2018年

11月

07日

人の感情を受けない

 他人の感情に敏感な人は、例えば誰かに怒りをぶつけられた時などに、まるで見えない鉄砲に打たれたかのように衝撃を受けます。ネガティブな感情が持つ威力というのはとても強いので、一瞬受けただけの感情の爆発の衝撃が、いつまでも尾を引いて影響を与え続けることだってあります。

 

 過去に受けた他人の感情の爆発に、いつまでも苦しめられたくはないものです。私も長いこと、この”感情の衝撃”を思い返しては、その都度衝撃がフラッシュバックして落ち込む、という経験を繰り返してきました。

 他人の反応や感情に対して、自分のとらえ方が変わってから、このループからようやく抜け出すことができるようになりました。

 

 その人がどんなにネガティブな感情を自分にぶつけてこようが、その感情の出処はその人であって、私ではありません。その人の中の何かが、私という対象に反応して、怒りやら悲しみやら恨みやらの感情を生み出したわけです。その人がそのような反応をしている理由は、その人の内面的な問題です。私はそこには関係がありません。他人が何に反応するかなんて、私には一切責任がないことです。たまたま対象が自分だっただけです。

 誰かの内面の問題にまで、私が責任を負う必要はありません。もしその人が、自分の内側に抱える問題を解決すれば、もう私には怒りをぶつけてこないかもしれません。そして、その人ではなく別の人だったら、同じ「私」に対して、全く別の反応をするかもしれません。人が何に反応して、その時にどんな感情が生まれるかなんて、その人の内面次第で千差万別です。私がどうだからということではないのです。全て、その人の内側の問題です。

 

 だから、どんなに怒りを爆発させている人がいたとしても、どんなに攻撃的な感情を向けられとしても、それを個人的に受け取る必要がないわけです。私の個人的な問題ではないのですから。

 

 もし、人から非難されたり攻撃をされた際、その時の自分にも非があると思うのだったら、それはそれで個別に反省をすればいいだけです。ただその時に、相手から沸き起こっている”感情”まで受け取る必要はありません。感情の渦から離れて、ただその現象から学び取れることにだけ目を向ければいいのです。

 

 

 自分の感情と、他人の感情の区別をしっかりつけることも大事です。これは自分のものなのか、相手のものなのか。自分の感情には責任を持つ必要がありますが、人の感情に対してまではその必要がありません。きちんと区別ができないと、ただスポンジのようになって周囲の想念を吸い取り、翻弄されてしまいます。人の感情や想念に意識的になって、冷静に対処すれば、それに飲み込まれることも、圧倒されて何もできなくなるようなこともなくなります。

 

 それでももし、誰かのネガティブな念を受けてしまったと感じる時は、自分でヒーリングをします。瞑想をしたりお風呂に入ったりエッセンスを飲んだり眠ったり、できることは何でもします。そして、自分のエネルギーフィールドに光を通すようにします。ネガティブな想念は攻撃力はありますが、所詮低い波動のエネルギーなので、光を当てられると消えてしまいます。

 

 ちょっとしたコツとテクニック、そして訓練が必要ですが、私はこれで人の想念に振り回されることが劇的に減りました。

 

2018年

10月

31日

自己価値を高めるには

 割と最近(といっても2015年ですが)出た、『Worthiness(ワージネス)』というアンジェリックエッセンス。うぶすなでも使用頻度が高く、すぐになくなります。これは、その名の通り”自己価値”を高めてくれるエッセンスです。

 

 ナルシストタイプの人や、エネルギーバンパイアの餌食にならないためには、自分という存在を確固たるものにしておく必要があります。自分以外の誰かの言葉に左右されたり、意のままに操られたり、労力や金銭をもぎ取られるような状況にいる時というのは、大体自分がどこかに置き去りにされています。

 

 ”私”はどう感じているのか。”私”はどうしたいのか。”私”はどの道に進みたいのか。こうした意思や気持ちは、本当はどの人の中にもあるものです。けれど、自分をなおざりにする習慣が長く続いて、それが当たり前になっていると、心の声を無視したり、聞こえないフリをしたり、抑え込んだり、ということを無意識で行ってしまいます。

 

 しかも、心の底から他人に同意して合わせているわけではなく、どこかで自分の本当の望みや気持ちを抑圧した状態で他人に無理やり合わせていると、怒りや悲しみといった鬱屈した感情も同時に抱え込むことになります。

 

 更に、「いい人」を演じる傾向がある人は、こうした鬱屈した感情をネガティブなものとして否定し、そういう感情を抱いている自分もまた許せません。自分を押し殺し、他者に合わせ、表面上は従順ないい人を演じていながら、内側にはずっと、自分を認めてもらえない悲しさや、理解してもらえない悔しさ、気づいてもらえないことに対する怒り、フラストレーション、などを蓄積していきます。

 

 長い間他人(家族も含めて)に合わせて自分を造り上げてきた人が、そんな自分に気づき、変わりたい、これからは自分の本当の気持ちに正直に生きよう、と決心した時、まず最初に取り掛からなければいけないのは、心の中にたくさんため込んできた、負の感情を吐き出すことです。蓋をして、我慢して、見ないようにしてきた自分の内面に向き合い、そこに何があるのか、正面から向き合う時間が必要になります。それは勇気がいることです。怒りや恨みなんて、自分が持っていたくはない感情なのですから、それが「ある」ということ自体、認めたくないかもしれません。

 

 けれど、前に進むためには、心の浄化が不可欠ですし、自分のありのままの姿を認めて受け入れられていなければ、他者に振り回されることのない、芯の通った自己を確立することは難しいです。自分の過去も、弱さも、全てひっくるめて自分という存在を受け入れられなければ、どこかで自分をいじめる構造が残ります。自分に認めたくない一面があったり、自分を責め続けていると、意地悪な人や妨害してくる人を引き寄せたり、肝心な所で夢が叶わなかったり、自分が不幸になるシチュエーションを創り出すことになります。

 

 なんだかしっくりこない今の状況があるとすれば、本当の意味で自分が幸せになる許可を、自分が出していないからです。自分を責めていたり、私なんか取るに足らない存在だと、どこかで価値を低くしてしまっていると、世界はその通りになります。価値のない(と思っている)自分に見合った状況が創造されていきます。

 

 

 自己価値を上げる方法は様々ですが、まずは取り掛かりとして、自分の気持ちに素直になることを何より優先させてやってみてください。自分が率直に感じていることを否定しない。責めない。どんな感情が湧いてきたとしても、それをそのまま認めて受け入れてあげる。どんな風に感じていようが、とにかく自分を否定しない。誰が何と言おうと、私は今、こう感じているのだから、そんな自分をまず受け入れてあげる。

 

 否定せずに、受け入れることで浄化が進みます。否定している間は、どす黒い膠着したエネルギーとして、悶々と抱え込むことになります。手放したかったら、認めて光を当てるしか方法はありません。それを繰り返していくうちに、自分を責めるパターンから少しずつ脱却していき、エネルギーフィールドがクリアーになっていきます。暗闇に光が差し込むと、暗闇が消えてなくなるように、負の感情を消すには、そこに光を注ぐことです。

 慣れてくれば、淡々とこの作業を行えるようになります。内面が浄化されていけば、自然と自己価値も高まり、自分という存在を大事に扱うようになっていくでしょう。

 

2018年

10月

23日

組織からの脱却

 子供の頃に読んだもので、魂の深い部分に響いた記憶がある本がいくつかあります。プロイスラーという人が書いた、『クラバート』という本がそのうちの1つです。私はこの本を確か小学校の高学年くらいの時に読んだ記憶があるのですが、読み終わった後になんともドシーンと残るものがあったのを覚えています。

 その時には、まだこの本の真のメッセージ(私の勝手な解釈かもしれませんが)に明確には気づいていなかったと思いますが、大人になってからこの本のことをふと思い出した時に、「あ、あの本は、支配からの脱却を示唆しているんだ」と感じました。

 大人が読んでも十分に心に響く内容なので、ご興味があればぜひ読んで頂きたいのですが、親方(水車小屋にいるが実は魔法使い)に弟子入りしたクラバートという少年が、親方の下で修業しているうちに、親方の裏の顔に気づき、ある時意を決してその呪縛から逃れる行動に出る・・といったお話です。私はなぜかこの本のことを、大人になってからジワジワと思い出すことが増えました。親方の下に導かれるようにして弟子入りをし、その後親方の本当の姿を知ることになって、不条理に従うことに違和感を覚え、そこから逃れることを考え始める。けれど、一度組み込まれてしまった支配構造から抜け出すのは、そう簡単なことではなかった・・

 最終的には、クラバートは恋人の少女の助けを借りて脱却を果たすのですが、この物語には、示唆的な出来事がたくさん散りばめられています。親方自身も、実は大親方に支配されていて逆らえない状況であること、盲目的に服従する弟子達の姿、逆らおうとしたが、やり方がまずくて身を危険にさらすことになった兄弟子、不安によって自由が奪われ、逃げるという発想すら湧かない異常心理状態など。現代社会においても、組織やグループの中では、こういうことって実はよく起こっているのではないかと思います。

 

 

 最近、娘の仲の良い友達や、知り合いのお子さんが、立て続けに中学校の部活を辞めるという出来事がありました。どちらも、言葉の暴力がひどく、生徒を威圧的に指導する顧問の先生に耐えられず、心が折れてしまったのが大きな理由でした。中学生にとって、所属している部活を辞めるというのは、本当に大きな大きな決断です。どんなにつらくても、なんとか踏ん張って最期までやりきるか、思い切って辞めてしまって自由になるか。きっといろいろな葛藤があったと思います。肉体的にも精神的にも苦痛を感じながら続けるのは本当につらいことですが、辞めたら辞めたで、周りの視線が気になるし、辞めた自分に対する罪悪感や、後悔の念が湧いてきたりと、どちらの決断をするにしても苦しむものです。

 

 けれど私は、自分を追い詰めて取り返しがつかない状況になるくらいなら、いっそのこと今いる環境から思い切って自分を解放してあげて、一度リセットしてもいいのではないかと思います。逃げ、というとなんだかずるいことをしているような響きがありますが、こういう状況では、逃げるというのは身を守るための1つの手段でもあります。逃げるというか、脱出、といった方がいいかもしれません。

 辞めたお子さんのお母さんは、「子供が逃げ癖がついてしまうのではないか」と心配をされていました。そう思う気持ちもわかります。けれど、自分が選んだ組織が、入ってみたら自分に全然合わないことが判明したり、実はとんでもない場所だったことに入ってから気づいたなんてことは、誰もが経験する類のものです。私もこれまでそんなことはたくさんありました・・

 そういう経験も、長い人生の中では数ある学びの1つとして、後々何かの役に立つのではないでしょうか。逃げとか失敗とかみるのではなくて、自分のことをより深く知るきっかけになった体験、今まで知らなかった世の中の現実を身をもって学んだ貴重な経験、ととらえれば良いのではないかと思います。一度こういう経験をすると(もしかしたら何度か同じパターンを繰り返してから気づくかもしれませんが)、自分というものがだんだんわかってきます。そして、世の中にはこういう人もいるのだなということも学び、身の処し方を学習します。

 この世は様々な波長の人が、ごっちゃまぜに存在しています。自分がどんな場所、どんな人と波長が合って、どんなことを本当はしたいと思っているのか。そういうことは、いろんな人と出会って、ウマが合ったり合わなかったりということを身をもって経験して、だんだんにわかっていくものです。それに、ある特定の人とはどうがんばっても波長が合わないということも、ごく自然に起こり得ることです。そういう人とはどういう距離感で付き合うのが良いのか、どうしたらお互いを傷つけずにうまくかわせるか、自分の中でどのように折り合いをつけていけば良いか、そういうことも、全て経験から学んでいくことです。

 

 中学生の部活は、根性論がまだまだ支配的なんだなと感じることが多いです。何十年も昔と変わっていないことが驚きです。でも、世の中や人々の意識は変化していっています。今の中学生も、私達が中学生だった頃とはだいぶ違う部分があります。繊細で、大人より物事をわかっているなと感じる子も多いです。そういう子は、普通に話せばちゃんと理解できるし、大人のことを冷静に見ているので、幼稚な振る舞いには拒否反応を起こします。それなのに、親や先生世代が昔の気質をそのまま引きずり、怒鳴ったり威圧したりすることがマイナスにしかならない子供にまでスポコン指導で接しているのを見ると、空回りしているのがどうしてわからないのだろうかと虚しくなりますし、羽をむしられている子供が気の毒になります。

 もちろん、昔ながらのスポ根気質にぴったりはまる人はそれで良いのかもしれませんが、違うなと感じる人まで、無理して自分を合わせる必要は1mmもないと思います。そんな環境に身を置いて、精神を蝕み、生きる気力までも失われるくらいなら、絶対に絶対に逃げた方が良いです。所属しているグループから出るというのは、本当にエネルギーが必要なことで、勇気と決断と相当な意思力もいります。誰か支えてくれる人がいると心強いです。自分を自由にしてあげた勇気をむしろ褒めてくれる大人がいれば、罪悪感を感じずに済むかもしれません。

 

 今の中学生に、不登校が増えているのも、世の中に対するメッセージなのではないかと感じています。昔から変わらない、同じやり方で、子供達を一緒くたに教育するやり方に、ひずみが出てきているのではないのかなと思います。

 合う子もいるかもしれないけれど、合わない子もいる。合わない子がはじかれてしまい、不必要な劣等感や自己嫌悪を抱くことがないように、個性が大事にされ、子供の選択を大人がサポートしてあげられるような環境が整っていけばいいなと思います。

 今の教育制度が悪いとか、そういう風には思いません。例えば我が家の子供達は、かつての私と違って学校が好きで、生き生きと通っています。親としても、本当に学校ってありがたい、日本の教育は素晴らしいと思うことがたくさんあります。けれど、学校という組織に馴染まない子供がいることも事実ですし、そういうお子さん達が辛い思いをしているのを見ると、私も辛くなります。

 私は今年PTAをしているので、時々子供の学校に行くのですが、自習室という教室の前を通ると、必ず毎回、数人のお子さん達がいます。教室に入ることができずに、一日を自習室で過ごすのです。私自身も、学校が好きではなかったので、教室に行くのに勇気がいる気持ちがわかります。中には、自習室にさえ行けずに、ずっと家にいるお子さんもいます。私は、そういう子達に、本当は声をかけて励ましてあげたいのですが、そんな立場ではないしきっと望まれてもいないので、ただ心の中でエールを送って通り過ぎるだけです。

 学校という組織や、今の教育制度が、どうしても合わない人がいるのも、自然なことだと思うのです。学校や今の教育制度を糾弾するつもりはなく、むしろありがたいと思っているのですが、合わない子に対する救済制度が、もっと充実したら良いなと思います。合わないということは、自然の摂理として起こっていることで、怠惰でも罪でもありません。努力したけれどダメだったことなど、誰にでも経験があると思います。自分に嘘をついてまで、何かに無理やり合わせることは本当に苦痛です。逃げ道は、用意されているものだと思います。罪悪感を感じずに、勇気をもってそちらに踏み出してみたら、案外すんなり進めたりするかもしれません。

 

2018年

10月

22日

理想の指導者

 自分自身や、自分の内なる声に対する信頼感が低かった時。私にとって理想の”先生”は、私がどのような道を進むべきか、アグレッシブに助言をしてくれるタイプの人でした。あなたはこういう人なんだから、こういう事をした方が良い。あなたの使命は○○なのだから、この道に進みなさい。こういう方法でやりなさい。そんな風に、具体的にハッキリと、道を示してくれるような人に惹かれていました。そして、その先生の下で、その先生の助言に従い、その先生のやり方を踏襲することで安心感と自信を得ていました。

 今振り返ってみれば、自分自身で考え、道を切り開いていく勇気がなかったのだと思います。誰かに依存することで、安心とそこそこの成功は約束されていたかもしれないけれど、その分自由と個性と成長は制限されていました。力を持つ人の門下に入れば、その知名度や影響力の恩恵を受けて、自分もある程度活躍の場が持てたりします。けれどその分、師匠に対する絶対服従は逃れられないし(意見をするなどもってのほか)、決められたやり方から外れるようなことができないので、次第に窮屈さを感じるようになるのです。また、自力で考えたり、大きな挑戦をすることがない状況というのは、失敗がない分、学びも少ないです。安定と安心が一番だと考える人もいるのかもしれませんが、私には、自由と変化が限られた環境は耐えられませんでした。

 

 

 今の私が感じる理想の指導者は、決して自分のやり方や考えを押し付けないタイプの人です。相手の成長と幸せを心から望むのであれば、自分に服従させることではなく、その人が個性と能力を最大限に花開かせられるような、自由な環境を与えるはずです。適度に助言を与えつつ、最終的にはその人が自立できる道へと導いてあげるのが、真の指導者だと思います。

 誰もが、本当は自分の望みが何なのか、心の底では知っています。悩んだ時、迷った時も、本当は、答えはその人の中にあります。誰かに教えてもらう必要はないのです。指導者ができることというのは、テクニカルなコツを教えてあげること、希望を持たせてあげること、励まし背中を押してあげること、そして最後に手を放してあげること。そんなものではないかと思います。

 

 自由ほど尊いものはないし、その自由を相手に与えられるかどうかは、その人の魂の成長レベルと心の広さにかかっているように思います。賞賛と金銭に目がくらみ、自分を頂点としたヒエラルキーを造り上げることに執心している指導者は、欲とエゴに憑りつかれています。与えられた力をどのように使うかが、人間として試されている部分かと思います。

 

 

 

2018年

10月

19日

知ることの大切さ

 これまで、「サイコパス」と「ナルシスト」について書いてきましたが、それぞれ程度の差や性格的な特徴などは個人差があります。また、サイコパスなどは先天的な要因も大きいですが、育った環境によっては、上手く社会に適応できている場合もありますし、表に出ている状態は様々かと思います。

 

 また、サイコパスと一見誤解されてしまいそうなタイプとして、アスペルガー症候群等があります。アスペルガーの方は、一般に共感能力が低く、コミュニケーションが苦手であるといわれますが、良心が欠如しているわけではありません。生まれつき良心を持たないサイコパスとは、そこが大きく違います。

 

 

 私がこのブログでこういったお話をするには、理由があります。それは、知るということは、受け入れることにつながるからです。それから、相手を知れば、自分がどのように振る舞えば良いのか、どのような関係でいることが賢い選択なのか、判断がしやすくなります。最近、サイコパスやソシオパス、発達障害といった心理学用語が、広く認知されるようになってきました。大人になってから、自分が発達障害であったことに気づき、それまで自分でも不可解だった自分自身への理解が深まった、という方もいます。また、家族やパートナー、親しく接している人がそういうタイプだったことを知り、それまで理解することができずに苦しんでいたけれど、適切な接し方がわかって関係性が良くなった、というケースもたくさんあります。

 

 

 このブログを読んでくださっている方は、繊細で気持ちが優しく、エネルギーに敏感なタイプが多いかと思います。そういう方というのは、サイコパスやナルシストのような強いエネルギーを放つ人を目の前にした時、よほど自分の軸を保っていないと、簡単にエネルギーを持っていかれる危険性があります。相手の強い渦に巻き込まれないためにも、まずは「知る」ということが大事かと思います。世の中には、自分の欲望を満たす為に他人を平気で利用する人が存在すること、そしてそういう人は、簡単に騙されてしまう心優しい、少し自分に自信がない人達を終始ハンティングしている(自分になびかせる術を心得ている)こと、一度餌食になるとなかなかマインドコントロールから抜け出せなくなること。

 少なくとも、知識があれば、いざそんな人が現れたとしても、自分の中で危険信号が灯り、”危ないよ。距離を置いた方がいい”と内なる声が教えてくれるかもしれません。

 

 あとはやはり、自分軸をしっかり保つ努力はした方が良いと思います。私もそうでしたが、自分の中で確たる自信が定まっていないと、誰か強い人に導いてもらいたい、という気持ちを抱きがちですし、そうした方が楽だったりもします。誰かが言うことに無条件に従っていればいい状態というのは、あれこれ考えたり悩んだりする必要がないし、心強かったりもします。けれど、自分を抜きにして他者に合わせ続けていると、必ずどこかで違和感を感じることが出てきますし、成長も限定的なものになってしまいます。自由と飛躍を心から望んでいるのであれば、誰かの言うことを聞いていさえすればいい、誰かのマネをしていればいい、という制限された環境は、いずれ窮屈に感じるようになっていきます。

 何かを学ぶ時、先生や師匠の下で学ぶことはもちろん有意義なことかもしれませんが、自分を全て明け渡す必要はありません。そもそも、本物の”先生”であれば、決して弟子を自分の思うように利用するようなことはしないはずです。一見、いかにも弟子のことを最優先に考えているように見せていても、実は自分が神のように崇められることで優越感に浸っている人もいます。そういう人は、いつかどこかでボロが出ます。見抜く目を持っていれば、しばらく一緒に過ごせば気づくはずです。

 

 習っていた先生が、弟子達の崇拝を受けるうちに、気分が良くなり、どんどんエゴが肥大化していく様を目の当たりにしたこともあります。人に何かを教える立場の人というのは、よくよく気を付けなければ、いとも簡単に蛇の道に転げ落ちる危険性があります。

 

 

 自分が騙す方にも騙される方にもならないように、人とは適切な距離を保って接する。どうにもならない状況からは、潔く身を引く。どうにもならない人とは、縁を切る(同情心からずるずる付き合っても、双方の為にならない)。相手を変えようとしない。責めるのではなく、理解しようと努める。どうしても逃れられない状況であれば、ポリティカリーコレクトなやり方で、主張や抗議をする。相手が抱えている問題は、相手のもの。そこに自分が絡んでいたとしても、それは相手の問題なので、個人的に受け取らない。自分は自分の問題だけにフォーカスしていればよい。

 

 現実世界を上手に乗り切るために、こんな感覚で人との関係性をとらえるようにしています。

 

 

2018年

10月

16日

ナルシスト

 前回のブログでは、サイコパスについて紹介しました。サイコパスに一見似ているタイプとして、「ナルシスト」があります。サイコパスと共通しているところは、

 

●自己中心的で、自尊心が強い

●自分の欲求を満たすことに労力を惜しまない

 

 あたりかと思われます。サイコパスと違うのは、ナルシストタイプは感情が人並みにあり、良心も持ち合わせていることです。後悔や葛藤を感じ、内面的には実は苦しんでいる所がサイコパスと大きく異なります。また、サイコパスが自分の目的を達成するために手段を選ばないのに対し、ナルシストはある程度常識の範囲内で行動します。自分がかわいいので、批判されたり世間からブロックされることは根本的に恐れています。ただし、自分がかわいい余り周囲が見えなくなっていることもあるので、普通の感覚では考えられないような、突拍子もない言動をとることも時々見受けられるかもしれません。これは、人を傷つけるのが平気なわけではなくて(サイコパスはここが平気)、気づいていないか、見えていないだけです。

 

 ナルシストタイプの人は、人生のどこかの時期において、自尊心を傷つけられたり、自信を失うような経験をしています。と同時に、心の中で「自分は本当はこんな扱いを受ける人間じゃない。自分の人生はこんなことで終わるはずがない」という思いを抱いています。傷ついたプライドと、肥大化したプライドが共存している状態です。そして、再び人生のどこかの段階で、自分のプライドを奪回させられるようなチャンスに出会った時、それまで眠っていた、”自分をもっと認めてほしい”欲求が爆発するのです。

 

 ナルシストが持つ自信には、傍から見ると根拠がないものがほとんどです。一体なぜこの人は、こんなに自分に自信をもっているのか、一体何がすごいのか、他人からしてみれば「さほど大したことない」程度のことであっても、ナルシストはその空虚な自信を生きるよすがにしています。また、容姿はそこそこだったり、良くても人並みより少し上くらいであることが多いのですが、ナルシストは、自分は容姿が大きな武器で、この上なく魅力的であるという幻想に浸っています。

 その他の能力も、ずば抜けて優れていることは稀で、大概メインストリームで活躍していることはありません。ナルシストは基本的に謙虚さが足りないので、さほど努力をせず、自分を客観的に分析する能力もないので、実力も名声もある程度のレベルまでしかいかないものです。

 華やかな世界や、人の上に立つポジションに憧れるので、講師業やインストラクター、タレント(二流以下の)、ヒーラーもどき、飲食業、などによく見受けられます。またヒモやヒモ的な生活を送っている人にも、このタイプが多いようです。いつまでも非現実的な夢を追い続け、自力で生活ができていないのに、「自分はこんなもんじゃない」と言い続けたり、実現不可能な将来設計をとうとうと語るような人です。

 

 ナルシストは、冷静な目で見れば、自分が見えていない、エゴが肥大化した虚しい人物なのですが、どういうわけかその空虚な自信に惹かれ、吸い寄せられるように近づいてしまう人がいるのも事実です。かくいう私も、過去何回か、ナルシストタイプの”先生”にエネルギーを吸い取られた経験があります。

 

 ナルシストに引っかかってしまうタイプにも、特徴があるように思います。

 

●優しい

●エネルギーに敏感(憑依体質)

●人が言うことをすぐに信じてしまう

●自分や自分の考えに自信がない

●人に尽くすことで充足感、あるいは安心感を得られる

●向上心はあるのだけれど、1人で切り開いていく勇気がない

●誰か強い人についていけば、自分の人生が好転するだろうと期待している

●判断を他人に委ねがち。または、他人に決めてもらわないと行動できない

 

 このようなところでしょうか。ナルシストは、自信がなく、共依存体質で、誰かに自分を認めてもらいたがっている人を見つけると、甘い言葉や時には強い言葉を使って、巧みに自分サイドに引き込もうとします。一方で、どういうタイプなら騙せるかということに関しては勘が鋭く働くので、騙せないタイプと知ると、サッと手を引きます。

 

 ナルシストが苦手なタイプは、自信があり、現実的で、自分の考えをしっかり持っている、軸が定まった人です。そういう人には、自分の弱さや足りない部分を見破られることを知っており、どこかで恐れているのでしょう。

 ですから、ナルシストにうっかりハマらないためには、自分がそのような人物になれば良いわけです。

 

 私が過去に、ナルシストから自分を解放できたのも、自分の「軸」がだいぶ固まってきた頃でした。そして、ナルシスト先生の矛盾に気づき始め、次第に違和感を覚えるようになっていったのです。ナルシストは、常に自分が一番でいたいので、弟子が自分より秀でたり、自分よりちやほやされるような状況は決して認めたがりません。指導を受けながら、そこはずっと牽制されているのを感じていました。要所要所で、聞いてもいない過去の自慢話をふってきたり、「あなたは私の下」というニュアンスの言葉を使ってきました。そして、私が先生の矛盾しているセリフを指摘した際、それまで見たこともない程動揺し、赤面して早口で言い訳をまくしたてました。それは支離滅裂で、論点も定まらない、まるで子供のような言い訳でした。ナルシストがボロを見せる時というのは、人物が違っても、おかしいくらい似ていました。

 

 私はこういうレッスンを何度か経験して、ようやく自分の弱さと、真の意味で自信を持つということの大切さを学びました。それから、人を見る目も養われました。今では、なぜか自信たっぷりな人を見かけても動揺することはありません。本当に自信がある人は、決してそれを表に出そうとしないことを知っているからです。そして、魂が磨かれていけばいくほど、人は謙虚になります。自分をよく見せようとしていたり、プライドや威圧感が前面に出ているということは、その人がまだ未熟で、心が満たされていないという証拠です。

 

 私は決して、ナルシストを責めるつもりはありません。その人なりの苦しみや悲しみがあることも知りました。彼らも、何かを学んでいる最中なのでしょう。ただ、私はもう、そういう人とは距離を置き、できるだけ関わらないようにしています。

 過去にそういった人と関わった自分を責めた時期もありまし、仕返しをしたいくらいの怒りを抱いていたこともありましたが、今ではどの経験も大切なレッスンだったと思えるようになりました。あの経験がなかったら、またどこかで同じような人といびつな関係性で繋がってしまっていたかもしれません。人を頼り過ぎず、内なる声を信頼しさえすれば、何も怖くないのだということも、紆余曲折を経てきたからこそ、たどり着いた答えです。

 

 もし、そういう人と出会ったことがあったり、今現在関わっている方がいたら、私が経験から学んだことが少しでも気づきの助けとなれば幸いです。

 

 

2018年

10月

15日

サイコパス

 「サイコパス」。割と最近、耳にすることが増えてきた言葉かもしれません。

 

 サイコパスというのは、心理学用語で、ある特定の人格的特徴を持った人のことを言います。サイコパスの特徴としては、

 

●良心がない(先天的に欠如している)

●感情が薄い

●罪悪感や後悔の念を持たない

●自己中心的で、他人に同情することがない

●自分を守るためや、自分の利益を優先させるために、平気で嘘をついたり、人を騙したり傷つけたりする

●自尊心が高く、自分をよく見せるために手段を選ばない

●失敗したり責められても反省することがなく、平然と同じ行動をとり続ける

 

 といったようなことが挙げられます。脳の作りが普通の人とは異なるという、身体的な特徴も最近ではわかってきています。つまり、サイコパスというのは生まれながらにしてサイコパスなのであって、環境や教育次第でサイコパスを変えられるというものではないのです。社会の中に一定数(欧米では3~4%等といわれる)存在しているといわれ、私達の身近にも普通にいると考えられます。おそらく、どの人でも過去に一度や二度、サイコパスとは絡んだことがある(もしくは今現在関わっている)のではないでしょうか。

 

 サイコパスの人の中には、IQが高く、教師や弁護士、医者といった専門職に就いている人もいれば、社長やカリスマ経営者のような立場にいる人もたくさんいます。感情に動かされることなく、瞬時に冷静な判断がくだせるので、人を束ねたり、リーダーとなるのが得意な面もあるのです。また、サイコパスは比較的容姿に優れ、口達者で人を引き付ける魅力を持ち合わせている人が多かったりします。そういった人が悪の道に暴走してしまうと、カルト宗教のグルや、独裁者、凶悪犯罪者、詐欺師といった存在になりがちです。人を傷つけることを厭わず、他人は全員自分の駒としか見ていないので、どれだけの人が苦しもうが、どれだけの人に恨まれようが、自分が気持ちよければ、自分が得をすれば、それで全てOKなのがサイコパスの特徴です。

 また、サイコパスは決して自分を顧みたり反省することがないので、たとえ自分のとった行動が多くの人に批判され、普通の人なら立ち上がれないくらいの手ひどいバッシングを受けたとしても、驚くほど平然とまた社会に舞い戻ってきます。サイコパスには、そうした手打ちは全く意味をなしません。カエルの面に・・というくらい、世間からの叱責など気にも留めていないのです。おそらく、死ぬまでそれは変わりません。

 

 ここまで書いて、「あー、いるいるこういう人」と、何人かの有名人の顔が浮かんだかもしれません。しかし、サイコパスというのは、必ずしも社会の中で派手な地位に就いている人ばかりではありません。私達が日常的に接している人の中にも、十分サイコパスが紛れ込んでいる可能性はあります。私自身も、これまでに出会った人を振り返ってみると、幼少時から含め、数人思い当たります。

 こちらの良心を無残に裏切られ、びっくりするような仕打ちを受けたことが何回かあります。その時は、サイコパスという言葉も存在も知らなかったため、ただただ悲しく、ショックを受け、落ち込んだものです。そしてその後、どうしてあんな人を信じてしまったのだろうかと、自分を責めました。世の中には、このように平気で嘘をつき、人を騙し、そして全く罪悪感を抱くことのない人がいるのだ、と知りました。

 

 気持ちが優しく、奉仕の精神にあふれている人は、サイコパスの餌食になりやすいので、要注意です。

 

 サイコパスの人は、誰にも救えません。生まれてから死ぬまで変わらないのです。助けてあげたいとか、教えてあげたいとか、変えてあげたい等と思わない方が良いです。自分が消耗します。もしサイコパスと思われる人と関わっていたら、とにかく距離を置くこと。極力関わらないのが得策です。

 サイコパスの人は、人の感情は”理解”することはできませんが、知識や経験として”知る”ことはできるようです。例えば、怒りや悲しみを抱いている人がいたとしたら、一般的な場合、その感情を自分も同じように感じ、同情したりします。ところがサイコパスは、感情そのものを自分が感じることがほとんどありませんから、同じように”感じる”ことはできません。その代わり、「こういうことを言ったら人は”怒る”のだな」とか、「こういうことが起こると、人は”悲しむ”のだな」といったように、知識として感情を”知る”のです。そして、自分を優位に立たせるために、今度はその感情を上手く利用するようになっていきます。

 感情に自分が動かされることがありませんから、人が感情で動くということを経験で知った後は、とても冷静に、そして狡猾に、感情で人をコントロールしたり、打ちのめしたりして、自分の都合の良いように他人を操ろうとします。時には、涙を流したり、感動しているふりをしたりして、他人の同情を誘ったりもします。それは、「涙を流すと人は優しくしてくれる」「感動した様子を見せると、自分の味方になってくれる」という知識を上手く利用しているだけで、本当に悲しかったり感動しているわけではありません。

 

 気持ちが優しい人は、サイコパスのそういった狡猾さを、見抜く目を持ってください。残念な事実かもしれませんが、この世の中は、良心のかけらを持たない、こうした人が一定数存在しているのです。自分を守るために、そうした人から距離を置いてください。

 

 スピリチュアルな団体のグルを名乗っている人や、自己啓発系のセミナーを開いている人の中にも、サイコパスは潜んでいます。彼ら・彼女らは、気が弱く、自分に自信がなく、でも何か変わりたいと思っている人を利用するのが得意です。ある特定の手法を使って、耳に聞こえの良い言葉を使い、自分についてくれば幸せになれるよ、人生が好転するよ、お金持ちになれるよ、と上手に誘導していきます。または、敢えて恐怖心を煽るような脅しをかけてくることもあります。恐れが人を操る最も簡単なツールであることを知っているのです。自分に自信がない人は不安をたくさん抱えているものなので、そこを上手く利用しているのでしょう。そしてそういう人は、堂々とした振る舞いやカリスマに弱いということも知っていますので、自分を神のように見せたり、見た目や雰囲気を作ることに労力を使います。

 

 もし騙されたり、一時でもついていってしまった経験がある方も、どうぞご自分を責めないでください。人は経験しなければ本当の意味で学ぶことはできません。人生で起こるどんな出来事も、自分にとっては貴重なレッスンであり、成長のために必要なステップだったはずです。その経験を活かし、これからの人生と、社会に役立てていきましょう。

 

 それから最後に、サイコパスに一度でも痛い目にあわされたことがある経験がある方は、どうしてもゆるせない、という怒りの感情が湧いてくるかと思います。けれど、怒りは自分の意識を汚します。一銭の得にもなりません。サイコパスはサイコパスで、何らかの役割があってこの世に存在しています。彼ら・彼女らの存在を否定するのではなく、葛藤はあるかもしれませんが、存在自体は受け入れるようにしましょう。罪を憎んで人を憎まず。自分の受けた傷は自分で癒し、他人を恨まないようにしましょう。

 

 

2018年

9月

27日

親の器

 子供がまだ幼い頃、中学生や高校生くらいの大きなお子さんを持つお母さん達を見ると、

 

「あんなに大きくなったら、さぞかし手がかからなくて楽なんだろうなあ」

 

 と思っていました。そして実際、「お子さんが大きいと、手がかからくなって楽になりますか」と質問したりしていました。すると、大体似たような返事が返ってきたものです。

 

「物理的な世話は減るけど、精神的な負担が増える」

 

・・・自分の子供が思春期に入った今、その時のお母さん達の気持ちがとてもよくわかります。確かに、自分のことは大体自分でできるようになったので、母親としての物理的なお世話といえば、ご飯を作ることと洗濯をすることくらいで、小さかった頃に比べればものすごく負担は減っています。けれど、子供はもう、幼い頃のような能天気な世界にはいません。成長と共に、周囲のお友達や先生との関係、学校生活の中で出てくる問題、自分の将来に関する悩みなど、何かと心が揺さぶられる経験が増えてきます。そして、その都度こちらも心配し、気にかけ、親として何ができるかを考え、そして実行して(反発も受ける)・・と、小さい頃にはなかった心理的負担が生じるのです。

 人生で最も不安定な時期を過ごしている子供を受け止めるために、親としてドーンと構えていなければならないのだけれど、かといってこちらも親としては初めての経験なので、常に「これでいいのだろうか」「もしかしたら自分はものすごい間違いを犯しているのではないだろうか」といった疑問も拭えない状態です。

 

 それに、自分が子供だった頃と比べて、世の中も人の意識も、だいぶ変わっています。だから、かつて自分がこうだったからとか、普通はこういうものだからといった因習や常識も、今の時代や今の子供達には、あまり当てはまらないと感じています。子供自身が、そういう古い考えや決まりきったやり方の押しつけを嫌いますし、無理矢理大人のいうことをきかせようとしても、反発したりおかしくなったりして、うまく回らないことが多いです。

 

 最近、スポーツの世界でも、子供自身がとても生き生きと動いており、そして従来考えられなかったような素晴らしい成績を収めているチームを見ていると、束ねている監督さんが、子供の自主性を大事にして、あまり自分の考えを押し付けないようにされているのがわかります。そういう監督さんは、子供がどのような環境で潜在能力が開花するかをちゃんと理解されていて、その能力をつぶすことなく、いかに伸び伸びと実力を発揮できるかということに気を配っているようにみえます。子供自身が、それぞれ自分の考えを持ち、どのようにしていくのが良いかを本当は「知っている」のだと気づいているのだと思います。だから、大人が必要以上に口出しをしたり、子供の考えを押しつぶすような雰囲気を作らないように気を付けているのでしょう。

 

 ただし、いくら自分の意思をもつ子供であっても、ほったらかしにされたり、何をやっても許されるような環境に放り込まれたら、やる気も湧かないでしょうし、無秩序の中で混乱が起こります。ある程度の規律と、愛に基づいた叱咤激励は、子供が奮起したり頑張ろうという気持ちになるためには、必要不可欠なのかなと思います。根底では子供の能力を信頼して、大人が出過ぎることなく、伸び伸びとできる環境を作ってやりつつ、同時に適度な規律と緊張も持たせる。そういう匙加減が上手にできるような大人にならなければいけないと思っていますし、できればそういう大人が増えてほしいなとも思います。

 今はまだ、子供達を指導する立場にいる大人の中にも、昔ながらの一方的な教え方で、子供を威圧して恐怖心で抑え込もうとするようなタイプの方がたくさんいます。そういう関わり方をしている大人は、まず本当の意味で子供の心を掴むことができていないので、ある程度の所までは成績を伸ばすことができるかもしれませんが、限界があると思います。子供は委縮してしまうと、本来の力を最大限に発揮することができません。

 

 自分の子供が関わっている先生にこういうタイプがいると、自ら子供の才能をつぶしてしまっていることに気づかないのだろうかと、不思議に思い、教えてあげたくなってしまいます。けれど、親としてできることにも限界があります。相手を変えることはできないし、状況を全て変えることもできません。できる範囲で、できることをするしかないのです。

 子供がある程度大きくなってくると、そういう意味でも、親が口出し・手出しできる範囲がグンと小さくなってきます。自分の考えより、本人の選択と学びを尊重しなければいけない場面も増えてきます。人間として、精神的に鍛えられている時期なのだろうなと思います。

 

 

2018年

9月

21日

覚悟と勇気、そして忍耐

 うぶすなでは、お勧めのフラワーエッセンスをご紹介する際、バッチやパワーオブフラワー、オーストラリアンブッシュといった「お花」のバイブレーションが入っているフラワーエッセンスだけではなく、アンジェリックエッセンスも一緒にとることをお勧めすることが多いです。

 

 フラワーエッセンスには、ネガティブな感情や心の状態を和らげてくれる力があるので、一時的な感情の波が治まります。そうすると、物事を冷静な目で見ることができるようになり、目の前にある問題や現実に落ち着いて向き合えるようになります。今自分がどんな状態で、何が問題なのか、そして具体的に何をしたら良いのか、といった分析がしやすくなります。フラワーエッセンスを飲んだからといって、問題が消えてなくなるというわけではなく、問題に対処しやすくなる、という感じです。感情に支配されている状態では、問題を問題と認識することさえ難しいでしょう。フラワーエッセンスがもたらしてくれるのは、現実に向き合う力と、現実と上手に付き合っていく冷静さといえます。

 

 アンジェリックエッセンスは、フラワーエッセンスよりもバイブレーションが精妙で、人間の魂の領域に作用するといわれています。自分の身に降りかかってくる問題や悩みが、何かいつも似ているな、と感じるのであれば、それは魂のクセのようなものが引き寄せている可能性があります。もう解放されたと思っていたのに、再び似たような人と、似たような状況の下で、似たようなトラブルを抱えている・・そんなパターン化したサイクルから逃れられないような気がする時は、アンジェリックエッセンスを飲むことをお勧めします。自分の身に起こっている出来事の根本原因を、より深いレベルで癒すお手伝いをしてくれます。

 

 ただし、アンジェリックエッセンスを飲んだからといって、ただ何もしないうちに癒されたとか、気づいたら問題が解決していた、というようなことはまずないです(そうだったら楽でしょうけれど・・)。やはりそこにも、自分という存在に向き合う覚悟と、自分の内側を見つめる勇気が必要ですし、本来の自分に属さないものは徹底的に浄化し手放していくバイタリティ―も求められます。アンジェリックエッセンスを飲んでいると、自分の内側が見えやすくなります。明晰さが増し、気づきやすくなります。そして、もう手放したいと望んでいる場合、解放のプロセスをスムーズに導いてくれます。最短距離で導いてくれるようなイメージです。

 ですが、肝心の本人に、「変わりたい」「変わろう」という心構えができていない限り、いくらアンジェリックエッセンスを飲んだ所で、ほとんど変わらないか、表面的な変化が起こるにとどまります。

 

 あくまでエッセンスというのは(フラワーにせよアンジェリックにせよ)、準備ができた人のお手伝いをしてくれるものであって、大元にあるのは、その人の意思と決意なのだなと思います。

 

 人間の意識が変わっていく過程では、現象としても、様々な出来事が起こりやすくなります。そんな時、起こっている出来事に気持ちがゆすぶられたり、急な展開に圧倒されてしまったりと、心が動揺することも増えるでしょう。また、封印していた過去の記憶がパカッと蓋を開けたように出てきたりして、過去に受けた心の傷が再び痛みだすこともあるかもしれません。

 

 どうして今なのだろう、どうして私は今こんなに苦しまなくてはいけないのだろう。見たくないものは見ないまま、やり過ごすことはできないのだろうか。ずっと忘れていることはできないのだろうか。

 

 そんな風に思うかもしれません。辛くて逃げたくなるかもしれません。けれど、一度意識の覚醒が始まると、後にはもう戻れないものです。個人の力ではどうしようもない大きなうねりの中に、今私たちはいます。

 

 じゃあどうしたら楽になれるのだろうかというと、それはもう、「逃げないこと」。これしかありません。自分の元にやってきた大きな流れに逆らうのではなく、受け入れる。自分の内側からあふれ出てくる感情にも抵抗せず、出るがままに任せる。抵抗すれば、ますます大きくなるものです。拒むのではなく受け入れる。今目の前にある問題から目を逸らさずに、落ち着いて向き合う。そして、問題に向き合うと同時に、その問題を引き起こしている自分の内側も見つめてみる。この、内側を見つめる作業をしないうちは、いくら表面的に物事に対処していった所で、似たような問題が繰り返し起こることになります。

 

 現実的な問題に向き合いつつ、自分の内面にある闇や傷にも向き合い、癒し、浄化していく。このプロセスを、ただひたすら、淡々とこなしていく。求められるのは、勇気と忍耐です。

 

 意識の覚醒の途中でつらくなってしまったためか、フワフワした幻想の世界に逃げてしまって戻ってこられなくなっている方達もいますが、それはただの現実逃避といえます。いずれ現実に引き戻される時がやってくることでしょう。覚醒の道は孤独で地道な作業であり、夢見心地の空想世界で遊ぶ類のものではありません。

 

 己に向き合い、己の小ささを知り、謙虚に学ぶ。この姿勢を大切に、脇道にそれないように気を付けていきたいものです。

 

2018年

9月

04日

愛VS恐れと我欲

 ここ最近、世の中の動きを観察していると、以前にも増して、不正やごまかしなど、今まで埋もれていた隠し事が表面に出てくる事例が立て続けに起こっていると感じます。地球全体のエネルギー(波動)が上がってきているので、愛と対局にある、恐れや我欲に基づいた人々の動きがどんどん表面化し、禊が行われているようです。浄化のために、自然とあぶり出されてきているのでしょう。

 この傾向は、この先ますます大きくなると思われます。そういう流れのようです。

 

 これは、世の中全体の動きだけではなく、個人的な出来事としても起こっています。今まで自分の奥底にしまい込まれていた、恐れや不安、怒り、悲しみなどが、パカッと蓋が空いたかのように表に出てきている方が増えています。それは全て浄化のために出てきていることなので、これを機にしっかりと向き合い、自分を癒し、解放していくのが良いかと思います。一度そうなったら、もう元には戻れない(”気づかなかった”ことにはできない)ので、再び無理やり封印しようとしても、ものすごい抵抗が戻ってくるだけです。

 こうなった時に、自分の中から湧き出てくる諸々の感情を他人にぶつけようとしても、うまくいかないどころか、出したエネルギーが自分に戻ってくるだけなので、お勧めしません。「こうなったのは〇〇のせい」と、起こった出来事を自分以外の誰かのせいや、環境のせいにしたところで、本当の癒しは起こりません。一方で、もう自分に嘘をついて生きていくのはやめようと腹をくくり、今まで見ないようにしていた心の内面にきちんと向き合う勇気が持てた人には、見える世界&見えない世界からの強力な応援やサポートもやってきます。

 

 何かを始めようとする時、何かを決断する時にも、それが愛に基づいた選択であれば、たくさんのサポートがやってきて、まるで波に乗るかのようにスムーズに事が進んでいく、ということが起こりやすくなっています。反対に、恐れや我欲に基づいた選択であれば、上手くいかなかったり、妨害が入ったり、どんどん空回りして前に進めない状態が続いたり、場合によってはこっぴどいお仕置きが待っていたり、という状況が起こりがちです。このことは、何となく自覚されている方も多いのではないかと思います。

 私自身も、特に最近、このような「愛VS恐れ・我欲」の構造を目の当たりにする出来事が増えていて、結局根底に愛さえあれば、何も怖くないんだなという確信に至っています。例えば最近の例で言うと、娘の部活問題。本当に生徒のことを思いやったやり方ではなく、己のエゴを満たすために生徒を利用するような部活の運営は、結局うまく回らなくなるのだな、と感じています。そして、そんな部活で苦しんでいる中学生達を助けたい、何かできることがあったらしてあげたい、と望んでいたら、あちこちからたくさんの助けがやってきて、動かされるようにして動く流れになり、改善の方向に進んでいます。

 こんな風に、愛に基づいた願いを宇宙に放出していれば、パーフェクトなタイミングでチャンスがやってくるので、それが来たら(ピンときたら)すかさず行動に起こす。これを繰り返していれば、どんどん波に乗れて、どんどん望む方向に導かれていきます。ただし、何度も言いますが、恐れや我欲に基づいた願いは、大きな痛手を食らうことになりますので、十分気を付けてください。巷で売られている「引き寄せ」のツールを書いた本にも、そもそも我欲に基づいた内容のものが数多く含まれていますので、本物か嘘かを見極める眼力を持っていなければ、そちらに引っ張られて堕ちていく可能性があります。

 愛に基づいた引き寄せは、お金や名誉を求める引き寄せとはベクトルが違います。恐れや我欲に基づいた引き寄せは、いずれ必ず立ち行かなくなり、将来的に破滅の方向に向かっていくはずです。表面上のきらびやかな世界に惑わされることなく、芯をしっかり保って、自分の選択が愛からくるものなのか、それとも恐れや我欲からくるものなのか、どうぞご自身に問いかけながら進んで行ってください。

 

2018年

5月

29日

悩みを捨てたかったら

 フラワーエッセンスの売れ筋商品としては、「豊かさ」や「女子力アップ」「恋愛成就」をテーマにしたものが多いです。それと同時に、「浄化」や「手放し」系も根強い人気があります。

 

 何かを手に入れようともがくより、まずは必要のない心の重り(トラウマ、思い込み、とらわれ、執着、恐れ等)を外した方が、より心は軽くなり、本当の幸せに繋がりやすくなります。

 

 人が悩んでいる時というのは、何かに縛られている時です。何かを失うのが怖かったり、何かが手に入らないのではないかと不安になるから、自分の中で矛盾が生じてその葛藤に悩むのです。悩みから解放されたかったら、自分の中にある「縛り」を捨てると、悩みそのものが生じなくなります。外的な要因は、実はあまり関係がありません。不思議なことに、自分が内側で縛りから解放されると、今まで自分を散々悩ませてきた外的な要因がなくなったりします。周りの人や環境が自然と変わっていくのです。まずは内側で変化が起こり、その後外側に変化が起こります。

 

 フラワーエッセンスには、その人が何かに固執している時、そのとらわれを剥がしてくれる作用があります。何かにとらわれている状態というのは、その人にとって理想の状態ではありません。フラワーエッセンスは、その人がその人らしく輝いている姿に導いてくれるものです。

 

 

 自分が一度根本からクリアーになりたいという方は、2017年に新しく出た、アンジェリックの『Cosmic Reset』というエッセンスがお勧めです。とらわれている時というのは、とらわれているという事実にすら気づかないものです。こうしたものを飲んでいると、まずは自分が「とらわれている」「とらわれていた」という現実に気づかされます。そして、その後不必要な執着やら思い込みを手放すプロセスが始まります。エッセンスは、そのプロセスさえも助けてくれます。

 

(Cosmic Resetの解説です↓)

全てがふさわしい場と状態にあり、私たちは新たな人生に向けてリセットする準備ができました。コンピューターや電話等がさらによく機能できるよう時折リセットする必要があるように、私達も人生を時にはリセットする必要があります。リセットを行うと秩序が戻り、役に立たなくなった古いエネルギーが解消されて、私達のエネルギーや人生が洗練されて、新鮮さと明確さをもって進むことができます

~ネイチャーワールド㈱ホームページより引用

 

 

 私が浄化・手放し系のエッセンスを飲んでいた時のこと。ボーっとテレビを見ていた時、ふと

 

「今回できなかったら、次(の人生)でまたチャレンジすればいいんじゃない」

 

 という言葉が内側から響いてきました。いきなり響いてきた言葉には力があり、深い部分から強く訴えるパワーがありました。

 そっか、それもそうだ。何も今回の人生で、やりたいことを全て成し遂げようとむきになる必要はないんだ。できなかったら、また次の人生でやればいい。全然焦らなくていいんだ。

 

 そんな風に自然と思えました。あれもこれもやらなきゃ、やり遂げなきゃ、と少々気負い気味だった私は、なんだか肩の荷がスーッと下りたような感じがしました。案外、人生で成し遂げるべき課題は、実はそんなに数多くあるわけではないのかもしれません。神様は、一度にそうたくさんの宿題は与えないものです。その時その瞬間、自分の目の前にある課題を1つ1つこなしていけばいいのであって、結果や遠い未来のことは思い案じる必要はないような気がします。1つ1つこなしていったその先に、自然と道が拓いていきますし、学ぶべき課題は必ず学ぶことになっているから、環境や物質的な状況も自然と整います。

 

 長年しがみついていた心の縛りを取り外していくと、憑き物が取れたように心が軽くなっていきます。自分の外側でどんな嵐が吹き荒れていようと、内側が穏やかな状態であれば、苦ではなくなります。心さえ平穏を保っていれば何が起こっても大丈夫なんだとわかれば、外的な要因を怖がることもなくなっていきます。

 

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