2021年

9月

14日

責めたくなるのは人の性(さが)

 今から何百年も昔、ヨーロッパを中心にペストが猛威を奮った時代がありました。一度罹患した人の致死率は約9割ともいわれ、当時はまだ特効薬もなかったため、まさに死の病でした。ペストが蔓延した地域は、村と言わず町といわずたちまち死者が膨れ上がり、人口の3分の1から多い所で5割ほどまで減ってしまったほどでした。

 現代のように衛生学・医学・細菌学の知識が発達しておらず、原因も対処法も漠然としていた当時の人々にとっては、得体の知れない伝染病に対する恐怖心たるや、いかばかりだったかと推察されます。

 

 そのような状況で、どこからともなく流れてきた噂に、

 

「この病気は、ユダヤ人が井戸に投げ込んだ毒から発生している」

 

 といったものがありました。当時の社会においてユダヤ人は、キリスト教下にある人々から疎まれる存在でした。確実な根拠もないまま、この噂は瞬く間にヨーロッパ中に伝わり、各地でユダヤ人に対する暴力や虐殺が相次ぐことになります。虐げられたユダヤ人は東へと逃げたため、東ヨーロッパにユダヤ人の居住地が多くなったといわれています。その後時代が進み、第二次世界大戦の時、東欧の多くのユダヤ人が、今度はナチスの手によって虐殺の対象となっていきます。

 

 

 日本においても、1923年に起こった関東大震災の際、混乱の内に「朝鮮人が暴動を起こしたり、毒をまき散らしている」といったうわさが人々の間を飛び交ったことがありました。こちらも確固たる証拠もないままに、当時日本に住んでいた多くの朝鮮人達に刃が向けられ、大勢の方が犠牲になったといわれています。

 

 

 そして今、コロナウイルスが世界中の脅威となっている状況下で、特定の国や人々が非難の対象となり、やり玉にあげられています。人類が何百年もの間繰り返してきた、”大きな災害が起こると、その時の社会においてやや忌み嫌われている存在に怒りの矛先が向かう”流れがここにきても起こっていると感じます。

 

 

 人は、説明のつかないような不幸や災害が身に降りかかった時、この災難をつくり出したのは誰なのか、誰が悪いのかと、責める相手を無意識に選んでしまうものなのかもしれません。どうして自分がこんな不幸な目にあわなければいけないのか。どうして自分が苦しまなければいけないのか。納得がいかなかったり、受け入れられなかったりすると、誰かのせいにしたくなるのです。

 

 

 誰かを恨んだり、怒りを抱えたまま生きるのがしんどくなった時。恨みや怒りを手放したいのだけれど、自分の中の何かが抵抗しているように感じるのであれば、どこかで自分が、この「人を責める」という誘惑に負けていないか、一度ゆっくり内側を見つめてみるといいかもしれません。人を責めないという選択は、かなり大きな決心が必要になるし、抵抗に打ち勝つパワーがいります。人間の、人類全体の抱える大きな闇に立ち向かうことでもあるからです。

 

 

 でも不可能なことではありません。誰でも、本当はできることだと思います。

 

2021年

8月

31日

誰のせいでもない

 繊細で敏感なタイプ、いわゆるエンパスやHSPと言われるようなタイプの人というのは、そもそも感情の影響を人一倍受けやすいです。

 他人の感情の影響を受けやすいだけでなく、自ら産み出した感情に圧倒されることも多いです。

 

 ですから、自分がそういうタイプだと自覚しているのであれば、一日のうちに何度か、マインドと感情をリセットする時間を作る習慣をつけた方が良いです。そうでもしなければ、気づいたら頭の中は常にエゴのおしゃべりが絶え間なく続き、それに基づいた感情が次から次へと湧き出してはそれに引っ張られて精神的に疲れる、という状況に陥ってしまうことでしょう。そんな状態では、理性で物事を考えることもままならず、自分の本当の望みも見失い、暗闇の中で一体今何をしたら良いのかもわからないまま迷子になってしまいます。

 

 エンパスやHSPといった人は、本質的に、優しい人が多いです。とても善の意識が高いです。であるからこそ、ネガティブな考えや感情を抱くことに対して、罪の意識が強くなるようです。理想の自分は愛に溢れている姿なのに、そうではない現状を認めることができなくて、自分を責めてしまうのです。

 あるがままの状態を受け入れることができないと、素直に感じている自分の思いや感情を否定することになります。そして否定されたままの思いや感情は、次々と内側に押し込められ、蓋をかぶせられて「ないこと」にされます。

 

 敏感タイプの人は、こういったわけで、内側にたくさんの怒りや悲しみといった感情をため込んでいることが多いです(そしてそのことを否定したり、隠したりする)。エネルギーワークをしたり、フラワーエッセンスを飲んでいると、こうした封印していた記憶や感情が一度に出てくることがあります。最初は驚くかもしれませんが、それは浄化のプロセスなので、あまり出てきたものにとらわれず、淡々と手放していった方が良いです。肯定も否定もせず、ただ、受け入れて愛で包んであげてください。

 

 

 

 もう一つ、敏感で繊細なタイプの人が陥りやすい落とし穴があります。それは、ともすると被害者意識孤独感が強くなりがちだということです。ご存じの通り、まだまだ不条理で理不尽なことがたくさん起こっている世の中です。善意で動く人ばかりとは限りません。そんな状況を目の当たりにすると、敏感繊細タイプの人は、どうしても傷つくことが多くなります。ショックを受けた時の反応が人一倍激しいので、次第に傷つくことを恐れて、必要以上に他人や社会を警戒してしまうようになったりもします。そして、次第に孤独を感じるようになります。誰も私のことをわかってくれない、私のこの苦しみを、痛みをわかってくれる人なんていない、私には居場所がない、助けてくれる人はどこにいるのだろう・・・

 

 そうなったときに、今のこのつらい状況に自分がいるのは、「周りのせい」だと思ってしまうと、自分が被害者になってしまいます。人は放っておくと、何か自分の身に望ましくないことが起こった際には、誰かのせいにしたくなるものです。

 本当は、自分の身に起こっていることは、大抵自分が創り出しています。無力に思えている自分は、本当は創造する立場にあるのです。状況を変えたかったら、自分が内側から変わること。これしかありません。他人を責めているうちは、物事が変わらないどころか、絶え間なく産み出される負の感情に圧倒され、本質が見えないまま、同じところでもがき続けることでしょう。

 

 

 そもそも、エンパス、HSPに生まれてきたこと自体を、受け入れていない人も多いかもしれません。敏感気質であることを、マイナスにとらえてしまっているのです。確かに、一見、損することが多いように思えるのかもしれません。

 けれど、世の中には、エンパス、HSPであるがゆえに味わう様々な困難を乗り越え、勇気をもって社会に出ていき、自分の持って生まれたギフトを最大限に生かしている人がたくさんいます。傷ついても立ち上がり、あきらめずに前向きにやるべきことをこなしていけば、自分の才能や経験を、他者への奉仕に役立てることだってできるのです。

 

 

「決して人のせいにしないこと」

「自分を憐れむのをやめること」

「持って生まれたギフトを大切に生かしていくこと」

 

 この三つを意識して、勇気と希望をもって行動を起こしていけば、必ず望ましい方向に導かれていくはずです。サポートもたくさんやってくるでしょう。

 

 

 

2021年

8月

30日

リベンジ欲求

 恨みや怒りを抱いてきた人をもう赦したい。そう決心した際、一番の障害となるのが、自分の心の内に潜んでいる、”相手に自分の苦しみをわからせたい””相手にも同じような苦しみを味わわせたい””相手が不幸であってほしい”といったような、「リベンジ欲求」かと思います。

 

 このエゴの声にいかに打ち勝てるかが、鍵になります。

 

 世の中生きていれば、いわれのない攻撃を受けたり、理不尽な扱いをされたり、侮辱されたり、傷つけられたり、嬉しくない体験を時々するものです。特に、子供時代や若い時などは無力であったがために、そういう経験も多かったかもしれません。

 私も人並みに、世の不条理は目の当たりにしてきたと思います。かつては自分の中に、いくつもの「ゆるせないこと」「ゆるせない人」がありました。

 

 けれどある時、もうこんなばかばかしいことはもうやめよう、と心底思うようになりました。なぜかというと、誰かを恨んだり憎んだりしていても、何のメリットもないことに気づいたからです。メリットがないことくらい考えたらわかるはずなのに、人間は不思議なことに、自由で平安でいられる道よりも、苦しみを抱き続ける道を選ぶものなのです。

 

 こう決心してから、なかなか切り離すのが難しかったのが、やはりこの「リベンジ欲求」でした。私の場合、自分を傷つけた相手を同じように苦しませたい、というよりは、相手に自分の味わった苦しみを知らしめたい、どれほど傷ついたのかを教えたい、という欲求が大きかったです。

 

 

 

 様々な葛藤もありましたし、やはり無理なのかと何度もあきらめそうにもなりましたが、結果的に、自分が赦そうと思った相手は全て赦せるようになりました。今では誰も恨んだり憎んだりしていません。自分を傷つけた相手に対しても、心の中では、その人の真の幸福を望んでいます。罪を憎んで人を憎まず、です。きれいごとではなく、本当にそう思っています。他人を攻撃したり、傷つけたりする人は、そもそもその人の心がどこか満たされていないからそういう行動をとっているのです。人は心が満たされていれば、決して他人を傷つけるようなことはしません。自分が傷ついているから、他人を傷つけるのです。そのことを思えば、相手に負の感情を抱き続けるより、相手の心の傷が癒されることを祈っていた方が、あらゆる面でプラスになるはずと思えます。

 傷つけられた人が、自分を傷つけた人の内にある苦しみではなく、「自分が」傷つけられたことに固執し、恨みを抱き続ける。そんなことがずっと繰り返されていけば、憎しみのループを断ち切ることなんか永遠にできません。憎しみを抱くことは苦しみでしかなく、その道を選べば魂の成長はそこで停滞し続けること、そして、自分を傷つけた相手を裁く資格は本来自分にはないということ、この事実を謙虚に受け入れられれば、手放して自由になる道を選ぶことがたやすくなります。

 

 もちろん、一方的に理不尽なことをされたりして、実害を被った際には、必要な主張はしていいと思います。攻撃から守るために、防御することだって大事です。ただし、それは理性を伴って行うべきで、決してリベンジ欲求に基づいて動かないことです。エゴに基づいた行動は、必ず裏目に出ますし、自分の身のためにもなりません。自分にゆるされた、なすべき行動の範疇を超えたことをすれば、余計なカルマを創り出すことになります。

 

 

 

 

 リベンジ欲求に打ち勝つために、助けとなってくれそうなエッセンスを挙げておきます↓

 

〈パワーオブフラワー〉

『パッションフラワー』

『セージブラッシュ』

『ブラックコホッシュ』

 

〈オーストラリアンブッシュ〉

『ピンクムラムラ』

『ピンクフランネルフラワー』

『サザンクロス』

『サンシャインワトル』

 

〈アンジェリック〉

『Unconditional Forgiveness(アンコンディショナルフォーギブネス)』

『Release(リリース)』

『Releasing Resentment(リリーシングリゼントメント)』

『Clearing Repeating Memories(クリアリングリピーティングメモリーズ)』

 

 

2021年

8月

26日

ジャッジをしない

 瞑想を習慣的に行うようになって10年ほどになりますが、まだまだ足りない、もっともっと瞑想の時間を取らなければいけないな、と感じています。そのくらい、長年の間に蓄積されていった心の”垢”のようなものは強力に張り付いているものですし、リリースしなければいけないこともたくさんあります。

 

 それでも、瞑想を続けていくうちに、以前と比べればだいぶ、頭のおしゃべりが減りましたし、物事を色をつけてみないようになってきました。

 

 物事や他人に対して「ジャッジをしない」ことは、本当に難しいものです。私たちは、物心ついてから、たくさんの偏見や思い込み、思考パターンを知らず知らずのうちに身につけてきました。その時の自分を守るために必要だったケースもあるかもしれません。けれど、いつまでも必要のない偏見や思い癖を持ち続けると、自分の世界を狭め、受け取れるものも受け取れなくなってしまいます。そして、偏見は特に、悪しき感情や思考を産み出す根本原因になり得るので、偏見を抱けば抱くほど、自分が苦しくなります。

 瞑想と同時並行で私は、とにかく物事や人を「色付け」しないで見る訓練をするようにしてきました。自分の身に起こった出来事も、目に映る景色も、他人の言動も、それに対して自分が色付けさえしなければ、それらはただの現象・事象でしかなく、良くも悪くもない、ただそれが「ある

」「起こった」というだけのことでしかありません。あらゆる物事は、本来全て中立なのです。中立な見方をするようになると、何かに執着したり、とらわれることが減っていきます。

 

 誰かから攻撃されたとしたって、その出来事に色付けさえしなければ、冷静に眺めて冷静に対処することができます。色付けをせずに眺めれば、必要以上に反応することもなくなります。自分が悪かったことがもしあれば、そこは素直に認めて今後に生かしていけばいいのであって、そのことで自分を責めたり、卑下することもありません。罪悪感や自己嫌悪は、不必要な反応です。人から攻撃されたことを、中立の目で見ていないことで起こります。

 起こった出来事を中立の目で見れば、攻撃してきた人の立場や、その人の抱える問題に対しても、冷静に目を向けることができるようになります。相手の言動にばかりフォーカスして、それに対して感情的に反応してしまうと、いつまでもその出来事を受け入れることができないし、怒りを抱き続けることになります。冷静な目で見ることができないということは、真実に気づくことができないということです。

 他人に攻撃をする人のことを、冷静に眺めてみれば、その人の中にある、不安や恐れ、悲しみ、寂しさ、苦しみが見えてきます。そしてそれは、その人が抱える問題であって、そこに関して自分は、個人的に責任を負う必要はないということも理解できるようになります。

 

 

 物事にジャッジをしないということは、ネガティブなジャッジだけに限りません。必要以上に、「良い」ことや「ポジティブ」にとらわれてしまうと、その反対である「悪い」ことや「ネガティブ」を意識するようになり、両極性の罠にとらわれることになります。そもそも、自分が「良い」と判断している時点で、中立ではありません。

 

 

 

 アンジェリックエッセンスに、割と最近出た『Quiet Mind』(クワイエットマインド)というエッセンスがありますが、これなどは、頭のおしゃべりを静め、「無」の状態に近づけてくれる助けとなってくれると思います。バッチの『ホワイトチェストナット』も頭を静めてくれますし、囚われが強い場合は、オーストラリアンブッシュの『ボロニア』もお勧めです。こうしたエッセンスを取りながら、瞑想を継続して、根気強く、不必要な偏見や思い込みを手放す作業を進めていくと良いかもしれません。

 

2021年

8月

25日

全ては自分次第

 心の中に湧き出る感情や思いは、自分自身が生み出している。このことには、だいぶ早い段階から気づいていました。けれど、どうしたら湧き出る感情や思いに圧倒されずに済むのか、そしてそもそも、物事や人や言葉に対して必要以上に反応してしまうことをどうやったらやめられるのか、ということに関しては、長いこと無力なままでした。反応してしまうこと自体は、元々そういうタイプなのだから仕方ない、自分でどうにかできるものではない、とさえ思っていました。世の中にも「エンパス」や「HSP」といった言葉が浸透していき、それらのチェック項目の多くに当てはまる自分は、うまれつきの敏感体質で、人より過敏に反応してしまうのは当然で致し方ないこと、一生この気質と付き合っていくしかない、と思っていました。

 

 確かに、敏感体質自体は、生まれ持ったものであって、なくなるということは一生ないかもしれません。けれど、敏感であることと、自分がどのように「反応するか」ということは、本来別問題です。敏感であることは変えられないかもしれませんが、自分が何に対して、どのように反応するかということは、私が選ぶことができるのです。自分が見たり聞いたり体験したことと、それに対する反応は、切り離すことができます。どんな出来事が起ころうが、どんな人が周りにいようが、どんな言葉を投げかけられようが、それらに対して自分は無力なのではなく、その事象をどのようにとらえるかに関しては自分が完全に主導権を握っています。自分の身に起こったことを受け入れ、咀嚼し、経験という財産として、智慧として役立てていくかどうかを決めるのも、その人次第です。

 

 起こった出来事に対して、受け身でいることも、否定し続けることも、一つの選択です。どのような選択をとるのかは、その人の自由です。被害者でいることも、他者を責めることも、運命を呪うこともできます。自由です。ただし、別の選択肢をとることもできます。

 

 

 私はある時から、自分の身に起こった全てのことを受け入れることに決めました。いつまでも過去の出来事を思い返しては悪しき感情や思いを産み続けることに嫌気がさしていましたし、環境や他人を責めている自分も嫌でした。過去に縛られ、他者を責めるというループから抜け出さない限りは、真の平安は訪れないだろうと、直観でわかっていました。

 

 ただし、このように心の中で決心することと、実践することは、また別問題でした。当然、それまで長いこと続けてきた習慣は、そう簡単に変えられるものではありません。せっかく心に決めたのに、気づいたらまた同じことを繰り返して嫌になることもたくさんありました。今でも、完全にすべてを受け入れられているわけではありません。特に、不条理なことが起こった時などは、憤慨することもあります。けれど、いきなり完璧になることを目指すのではなく、ある程度は、人間なのだから弱い部分もある、くらいに柔軟に考えるようにしています。最初から完璧を目指そうとすると、できていない自分を責めたくなってしまうからです。

 

 

 

 完ぺきではないにしても、それまでの自分とは決別しようと思い、あきらめずに忍耐と訓練を続けてきた効果は、絶大でした。まず、他者を責めないようになったことで、恨みや怒りといった感情に支配されることが減り、とても楽になりました。恨みや怒りを抱いて生きることは、本当はとてもつらくて苦しいことです。

 

 理解しがたいような出来事が起こったり、到底受け入れがたいように感じられる人に出会った時でも、まず最初に、

 

私はこの出来事とこの人を愛します

 

と宣言するようにしています。その時点で、どんなに自分のエゴが拒絶していようが、とにかくこう宣言するのです。当然、宣言したからといっていきなりそれができるとは限りません。たくさんの葛藤も生じます。それでも、とにかく「愛します」という意思にすがりつくのです。どんな感情が沸き起こってこようとも、その意思だけは絶対に死守します。

 

 すると、不思議なことに、物事はそのように動いていくのです。最初は絶対にできないように思えたことでも、できるようになりますし、思ってもいなかったようなプロセスを経て、望む方向に導かれていったりします。自分が変わるだけでなく、相手が変わることもあります。環境が変わることもよくあります。助けてくれる人や情報がやってきたりもします。

 あらゆることがスムーズにいくとは限らず、落ち込むことや、希望を失いそうになることもありますが、とにかく、信じることさえやめなければ、天は裏切らないのだなあと思います。

 

 

2021年

8月

17日

心は自分が創るもの

 人の心の状態と、その人の健康状態には密接なつながりがあること。このことは、おそらく世の中の多くの人が知っていると思います。

 

 更に、人の心の状態が、その人の現実を創るということ。このことにも、最近は多くの人が気づき始めています。

 

 その人の心の状態が、その人の身に起こる出来事を創り出しているのではないかということには、物心ついた時からなんとなく感じてはいたものの、確信が持てないまま、ずっと過ごしていたように思います。確信が持てずにいたことで、私自身、様々な経験を経ていくうちに、たくさん心の重荷をしょい込み、怒りや不安、罪悪感、自己嫌悪感といったネガティブな感情をコントロールできないまま(というより、しようとしなかったというのが正しいかもしれません。感情は自分でコントロールできるのだということを、長い間信じていませんでしたし、努力を怠っていました)、そうした感情にのまれ、それに見合ったネガティヴな事象を引き寄せ続けていました。

 

 

 同じ世界をみていても、その人の心の状態によって、全く異なる見方をするものなのだなということをハッキリ認識したのは、高校生の時でした。

 まだ高校生活が始まって間もない頃、もう既に学校に来ることが難しくなり、時々来ては一時間も授業を受けないうちに教室を出てしまい、次の日からまたしばらく休む、ということを繰り返しているクラスメートがいました。その子は、学校に来ても特に誰と話すわけでもなく、ただ不安げな顔で周囲から隠れるようにして席に座っているのでした。地方の女子高で、クラスメートは今考えても心優しい、良い子達ばかりでした。その子に対してきつく当たったり、意地悪をしたりする子など一人もいませんでしたし、皆心の中で「この子は一体どうしたのだろう」と不思議には思っていたかもしれませんが、口に出すこともせず、ただそっと見守っていたように思います。

 その子は常に何かの恐怖に怯えていました。恐れや不安に圧倒され、自信もエネルギーも枯渇してしまっているように見えました。実際は、周囲の誰も攻撃などしないし(少なくとも学校では)、先生も級友達もその子には特に優しく接していたはずなのに。

 これはもしかして、この子が自身の内側で創り出している恐れなのではないだろうか。この子の心は、自分が創り出した大きな大きな恐れに支配されており、もはや自分でも制御できず、見えているあらゆる人や物事が恐れを通してしか見えなくなっているのではないだろうか。そんな風に感じました。その時はどうしてそのようになっているのか、よくわからなかったのですが、大人になってから思い返すと、彼女はそこに至るまでに、様々なトラウマを抱え込むような経験をしてきたのだろうと察せられます。元々の性格もあるでしょう。

 当時の私にはそうした背景はうっすらと予測することしかできませんでしたが、どのような事情があったにせよ、その子を見ていて思ったのは、恐れそのものを生み出しているのは、その人自身なのではないかということでした。家族でも友達でも先生でもなく、その子自身が、自分で、恐れを創り出し、自分が創った恐れによって圧倒され、支配され、制御できなくなっているということ。その時の私には、そのように感じられたのでした。

 

 心は自分が創り出すもの。そのことを、ハッキリと認識したのでした。

 

 

 更に、そうした心の状態が現実をも創り出しているということに確信を持つようになったのは、もっとずっと先のことです。

 

 

2021年

7月

13日

サイキック・アタック

 フラワーエッセンスは、人間のエネルギーフィールドに作用するものです。エネルギーは多くの人の目には見えませんが、肉眼で見えないだけであって、確実に存在しています。

 

 人の認識できる色彩の範囲は、時代と共に拡大していっている、という説があります。ある時代より前の絵画には、パステルカラーが一切出てこないそうです。それは、昔の人々は、パステルカラーを認識できていなかったからだといいます。

 

 一昔前より随分と、人々のエネルギーを感じる能力が高まってきているように思います。人類は進化と共に、色彩能力と同様、エネルギーを感じる能力がどんどん拡大されていくのかもしれません。最近作られているドラマや映画、アニメなども、霊的な世界や、精神世界、魂の世界を扱った作品が増えてきています。それだけ、人々の感じる能力や関心が高まってきているのだと思います。

 

 エネルギーの世界に関心が高まり、自分もその世界に足を踏み入れる際には、物理次元を渡り歩いていくのと同じように、道徳心を保ち、良心に従って行動することが大事です。自制心と謙虚さをもってエゴの声を制御すること、そして愛に基づいた選択をすること。これさえ守っていれば、あまり心配するようなことは起こりませんし、おかしな方向に進んでいくこともないかと思います

 

 また、自分をコントロールするのと同じくらい大切なのが、精神世界、霊的世界の仕事に携わる人達を冷静に観察する眼力を持つことです。悲しいことですが、サイキックな能力(霊能力)を使って、人を欺いたり、コントロールしたり、必要以上のお金儲けをしている人たちもたくさん存在します。そして、そうした人々の餌食になっている人も。現実世界と同じように、自分の身は自分で守らなければいけません。

 

 エネルギーを操って他人に害を与えたり、攻撃したり、また相手のエネルギーフィールドに侵入することを単純に面白がり「遊んで」いる人たちもいます。『自分が出したエネルギーは自分の元に返ってくる』というのは、宇宙の不変の法則なので、そうしたダークなエネルギーの使い方をしていれば、いずれその人の身にネガティブエネルギーが跳ね返ってくることになります。ですから、愛に基づかないエネルギーの使い方をして結果的に得することはないのですが、そういった人たちは一時の満足のために行動しているのでしょう。

 たまたま自分がそのようなサイキック・アタックのターゲットになってしまうこともあるので、ある程度用心したり、対処方法を知っておくことも必要かと思います。

 

 そもそも、ネガティブなエネルギーの使い方をしている人とは関わらない、距離を置くことは当然のことですが、常にエネルギー的なバリアーを張っておくことも大事です。バリアーの張り方には様々な方法がありますので、ご自身に合った方法を選べばよいかと思います。

 

 それでも、サイキック・アタックの被害に遭ってしまった場合。サイキック・フィールドで起こったことは、霊的な対処が必要になります。海塩やハーブ、天然石といった、エネルギーフィールドに作用するグッズを使ったり、もちろんエッセンスも浄化を助けてくれます。サイキック・アタックに一番お勧めなのは、アンジェリックの『Shamanic Extraction』です。

 先祖から引き継いできていると思われる、念や呪いのようなネガティブエネルギーがあるようであれば、『DNA Clearing 』や、『Ancestral Healing』などで一度大掃除をすることをお勧めします。

 また、祈りの力で癒しを求め、霊的なサポートを求める、神社やお寺、教会でお祓いしてもらったり、除霊や浄霊ができるヒーラーにクリアリングをお願いする、といった方法もあります。

 

 

 残念なことですが、霊的な能力があるからといって、必ずしも良心に基づいてその力を使っている人ばかりではないのです。そういう人々を見抜くこと、用心すること、自分を守ること、被害を受けたら対処すること、を念頭においておく。それと同時に、自分自身がそちらの側に堕ちていかないように常に戒める。こうしたことが、これから更に拡大していくと思われるエネルギー社会において、問われてくることのように思います。

 

 

2021年

7月

07日

復讐

 何年か前にテレビで、息子を殺人事件で亡くし、犯人に死刑を望んでいるという夫婦のドキュメンタリーを見たことがあります。長い時間をかけて死刑を求め続け、ようやく刑が執行されたその日。取材に来たカメラの前で母親が、暗い表情を浮かべて次のように言っていました。

 

「死刑が執行されれば、楽になれると思っていました。でも、今はただ虚しいだけ。心にぽっかり穴が空いたようです」

 

 

 日本では昔から、仇討ちの話が人気で、その代表的なのが「忠臣蔵」だと思います。かつては、親の仇を子供が討つことが公に認められていましたし、周囲がそれを応援することも多かったといいます。日本以外にも、「モンテ・クリスト伯」などの復讐を題材にした物語はいくつもありますし、復讐や仇討ちの概念は、人類全般に共通するものなのだろうと思います。

 

 自分を苦しめた人に、同じような苦しみを味わわせたい。その欲望が満たされた後、果たして人は癒されるのでしょうか。冒頭の母親の言葉が、そうとは限らないということを伝えているような気がします。

 

 実際、殺人のような大きな事件ではなくとも、自分が体験した出来事の中で、自分を傷つけた人が不幸な目にあったからといって、心が完全に満たされたということは一度もありません。誰かを憎んでいる間は、その人がどういう状態であろうと、何が起ころうと、心の中によどんだ感情がくすぶり続け、それが苦しみを引き起こし続けます。私たちが恨みや憎しみ、そしてそれが引き起こす苦しみから本当に自由になれるのは、自らの意思で、相手を赦すことができた時です。相手が変わらなくても、相変わらずの状況が続いていても、何も気づいていなくても、私が憎しみを捨てさえすれば、ずっと背負ってきた重荷から解放されるのです。

 

 それなら、傷つけた人が何も学ばないじゃないかと思うかもしれません。人が学ぶタイミングは、他人が決めることではなく、コントロールしようと思うこと自体がエゴです。私が思い知らせなくても、わざわざ手を汚さなくても、人智を超えた力がいつか働いて、人が自分の取った言動の結果を思い知らされる時は必ず来ます。それがいつなのかは、私たちのあずかり知らぬ領域です。まずは、相手に知らしめたいという欲を捨てることが、最初のステップです。

 

 

「修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか」

 

『ブッダのことば』より 中村元 訳 / 岩波書店

 

 

2021年

7月

02日

パワープレイ

 お客様からのご相談で多いものの1つが、人間関係のお悩みです。

 

 中でも、属している集団の中で、誰かとの関係がこじれてしまい、感情のもつれが生じて問題が複雑になっているケースをよく聞きます。

 この、「感情のもつれ」が生じているということは、もう既に問題そのものを客観視できなくなっている場合がほとんどです。相手も自分も、現実的な問題そのものより、自分の方が尊厳を傷つけられたという衝撃からくる怒りや悲しみ、恨み、復讐心といった感情にとらわれ、そこから抜け出せなくなっているのです。

 

 異性同士より、同性同士の方が、こうしたパワープレイに陥りやすいようです。ちなみに、他人だけでなく家族内でもこうしたパワープレイは起こりうるものですが、こちらも、同性同士の方が起こりやすいです。

 

 

 

 自分が今まさに、パワープレイに陥っていると気づいた場合。まずは、気づけたということに感謝をしてください。気づいた時点で、問題解決への道のりをかなり進んだことになります。中には、一生気づかないまま、不毛な感情的駆け引きにエネルギーを費やし続ける人だっているのです。

 

 その次に何をしたらいいのか。それは、その渦の中から抜け出すことです。

 

 それができないから悩んでいるんじゃない・・と言いたくなるのもわかります。ハッキリ言っておきますが、ドツボにはまっていればいる程、大変なエネルギーが必要になります。簡単にできることではありません。時間もかかると思います。

 けれど少なくとも、自分が心の底から、「こんなくだらないゲームから抜け出そう。この先も誰かを恨みながら人生を歩むのをやめよう」と決心をしなければ、ことは進みませんし、何も変わりません。この、決心をするということが、とてもとても大事なのです。そして大抵の場合、決心をすること自体が、大変難しいです。自尊心が邪魔をして、自分が引き下がるのではなく、相手をひれ伏したい欲求に駆られてしまうからです。

 

 感情の渦の中にはまってしまっている場合、そこから抜け出すには、感情レベルの上にまで自分を引き上げなければいけません。解決するには、今いる次元より高い次元からの癒しが必要なのです。マインドも解決を助けてはくれません。色々と頭で「考えて」いるだけでは、先に進めません。同じ所で行ったり来たりするだけでしょう。

 

 祈り、高次の存在のサポートもお願いしてください。人が愛に根差した決心をした時には、必ず助けがやってきます。

 

「私を助けてください。この感情に根差した無意味な争いから、私を引き離してください。この問題に、大きな愛のエネルギーを注いでください。私が赦し、赦され、あらゆる恨みや怒りから解放されますように。相手を変えたい、相手に私の痛みをわからせたいという欲望を、私が手放すことができますように。私の悲しみや苦しみが癒され、相手の心も癒され、お互いが憎しみではなく愛の関係で結ばれますように。この問題に携わるあらゆる人に祝福を与えてください。

 最後に、このレッスンを私に与えてくださったことに感謝をいたします。私はこの問題から多くを学び、成長することができました。ありがとうございます。感謝と共に手放します。」

 

 

 

 アンジェリックの、「Unconditional Forgiveness」や「Ho'oponopono」「Release」なども力になってくれると思います。毎日瞑想をして、自分を感情や頭のおしゃべりから解放する時間をとってください。感情や頭のおしゃべりばかりを聴いてしまっているなと感じたら、高い次元の声を聴くように意識をしてください。魂に響く声がきこえてくるはずです。

 

 

2021年

6月

28日

言葉の毒

 時々テレビなどに、「毒舌タレント」「毒舌芸人」なる人たちが登場し、しばらく面白がられては消えていきます。これまで、ただ毒舌だけを売りにして、長く人気を保つことができた人はいないように思います。一言で毒舌といっても、厳しい言葉の裏に愛が感じられる場合もあります。それとは違って、ただ誰かの悪口を言ったり、物事を罵倒する言葉を吐くだけの毒舌は、一時的にウケることがあっても、やがて飽きられ、本人もだんだん行き詰まっていくようにみえます。

 

 そういった芸能人や有名人に限らず、毒を吐いてばかりいる方々をみていると、次第に顔相や、纏う雰囲気も変わっていくのを感じます。言葉もエネルギーなので、口から出た毒によって、自分のオーラ層もどんどん汚れていくのでしょう。

 

 「呪詛」というのは、言葉の力でもって他人を呪うことです。言葉は、魔力を持ち得るほどパワフルなものなのです。エネルギーフィールドに、呪いからくるブロックがある場合は、本格的な浄化が必要な場合もあります。

 

 遠い昔、誰かからかけられた言葉に、長年苦しむこともあります。多くの場合、言った本人より、言われた方がいつまでも覚えています。そもそも、その言葉に執着し、手放さずにいるのは、言われた本人の意思がそうさせているからです。よく、「あの人があの時私に言ったことは、一生忘れない」といったことを言っている人がいますが、それは、その言葉によって今後も呪縛され続けることを自ら宣言しているようなものです。

 赦し、手放すことによって、言葉によって受けた心の傷は癒すことができます。本人が心の底から望みさえすれば。言った本人も忘れているような言葉をいつまでも引きずり、思い出しては怒りに燃え立たされるより、理解をもって赦し、愛と共に手放した方が、千倍楽です。人生のどこかでそれをやらない限り、残りの人生をずっと、言葉の毒に侵されたまま、恨みと共に生きることになります。

 何度も言いますが、この世で一番強いのは愛のエネルギーです。自分を苦しめてきた言葉に、今後も苦しみ続けたくなければ、愛の力で浄化するしかありません。憎しみが解決してくれることは絶対にありません。

 

 

 そもそも言葉の毒に侵されたくなかったら、毒々しい言葉を吐く人を見ない、聞かない、距離を置く。もし、不可抗力で言葉の毒を浴びてしまったとしても、それを自分の中にとどめておかない。その人が吐いた言葉は、その人の内側を反映したものです。たとえ自分に向けられたとしても、個人的に受け取らないことです。自分はたまたまそこにいただけです。