったい何なのか。こうした疑問の答えとなる「真理」を知りたい、と強く願うようになっていきました。

 

 

 ある時私は、ハッキリとした明確な”音”として、『ウパニシャット』という言葉が脳裏に響き渡るの体験をしました。高校の倫理の授業で習って以来ずっと忘れていた古い言葉が、なぜ今突然頭に浮かんできたのだろう、と最初は不思議でしたが、そうしたことはよくあることなので、さして気にも留めずにいました。しかし「ウパニシャット」という言葉は私の脳裏に何度も連呼して響き渡り、あまりのしつこさに「もうわかりました!ウパニシャットを調べればいいんですね!」と誰だかわからないけれどその言葉を投げかけてくる”存在”に向かって脳内で叫んでいました。何日か後にようやく図書館で「ウパニシャット哲学」の本を見つけて借りてくるまで、「ウパニシャット」という言葉は私の頭の中でずっと鳴り響いていました。

 

 それはとても古びた本でした。図書館の隅っこに、ひっそりと置かれていました。「ウパニシャット」というのは、インドに大昔(紀元前1500年前位ともそれ以前ともいわれる)から伝わる「ヴェーダ」という文献の一部の名称で、それ自体がいつ書かれたものなのかもハッキリとしたことはわかっていません。そもそも文献として記された時期がいつかということがわかったとしても、その思想自体はもっと昔から存在していた可能性もあります。ヴェーダの教えはヨガ行者たちの間で伝承として語り継がれてきたとも言われ、教えの発祥自体は、もしかしたら気の遠くなるくらい昔のことなのかもしれません。

 

 高校の倫理の授業では、ウパニシャット哲学を深く読み込むことはせず、ただ体系的な知識や言葉を学んだだけでした。当時の私は、そこに出てくる「アートマン」やら「ブラフマン」といった不思議な響きの言葉に興味はあったものの、一体それらの言葉が何を意味するのかよく分からないまま、ただ試験に出てくるからという理由でキーワードをいくつか頭に詰め込んだだけで終わっていました。

 

 大人になり、人間の肉体とは、精神とは、魂とは・・と個人的探求をある程度続けてから改めて「ウパニシャット」の教えに向き合ってみると、高校生の頃にはチンプンカンプンだった「アートマン」や「ブラフマン」「ニルヴァーナ」といった言葉の意味が、「ああ、こういうことをいっているのかな」という感じでストンと自分の中に落ちていくのがわかりました。その時私が知りたいと強く願っていた宇宙の真理が、この本には書かれているのだ、と思いました。

 

 

 その時をきっかけに、魂の覚醒道を突き進もうと決心した私の元には、次々としかるべき時にしかるべき本がもたらされるようになりました。図書館や本屋でたまたま手に取った本に、まさに今知りたいと思っていたことが書かれていたり、インターネットや知人から聞いた話でピンときた本を取り寄せてみたら、まさにその時の自分にピッタリの内容のものだったり、目についた本から「私を読んで!」と訴えてくるようなオーラを感じたりすることもよくありました。大昔に書かれた本もあれば、最近発行された本、既に絶版となっていた本など、種類も様々でした。中には、以前買っておいていたものの、なぜか読むことなく本棚に置かれたままだったものが、ある時パッと目に入ってきて「あ、今これを読むべきなんだな」と感じたこともありました。またある時は、「今日どうしてもあの本屋さんに行きたい!」という衝動が湧いてきて、行ってみるとやっぱり私が探し求めていた内容の本と出会えたりもしました。

 途中から私はすっかりこうした流れに身を任せる感覚が身についてきて、何も考えることなくても、ベストなタイミングで必要な本が私の手元にやってくるのをゲーム感覚で楽しむようになりました。(今現在もそれは続いています)

 

 「ウパニシャット」の本は、私が生まれるずっと前からこの世にあったのに、長い間私は気づくこともなく、手に取る機会を得ないままでした(高校時代に出会ってはいたものの、その時の私はそれに惹かれなかった)。ある時導かれるようにして読むことになったわけですが、そうした流れにも全て意味があり、その時がまさに”時期”だったのだろうなと思います。

 

 本に書かれた深淵なる教えのおかげで、少しずつ意識が刺激されていった私は、それと並行して実生活でも、様々な出会いや経験がもたらされるようになっていきました。

 

 それに関してはまた次に書こうと思います。

2016年

3月

23日

人を責めたくなったら

 最近のマスコミの報道をみていると、芸能人や有名人で何か「失敗」をしてしまった特定の人物をやり玉にあげ、その人が打ちのめされて再起不可能になるまでとことんバッシングをし続ける傾向があるように思います。1つどこかが取り上げたら、まるで待ってましたと言わんばかりに他のメディアも一斉に報道合戦に参加、その人を意図的に不利な立場に立たせるような、偏った内容の報道を一方的に発信しています。その人を精神的に痛めつけることを目的にしているかのような意地悪な視点を背後に感じますし、「失敗」した人を、視聴者を引き付けるネタとしてしかみていないのだな、とも思います。

 そうした一方的で表面的な報道は、見る側にとっても、いたずらに悪しき感情だけが引き起こされるので、その人の事情やそうなった経緯、裏側にある背景といった、問題の本質が見えにくくなってしまうのではないかと思います。

 

 社会に不調和をもたらす人がいたとしても、その人をひたすら非難するだけでは、問題の根本的な解決にはならないはずです。そもそも、何か「失敗」してしまった時、本人が一番落ち込み、反省し、次は繰り返さないようにしようと気を付けるものではないでしょうか。周りがとやかく責め立てる必要はないように思います。むしろ、強く批判されたことで心が折れてしまったその人から、次につなげるチャンスを奪うことの方が、社会全体にとっても損失ではないかと思うのです。失敗した人を責め立てる人は、その人が反省していることの証として、消沈している姿を見せることを誠意の表れのように感じているのかもしれません。けれど、そのような欲求は個人的なエゴでしかなく、失敗した人にとっても、本質的な改善につながるものでもないと思います。

 失敗をしても内省をするどころか、非難されたことに逆上したり、意地になるなどする人がいたら、その人には何を言っても無駄でしょうから、そもそも非難をするだけ逆効果でしょう。そういう人には、根本的に心を入れ替える環境を提供するか、心の闇を吐き出すお手伝いが必要だと思います。ただ責め続け、怒りをぶつけるだけだったら、ますますその人は心を閉ざし、いたずらに社会に対する増悪を募らせるだけでしょう。

 

 ということから、私はそもそも誰かを必要以上に責め立てたり、反省を無理やり促すようなことはする意味がないと思っています。子供を叱る時も、責めたくなる気持ちが芽生えたら、一度立ち止まって、ただ自分の怒りを発散させたいだけではないのか、と自問自答します。もちろん、人間ですから感情が動くことは当然ありますが、できるだけ自我を満足させるだけの叱責はしないように気を付けています。本当に、そのようなことをしても良いことなど1つもないのがわかるからです。

 子供でも、何かいけないことをした時には、自分が一番わかっています。そんな時に、親が感情的に怒ったとしても、子供も感情的に反応するだけで、冷静さを失って反省するどころではありません。せいぜい、厳しい顔をして子供の目(左目の方が効果があるようです)を見つめ、「それはいけないことだ」ということを一度しっかり伝えれば十分なように思います。感情的に怒ってばかりいると、子供は親が激高しないようにビクビクするクセができてしまい、親の顔色を窺って行動するようになったり、言動の基準が親を満足させることになったりしがちです。親としては子供が自分の言いなりになることは楽なのかもしれませんが、抑制が長く続けばいつか何らかの形で爆発する時がくるでしょうし、誰かの物差しに合わせて生きていけば、その分自主性が育たず本来持っている創造力が開花しづらくなります。小さな子供でも、親がただ感情を刺激されて怒っているのか、それとも自分がいけないことをしたことを伝えたくて叱っているのか、ちゃんとわかっていると思います。

 

 自分自身が何か「失敗」をしてしまった時だって、周りに直接叱責してくる人がいなくても、自分で反省したり、何がいけなかったのか考えますし、そもそも自分がしたことの結果を受け取るのは自分自身なのですから、それだけで十分教訓となっています。そこに傷口をえぐるような他人の叱責が加わったら、無駄に落ち込み、意気消沈して自分を必要以上に責めてしまうでしょう。

 

 人を責めたくなったら、私はなぜ責めたくなってしまうのか、自分の内面の何がその人を非難しているのか、己を見つめます。その人を直接責めることにエネルギーを使うのではなく、己を見つめ直す良い機会だと考えます。社会全体の病巣がみえることもあります。それだって社会を構成している一人一人に関係していることなので、究極的には自分も含めた全体の責任だと思っています。私達は大元でつながっているので、誰か1人が行ったことは、私達全体に響いてくるのです。だからこそ、自分が発する想念や、自分の行いには責任を持とうと思っています。

2016年

2月

24日

執着と意識レベル

 学習漫画の伝記シリーズが好きな我が家の子供達。いろいろな人物の伝記がありますが、生き方に共鳴した人物の伝記は、何度も繰り返し読んでいます。先日、お風呂に入りながら娘が言いました。

 

「マリーアントワネットって、”いい人”だったのかなあ?」

 

 そこから、そもそも”いい人”とはどういう人なのか、という話になりました。娘のいう”いい人”とは、つまり人として尊敬に値する人物なのかどうか、というニュアンスで言っているようでした。つまり、”意識レベル”が高い人、とういうことです。意識レベルが高ければ、それだけ人格が上がり、エゴにまみれた行為とは無縁になって、逆に他人を救済するような言動が中心になっていきます。

 意識レベルという言葉を出したら娘はよくわからないようだったので、私は次のように説明しました。

 

 この世に人間として生きた人の中で、今まで最も意識レベルが高かった人は、イエス様とお釈迦様だったと思う。有名なところではガンジーなんかもかなり意識レベルは高かっただろうね。意識レベルが高くなればなるほど、持ち物や住むところ、地位なんかに興味がなくなっていく。執着がなくなるから。そういう意味では、マリーアントワネットは意識レベルがそんなに高かったというわけではないかもしれない。(*ファッションやプライドに固執していた若い頃の話。全てを失った死の直前の彼女は違っていたかもしれません)

 

・・・話を聞くと娘はなるほど!といった反応をし、

「私、マザーテレサやナイチンゲールも意識レベルが高かったと思うな」

と言いました。二人とも、娘が幼い頃から尊敬している人物です。

 

 

 意識レベルが上がると、現世的な富や地位や賞賛に興味がなくなり、他者に尽くす道を歩むことになるのは、古今東西の覚者達に共通する生き方のようです。意識レベルが上がる=執着が剥がれれる、ということです。そうなれば、物質的な事柄に満足することがなくなり、代わりに魂の充足感を高めることに専心したくなるのが自然の流れです。

 

 意識レベルと三次元的な地位や富は、当然ながらリンクするわけではありません。むしろ、学歴や年収、肩書きといった立ち位置や、住居、財産といった物質的なもの、家柄や血筋などの優生意識、賞賛やプライド等に強いこだわりがあるのであれば、その分だけ自我意識にとらわれているということなので、意識レベルはかえって低くなります。そういったことに固執すればするほど、エゴがどんどん肥大化して意識の覚醒は遅れるばかりでしょう。

 若い頃、私は大学に行けばこの世の『真理』が学べるかもしれない、と考えていました。受験勉強に力を注ぎ、それなりに学力レベルが高い大学を目指しました。その方が、より『真理』に近い知識が得られるだろうと思ったからです。

 けれどいざ大学に入ってみると、私は失望することになりました。教授といわれる人の中にもいろんな人がいて、意識レベルが高い人もいれば、逆の人もいたのです。中には、頭脳的な能力が並はずれて高いけれど、内面が幼稚で学生にエゴを振りかざす人もいました。

 大学の授業では、私が本当に知りたいと思っていた、魂の学びはあまりできませんでした。世の中の仕組みを統計立てて考える思考能力や、論理的に考える力はついたと思います。けれど、結局そのような「学問」は、この世の真理を解明するというより、ただ分析して客観的に眺めるテクニックでしかないことに気づきました。むしろ、講義以外の所で得た経験や人との関わりにおいて、より多くの学びと気づきが得られたくらいです。(結果的にそこで得られた知識と経験が今に役立っていることは事実なので、大学に行けたことには心から感謝しています)

 

 そのようなわけで、IQや知識と意識レベルもリンクしているわけではない、ということを身を持って知りました。

 

 社会的に有名だとか家柄が良いとか年収が高いとかいった指標で、意識レベルを測ることはできません。その人がいかに自我意識から解放されていて、魂の学びを深めているか、というのが、意識の目覚めを表す指標であるように思います。

2016年

1月

27日

お茶の間から覚醒

 親と子の問題というものは、本当はもっと長いスパンで捉えるべきものなのかもしれません。

 

 例えば、幼い頃から制約が多く、親が考える常識から外れることを許さないような、厳格な家庭で育ったとします。そのようにして育った子供が大人になり、未だに制約の呪縛がとれずに苦しみ、自分をそのように育てた親を怨みます。

 そういった場合、怒りの矛先が親だけに向きがちですが、実際は自分をそのように育てた親自身も、また自分の親に似たような価値観を植え付けられ、制限を受けながら育ったはずなのです。そして、その親もまた先代から制限を受けながら育ち・・と、遡れば一体いつが起源になるのかわからなくなってきます。

 

 子供に必要以上に制限をかける親というのは、心のどこかに劣等感や恐れの感情を抱いています。その劣等感や恐れの感情は、成長過程で親自身がなんらかの影響を受けて積み上げていったものです。時代が古くなればなるほど、世間一般の常識に縛られる社会的な制約が大きかったでしょうから、幼い頃から特定の価値観を刷り込まれて育つケースは、今より昔の人の方が多かったと思います。

 

 私達は、そうした先祖代々受け継がれてきた価値観の強制という呪縛の世界から、自由を謳歌する世界へと移行していく、まさにその過程を生きているのではないでしょうか。過去に受けた洗脳から解放されようと望んでいる人々が、世界中に溢れています。そのような人々を導く指導者が世界中いたるところに現れ、意識の覚醒を誘導しています。フラワーエッセンスのような様々なエネルギーヒーリングが巷に溢れています。古い殻から抜け出して本来の姿で生きようという人々の集団意識が、社会を変えているのです。

 

 私は、たまたま自分がフラワーエッセンスや気功といったツールと出会い、それらによって浄化が進んでいった経緯がありますので、このようにエッセンスや気功を他の方々にも広めるお仕事をさせてもらっています。けれど、どの方にもエッセンスや気功が合うとは限らないことも知っていますし、目覚めるためのツールは人それぞれなのではないかなと思っています。

 仕事をしながら、子育てをしながら、自然と過ごしながら、スポーツをしながら、絵を描きながら、etc...それぞれの形で、それぞれのペースで気づきが起こり、目覚め、意識が覚醒していくものなのかもしれません。

 

 精神世界の本などを読んでいますと、まるでその本に書いていあるやり方が唯一の正しい覚醒方法だ、と言わんばかりの勢いを感じることがあります。

 けれど、本来人は、どの場所にいても、どんなやり方を通してでも、目覚めることができると私は信じています。何も、みんながみんなヒマラヤやインドへ修行をしにいかなければ覚醒できないわけではないと思うのです。セドナやハワイや、その他いろいろなパワースポットも、自分を高めてはくれるでしょうけれど、それよりもダイレクトに大きな気づきを与えてくれるのは、今目の前にいる人だったり、目の前に広がっている現実だったり、今現在の自分の心の中だったりするものではないでしょうか。己に向き合い、現実に向き合い、出会う人々と向き合う。時々、癒しの力や他者の助けを借りる。何より、自分が変わりたいと本心から願う。こうした意思の力と日々の積み重ねが、真の幸福へと人を導いてくれるのではないかなと思っています。

 

 地球全体が、波動の大きな流れの影響を受けているようなので、今は変わりたいと願う人にとってはチャンスの時期です。きっと、望みを叶えてくれるようなその人に合ったサポートツールが、引き寄せられてやってくるはずです。

2016年

1月

21日

地に足をつけて生きる

 幼い頃の私は、夢見がちで、理想が高く、頭の中で空想の世界を創り上げ、そこで1人遊んでいるような、妄想少女でした。朝起きると、目の前に広がる現実の世界に違和感を感じ、悲しい気持ちになったものです。

 『どうして自分はここにいるんだろう』という思いがずっとありました。本当はもっと美しくて愛に溢れていて嫌なことが何一つない世界がどこかにあることを知っていたので、そこを懐かしむ気持ちと憧れる気持ちが強くありました。そしてそんな美しい世界とはかけ離れた現実世界とのギャップに失望していました。自分が今いる世界は、嘘や悪意やその他汚いものだらけで、自分が理想とする世界とは全然違ってみえました。

 

 現実を見ていると気分が沈んでしまうので、私はよく空想の世界に逃げていました。夢中になる絵や本は、私が夢見ているファンタジーの世界をよく表しているものでした。そうしたものに没頭している間は、現実を忘れていることができたので、束の間の安らぎを感じることができました。

 

 そのような現実逃避的な過ごし方は、だいぶ大きくなるまで続いていました。特に、制限だらけで窮屈な生活が辛くなればなる程(学校生活が苦しい時など)、そのような夢の世界に逃げる傾向が強くなり、周りの世界と自分との間に見えない壁を作って、内なる世界に籠って自分をシャットアウトしていました。表向きはお友達と仲良く遊んでいるようでも、心の中ではずっと孤独感を抱えていました。

 

 大人になり、結婚して子供もできて、だいぶ空想世界に逃げることもなくなっていきましたが、相変わらずこの世での現実に対しては幻滅を感じ、目を背けたいような、受け入れがたい気持ちがありました。別の世界、ここではなくもっと美しい世界に行きたい、という気持ちがどこかにありました。

 もともと夢見がちな私にとって、フラワーエッセンスとの出会いは、ついに憧れていたファンタジーの世界に連れて行ってくれる夢のツールが目の前に現れた!と思わせるものでした。期待に胸ふくらみ、天使や妖精たちの甘いささやきが聞こえる夢の世界を想像し、私は浮かれ喜びました。

 いくつか講習会も受け、そこで、私と同じようにファンタジーの世界が大好きで、現実生活に苦しみを感じている方々にも出会いました。今まで出会った誰とも、自分の描いていた空想世界の話をすることができなかったので、そうした方々と天使や妖精、魔法の話などをするのは楽しかったです。

 けれど、そのような現実とはかけ離れた別の世界の話に夢中になればなるほど、そして自分自身が『そこ』への憧れが強くなればなるほど、私は現実に目を向けるのがますます辛くなっていくのでした。いくら空想話に花が咲いても、理想の世界を熱く語っても、目を開ければそこにあるのは現実の世界です。天使や妖精がいる世界も確かにあるのでしょうけれど、今自分がいるのはこの三次元の地球です。そこで生きているのです。空想の世界、理想の世界に心が引っ張られ過ぎると、現実世界とのギャップに心が苦しくなり、虚しさも広がっていくことがわかりました。

 やはり、軸にするのは今自分がいるこの世界であるべきなんだな、とようやく気付いたのでした。

 

 現実に根を下ろして生きようと心が変わり始め、地に足を付けて生きる決心をすると、それまで気づかなかったこの現象世界での楽しみや喜び、美しいもの、楽しみ、などに目がいくようになりました。今まではとにかく現象世界をなんでも否定する考え方だったので、美しいものがあったとしても、気が付かなかったのだと思います。相変わらず地球には戦争や犯罪や虚偽や悪意がたくさんありますが、それらを目にしても、以前ほどネガティブに自分が反応しなくなっていきました。そうした現象もひっくるめて、この世界を受け入れられるようになりました。地に足をつけて生きるということは、こういうことなのだなと思います。

 

 今目にしている現象を、否定も肯定もしない。ただ受け入れる。まずそれができることが、理想の社会を作っていく上で最も必要な、初めに行うべきステップなのではないかと思います。ジャッジをしない、目をそむけない。それができて初めて、そこから自分の理想とする現実を築き上げていけるような気がします。なぜなら、何かを否定してしまうと、そこにネガティブな念が生まれて、そのエネルギーが心を汚し、行く手を阻むからです。また、肯定しすぎることも、慢心や傲慢さを生みます。執着となることもあります。

 己を見つめ、成長し、現実を切り拓いていく学びを体験しようと、この地球を選んで生まれてきたのですから、今ある現実を否定することは、自分の学びの機会を否定することになります。かつての私がそうだったように、つらい時は空想の世界に逃げたくもなるかもしれません。こことは違う世界を夢見てしまうかもしれません。けれど、束の間の逃避行から戻れば、そこには現実があります。現実を受け入れ、己を見つめることをしないで魂の成長はありえません。

 現実を受け入れ、向き合うことができるようになっていけば、長年の垢も剥がれて、素直な自分になっていきます。曇りがなくなれば、目の前に広がる世界を、自分の好きなように味付けするゆとりが生まれます。そうなったら、この世で生きることが苦行ではなくなり、遊びとなるでしょう。生きることが喜びになるのです。

 今は、このように人生を遊んでいる人がたくさんいます。軽やかに人生を歩んでいる方ほど、心の内がきれいで、何にもとらわれていません。自分も他人も否定していません。余計なことにエネルギーを注いでいないので、軽やかでいられるのです。心の身軽さ、これが人生を楽しむ秘訣です。

 全てを受け入れ、地に足をつけて、与えられた場所で目いっぱい楽しんで生きる人が増えたら、地球はもっともっと楽しい星になるのではないかと思います。

2015年

9月

18日

☆ブログ再開のお知らせ☆

 しばらくブログをアメブロの方に載せていましたが、今後はまたこちらに載せていくことにしました。

 

 時間をみつけて、書ける時に書いていきたいと思います。時々遊びに来ていただけると嬉しいです。

 

 どうぞよろしくお願いします(^^)

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