しばらく前に、ある犯罪学者の方がユニークな防犯対策として、ある方法を話していました。
『泥棒に入られたくなかったら、家の前に花を植えることです。』
泥棒のような犯罪者は、エネルギーの高い場所を嫌うので、家の周りをキレイにしておくと、エネルギー(波動)が高まり、そういった人たちが敬遠して寄り付かなくなるのだそうです。
これは「割れ窓理論」といって、かつてこの理論を利用したニューヨークが犯罪率を大幅に下げたことが有名です。地下鉄の落書きを徹底的に消すなどして町の美化に努めた所、より大きな犯罪もどんどん減っていったのだそうです。
波動の法則から考えても、この理論はつじつまが合います。人間も物も場所も全て特定の周波数を発しており、似たような周波数を出しているもの同士は引き合い、逆に著しく異なる周波数を出すもの同士は反発し合い、自然と離れるようになっているからです。
友人関係のような小さな集団から、家族、学校、会社、地域、といった大きなグループまで、よく観察してみると、なるほど皆どこかで似たような波動を持っているもの同士がくっついているのが分かります。その中の誰かの波動が変わると、その人にとってそこはだんだん居づらい場所となり、更に大きく波動が変わるとやがて耐え切れないレベルとなり、そのグループなり場所から立ち去らざるを得なくなる、ということもよく起こります。
飲食店などを観察していると、そこの常連のお客さん達は、やはりそのお店の波動とマッチした人達なのだなあと感じますし、自分が何となくそのお店が気に入ったり逆に居心地が悪く感じたりするのも、波動が合う合わないが大きく関係していると思います。
学生時代、私は通っていた大学近くのフランス料理屋さんでアルバイトをしていたことがあります。ある時そのお店のオーナーが、
「やくざとかチンピラみたいな困ったお客さんが店に来た時、どうしたらいいと思う?」
と私に聞いてきました。しばらく考えて、よくわかりません、と答えると、
「そんな時はね、店の照明を思いっきり明るくして、思いっきり明るい音楽をかけて、店の中をワーワー楽しい雰囲気にするんだよ」
と教えてくれました。やくざとかチンピラのようなお店にとってあまり好ましくないお客さんは、明るくて楽しい雰囲気が嫌いなので、そうするとすぐに出て行ってくれるのだそうです。
これも割れ窓理論の一種かもしれません。というより、波動の法則を利用した対処法といえます。
自分にとって望ましくない人間関係に悩んでいたり、意に反してあまり好きではない人に付きまとわれて困っている時。そんな時、相手を傷つけることなく、自ら離れていってもらう方法があります。
それは、自分の波動を上げることです。
人との関係性に悩む時、私達はつい相手に理由があると考えて他人を責めがちですが、その人を自分の元に引き寄せているのは自分自身なのです。自分が発している波動にその人が引き寄せられてやって来ているのです。
もし、その人に離れていってほしかったら、自分の波動を変えるのが一番手っ取り早い方法です。波動が著しく異なるものは必ず離れていくことになっているからです。それは自然に起こります。相手を変えようとしてもトラブルの元ですし、エネルギーを無駄に使うだけです。
人を変えることはできませんが、自分を変えることはできます。自分に嘘をつくのをやめて、本当にしたいこと、ワクワクすること、楽しいことを選択していけば、自然と波動は上がります。笑顔と感謝の心でハッピーオーラを出していれば、自分にとって望ましくない人達が寄ってくるはずがありません。反対にネガティブな思いは波動を下げますので、他人を悪く思ったり、非難したり、憎んだりしていると、そのようなネガティブエネルギーに呼応した人々が引き寄せられてしまいます。
あの人なんだか嫌だなあ、離れたいなあ、と思ったら、その人を責めたり悪く思う代わりに、自分が出している波長に注目してみるのがお勧めです。そして、人をどうだこうだ言うことにエネルギーを使うのではなく、自分の波動を上げることにエネルギーを使いましょう。
目の前に広がっている現実が、自分が本当に望んでいるものとは違っている場合。
現実は自分の内面を反映しているものなので、現実に満足できていないということは、今の自分が本当の自分にどこかで嘘をついているということです。本来の自分とは違う波動を発しているということです。
私達は毎瞬毎瞬、一つ一つの動作をする際、いちいち意識はしていないかもしれませんが、「選択」をしています。朝何時に起きる、どの服を着る、朝食に何を食べる、髪をどのようにセットする、何時に家を出る、どの交通手段を使う、etc...日常的な動作はもちろんのこと、どんな仕事をするか、誰と会うか、何を話すか、どの本を読むか、何を聴くかといった一つ一つの行為も、全て自分が選んで行っています。「いや、人にそうしろと言われたからやっている」と言う場合でも、その人の口を通して言わせているのは自分であり、無意識レベルで「そうなる」ことを選択しています。(ですからどんなことでも、自分の身に起こったことは他人のせいにはできないのです)
どんな選択をしようが、どんな人生を歩もうが完全にその人の自由なのですが、一つ一つの選択を行う際に、その選択がエゴ(自我意識)に基づいたものなのか、真我に基づいたものなのかという部分で、自分に跳ね返ってくる結果の満足度が全く違ってきます。
我欲に基づいた選択をすれば、それなりの結果が戻ってきます。エゴの虜になっている場合、大抵途中でそのことに気づかせる何かしらの出来事が起こるものですが、エゴが肥大化していると、そこにも気づかずスルーしてしまい、後々更に大きな事象として痛い思いをすることになります。そのような事例は世間を見ていたら枚挙にいとまがないので、わざわざ自分が体験しなくても教訓として見ることができます。
一見エゴに基づいていないように思える選択でも、根底にあるものが「恐れ」である場合、やはりこちらも本当の意味で満足のいく結果は受け取らないようです。例えば、何を食べるかという選択をする場合、心と体の声を聴き、「本当に自分が必要としているもの」を食べるのが真我により近い選択となります。その一方で、「本当はこれが食べたいんだけれど、病気になるのが嫌だから、あれを食べる」といった選択は、順番としては恐れが先に来ているので、心と体が本当に必要としているものを選ぶ妨げになることがあります。自分の深い部分では、何を食べるべきか知っているのに、恐れが邪魔をしてその情報を遮断してしまうのです。
そうした選択を積み重ねていけば、心と体が欲しているものとは違うものをどんどん取り込んでいくことになり、やがてそのような状態自体がストレスとなって病気を引き起こすという、本末転倒の結果になることもあります。今は栄養学と健康に関する情報が巷に溢れていますから、そうした情報に振り回されて、本来必要がないのに、無理な食事制限で自分を縛り、ストレスを抱えて幸せそうには見えない人を時々見かけます。もちろん、健康な食生活に気を配ることは大切かと思いますが、何事も過ぎたるは及ばざるが如し、自分に必要な情報は全て入ってくるものだと信じていれば、無理に頑張らなくても、その都度必要な食べ物が目の前に表れると思います。そして、何を食べるべきか直観が働き、満足度の高い選択が容易にできるはずです。
恐れが強い時は頭で考えがちなので、何かを選択する時には、できるだけ頭は空っぽにしてハートで感じることを信じた方が良いです。
家族や親しい友人を大事に思うあまり、過保護になり過ぎて共依存関係に陥ることがあります。こうしたことも、本当にその人を思いやっているというよりも、「その人を失いたくない」「その人に何かあったら嫌だ」「自分が責められたらどうしよう」といった恐れに基づいた感情が強いために起こります。その人を信頼する、という愛がベースになっていれば、家族であっても、その人が選んだ人生を尊重し、必要以上に手を出さず、温かく見守るという態度でいられるはずです。生きていく上で情は大事な部分でもありますが、あまりにも情の部分が大きくなり過ぎると、冷静さを失い、かえって他人を苦しめることもあるのです。
「あなたのことが大事だから」と言ってあれこれ世話を焼き、かえってその人が自立する道を塞いでしまうことが、本当の愛とは思えません。時には突き放してみたり、厳しいことを言ったりして自分に依存させないようにすることが、その人の為になることもあると思います。
ヒーリングやカウンセリング、コーチングといった仕事が今どんどん増えているようですが(私もその1人であるわけですが)、そうした仕事に就く人の中にも、愛ではなくエゴや恐れに基づいて仕事をしているように見える人がいます。100%エゴとまではいかなくても、かなりエゴの部分が強いな、と感じることがあります。私自身、これまで様々なセミナーを受けたりヒーリングを受けたりしてきましたが、本心から世の為人の為という純粋な思いでやっている人を見かけるのは稀です。私も気を付けなければいけないことなのですが、こうした仕事をしていると、共依存関係に陥りやすく、案外エゴの誘惑の罠にもハマりがちなのです。
カルト宗教などを見ていると解り易いかと思いますが、誰かに精神的に依存したり洗脳されている時というのは、だいたいエネルギーも奪い取られています。ついでに、お金もその人の元に流れていくようになっています。お金もエネルギーなので、誰かに自分のエネルギーを奪われている時というのは、お金もその人に吸い取られていくのです。カルト宗教ではありませんが、私もこうした経験が過去に少しだけあります。
また、一見癒しのヒーラーのように見えても、実は自分に依存させることが目的であったり、人にはない力を見せつけたい欲望があったり、お金に執着があったりと、邪心が強い人もいます。「私には〇〇という高次の存在がサポートしてくれています」といったセリフで自分を大きく見せたり、いかに自分が超能力を持っているかということを事細かく説明してきたり、必要以上に着飾ったり、法外な金額を設定して贅沢な暮らしに溺れていたり、自分の持っている知識を出し惜しみしてリピートさせることを半ば強制させたりといった姿をみれば、その人の邪心が透けて見えてきます。
魂が高度に進化した人であれば、自身をひけらかすことに関心がありませんし、何事にも執着がないので、お金を儲けることにエネルギーを注ぐこともありません。そして『来るもの拒まず、去る者は追わず』というスタンスが徹底しています。
私がいつも思い浮かべるのは、ボロを纏って金銭もとらず、見返りを求めることなく無償の愛で人々の覚醒を助けたイエス様やお釈迦様の姿です。
なかなかその境地に行くことは至難の業かもしれませんが、本来の目的から外れないよう、日々内面の浄化を心がけ、道から外れていないか自分を戒める毎日です。
イライラしている時、どこかの誰かが許せない時、私達は怒りの矛先をその発信源(だと思い込んでいる)対象物や人に向けがちです。
あの人のあの行為が許せない、ああいうことをする人が信じられない、こういう人を見ると頭にくる、etc...
次から次へと文句が出てくるものですが、怒りをその人に向けている間は、根本的な解決にはならないものです。
なぜならその「怒り」の元凶は実は自分の内面にあるのであって、今目の前に見ているイライラさせるその人は、自分の内面をただ鏡のように映し出しているだけでしかないからです。
その人は、私達の内面にある「自分で自分を許せない部分」や、「実は嫌だなと思っている自分の一側面」、「本当はこのようにありたいと望んでいる自分の姿とは反対の状態」などを映し出して見せてくれているわけで、自分の中の葛藤や、変えたいと望んでいる部分に引っ掛かっているからこそ、感情がうずいているのです。そもそもそこに引っ掛からない人であれば、見ていても怒りの感情は湧いてこないものです。
著名人などでひどくバッシングを受ける人がいます。もちろんその人自身にそのような状況を招いた要因があるとはいえ、多くの人々がその人の行為を見て感情が乱されるということは、人々の中に多かれ少なかれ、その人と同じような要素があるということです。そしてそこを、本当は取り除きたいと望んでいるのです。
誰かに対して怒りをぶつけている自分に気がついたら、一度感情をその人に向けるのをやめ、ベクトルを自分自身に向けてみることをお勧めします。その人の何がこの感情を引き起こしているのか。どの部分が許せないのか。
もしかしてその人の”許せない部分”は、自分の中にもある1つの側面だったりはしないでしょうか。もしくはその人の姿は、本当はこうありたいと望んでいる理想の姿とは、反対の姿なのではないでしょうか。つまりその人を通して、「こうありたくはない」という反面教師を見ているわけです。
負の感情が呼び覚まされる人がいたとすれば、その人を通じて自分の内面を知ることができます。私が本当に望んでいる姿、逆に私がこうならないようにしたいと思っていること、気を付けなければいけないこと。心の奥底で望んでいる私らしい生き方や魂の目指す道から外れている人を目の前にすると、人は悪しき感情がうずくようです。
その人を責めても解決にならないどころか、負の感情によって冷静さを失い、己を見つめるチャンスを逃すことになります。怒りをぶちまけたとしても、一時スッキリはするかもしれませんが、またしばらくしたら再び怒りの感情が湧き出てくることでしょう。己を知るための感情であったのに、そこに向き合わないうちは、何度も同じような人を見て感情が乱される経験を繰り返すことになります。それに悪しき感情に支配されていると、波動も落ちるのでいいことがありません。
自分の中から出てきた怒りをきっかけに自分を見つめ直し、「ああ、私は本当はこういうことを望んでいたんだ」「私は本当はこのようになりたいんだ」もしくは「私はこのような人物に自分がなることを本当は望んでいないんだ」といった気づきが得られると、次第に感情が落ち着いてきます。そして、目指すべき自分の在り方がしっかりしてくると、どんな人が目の前に表れても、感情が乱されなくなっていきます。
感情は己を知るための指針であり、魂が望む道を示してくれる羅針盤のようなものです。ベクトルを自分に向けることが、実は感情を抑える一番の近道だったりするのです。
世の中では様々な人々の栄枯盛衰が取り沙汰されていますが、見ていると宇宙の根本原理はどんな人に対しても例外なく働いているのだなあ、と思います。
人が行動を起こす時、大元の動機が我欲(エゴ)からきているものなのか、そうではなく他者を喜ばせたいという奉仕の心からきているものなのかというところで、行きつく先の明暗が分かれているように感じます。
個人的な欲求を満たすため、すごい人だと賞賛されたいため、贅を味わいたいため、人を羨ましがらせたいため、・・こうした自我の欲望に基づいて動いていると、途中で上手くいかなくなって計画が頓挫してしまったり、それなりの成果しか得られないまま終わったり、ある程度までは望み通りにいったとしても最後の最後で大きな痛手をくらうことになるなど、結局は心の底からの満足感が得られない結果に終わってしまうようです。
反対に、無償の心で、周りの人々を喜ばせたい、誰かの役に立ちたい、困っている人を助けたいといった動機で動いていると、さして苦労もないまま導かれるように道が拓け、多方面からサポートがやってきたり、思いもよらぬところから金銭的な援助が舞い込んで来たりして、まるで自分が何かの力で動かされているような感覚を味わうことができます。
それはやはり、この宇宙の本質は愛なので、その純粋な愛に近ければ近いほど、宇宙のパワーの恩恵をより多く享受することができるからだと思います。我欲は愛のエネルギーを濁すものなので、我欲が強い人はその分純粋な愛(宇宙)エネルギーを受け取ることができません。
我欲まみれの人が一時的にこの世の春を享受しているからといって、その状態がそのまま続くとは限りません。天は、ある程度まで成功させて、一見うまくいったように思わせておいて突然ドーンと奈落の底に落とすようなこともするのです。そうすることがその人の目を覚まさせるために最も有効な時は、そのようになります。ですから、あの人はあんなに自我の欲望を満たしているのに何もかもうまくいっていて不公平だ、と思う必要はありません。結果として自分が蒔いた種はどこかで必ず刈り取ることになっているので、今は良くても、後になって我欲に基づいた数々の行為の結果を受け取るはずです。それは宇宙の法なので、例外はありません。宇宙は完璧に公平にできています。
自分の中のエゴをどれだけ削って心をきれいにしていくか、難しいけれどそれが一番の幸福の道なのだなと思います。
私は虫が大の苦手なので、ここ何年も、吊るしておくだけで虫がやって来ないという、ドラッグストアなどに売っている虫よけネットを愛用させて頂いております。
初めは「本当にこれって効いてるのかなあ?」と半信半疑だったのですが、この商品の威力がわかるのは、数か月ほど経って、取り換えの時期がやってきた頃です。
大体目安とされている「効力が切れる時期」に差し掛かってくると、今までまったくご来訪がなかった虫さん達が、一匹、また一匹と、徐々に我が家のベランダにやってくるようになるのです。そうしてようやく、「ああ、本当に今まで効いてくれていたんだな」ということを実感することになります。そして新しい虫よけネットを買いに行き、今まで使っていたものと交換した途端、またピタリと虫の来訪が止むのです。この瞬間に一番、「やっぱりすごい!ありがとう!」という気持ちが湧いてくるような気がします。
・・・なぜこのような話を出したかと言うと、虫よけネットの効き方が、フラワーエッセンスと似ているなあ、と思ったからです。
エッセンスを飲んでいると、ザワついた心が静まったり、ネガティブな感情が湧きにくくなったりして、精神状態がなだらかになっていきます。怒りやイライラが自分の中にやって来にくくなるのです。しかし、ずっと飲み続けていると、そうした穏やかな状態がだんだん当たり前になっていきます。なおかつ心の中というのは目に見えないものですから、「今の心の平安がエッセンスのおかげなのかどうか」ということが、結構わかりにくくなっていったりします。
そんな時、エッセンスを飲むのを一時的にやめてみると、「今までのエッセンスの効果」がハッキリとわかることがあります。エッセンスを飲むのをやめた途端、また以前のイライラが戻ってきたり、ネガティブな思考パターンが蘇ってきたりして、薬が切れた状態のようになったりすることがあるのです。
これは子供の様子を見ているとわかりやすいです。我が家の息子は少々怒りっぽいところがあり、思い通りにならないと周りに当たったり、ふてくされることがよくあります。そんなわけで、息子用のエッセンスボトルには大体常時「ホリー」「バーベイン」「バイン」「チェリープラム」やその他感情の浄化系エッセンスをいくつか入れています。
これを飲んでいると、感情の起伏がなだらかになり、怒る回数も明らかに減っていき、表情も穏やかになるのです。姉弟喧嘩の回数も明らかに減ります。ところが、落ち着いてしばらくしてくると、「もういいかな」という感じになり、飲むのをやめたり、ボトルの中身を変えようと思っているうちに何となくそのままになっていったり、ということがよくあります。そうすると、またポツポツとケンカをするようになったり、怒りっぽくなったり、わがままな一面が表に出てきたりするのです。そうなってようやく、「ああ、やっぱりエッセンスが効いていたんだな」ということを再認識し、また同じようなブレンドでエッセンスを作りなおすことになります。
面白いのが、「ホリー」などを飲んでいると、普段の怒りっぽさが鳴りを潜める一方で、思い通りに事が進まない時など、怒りの代わりに「涙」が出てくることが多くなります。感情のはけ口として、怒りではなく「涙」を利用するようになるようです。
また我が家の主人は、最初エッセンスに対して懐疑的で、本心からは信じていませんでした。私がやっているからと、付き合って飲んではくれていましたが、特にその効果を感じているのかいないのかもわからず(何も言わないので)、反応もないので、変化があるのかないのか全くわかりませんでした。「どんなエッセンスがいい?」と聞いても、いつも大体「お任せ」。はなからあまりあてにしていないようでした。
私が作るブレンドボトルをただ機械的に飲む日々が続き、もう何本も飲み終わった頃、あまりにも反応がないので、「もうこの人にはいいのかな」と、ボトルを作るのをやめてみたことがありました。すると、いつも飲んでいる自分の名前が書いてあるボトルがないことに気づき、「あれ、俺のエッセンスは?」と聞いてきたのです。私が、
「ああ、エッセンスの効果があるんだかないんだかよくわからないし、そんなに必要ないみたいだから、もう〇〇の分は作らないことにしたの」と言うと、ちょっと心外な顔をして、
「えー、俺にも作ってよ」
と言いました。
普段エッセンスの効果など話したことがほとんどなかったのに、聞くと、いろいろと自分の内面ではエッセンスの威力を感じていたようでした。最初は「俺はそんなものなくても自分でやっていける」といったことを豪語していたように記憶していますが、なければないで、ちょっと物足りなさを感じるようになっているようでした。
理想では、エッセンスなどの力を借りずとも、穏やかな心で過ごせるのが一番なのでしょうが、まだ自分の力だけでは不安な時は、そうしたサポートツールのお世話になることも必要なことなのかなと思います。何の装備もつけずに高い山に登る人はいませんし、どんな世界でも一人前になるまでは誰かの指導を受けるものです。
魂の成長において、自分に足りないものを補ってくれる仲間や、サポートしてくれるツールが目の前に現れたら、それは天から差し伸べられた手なのかもしれません。堂々と、感謝をして、受け取ってください。
先日、オバマ大統領が広島を訪問し、原爆慰霊碑に献花をしました。献花・・花を捧げる。この行為が、どんなスピーチよりもどんなパフォーマンスよりも、”想い”が伝わるメッセージになるのだなあ、と見ていて感じました。
考えてみても、自分が誰かに花を贈りたいと思う時は、その相手に何かしら自分の気持ちを伝えたい時ですし、反対に好きではない相手に花を贈ろうと考えることはまずありません。
そして、人から花をもらった時はとても特別な感じがしますし、他の贈り物にはない何かがそこにはあります。花には本当に、癒しと愛のパワーが秘められているのだなと思います。
オバマさんが、被爆者の方と対話をし、その後優しく抱擁する姿が印象的でした。敵対する関係性がほぐされていくのは、こういう時なのではないかと思いました。お互いがいがみ合って、相手が悪い、自分は悪くない、と突っぱねているだけでは、関係が悪化することはあっても、良くなることはないものです。子供のケンカでもそうです。お互いを責めているうちは感情が治まらず、憎しみだけが増強されていきます。
相手に歩み寄って、憎しみの気持ちを一度脇に置き、「あなたと良い関係を築きたいです」というメッセージを送ることで、相手にもその想いが伝わり、頑なな心がほぐれていくのだと思います。
環境を良い場所にするのも愛だし、人との関係を良くするのも愛。国と国との関係を良くするのもやはり愛なのではないかと思います。相手を責めているうちは良い関係は築けないので、今回少しでも歩み寄れて良かったなと思います。
オバマさんは愛の力を知っている方なのだろうなと感じました。
先週末は、子供の学校の運動会でした。娘にとっては最後の運動会。学校大好きの娘は、特別感慨深いものがあるようで、メインの組体操に向けて毎日倒立などの練習を頑張っていました。来てくれた人達が感動するような組体操にしたい、といって。
そういった姿勢を見ていると、学校嫌いで学校行事にも真剣に参加してこなかった自分の小学生時代との違いをつくづく感じます。運動会など、「なんでこんなことやらなければならないの」とふてくされながら参加していたように思います。
そもそもなぜ学校が嫌いだったかというと、人から何かをやりなさいとか、強制的にさせられることに抵抗があったからでした。それから、学校の先生の言っていることが全部正しいとは思えないのに、ただ先生というだけで素直に従わなければいけないことにも納得がいきませんでした。
そんなわけで、入学当初から学校と言うものに息苦しさを感じ、どんどん嫌いになり、どんどんふてくされて、反抗的になっていったのでした。ただ勉強自体は嫌いではなかったというかむしろ好きでしたし、表だって反抗するようなこともあまりしませんでしたから、一見真面目な生徒ではあったかもしれません。けれど心の中では常に、学校という組織と先生という存在に、不信感と嫌悪感が渦巻いていました。
今思えば、私がそんな思いを抱いていたからこそ、私の中から「学校嫌い」という波長が放出され、ますます「嫌だな」と思うような事象を呼び寄せていたのかもしれません。先生との相性もあまりよくありませんでしたし、周囲とのいざこざもしょっちゅうありました。小学校生活で、楽しかったなという記憶はほとんどありません。
そのように考えるようになったのは、娘が心から楽しそうに学校生活を送っている姿を見てからです。入学前から「早く学校に行きたい」と学校生活に憧れを抱き、入学を指折り数えてワクワクしている娘を見て、私はひそかに、「あんなふうに今は楽しみにしていても、実際学校に入ったら実はさほど楽しくない現実に遭遇してがっかりするのではないだろうか」などと考えていました。けれど、いざ学校生活が始まってみると、全くその逆でした。娘の「学校好き!」「学校楽しい!」という内面の状態がそのまま現象化したようで、素晴らしい先生、仲間、行事、出来事、etc..に恵まれ、本当に楽しいをキープしたまま最終学年を迎えるところまできたのです。
そんな風に生き生きと学校生活を送る娘の姿に感化され、私も次第に「学校」に対する不信感や自身のトラウマが薄れていきました。大人になってから学校の先生に接してみると、自分の中にあった”怖い”とか”権威的”といったイメージが必ずしも全ての先生に当てはまるわけでもないということに気づき、むしろ先生という職業が尊く思え、感謝の念が湧いてくるようになりました。
もし私が、最初から「学校大好き」「学校ありがとう!」という気持ちで過ごしていたら、現実もきっと変わっていたに違いありません。そのように思えなかった自分が今となっては悔やまれますが、何かそこにも意味があったのでしょう。
どんな組織にいても、どんな環境下にいても、自分がその場所を愛して、感謝の気持ちを心から抱いていれば、その場所が輝き、自分にとって最高の場所になるのだろうと思います。どんな国のどんな街に住んでいても、どんな家に住んでいても、同じことが言えるのかもしれません。
今自分がいる場所に不満を感じながら過ごしているのと、愛と感謝の気持ちを抱きながら過ごしているのとでは、現実が変わってくるのでしょう。
今、自分が何か「問題」を抱えていて心境が穏やかではない場合、大抵は、そのシチュエーション自体に問題があるのではなく、それを「問題」と捉えている心の状態に悩みの発端があります。
ある方の悩みを聞いていた時のこと。その方は、ある状況を問題ととらえ、悪しき感情が湧き出てきて苦しんでいました。話を聞いているうちに、途中からその方はふと、「自分はなんでこんなに憤っているのだろうか」と感じたようです。そこから冷静に自分を見つめ直し、分析し始めました。次第に声のトーンも変わってきました。そしてまたしばらく話した後、
「あ、私はこういう思い込みがあったから、こんなに怒っていたんだわ」
とおっしゃいました。その方は理想が高く、自分が「かくあるべき」と強く信じることを、周囲にも広めたい、そして賛同してほしい、と考えるタイプでした。それで、ある事柄に関して他人と意見が食い違った時に、「どうして私の意見を取り入れてくれないの!」と怒りを覚えたのでした。
けれど感情を吐き出しているうちに、頭に血が上っていた状態が落ち着いてきて、自分のそうした側面を客観的にとらえることができるようになりました。そして、周囲と意見が食い違っていることが問題なのではなく、自分が「こうあるべき」と強くこだわっていることこそが、自身の心を苦しめているに過ぎないことに気づいたのです。
そこに気づいたら、いつの間にか心がヒートアップしていた状態から穏やかな心境に変化していき、最後には笑って「私なんであんなに怒ってたんだろう」とおっしゃるまでになりました。
心に嵐が吹き荒れていた1時間前と、嵐が静まって平常な心に戻った現在と、”他人が自分に賛同していない”という状況は何一つ変わっていないのがポイントです。
悩みが解決する時というのは、状況が変わった時より、その状況に対する自身のとらわれから解放された時に起こることが多いです。思い込みや執着などに縛られていたことに気づき、それをもう手放そうと決心した時、心が軽くなるのです。
そして、不思議なことに、心がとらわれから解放されると、今まで自分を苦しめていた「状況」にも変化が表れていきます。他人が変わったり、環境が変わったりします。自分の心の状態が現象に反映された結果、自然とそうなっていくのです。
フラワーエッセンスは、飲むだけでなく様々な用途に使うことができます。私は、飲む以外にも、化粧品に入れたり洗剤に入れたり、お風呂にも毎日入れています。
お風呂には、いろいろなエッセンスを試してみた結果、オーストラリアンブッシュの「ボアブ」「エンジェルソード」「ライケン」「フリンジドバイオレット」の4つをブレンドさせたものが一番気に入っています。これは、作り手のイアンさんもお勧めのブレンドで、望ましくないエネルギーを除去してくれる働きがあり、霊障などにも良いとされます。エネルギーに敏感で、身の回りのネガティブエネルギーを拾ってしまったり、他人の影響を受けがちな方にお勧めです。もちろん、飲むのも効果があります。
私は、このブレンドのエッセンスを入れたお風呂に入ると、その日のうちに受けた自分に属さないエネルギーが、スーッと離れていくのがわかります。それに伴いモヤモヤとした思考が消えていき、誰かの顔が常に浮かんでいるようなこともなくなります(そのような場合、その人の念を受け取ってしまっているか、その人と霊的なレベルで不自然につながってしまっている可能性があります)。オーラがクレンジングされるので、頭も冴え、スッキリとリセットされるので、これがなければお風呂に入った気がしないくらいです。
長年付き合ってきた友人や、ずっと腐れ縁のように関係が続いていた人と離れるタイミングがきた時などにも、このブレンドは助けとなってくれます。どんなに過去に親しい間柄だったとしても、お互いの波長が合わなくなり、それまでのようにべったりと繋がる関係性に違和感を持つようになることは、よくあります。互いを鏡とした学びが修了したのかもしれませんし、あるいはどちらかに変化が起こって、エネルギー的に不調和が生じるようになったのかもしれません。いずれにしても、波長が合わないのに無理やり一緒にいると、違和感やストレスを感じるようになったり、トラブルや衝突が多くなったりします。
また、自分が望んでいないのに、一方的に想いを寄せられることもあります(恋愛感情に限らず)。人と関わっていると、自分が求めている以上に密な関係を相手が求めてきたり、念や情などを飛ばされて、それを無意識に受け取ってしまうこともあります。
私もこれまでに、長年つき合いが続いていた人や、関係が密だった人と波長が合わなくなり、おつきあいが終わったことが何度かあります。その際に経験したことなのですが、こうした関係性が終わりを迎える時、その人とエネルギー的な関係が切れる直前に、エネルギーレベルで抵抗のようなものが起こるようです。もう自分の中では「あの人とは今後距離を置こう」と決心していても、エネルギーレベルで未練があるのか(自分にあるのか相手にあるのか、或いはその両方か)、一時その人のことがずっと頭の中に浮かんできて、考えるのをやめたくても悶々と浮かんできてしまうのです。まるで、つながりを断ち切ることを妨害してくるかのように。
その時に、強い意思をもって、「いや、私は私らしく自由でいたい。望ましくない関係は終わりにしよう」と念じることで、次第に情念のようなものから解放され、本当の意味でスッキリする状態になっていきます。この時に、先ほどのブレンドのようなクレンジング力のあるエッセンスの力を借りると、その過程がよりスムーズに進むのです。ある時を境に、「あ、コードが切れたな」とハッキリわかります。少し体も軽くなったような感覚があります。
私達は物理的な世界に生きていますが、目に見えないレベルも同時に存在していて、そこでは様々な繋がりが築かれています。必要な時に必要な人と繋がっている状態や、お互いが別れのタイミングを同時に感じている場合は問題がないのですが(スッキリと別れられる)、どちらかが一方的にそれまでの関係性を望まなくなった場合、エネルギー的なひずみが生じ、不調和が生じます。本当に合わない関係であれば、時がたちさえすれば自然に解消されていくものなのですが、その際に生じるストレスや不快感はなるべく少なくしたいものです。
昨日の内容から続きますが、理想を掲げるとそれに向けて突っ走るタイプだった私は、何事も「良い」「悪い」と切り捨てる傾向がありました。
子供が生まれてしばらくしてから、多くのお母さん達がそうなるように、私は子供の口に入れるものをそれまで以上に真剣に考えるようになりました。
添加物や農薬などに敏感になり、様々な文献を読み漁って、何が体に良くて何が悪いのか、少しでも納得してからでないと食べるのが嫌になっていました。本屋さんや図書館にいけば、食べ物に関する本や雑誌が山のように置いてあります。そういったものをできるだけたくさん読んで、”正しい”知識を身に付けようと、意気込んでいました。
ところが、そうした書物を読めば読む程、私は次第に窮屈さを感じるようになっていきました。それぞれの著者がそれぞれの理論を持ち、「あれが良い」「あれはダメだ」のオンパレード、読んでいるうちに一体何が食べて良いものなのかわからなくなってしまいます。中には、ある人が「これは最高の食べ物だ」と紹介している食材が、別の本では「これは食べてはいけない。体に毒だ」などと書かれていたりします。私は混乱しました。また、あらゆる食べ物をオーガニックにしなければいけない、という強迫観念にも苛まされたことで、精神的にも経済的にも、無理が出てくるようになっていきました。食べ物のことを考えることがストレスにさえなっていきました。
本来、体を健康に保ち、精神も穏やかに保つための食べ物であるはずなのに、知識を詰め込み過ぎた上に全てを善悪で縛り過ぎたために、扱い方がわからなくなり、バランスが保てなくなったのでした。これでは本末転倒です。ストレスが大きくなれば、いずれ体にも症状として表れてくるでしょう。
やはり、物事には調和とバランスが大事です。理想とする形があったとして、それを大切にするのはいいと思います。けれど、それにひたすら縛られてしまうと、現実とのズレやギャップを感じてストレスになります。過度なストレスは、心の調和を乱すだけでなく、ゆくゆくは体の不調となって出てきます。いくら体に気を遣っていても、食事を気にしていても、ストレスが過大であれば、人は体を壊すのです。何らかの健康法を実践している人より、気にせず好きなように生きている人の方が寿命が長い、という統計があるほどです。
今の世の中を選んで生まれてきた私なのですから、今のこの世界を受け入れて、愛したいと思っています。食べ物だって飲み物だって、現実とのバランスを保ちながら、今あるものを感謝して受け入れたい。文句をいいながら、不満を感じながら食べたってちっとも美味しくありませんし、そのような心の状態が何よりも毒であるように思います。子供の様子を見ていても、母親があんまり口うるさく「これを食べなさい」「あれは食べてはいけません」などと言っていると、食べる喜びが半減しているのがわかります。親が神経質になり過ぎると、子供の食も細くなるのかもしれません。
多少は体のことを気遣う必要があったとしても、極端にならないよう、やり過ぎてかえってマイナスの影響が出ないよう、気を付けたいと思っています。
バッチフラワーの中に、「ビーチ」というレメディ(フラワーエッセンス)があります。和名は、ヨーロッパブナです(写真は、ウィキペディアより引用)。
『他人や物ごとの悪い面にばかり目がいき、ついあら探しをしてしまったり、批判的になってしまう』人や、そのような状態になっている時に飲むと良いレメディです。セッションでも結構出番が多く、私もフラワーエッセンスを学び始めた頃、だいぶお世話になりました。あまりにもよく飲むので、なくならないようにストックを置いておかないと落ち着かなかったほどです。
物心ついた頃から、私は批判精神が旺盛でした。自分が気に入らないタイプの人に嫌悪感を感じ、気に入らない場所や納得のいかないやり方、環境、社会の在り方に至るまで、とにかく不満だらけで、心が満たされることがありませんでした。
コインの裏表があるように、人の性格の長所と短所も、表裏一体の関係であるといわれます。例えば、上記のような「批判精神が旺盛な人」というのは、本来理想が高く、鑑識眼に優れていたり、物事の真理を見抜く鋭い視点を持っていたりするものです。そうであるからこそ、自分の理想とする状態と現実が異なった時に、ストレスを感じたり、「なぜそうならないのだろう」とイライラしたり、他人や状況を責めたくなってしまうのです。
フラワーエッセンスは、個人が生まれながらに持っている気質がネガティブに傾いてしまっている時、ポジティブな状態に引き戻してくれる力があります。つい物事を批判的に見てしまう人がビーチを飲むと、どの人も持っているポジティブな一面や、物事の良い面に目がいくようになり、ストレスやイライラが治まっていきます。
かつての私は、今自分が置かれている環境や、目にするものの「足りていない部分」や、「嫌だなと思う側面」にばかり目がいっていたように思います。理想とする社会や人の在り方があって、それにそぐわない人や状況を見ては、いちいちへこんだりイライラしたりしていました。おかしいと思うことは率直に口に出すタイプだったので、トラブルになることもしょっちゅうでした。
今思えば、「あるがままを認める」ことができていなかったのだと思います。そもそも、自分が「こうあるべき」と考える形があったとしても、果たしてそれが本当に「そうあるべき」であるかどうかは、どうやってわかるのでしょう。なぜ、「そのままの状態」がいけないのでしょうか。なぜ、変わるべきだと思ってしまうのでしょう。
それは、そうあるべきだからそこにあるのです。あるべくして、そこにあります。人も物も植物も動物も建物も、全てあるべき姿で、あるべき場所に存在しているのに、私は自分の頭の中だけで勝手に作り上げた価値基準に当てはめて、「これは良い」とか「これはダメ」などとジャッジしていました。
ある時から少しずつ、自分の中に作り上げられきた価値基準が崩壊していくにつれ、それまで気になっていたことが気にならなくなり、嫌だなと思っていたことが嫌でなくなり、ネガティブな想念が湧き起る回数がどんどん減っていきました。人や物はそのままでも、私の中の物差しが変わったために、同じものを見た時の私の反応が変わったのです。
せっかくこの世に生まれてきたのだから、文句ばかり言いながら生きるよりも、状況を楽しみながら、調和しながら生きたい。そんな思いが日に日に強くなっています。自分に合わないなと思うことは無理にしなくてもいいけれど、それはそれとして認めて受け入れつつ、離れていればいいだけです。批判をする必要はないのです。だって何も悪くないのだから。
今日の写真の花は、「フクシア」です。フクシアのフラワーエッセンスは、主に『感情の解放』を助けてくれます。子供時代から抑圧され続けてきたたくさんの感情達。行き場のない感情は、体の奥深く、細胞の隅々に固まったまま、解放されるのを待っています。
フクシアを飲み始めた方からは、「忘れていた感情が少しずつ出てきました」と言われます。
感情の”解放”と言いますが、感情を解放する、手放すということは、ただいらないものとして放り投げる感覚とは違います。抑圧され続けてきた古い感情を本当の意味で手放すには、感情を自分の一部として、きちんと認めてあげる必要があります。ネガティブな感情は特に、それを自分のものとして認めるのを拒みたくなるものですが、どんな感情も自分の内面の何かに反応して出てきている訳ですから、嫌だからといって拒絶していては、自分の内面の一部を否定することになります。
例えば、ある人の言動をみて怒りが湧いてきた時。モヤモヤと内側から湧き出てくる怒りの感情を抑えよう抑えようと、無理やり押し殺したとします。一時封じ込めることができたとしても、後で思い返した時や、また似たような人に出会った時、再び同じ怒りの感情が湧いて出てくるはずです。
感情が湧いて出てくる時というのは、自分の中にある何らかの『想い(想念)』に反応しています。『こだわり』や『執念』といってもいいかもしれません。感情は自身の進むべき道を示す羅針盤のような働きを持ちます。ワクワクウキウキ、楽しい気持ちになる時は、魂が芯から喜んでいる時。自分が本当に進むべき道を迷いなく進んでいる証拠です。反対に、ネガティブでザワザワした感情が出ている時は、魂が「あなたの中に、あなたらしさを遠ざけいている一面がありますよ」と言っているのです。
感情を引き起こしている事象や人、環境といった対象物に原因があるわけではありません。全ての出来事は中立で、本質的に良いも悪いもありません。感情を生み出している自分の内面に、要因があるのです。
そこに向き合わずに、いたずらに感情だけに注目していても、問題を先送りするだけです。なんとかなだめすかして悪しき感情が一時納まったかのように思えても、繰り返し繰り返し、似たような場面で似たような感情を抱き続けるでしょう。
過去に無理やり封印した感情が出てきた場合も含め、ネガティブな感情が湧き起ってきた時は、とにかく一度、それらを好きなだけ溢れさせてみるのがいいと思います。怒りや恨みの言葉が出てきたら、それらも一緒に吐き出してみましょう(ただし、誰もいない所でやりましょう・・お風呂の中なんかがお勧めです)。感じるがまま、抑えることなく、ただ自分が正直に抱いている感情を、そのままの形で出してあげるのです。罵詈雑言も、一通り吐き出してみてください。
ありったけの感情を出し終わってみたら、あれ?と気づくはずです。先ほどまでの、感情に支配されていた状態とはまるで違う、平穏な心の状態に落ち着いていることでしょう。感情を出しきった後というのは、潮が引いた後のなだらかな海のように、静かで曇りがなく、自分の内面のこともすんなりと受け入れることができる状態になっています。そして、嵐が収まった後というのは、不思議なことに、自分自身の内面に気づかせるための『ヒント』がもたらされるのです。
「あ、そうか、私はこんなことにこだわりをもっていたんだな」とか、「私は自分のこういうところが嫌だ、許せないと思っていたんだな」とか、何かしら、気づきが得られるはずです。冷静な視点になると、感情を生み出す要因になっていた思いやトラウマ、執着といったものが、クリアーに見えるようになるのです。そのためにも、やはり一度、感情は湧き起るがまま放出される必要があったのです。
日本人の中では、なにか感情を無理やり押し込めて平静を装うことが、美徳のようにとらえられている面があるように思います。確かに、いつでもどこでも感じるがまま感情を表に出していたら、周囲との調和を保つことが難しいかもしれません。けれど、どんな感情も起こるべくして出てきているのですから、それを常に無視し続けていると、自分の本当の思いに気づかないまま、どんどん道が逸れていくことになりかねません。自分1人になれた時くらい、感情を思い切り出させてあげてください。
感情に目をそむけるのではなくて、認めて受け入れてあげる。自分の一部として統合していく。フラワーエッセンスも、そうした作業をお手伝いしてくれます。
子どもの頃、よく「大きくなったら何になりたいの?」という質問をされていました。また、学校の文集などにも必ず「将来の夢」を書く欄がありました。そんな時、私はいつも戸惑っていました。なりたい職業など漠然としたものはありましたが、果たして自分が「何になりたいのか」と改めて聞かれると、一体自分は「何」になりたいのだろうか、とわからなくなってしまったのです。
それは、今でも同じであるように思います。一体私は「何」になりたいのだろうか。「夢」はなんなのだろう。
少し前までは、具体的なビジョンを持って、「それ」になることを目標にし、「そこ」に向かって一生懸命努力することが、私のなすべきことなのかと考えていました。具体的な仕事に就いて、具体的な売り上げや規模の拡大を目指して、より多くの人に認知されるような、影響力を高めていくことが人生の目的のように思っていました。
元々目標を定めたら一直線に進む、がむしゃら気質なこともあって、一つ一つのことに最大限の力を注いで突き詰めていかなければ、やる意味がないとすら考えていました。
けれど、次第にそんな風にして「何か」を目指してひたすら頑張るだけが、この世に生きる本当の目的なのだろうか、と疑問が湧いてくるようになってきました。そうした疑問は、振り返ってみれば子供時代からずっと抱き続けていました。けれど、周りに影響されたり、大人になるにつれ自分の中の虚栄心が育っていく過程で、いつの間にか「生きる」という本質を忘れかけていたのでした。
このまま具体的な「何か」になることだけを目指して生きていっても、きっと自分は本当の意味で幸せになることができないだろうな。そんな思いが大きくなっていきました。
学生時代ずっと仲良くしていた友人が、社会人になってしばらくしてから、大病を患って実家に帰ることになりました。彼女なりに精一杯病と闘って、驚くほどの生命力で、何年も頑張り通しました。どんな時でも弱音を吐かずに明るく振る舞っていた彼女が、一度だけ、私に「つらい」というメッセージを送ってきたことがありました。「私は何のために生きているんだと思う?教えて」と言われた時、私は何と答えたら良いのかわからなかったけれど、「私にとって、〇〇ちゃんが生きているだけで嬉しい。自分がこうなりたい、と考えていた人生と違う人生になったかもしれないけど、私はそのことで〇〇ちゃんが変わったとは思わないよ。〇〇ちゃんは自分のことをもっと愛してあげてほしい」と伝えました。
本当のそのように思っていました。学生時代のはつらつとした姿、社会人になってバリバリ働く姿、病気になって休んでいる姿・・繰り返し受けた手術の影響もあって、見た目も変わったけれど、私の中では、彼女の本質の部分は何一つ変わっていませんでした。
私は、その人がどのような生き方をしていようと、何をやっていようと、どんな姿形であろうと、その人の本質の部分はずっと同じだと思っています。
世の中では、何か目に見える形で大きな仕事を成し遂げた人や、記録を達成した人、影響力を持つ人ばかりが賞賛され、そうではない人達がまるで負け組であるかのように捉えられている気がします。本人達もそのように考えているから、具体的に大きなことを成し遂げていない自分がまるで役立たずのように思えたり、「すごい人たち」に比べて大したことのない人間のように思えてしまうのです。実際には、「すごい人」も「大したことない人」もいないはずなのに。
ただ「生きる」だけでいいのではないでしょうか。どんな風に生きるのか、それは個々人の完全な自由だし、縛られる必要もないし、誰にも責められることではありません。やりたいことがあったらやればいいし、やりたくないことはやらなければいいし(やってもいいけれど)、失敗してもいいし、目標を立てても立てなくてもいいし、仕事をしてもしなくてもいいし、勉強してもしなくてもいいし、大金を稼いでも稼がなくてもいいし、何でもいいんだと思います。
自分が「何か」になろうとしている時は、つらかったです。なぜなら、その時はまだその「何か」になっていないわけで、今の自分は未完成でダメな状態だと思っていたからです。具体的な夢や目標を持つことは、ワクワクしたり、生きる気力や活力につながることではあるけれど、そこに縛られてしまうと、今の自分や、そうならなかった時の自分を好きになることが難しくなってしまいます。こうなりたいと思っていた自分になれなかったとしても、それはそれで全然問題なし、そんな自分も人生も全部アリです。
何でも、必要以上に縛られると苦しめられることになるのだなあと思います。「夢」や「希望」といったポジティブな言葉でも、そうなることがあるのですから。たとえそれが良いことと思われていることでも、執着になってしまうと苦が生まれるのだと思います。
「苦しみ」とはどんな時に感じるのでしょうか。
それは、今の状況が、自分が「こうあるべき」と考えているものとは異なっている時に強く感じるものではないかと思います。
いろんな方のお悩みを聞いていると、『本当は自分はこうありたいのに、こうあるべきなのに、そうではない』というシチュエーションに苦しみを感じていらっしゃることが多いようです。また、自分の身近な人や周りの人たちが、『こうあってほしいのに、そうではない』という時にも、ネガティブな感情が湧きおこってきて、苦しむようです。
ということは、そもそも「こうあるべき」がなかったら、苦しみを感じることはなくなるのではないでしょうか。
全くそれがなくなるのは難しいかもしれませんが、少なくとも、あらゆることに関して、「こうあるべき」「ああでなければいけない」といった固定観念でいっぱいの状態よりは、より多くの事柄に関して「これでいいんだ」と認めることができていた方が、そのままの状況を受け入れられるので、心が苦しむことはないと思います。批判的な思いを抱くことがなくなると、ネガティブな感情に支配されることもなくなり、自分に対しても、他人に対しても優しくなれます。
では、どうやったら「こうあるべき」という思いがなくなるのかというと、それは一つ一つ、自分の内面にある固定観念を見つけ出しては手放していくしかないのではないかと思います。いきなり聖人のような境地を目指すのではなくて(それをやってしまうと、できていない自分にまた苦しむことになります)、少しずつ、自分を浄化していくのです。
自分を苦しめている思い込みに気づくためには、感情や思考で頭がゴチャゴチャしていては難しいので、時々リラックスした状態で自分を見つめ直すことが大切になってきます。誰かと話したり、瞑想をしたり、お風呂に入ってリラックスしたり、自然の中をお散歩してみたり、ただボーっとしてみたり。副交感神経がオンになっている時の方が、ひらめきや内なる心と繋がりやすくなります。
今、様々な事件や災害などのニュースが目に入ってきますが、こうしたニュースを見聞きした時も、「こうあるべき」という固定観念を抱いたままですと、「ひどい、なんでこんなことが起こるんだろう」とか、「許せない」といった憤りや怒りなどの感情が大きく湧いてくると思います。人間なので当然そうした感情は抱くと思いますが、いつまでもそれに支配されてネガティブな精神状態が続くと苦しくなります。
もし、「こうあるべき」という感覚で見ることがなかったら、起こったことをそのまま受け入れることができますので、否定的な感情に襲われることなく、冷静さを保つことができます。感情に支配された状態ではなく、理性で捉えることができるので、物事を客観的に眺め、自分がそこから何を学ぶことができるのか、そうならないためにはどうしたら良いのか、今自分にできる最良のことは何なのか、といったことを冷静に考えることができます。何か問題が起こった時、感情的になることで余計状況が悪くなることはあっても、事が上手く進むことはほとんどないのではないでしょうか。
誰にでも多かれ少なかれ、「こうあるべき」「こうでなければいけない」といった思い込みはあるものです。成長の過程で様々な人や情報から受けた影響もあるでしょうし、過去の経験からそのような価値観になっていったこともあるでしょう。
けれど、そうした固定観念にがんじがらめになっている間は、心の平安は訪れないままだと思います。なぜなら、自分という存在、他人、そして世の中というものは、頭の中で「こうあるべき」と考えているようになど絶対にならないからです。
一度、「こうあるべき」「こうでなければならない」という自分を縛っている観念を全て取っ払ってみると、とても楽になれると思います。私もまだまだ浄化の過程にいますし、日々葛藤だらけですが、自分の内面に意識的になろうと決めてから、だいぶ心の中がスッキリしてきました。以前は気になって仕方がなかった他人のことや、人の目線など、かなり気にしなくなりました(少しは気にしますが、ものすごく気にしていた以前と比べると、だいぶ減りました)。また、世の常識とされる考え方にもずっと縛られて生きてきましたが、そうしたことからも解放されて心が軽くなりました。社会にはびこる感情的な想念の影響を受けなくなってきたのです。また、びっくりするような人に出会っても前ほど動揺しなくなりましたし、自分の価値観と異なる生き方をする人を批判的に見ることもなくなってきました。
自分を縛っているのは、周りでも環境でもなんでもなく、自分の内側にある「こうあるべき」という固定観念でしかないのだな、と思います。本当は、誰でも意思の力で、自由になれるのです。
自分の内側から湧き上がってくる情熱とワクワクに従って、心が赴くがままに学びたいことを学んできたので、その過程は全く「苦」ではなく、ただ楽しいだけでした。そんな感じでナチュロパシー(自然療法)と言われる分野をあれこれと探求し続けてきたら、いつの間にか私や私の家族は、病院や薬のお世話になることがなくなっていきました。
風邪を引いたら、ホメオパシーやハーブをとりながらゆっくり体を休ませます。体が解毒のための反応(下痢、鼻水、熱、咳など)を出している時は、浄化がスムーズに行われるために、必要以上に物は食べません。消化器官を休ませて、体をデトックスに集中させるのです。水分だけは、こまめに摂るようにします。一般的に薬は症状を抑えようとしますが、体の中の毒素を排出するために症状が出ているので、それを抑えてしまうと、毒素が体の中に溜まり、かえって回復が遅くなったりします。後々慢性病などの深刻な症状を引き起こすことにもなりかねません。ホメオパシーやハーブも、排出をスムーズに行うのを助けてくれるものや、血液を浄化してくれるもの、免疫力を高めてくれるものなどを選びます。また、体内のミネラルを補うために、滋養のあるスープや生の野菜・果物ジュースを飲ませたりします。体力が落ちている時は気持ちも沈みがちなので、気分を上げてくれるフラワーエッセンスも重宝します。
一度、高い熱から熱譫妄を引き起こした息子に、慌ててバッチのレスキューを飲ませたら、すぐに正気に戻り、おかしくなっていた目つきもスッと元に戻ったことがありました。
お腹を壊したら、腸の働きを高めるホメオパシーを飲ませ、傷ついた胃壁や腸をいたわるハーブを飲ませます。体の中の炎症を抑えるために大切なビタミンCが多く入ったローズヒップは必ず入れます。悪いものを体外に出すために下痢をしていることもあるので、下痢止めなどを飲むと、かえって毒素が体の中から出ていかずに具合が悪くなったりするそうです。
子供が擦り傷・切り傷・火傷などの怪我をしたら、時間がない時はラベンダーの精油を原液で患部に垂らします。鎮痛・鎮静効果が高いので、「痛い、痛い」と言わなくなります。ラベンダーには抗菌・消毒・抗炎症作用もありますから、傷が膿んだり炎症を起こすのも防いでくれますし、治りも早くなります。傷の程度によっては、怪我のショックを和らげてくれたり、回復を早めてくれるホメオパシーを、飲用・外用両方で使うこともあります。私はそれにハーブの成分を足すのが好きなので、怪我に良いとされるハーブのチンキ(エキスが抽出されているもの)を加えたりもします。セントジョンズワートやカレンデュラ・ヤロウなどが気に入っています。
肌荒れや皮膚の炎症には、やはりカレンデュラがお勧めです。カレンデュラの成分が練り込まれたクリームや抽出オイルを常備しておくと、とても重宝します。植物オイルに、カレンデュラのチンキを混ぜても良いと思います。どんなカサカサお肌や、荒れた手足も大抵一日で治ります。
旅行や大きなイベントの前日は、子供が興奮してなかなか寝付けないことがあります。そんな時は、バレリアンやホップ、ラベンダー、パッションフラワー、カモミールなどがブレンドされたハーブティの出番です。いずれもリラックス効果が高いハーブです。それに私は「安眠」用のフラワーエッセンスを数滴垂らして飲ませます。飲んでいるうちにみるみる表情が和らぎ、情緒が落ち着いていくのがわかります。ほっとした表情になり、安らかな寝顔で眠りに入っていってくれます。ラベンダーやカモミールの精油が入った植物オイルでマッサージしてあげれば、更に効果倍増です。私自身も、ぐっすり眠りたい時や、寝つきが悪い時にはフラワーエッセンス入りのハーブティのお世話になることがあります。翌朝の目覚めが大変スッキリなので、質の高い睡眠がとれたのだなとわかります。
これ以外にも、私は自分と家族が使う化粧水や石鹸、消臭スプレー、かかとクリーム、ヘアワックス、リップクリーム、虫よけスプレーなどを手作りしているのですが、いずれも市販のものより使い心地が優しくて体に害がない上に、お肌の調子が良くなります。
以前、娘は市販の足裏スプレーを使っていたのですが、使い続けているうちに足の裏がカサカサになって皮が剥けてきてしまいました。それで、ティーツリーやユーカリ、ペパーミント、レモンなどの消臭・抗菌・抗ウイルス効果の高い精油をブレンドしたスプレーを作ってあげたら、これが素晴らしく効いてくれたのです。朝、足の裏にシュッシュと吹きかけただけで、どんなに汗ばむ陽気でも足のムレやにおいを防いでくれます。おまけに、肌に優しいので全く荒れません。
このように、私は自分が学んできた自然療法をただなんとなく自分と家族に実践していくうちに、その効果を体感して驚き、良いことがたくさんあるので、自然とこちらにシフトしてきました。
薬や病院を否定するつもりはありませんし、本当に必要な時には薬や病院のお世話になると思いますが、今のところはこうしたやり方で全く問題がないどころか、体の調子が良いのでこちらを選んでいます。それに、身近な人に何かあった時、自分の持っている知識を総動員して、何をしたら良いか、どれを使えば良いのか考えるのが楽しいのです。最近は、ホームドクターとしての家族からの信頼もだいぶ上がって来たようで、それも嬉しいです。子供達も、自然界の力を実感しているからだと思います。
ただワクワクに従って学んできたことですが、実際に自分と家族の身を助けてくれているのだなあ、と思います。
子供がまだとても小さい頃は、育児と家事に手一杯で、こまごまとしたやるべきことに追われる毎日を送っていました。心落ち着く暇もなく、ただ目の前のことをこなすことしか考えていなかったので、趣味や自分のやりたいことに目を向ける心のゆとりなどありませんでした。
下の子供が幼稚園に入った頃、ようやく一日のうちでほっと一息つける時間が持てるようになりました。1人で過ごす時間ができてくると、この時間とエネルギーを家事や育児以外のことにも使いたいな、という気持ちがモクモクと湧いてきました。具体的に何をやりたい、というビジョンがあったわけではないのですが、何となく、人の役に立てるような、癒し系の仕事がしたいと考えていました。
そんな時、あなたは直観型だからタロットなどをやると能力が開花されていいですよ、とある方がアドバイスをしてくれました。その時はまだ、タロットというと何やら怪しげな占いのイメージしかなく、自分がそれをやるだなんて、イメージも全然湧きませんでした。
けれど、それからしばらくしてから、ある情報誌を眺めていたら、講習会の一覧が目に留まりました。その中に、『初めてのタロット』(確かそのような名前だったと記憶しています)という講座を見た時、何かピンと来るものを感じたのです。子供が幼稚園や学校に行っている時間帯に通えるものでした。すぐさまそこに記載されていた電話番号に電話をかけ、その場で講座を申込みました。
タロット講座はとても楽しく、魅惑的で神秘的で深淵な知識をたくさん吸収することができました。私が考えていた以上にタロットの学びは奥が深く、古代から受け継がれてきた人類の英知ともいえる情報がたくさん詰まっていました。本当は第一期で終わりの予定だった講座でしたが、先生に頼み込んで、応用編として第二期も続けてくださいと無理やりお願いしたら、ありがたいことに先生も快くそれに応じてくださいました。
タロット講座が終わってしばらくしてから、今度は以前から興味があったフラワーエッセンスのことをもっと知りたい、学びを深めたいという欲求がムクムクと湧いてきました。どこかで講座はやっていないだろうかと思い、インターネットで探していたら、すぐに見つかりました。私は情熱の赴くままにその場で講座に申込み、休日主人に子供を見てもらって、東京の講習会に通いました。
また、フラワーエッセンスは種類も膨大にあるので、1つの講座だけでなく、興味を持った講座いくつかを受講しました。また、講座を受けながら自分や家族、友人などにフラワーエッセンスを試してもらい、実際の反応を確かめていきました。フラワーエッセンスの世界にすっかり惹かれていった私は、どんどん夢中になっていきました。
フラワーエッセンスを一緒に学んでいた仲間の中には、アロマテラピーやホメオパシーといったナチュロパシーに造詣が深い人が何人かいました。そうした方々に刺激を受けているうちに、今度は私もアロマを学んでみたい、という欲求が湧いてきました。そのように考えているうちに、またある時、情報誌に載っていたアロマの講習会の広告が目に飛び込んできたのです。私はいつものごとく、ピンときた瞬間に申し込んでいました。
アロマの学びが一通り落ち着いたら、今度は以前からやっていたヨガをもっと本格的に習いたい、という欲求が湧いてきました。そんな風に思っていると、友人が近所のヨガ教室に通い出してから体の調子がとても良くなった、という話をしてくれました。そのヨガ教室はどこにあるのか聞き出して、インターネットで調べてみてピンときた私は、
・・以下省略します。
とこのように、私は何かを学びたい、この世界を知りたい、深めたい、と感じて宇宙にその願いを放出すると、必ずベストなタイミングで先生や講習会などの情報がやってきて、チャンスが与えられるという経験を何度もしました。お金も、そんな時にはなぜか苦労することなく用立てることができました。
大切なのは、ただ学ぶだけではなくて、学んだことをどのように生かすかが重要なのだな、ということも知りました。知識も経験も豊富な先生の元で一定期間学んだ後は、学んだ知識を生かしながら、実践していく段階に入っていきます。その時に、学んだことだけの範疇に納まっていては、発展性がありませんし、自分らしさ、オリジナリティを出すことはできません。知識は基盤として重要な要素ではあるかもしれませんが、その知識を自分のものにするためには、そして、更にその世界を深めていくには、とにもかくにも実践しなければなりません。自分ができるのだろうかといった不安や、失敗することへの恐れもありますが、そうしたことをモヤモヤ考えているよりも、とりあえずやってみる、試してみる、という勢いが大事なんだな、とやりながら感じています。
考えているだけではなく、行動を起こす。ピンときたらそれは直観(宇宙と交信して得た情報)なので、信じて委ねてみる。そして何より、自分の内側から湧き出てくる情熱、ワクワクに応じて突き進んでみる。
そんな右脳系直観型の生き方にシフトしてからの方が、私の人生は断然楽しく、色鮮やかになってきています。
私が波動療法や肉体次元を超えた”魂”の世界に興味を持つようになったのは、今から7~8年くらい前のことです。
何がきっかけでそちらの世界にひっぱられるようになったのかというと、ハッキリとしたきっかけがあったというよりも、少しずつそうした分野に触れる機会が増えていき、自然と意識が変わっていったように思います。その頃私は、ただ漠然と生きているより、私が今この生を生きている意味や、この世の仕組みや宇宙の真理を理解したい、と思っていました。この世はなぜ存在するのか、「私」という存在はどこから来たのか、古今東西あらゆる宗教が言っている「神」という存在はいったい何なのか。こうした疑問の答えとなる「真理」を知りたい、と強く願うようになっていきました。
ある時私は、ハッキリとした明確な”音”として、『ウパニシャット』という言葉が脳裏に響き渡るの体験をしました。高校の倫理の授業で習って以来ずっと忘れていた古い言葉が、なぜ今突然頭に浮かんできたのだろう、と最初は不思議でしたが、そうしたことはよくあることなので、さして気にも留めずにいました。しかし「ウパニシャット」という言葉は私の脳裏に何度も連呼して響き渡り、あまりのしつこさに「もうわかりました!ウパニシャットを調べればいいんですね!」と誰だかわからないけれどその言葉を投げかけてくる”存在”に向かって脳内で叫んでいました。何日か後にようやく図書館で「ウパニシャット哲学」の本を見つけて借りてくるまで、「ウパニシャット」という言葉は私の頭の中でずっと鳴り響いていました。
それはとても古びた本でした。図書館の隅っこに、ひっそりと置かれていました。「ウパニシャット」というのは、インドに大昔(紀元前1500年前位ともそれ以前ともいわれる)から伝わる「ヴェーダ」という文献の一部の名称で、それ自体がいつ書かれたものなのかもハッキリとしたことはわかっていません。そもそも文献として記された時期がいつかということがわかったとしても、その思想自体はもっと昔から存在していた可能性もあります。ヴェーダの教えはヨガ行者たちの間で伝承として語り継がれてきたとも言われ、教えの発祥自体は、もしかしたら気の遠くなるくらい昔のことなのかもしれません。
高校の倫理の授業では、ウパニシャット哲学を深く読み込むことはせず、ただ体系的な知識や言葉を学んだだけでした。当時の私は、そこに出てくる「アートマン」やら「ブラフマン」といった不思議な響きの言葉に興味はあったものの、一体それらの言葉が何を意味するのかよく分からないまま、ただ試験に出てくるからという理由でキーワードをいくつか頭に詰め込んだだけで終わっていました。
大人になり、人間の肉体とは、精神とは、魂とは・・と個人的探求をある程度続けてから改めて「ウパニシャット」の教えに向き合ってみると、高校生の頃にはチンプンカンプンだった「アートマン」や「ブラフマン」「ニルヴァーナ」といった言葉の意味が、「ああ、こういうことをいっているのかな」という感じでストンと自分の中に落ちていくのがわかりました。その時私が知りたいと強く願っていた宇宙の真理が、この本には書かれているのだ、と思いました。
その時をきっかけに、魂の覚醒道を突き進もうと決心した私の元には、次々としかるべき時にしかるべき本がもたらされるようになりました。図書館や本屋でたまたま手に取った本に、まさに今知りたいと思っていたことが書かれていたり、インターネットや知人から聞いた話でピンときた本を取り寄せてみたら、まさにその時の自分にピッタリの内容のものだったり、目についた本から「私を読んで!」と訴えてくるようなオーラを感じたりすることもよくありました。大昔に書かれた本もあれば、最近発行された本、既に絶版となっていた本など、種類も様々でした。中には、以前買っておいていたものの、なぜか読むことなく本棚に置かれたままだったものが、ある時パッと目に入ってきて「あ、今これを読むべきなんだな」と感じたこともありました。またある時は、「今日どうしてもあの本屋さんに行きたい!」という衝動が湧いてきて、行ってみるとやっぱり私が探し求めていた内容の本と出会えたりもしました。
途中から私はすっかりこうした流れに身を任せる感覚が身についてきて、何も考えることなくても、ベストなタイミングで必要な本が私の手元にやってくるのをゲーム感覚で楽しむようになりました。(今現在もそれは続いています)
「ウパニシャット」の本は、私が生まれるずっと前からこの世にあったのに、長い間私は気づくこともなく、手に取る機会を得ないままでした(高校時代に出会ってはいたものの、その時の私はそれに惹かれなかった)。ある時導かれるようにして読むことになったわけですが、そうした流れにも全て意味があり、その時がまさに”時期”だったのだろうなと思います。
本に書かれた深淵なる教えのおかげで、少しずつ意識が刺激されていった私は、それと並行して実生活でも、様々な出会いや経験がもたらされるようになっていきました。
それに関してはまた次に書こうと思います。
最近のマスコミの報道をみていると、芸能人や有名人で何か「失敗」をしてしまった特定の人物をやり玉にあげ、その人が打ちのめされて再起不可能になるまでとことんバッシングをし続ける傾向があるように思います。1つどこかが取り上げたら、まるで待ってましたと言わんばかりに他のメディアも一斉に報道合戦に参加、その人を意図的に不利な立場に立たせるような、偏った内容の報道を一方的に発信しています。その人を精神的に痛めつけることを目的にしているかのような意地悪な視点を背後に感じますし、「失敗」した人を、視聴者を引き付けるネタとしてしかみていないのだな、とも思います。
そうした一方的で表面的な報道は、見る側にとっても、いたずらに悪しき感情だけが引き起こされるので、その人の事情やそうなった経緯、裏側にある背景といった、問題の本質が見えにくくなってしまうのではないかと思います。
社会に不調和をもたらす人がいたとしても、その人をひたすら非難するだけでは、問題の根本的な解決にはならないはずです。そもそも、何か「失敗」してしまった時、本人が一番落ち込み、反省し、次は繰り返さないようにしようと気を付けるものではないでしょうか。周りがとやかく責め立てる必要はないように思います。むしろ、強く批判されたことで心が折れてしまったその人から、次につなげるチャンスを奪うことの方が、社会全体にとっても損失ではないかと思うのです。失敗した人を責め立てる人は、その人が反省していることの証として、消沈している姿を見せることを誠意の表れのように感じているのかもしれません。けれど、そのような欲求は個人的なエゴでしかなく、失敗した人にとっても、本質的な改善につながるものでもないと思います。
失敗をしても内省をするどころか、非難されたことに逆上したり、意地になるなどする人がいたら、その人には何を言っても無駄でしょうから、そもそも非難をするだけ逆効果でしょう。そういう人には、根本的に心を入れ替える環境を提供するか、心の闇を吐き出すお手伝いが必要だと思います。ただ責め続け、怒りをぶつけるだけだったら、ますますその人は心を閉ざし、いたずらに社会に対する増悪を募らせるだけでしょう。
ということから、私はそもそも誰かを必要以上に責め立てたり、反省を無理やり促すようなことはする意味がないと思っています。子供を叱る時も、責めたくなる気持ちが芽生えたら、一度立ち止まって、ただ自分の怒りを発散させたいだけではないのか、と自問自答します。もちろん、人間ですから感情が動くことは当然ありますが、できるだけ自我を満足させるだけの叱責はしないように気を付けています。本当に、そのようなことをしても良いことなど1つもないのがわかるからです。
子供でも、何かいけないことをした時には、自分が一番わかっています。そんな時に、親が感情的に怒ったとしても、子供も感情的に反応するだけで、冷静さを失って反省するどころではありません。せいぜい、厳しい顔をして子供の目(左目の方が効果があるようです)を見つめ、「それはいけないことだ」ということを一度しっかり伝えれば十分なように思います。感情的に怒ってばかりいると、子供は親が激高しないようにビクビクするクセができてしまい、親の顔色を窺って行動するようになったり、言動の基準が親を満足させることになったりしがちです。親としては子供が自分の言いなりになることは楽なのかもしれませんが、抑制が長く続けばいつか何らかの形で爆発する時がくるでしょうし、誰かの物差しに合わせて生きていけば、その分自主性が育たず本来持っている創造力が開花しづらくなります。小さな子供でも、親がただ感情を刺激されて怒っているのか、それとも自分がいけないことをしたことを伝えたくて叱っているのか、ちゃんとわかっていると思います。
自分自身が何か「失敗」をしてしまった時だって、周りに直接叱責してくる人がいなくても、自分で反省したり、何がいけなかったのか考えますし、そもそも自分がしたことの結果を受け取るのは自分自身なのですから、それだけで十分教訓となっています。そこに傷口をえぐるような他人の叱責が加わったら、無駄に落ち込み、意気消沈して自分を必要以上に責めてしまうでしょう。
人を責めたくなったら、私はなぜ責めたくなってしまうのか、自分の内面の何がその人を非難しているのか、己を見つめます。その人を直接責めることにエネルギーを使うのではなく、己を見つめ直す良い機会だと考えます。社会全体の病巣がみえることもあります。それだって社会を構成している一人一人に関係していることなので、究極的には自分も含めた全体の責任だと思っています。私達は大元でつながっているので、誰か1人が行ったことは、私達全体に響いてくるのです。だからこそ、自分が発する想念や、自分の行いには責任を持とうと思っています。
うぶすなにあるアンジェリックエッセンスの中で、最も減るスピードが早いのは、「Purification(ピュリフィケーション)」です。このエッセンスは、あらゆるレベルでの浄化を助けてくれるもの、とルースさんの解説にはあります。
お客様のボトルにお入れすることも多いですし、家族それぞれのトリートメントボトルには、大体毎回入れるようにしています。
というのも、この「purification」をトリートメントボトルに入れた時と入れなかった時とでは、明らかに違いがあるなと感じるようになったからです。まず、自分についた望ましくないエネルギーをすぐに浄化してくれるため、常に”スッキリ”した状態が保てます。
私達は毎日様々なエネルギーに接しています。人もエネルギーですし、人が発する念もまたエネルギーです。また、行く先々にも特有の”場”のエネルギーがありますし、空気中にも雑多なエネルギーが混在しています。手に触れる物や口に入れる食べ物、耳から入る音、水、活字、テレビやラジオから流れる電波、それらも全て特定の周波数を宿しています。自分の内側をみてみても、思考や感情、想念など、様々な念エネルギーが次から次へと産み出されては放出され続けています。
「Purification」は、このように様々なエネルギーの影響を受けている私達の中から、周波数が低く、望ましくないエネルギーを排出する働きがあるようです。ネガティブなエネルギーを引き寄せてしまった時や、悪しき感情が芽生えてしまった時など、すぐにリセットしてもらっている感覚があります。低い周波数のエネルギーの影響を長く受けずに済みますので、平穏な心でをキープでき、心が楽です。必要のないネガティブ思考に邪魔をされることがないので、頭も常にクリアーに保つことができ、判断力や集中力も高まります。
もう1つ、私はこの「Purification」を飲んでいると、一緒に飲んでいる他のエッセンスのエネルギーをより明確に感じやすくなります。おそらく、自分が雑多なエネルギーに振り回されなくなるので、微細なエネルギーを感じる力が高まるのだろうと思います。
家族にもこれを飲んでもらっていると、イライラやストレスが明らかに減っていくのがわかります。感情に振り回されなくなるので、表情は穏やかになり、精神的に疲れにくくなるようです。ネガティブな感情が芽生えたとしてもすぐに消えてしまうので、ケンカをしたとしてもすぐに仲直り。切り替えが早くなり、嫌な事もすぐに忘れてしまいます。とても楽です。
「Purification」のような浄化のエッセンスを常にとっていれば、たとえネガティブなエネルギーに影響を受けてしまったとしても、すぐに浄化・リセットして再スタートを切ることができます。過去にいつまでも引きずれらていては、前には進めません。エッセンスなどの高次のエネルギーには、余計な殻やゴミをどんどん破って捨て、私達を元のピュアで愛に溢れた姿に戻す力があります。本来エネルギー体である私達は、エネルギー的なお掃除も大切なのです。
フラワーエッセンスには、『豊かさ』をテーマにしたものがいくつかあります。
『豊かさ』のエッセンスを飲むと、欠乏感が減っていくのがわかります。「足りていない」という感覚がなくなっていくのです。そうなると、今まで自分から発せられていた「足りていない」という波長が出なくなり、自然と「足りていない」状況が改善されていきます。
『豊かさ』のエッセンスを飲んだ方が、よく「欲しかったものが手に入った」「お金のまわりが良くなった」「頂き物が増えた」といった報告をするのは、意識の変化が現象となって表れた結果だと思います。「足りていない」という意識から、「足りている」という意識へと変化し、「足りている」という状況を自分の元へ引き寄せたのです。
人の意識が覚醒していくと、常に満ち足りた感覚でいられるようになります。必要なものは必要な時にもたらされることを確信していますし、そもそも執着が剥がれてくるので、無駄に物やお金を持ちたいという欲求がなくなります。そのような心の状態こそが、本当の『豊かさ』なのではないかなと思います。
『豊かさ』のエッセンスは、最終的にはそのような”真に満ち足りた状態”にまで人の意識を高めるお手伝いをしてくれるもの、と捉えています(実際、飲んでいるうちにそのような考えに切り替わっていくことが多いです)。いたずらに物欲を刺激し、満たすものではありません。そもそも、物質的な欲望はエンドレスに続くものですから、そこにとらわれている間は、本当の意味で心が満たされることはないでしょう。何かを手に入れた瞬間、あれほど欲しかったにも関わらず、それは瞬時に輝きが色あせ、また次に別のものを手に入れることに心が向かっていく経験は、多くの方がされていることと思います。
生きていく上で物もお金も必要ですが、本当に必要ではないものまであれこれと欲しくなってしまう心の状態は、いくら物質的に恵まれた環境にいたとしても、かえって苦しみをもたらします。手に入れても手に入れても、「足りない」という欠乏感と、「もっともっと」という渇望感を抱き続けるからです。
『豊かさ』のエッセンスは、必要なものは必要なタイミングできちんともたらされる、という確信を私達にもたらしてくれると共に、無駄な欲望に惑わされず、穏やかな心境で常に満ち足りた思いを抱くことができるように、私達を導いてくれる頼もしいツールです。
ヒトは、体と心、そして魂の三位一体(ボディ・マインド・スピリット)からなる多重構造の存在です。
フラワーエッセンスは、このうち心と魂に働きかけてくれますが、直接的に肉体を癒すものではありません。ですので、体の癒しが必要な時には、別の手段に頼ることになります。
そこで頼りになるのが、食べ物やハーブ、アロマといった自然界に存在する癒しのツールです。一般的には、体の不調を感じたら病院へ行って薬をもらう、という発想が常識となっているのかもしれませんが、私の個人的な経験からいうと、薬に頼るよりも自然療法を利用した方が、文字通り”自然”な形で体が治癒方向に向かうようです。また、人工的な薬は必ず副作用が伴いますが、自然療法にはそのような危険もありません。
我が家では風邪やインフルエンザなどにかかってもホメオパシーや食餌療法などで様子をみるようにしていますが、このような対応をし続けているうちに、いつの間にか子供も免疫力が強くなってきたのを実感しています。感染症にもかかりにくくなったと同時に、かかったとしても回復が早いです。薬は症状を抑えるものでしかなく、人間が本来持っている自己治癒力を高めてくれるわけではありません。本当に強い肉体を作るのには、この自己治癒力を高め、抵抗力をつけることが大事なのかなと思っています。運動などで体を鍛え、代謝を上げて、できるだけケミカルなものを体に入れないようにする。日頃からデトックスを心がけて(便秘になりにくい食生活・生の野菜と果物のジュースを午前中にとるなど)体に毒素をため込まないようにする。もし体調を崩した時には十分な睡眠と栄養、そして自然治癒力を高めてくれるホメオパシーの力を借りる。そんな感じで、今のところ病院に頼らずに乗り切れています。
子供が怪我をした時などには、ホメオパシーの入った塗り薬(インターネットなどで手に入ります)や、アロマがとても役に立ってくれます。ホメオパシーはエネルギー療法ですが、より肉体に近い次元で作用してくれるので、即効性があります。飲んでとる方法が一般的ですが、切り傷や打撲などには直接患部に塗布するのも効果的です。痛みもすぐに引きますし、傷の治りが早いので驚きます。
こうした肉体を癒す必要がある時に、私はフラワーエッセンスを利用して、メンタルも同時に癒すようにしています。例えば子供が熱を出して寝込んでいる時には、緊張をほぐしてリラックス効果のあるエッセンスを飲ませます。先日子供が夜うなされて目が覚めた時、夢と現実との区別がつかずパニックに陥っていたので、バッチのレスキューを飲ませたら瞬時に落ち着きを取り戻しました。また、突然の怪我などの時にも、ショックを和らげてくれるレスキューはお勧めです。
夜なかなか寝付けない時や、興奮している時などには、ラベンダーやカモミールといったリラックス効果の高い精油が入ったオイルでマッサージすることがありますが、そのオイルの中にも、安らかな眠りに誘ってくれるエッセンスを入れています。肉体だけでなく、サトルボディにも作用してくれるので、癒し効果が高まります。
子供の病気や怪我は何かのサインであることも多いので、肉体的に癒すだけではなく、そのような症状を引き起こした原因や引き金となっているものは何か、ということも考えるようにしています。体の不調は、肉体の抵抗力を高めるためだったり、また子供自身の経験として必要だったり、教訓となるために起きる場合もありますが、怪我や病気という形をとることで親に何かを伝えたかったというケースもあります。
人間が完全に癒されるには、肉体・心・魂のどれか1つだけではなく、この三位一体全てに働きかける必要があるのかなと思います。どれか1つだけでもバランスを崩すと、それ以外の部分にも響いてきます。バッチ博士は、肉体の不調は魂の不調からくると言いました。結局全てが繋がっているのですから、バラバラに考えるよりも、全体で1つと捉えて、それぞれにアプローチしていく必要性を感じています。
私がフラワーエッセンスと出会ってから、今年で6年目になります。ちょうど5年前、東日本大震災が起こり、私は実家(福島)の状況が心配で心配で、いたたまれない日々を過ごしていました。両親とはしばらく連絡が取れず、無事でいるのかすらわかりませんでした。故郷の人達が辛く過酷な日々を送っているというのに、私ができることもなく、自分の無力さに歯がゆさを感じながら、毎日鬱々と暮らしていました。
そんな時、学生時代の友人が「福島のお友達に送ってちょうだい」と、フラワーエッセンスが入った小さな小包を送ってきてくれたのです。電話で友人は、「心を癒してくれるもの」だと教えてくれました。その時は、それが一体どのように働いてくれるものかいまいちピンときていなかったのですが、誰かの役に立つかもしれないと、宅急便が復旧するとすぐに、福島にいる友人宛にそれを送りました。
故郷の状況とそこに暮らす人々のことを思って、毎日胸が締め付けられそうな思いをしていた私は、わらにもすがる思いで、自分もフラワーエッセンスとやらを試してみよう、と思うようになりました。インターネットで調べて、都内でエッセンスが手に入る場所を見つけ、訪ねてみました。
今、その時の自分に私が選ぶとしたら、
・レスキュー
・ゴース
・スイートチェストナット
・スターオブベツレヘム
・ホワイトチェストナット
・フリーダムフロムフィア
・カレッジ
・サンフラワー
・ブリーディングハート
・ラベンダー
・ダンデライオン
あたりでしょうか。
行ったお店で選んでもらったのは、アンジェリックの「Quan-yin(観音)」と、「Inspiration(インスピレーション)」の2本でした。店員さんは、ペンジュラムを使って選んでくれていました。今思えば、その時からアンジェリックエッセンスとはご縁があったようです。
選んでもらったエッセンスは2本とも飲みきりましたが、その時は、私が期待していた効果は感じられませんでした。その時の私は、とにかく「この胸の痛みをとってちょうだい!」という気持ちが強烈だったのですから、どちらかというと、アンジェリックの中でも特に深い意識に働きかけるものよりも、感情にダイレクトにヒットするエッセンスを飲んだ方が良かったように思います。毎日胸が苦しくて苦しくて、何をするにもとにかく胸の重さがのしかかってつらかったのです。
結果として、胸の苦しみはあまり取れないまま、私は意識ばかりが上の方にとび過ぎてしまい、地に足がつかずフラフラと現実離れした空想世界に引っ張られることになってしまいました。
私が思うに、ペンジュラムのようなものは、その人が潜在的に必要としているものを探すツールとしては良いのかもしれませんが、より肉体次元に近いものや、感情に働きかけるものを探したい時には、別のツールを用いた方が良いのかなと感じています。私がセッションでカウンセリングや直観を大事にしているのは、そういうわけでもあります。
また、この時の経験から、グラウンディングがきちんとできていないのに、高次元のエネルギーのものをいきなりとってしまうと、感情が癒されないどころか、かえって意識が混乱してしまう場合があることも学びました。癒していく順番としては、「肉体→感情→潜在意識」が最もスムーズであるように思います。(肉体と感情は、同時に癒すことも可能)
ちなみに、あの時に選んでもらった2つのエッセンスは、だいぶ経ってから、もう一度試してみたことがあります。感情が落ち着き、心の浄化も進んで地に足も着いた頃に飲んだら、エッセンスのエネルギーもしっかりと感じることができて、改めてアンジェリックエッセンスの強力なパワーを体感したものです。
エッセンスを飲むタイミングや、その時その人が本当に必要としているものを飲む、という感覚は、本当に大事なんだなあと思います。
パワーオブフラワーのブレンドエッセンスの中には、子供にお勧めのものもいくつかあります。その中でも、写真にある「チャイルドブレンド(A Child's Blend)」は、子供だけでなく、インナーチャイルドの癒しを求めている方にもとっても良いエッセンスです。我が家の娘もこのエッセンスが大好きで、時々飲みたがります。以前、このエッセンスを飲んでいる間に、なかなか定まらなかった自分の進む道、方向性のようなものがハッキリとみえてきて、本人が大喜びしたことがありました。それと同時に、自分の夢を応援してくれる人が現れたり、夢を叶えるための有効な情報が入ってきたりと、何かとサポートがやってくるので、エッセンスの効果を実感したものです。
チャイルドブレンドには、バターカップ、シューティングスター、ソフィーローズ、ジニアのエッセンスがミックスされています。この中にある「ソフィーローズ」ですが、パワーオブフラワーの作り手であるイーシャさんの娘さんの名前がついています。娘さんが生まれた時に、イーシャさんのお友達が、お祝いとして庭に植えてくれた薔薇から作られているのだそうです。とても癒しのパワーが強く、これを飲むとハートにジワーっと『安心感』が広がっていきます。私が個人的にブレンディングして使っている、「安眠ブレンド」にもソフィーローズは必ず入れるようにしています。
バターカップ、シューティングスターは共に、うぶすなのセッションで最も出番が多いエッセンスといってもいいかもしれません。ザ・インナーチャイルドのエッセンスです。バターカップは傷ついたインナーチャイルドを癒す力、シューティングスターは、インナーチャイルドを輝かせる力があります。その人が生まれ持った個性を発揮して、その人らしく人生を切り拓いていく勇気をもたらします。
また、ジニアも人気が高いエッセンスです。人生にもっと笑いをもたらしたい時、人生を深刻なものに捉えすぎている時、もっと軽やかに人生を楽しんでいくエネルギーをもたらしてくれます。そんなエッセンス達が1つに合わさったら、なんと素晴らしい錬金効果が生まれることでしょう。
フラワーエッセンスを初めて飲む方、何を飲んだらいいのかよくわからない方は、とりあえずこうした「インナーチャイルド」の癒しから取り掛かるのが良いかもしれません。インナーチャイルドとは、どの人の心の中にもある、”内なる子供”の部分です。純粋でピュアで傷つきやすかった子供の頃に受けた心の傷やトラウマ、衝撃的な出来事の記憶、威圧的に教わったこと、思い込み、自信のなさ等々が、インナーチャイルドの「負」の部分として強く残っていることがあります。おそらくどの方にも、こうした部分は多かれ少なかれあるのではないでしょうか。そのようなインナーチャイルドの傷が、自分が本当に幸せになろうとしている時に、足を引っ張ったり、前に進むのを躊躇させたり、思わぬ妨害となることがあるのです。
夢を叶えたい、自分らしく生きたい、人生を楽しみたい、こういった希望を叶えたいのであれば、まずは心のお掃除、それからインナーチャイルドの癒しが先決です。結局、この二つがちゃんとできていなければ、潜在意識が汚れたままですので、いくら人生を前向きに進もうと思っても、潜在意識から発せられる負のエネルギーに邪魔をされてしまうのです。
心がクリアーになり、インナーチャイルドが再び生き生きと輝いてくれば、その人から発せられる波動が変わります。余計な割り込みが入ることが減り、また自分でも無駄に回り道をすることが減っていきます。何より、心が軽やかでいられることが、一番うれしいことです。
フラワーエッセンスは、一度飲んだものは飲み終わった後も効果が続くものなんですか?という質問を時々受けます。
飲んでいる間に”効いている”感覚があっても、飲み終わった後にもその感覚が継続するものなのか、それとも飲み終わったらもう効果がなくなってしまうのか・・
私が今の時点でお答えするとすれば、「続く場合もありますし、消える場合もあります」。
例えば、「怒り、イライラ、焦り、悲しみ」といった、人間の基本的な感情に対応するエッセンスを飲んでいる場合。飲んでいる間に状況が変わって、そのような感情が出てくる機会がなくなったり、発想の切り替えが起こって今までのように頻繁に同じ感情に苦しむことがなくなったりします。その人の思考が変われば、同じ出来事やシチュエーションに遭遇しても、以前とは反応が違ってくるのです。一本でそのような変化が起こることもあれば、何本か飲んでいるうちに、感情が落ち着いてくる場合もあります。
ただ、その方のとても深い部分に、癒されていない傷が残っていて、それがなかなか消えない場合や、その方が何かに対して強い執着心がある場合などは、そう簡単にはいかないようです。一時エッセンスを飲むことによってモヤモヤが解消されたとしても、再び自分を試すような出来事に遭遇して、同じようなネガティブな感情に悩まされたり、気づきを促すような状況に身を置き続けたりして、根本的な癒しが行われるまでは、本当の意味で感情が落ち着くことはないようです。その場合は、その都度感情を癒すエッセンスを飲みながら、手放し・浄化系のエッセンスを飲まれるのがお勧めです。根本的な癒しを求めるのであれば、たった一本でミラクルに変わろうとすると、かえって失望や怒り、焦りなどを感じてしまうことになるかもしれません。霊的な浄化は、一気に進むものではないからです。
また、エッセンスによっては、「喜びの感情を高める」「愛のパワーを感じる」「ハートを温める」といった、気分を上げてくれるタイプのものもあります。そのようなエッセンスは、飲んでいる間には確かにハッピーな気持ちになったけれど、飲むのを止めたらまたいつもの気分に戻ってしまった、ということも結構あるように思います。
私が個人的にこのような感覚を一番感じたのは、アンジェリックの「Sacredness(神性さ)」というエッセンスを飲んでいた時のことでした。このエッセンスを飲んでいる間は、とにかく何を行うにしても、全ての行為に「神性さ」が宿るのを感じていました。本を読んでいる間も、テレビを見ている間も、ご飯を食べている間も、掃除をしている間も、いつもだったらつまらないと感じるような日常的な雑務の最中でも、とにかく自分の一挙一動が全て輝いていて、貴重で、美しい行為に感じられたのです。そのために、普段ならパパッと済ませてしまう動作でも、丁寧に、心を込めて行うことができました。以前は時間短縮のために急いで夕飯の支度をしていた私でしたが、一つ一つの料理の過程を、それまでとは違った感覚で楽しむことができました。日常の全てに「神」が宿る感覚というのを味わえたのです。
ところが、この「Sacredness」というエッセンスを飲み終わってしばらくしてから、徐々にこうした感覚が自分の中からなくなっていくのを感じていきました。あの感覚はあのエッセンスのおかげだったのだということが、明確にわかりました。
もう1つ、我が家の息子(小学生)は昔からとても怖がりな所があるので、毎日飲むトリートメントボトルの中には、常にアンジェリックの「Freedom From Fear(恐れの解放)」を入れています。これを飲んでいると、明らかに違うのがわかります。それまで怖くて夜1人で部屋にいられなかったのが、平気でいられるようになったり、夜は誰かと一緒じゃないとトイレに行けなかったのが行けるようになったり、また習っているラグビーでも、少しずつタックルができるようになっていきました(それまではビクビクしてタックルができなかった)。
一時期、もう大丈夫かなと思ってこの「Freedom From Fear」をトリートメントボトルに入れるのをやめたことがあったのですが、そうするとまたしばらくしてから、怖がりな面が出てくるようになり、夜1人で自分の部屋に行くのを嫌がったりしたので、やはりまだ必要なんだなと思い、毎日飲ませています。(飲むとやはり怖がりが改善されます)
うぶすなのお客様と、次のエッセンスをどれにしようか一緒に選ぶ時は、前回と同じものを入れるかどうか確認するようにしています。どのお客様も、「これはもういいかな」とか、「これはまだしばらくとりたいです」とか、ご自身でわかるようです。
以前飲んだことがあるもので、しばらくとるのをやめていたけれど、またとりたくなったりするエッセンスもあります。
ですので、結局ケースバイケースということのようです。以前飲んだことがあるからとか、長く飲んでいるからという理由で、もう必要ない、と言い切れるものでもありませんし、少し飲んだだけで自分の中の「何か」が変わり、飲まなくてよくなることもあります。その時その時、自分が一番欲しているものを飲むのがベストで、過去に飲んだ、飲まない、にはあまりとらわれなくてもいいのかな、と思います。
フラワーエッセンスは、人の霊的な浄化を助けてくれるツールの1つです。霊的な浄化を助けてくれるツールは他にもいろいろありますし、特にツールがなくても、様々な体験を通して気づきを得ていくタイプの方もいらっしゃることと思います。それぞれやり方は違うとしても、この世で肉体を持ちながら経験を通して学び、魂を磨いていくという根底の目標は、どの人生であっても同じなのかなと感じています。
霊的な浄化が進んでいくと、『とらわれ』がなくなっていきます。執着がどんどん剥がれていくのです。
『とらわれ』が減っていくと、今まで気になっていたことが気にならなくなり、現世的な欲にも引っ張られなくなるので、気持ちがなだらかになって、平穏な心の状態が味わえるようになります。周囲の状況や他人の言うことに振り回されなくなっていくので、どんな環境に身を置いていても、泰然自若に構えていられます。
心が苦しい時というのは、悪しき感情に支配されていたり、とめどなく続く思考の波に自分が持っていかれている場合が多いです。ネガティブな感情と思考にやられているのです。
ではそうした悪しき感情や思考はなぜやっていくるのかというと、今の自分と自分の置かれている状況を受け入れられていないからです。今自分の目の前に広がっている世界、目の前にいる人、鏡に映っている自分の姿、自分の過去、仕事、持ち物、人間関係、家族の状態、財産、etc...あらゆることにジャッジも批判もすることなく、ただあるがままを認めることができていたら、そもそも”悪しき”感情は生まれません。自分を無理やり納得させるための思考のおしゃべりも必要ありません。
ではどうやったら受け入れられるようになるのかというと、「受け入れられない」原因となっているものを手放せば、それはできるようになります。それが、霊的な浄化といっている部分です。
「こうあるべき」「こうでなければならない」と思い込んでいるから、そうでない現実を見た時に、それを受け入れられないのです。
そうした思い込みは、元々もっている魂のデータベースからきているものもありますが、生まれ育った家庭や教育の過程においても強化され、またマスコミなどの媒体から得た情報にも大きな影響を受け、自分の信念体系となってエネルギーフィールドにまとわりついています。
フラワーエッセンスなどの浄化ツールは、こうした信念体系にメスを入れてくれます。頑なに信じていた思い込みが、少しずつほぐれていくのです。ほぐれていくと、1つのあり方にとらわれなくなりますから、多種多様を認められるようになっていきます。そもそも「こうあるべき」ことなどなかったんだ、ということを本心から感じられるようになれば、感情や思考が必要以上に動くことがなくなりますので、感情や思考に自分を持っていかれることもなくなるでしょう。信じられないような振る舞いをする人をみても、予想していたことと全く違う出来事が起こっても、動じることなく、ただ受け入れることができるようになります。人を責めたり、自分を責めたり、過去を恨んだり、現実を嘆いたりすることがなくなります。(どれも、湧き起る感情は耐えがたいものです)
そして、自分の人生に対しても、「こうでなければならない」という思い込みが外れれば、大きな自由がもたらされるのではないでしょうか。何歳までに結婚して、子供は何人で、どのくらいの家に住んで、年収はこの辺まで上げて、子供を偏差値のできるだけ高い大学に入れて、体型はどのくらいをキープして、人生の勝ち組にいたい、孫の顔を見てから死にたい、etc...内面を見つめてみると、考えている以上に多くのとらわれを自分に課しているものです。もちろん、夢や希望を持つことは人生を充実させてくれます。けれどそれが本当に自分が望んでいることなのか、一度問い直してみると本質がみえてくるかもしれません。案外周囲の影響から「そうしなければいけない」と自己暗示にかかっていたり、親や誰か他の人を喜ばせるために、本心ではないのにそのような思いを抱き続けていたり。
または個人的な我欲を満たすためだったり、虚栄心から湧いてくる望みの場合もあります。そのようなものであれば、望みが叶ったとしても心が満たされることはなく、更なる願望が湧いてきて、それに向かって再び動くことになるだけでしょう。エゴからくる望みでは、人は決して満足できないようになっているのです。
魂レベルの望みは、勢いが違います。「しなければならない」ではなく、「こうしたい!」という心の底から湧きおこるパッションで行うことは、魂本来の目的に沿っているので、サポートもやってきますし、スムーズに事が進むことが多いです。
『とらわれ』というのは、実際にとらわれている間は自分で気づかないものです。フラワーエッセンスは、そうした「とらわれにとらわれている」状態からも、脱却をスムーズに進めてくれます。私自身、今まで何度もとらわれている自分に気づかされました。1つ1つ『とらわれ』が解放される度に、体が軽くなったような、心の清々しさを覚えます。
どんなお屋敷に住もうが、どんな名声を得ていようが、どんな姿形でいようが、心がとらわれていたら、人は決して本当の幸せを味わえないと思います。目に見えることよりも、心の中に、真の幸せの鍵はあるのだと思います。
学習漫画の伝記シリーズが好きな我が家の子供達。いろいろな人物の伝記がありますが、生き方に共鳴した人物の伝記は、何度も繰り返し読んでいます。先日、お風呂に入りながら娘が言いました。
「マリーアントワネットって、”いい人”だったのかなあ?」
そこから、そもそも”いい人”とはどういう人なのか、という話になりました。娘のいう”いい人”とは、つまり人として尊敬に値する人物なのかどうか、というニュアンスで言っているようでした。つまり、”意識レベル”が高い人、とういうことです。意識レベルが高ければ、それだけ人格が上がり、エゴにまみれた行為とは無縁になって、逆に他人を救済するような言動が中心になっていきます。
意識レベルという言葉を出したら娘はよくわからないようだったので、私は次のように説明しました。
この世に人間として生きた人の中で、今まで最も意識レベルが高かった人は、イエス様とお釈迦様だったと思う。有名なところではガンジーなんかもかなり意識レベルは高かっただろうね。意識レベルが高くなればなるほど、持ち物や住むところ、地位なんかに興味がなくなっていく。執着がなくなるから。そういう意味では、マリーアントワネットは意識レベルがそんなに高かったというわけではないかもしれない。(*ファッションやプライドに固執していた若い頃の話。全てを失った死の直前の彼女は違っていたかもしれません)
・・・話を聞くと娘はなるほど!といった反応をし、
「私、マザーテレサやナイチンゲールも意識レベルが高かったと思うな」
と言いました。二人とも、娘が幼い頃から尊敬している人物です。
意識レベルが上がると、現世的な富や地位や賞賛に興味がなくなり、他者に尽くす道を歩むことになるのは、古今東西の覚者達に共通する生き方のようです。意識レベルが上がる=執着が剥がれれる、ということです。そうなれば、物質的な事柄に満足することがなくなり、代わりに魂の充足感を高めることに専心したくなるのが自然の流れです。
意識レベルと三次元的な地位や富は、当然ながらリンクするわけではありません。むしろ、学歴や年収、肩書きといった立ち位置や、住居、財産といった物質的なもの、家柄や血筋などの優生意識、賞賛やプライド等に強いこだわりがあるのであれば、その分だけ自我意識にとらわれているということなので、意識レベルはかえって低くなります。そういったことに固執すればするほど、エゴがどんどん肥大化して意識の覚醒は遅れるばかりでしょう。
若い頃、私は大学に行けばこの世の『真理』が学べるかもしれない、と考えていました。受験勉強に力を注ぎ、それなりに学力レベルが高い大学を目指しました。その方が、より『真理』に近い知識が得られるだろうと思ったからです。
けれどいざ大学に入ってみると、私は失望することになりました。教授といわれる人の中にもいろんな人がいて、意識レベルが高い人もいれば、逆の人もいたのです。中には、頭脳的な能力が並はずれて高いけれど、内面が幼稚で学生にエゴを振りかざす人もいました。
大学の授業では、私が本当に知りたいと思っていた、魂の学びはあまりできませんでした。世の中の仕組みを統計立てて考える思考能力や、論理的に考える力はついたと思います。けれど、結局そのような「学問」は、この世の真理を解明するというより、ただ分析して客観的に眺めるテクニックでしかないことに気づきました。むしろ、講義以外の所で得た経験や人との関わりにおいて、より多くの学びと気づきが得られたくらいです。(結果的にそこで得られた知識と経験が今に役立っていることは事実なので、大学に行けたことには心から感謝しています)
そのようなわけで、IQや知識と意識レベルもリンクしているわけではない、ということを身を持って知りました。
社会的に有名だとか家柄が良いとか年収が高いとかいった指標で、意識レベルを測ることはできません。その人がいかに自我意識から解放されていて、魂の学びを深めているか、というのが、意識の目覚めを表す指標であるように思います。
フラワーエッセンスに出会って以来、数多くのエッセンスを飲んできました。今現在サロンには200種類ほどのエッセンスがあります。これだけ多くのエッセンスに囲まれていたら、さぞかし心が安定していて悩み知らずなのではないかと思われるかもしれません。
確かに、フラワーエッセンスに出会う前に比べれば、情緒はかなり安定したと思いますし、何かが起こった時でも、動揺することなく落ち着いて向き合えるようになってきました。
けれど、かといって悩みや煩悩が全くなくなったというわけでもなく、相変わらず葛藤や執着は自分の中にあります(それもかなり減りましたが)。それに、向き合うべき課題というものは、1つ克服したらまた新たな課題が表れるものです。そうやって少しずつ執着を剥がして魂レベルを上げていき、最終的に完全に覚醒するまでその作業は続いていくものだと思います。
フラワーエッセンスのようなヒーリングツールの役割は、その人がその人生でこなすべき課題にきちんと正面から向き合えるように、理想の環境をお膳立てすることなのではないかと思います。エッセンスを飲んだからといって、その人の悩みがパッと消えてなくなるというものではなく、「そもそもなぜ私はその悩みを抱えているのか」という部分に焦点を当て、気づきを与える力を与えてくれるのです。
大きな出来事にぶつかって、にっちもさっちもいかなくなり、頭が混乱して何をどうしたら良いのかわからなくなっているような時や、人や物や地位などに強い執着心があり、心がそちらに強く引っ張られて冷静さを欠いている時など、適切なフラワーエッセンスを飲むと、本当に助けられます。頭がクリアになって冷静さを取り戻し、今自分が何をしたら良いのか、明確なヴィジョンが見えてきます。また、感情の渦に飲まれている状態から解放されるので、自分が何にとらわれているのか、何を手放せば心に平安が戻るのか、落ち着いた状態で気づくことができます。問題解決に至るまでの道のりを平坦にしてくれているのが、フラワーエッセンスです。
何週間も何か月間も、ずっとモヤモヤ考え続ける代わりに、飲んでから数日~長くても数週間後くらいには、「あ、なんだこうすれば良かったんだ」といった気づきがもたらされることが多いです。それから、助けてくれる人が現れたりヒントがもたらされたりと、わかりやすいサポートがやってくるのもフラワーエッセンスを飲んでいる人によく起こることです。
また一方で、何年もエッセンスを飲み続けていると、長年(生まれる前から引きずるものも含め)の魂の垢のようなものが剥がれてくるので、何となく自分という存在が軽くなったような、縛られていない感覚、自由な感覚というものがもたらされます。
エッセンスのことはよくわからないけれど、何となく飲んでいると調子が良いからということで、深く考えずにエッセンスを飲み続けている方でも、しばらくすると明らかに以前とは発しているオーラが違っているのがわかります。お顔がスッキリされて、雰囲気もゆったりと落ち着いたものになり、他人に対しても大らかになってせかせかピリピリしなくなります。エッセンスは波動が高いものなので、飲んでいるうちに自分の波動が引き上げられ、それに伴って低い波動のものが去っていくからだと思います。
けれどそうした望ましい状態に変わっていくのは、その方が根本的に素直で、精神性が高く、魂を磨きたいという意思をどこかに持っている場合に限られるようです。執着心が強く、自己顕示欲や虚栄心を捨てきれずにいると、そうしたエゴの力が勝り、いくらエッセンスを飲んでも自我意識にとらわれた世界の中での変化に留まります。
癒しやヒーリングに携わる業界の中にも、エゴの力に引っ張られて、自分をよく見せるため、自分を特別な存在だと思わせるため、または個人的な利益を得るために、癒しやヒーリングを利用している方がいるのは残念なことです。そういった方々も、最初は純粋に「人を助けたい、人の役に立ちたい」という思いで始められたのでしょうけれど、富や賞賛や崇拝を得るうちに、ついつい我欲が勝って魂の本当の目的を忘れていったのでしょう。
私は自戒を込めてこれを書いていますが、どのような道を歩もうとも、エゴの声をいかにかき消して純粋な意思を保ち続けるか、常に問われていくことになると思います。個ではなく全体、自我ではなく真(神)我、分離ではなく統合の意識を持って何事にもあたった方が、何かとスムーズに事が運ぶようです。そのように宇宙の法が働いているからです。たとえ一時的に我欲の道を進んで上手くいったように見えたとしても、全体との調和が保たれていなければ、そこにひずみが必ず生じますから、遅かれ早かれエネルギーの反作用のような出来事が起こります。それでも気づくことなく自我の道を突っ走ろうとすれば、その人は恐らく全てを失うことになるでしょう。
本当に、目に見えている事象は幻でしかなく、幻に満足している間は真の心の安寧はもたらされないのだろうなと思います。一つ一つ執着を剥がし、自我意識のとらわれから脱し、表面を取り繕うより自分の内側を満たすことに専心していく道を、私は選びました。とても個人的なことのように思われるかもしれませんが、結局は1人1人が意識を上げていくことでしか、全体の意識は変わっていかないと思います。私達はお互い、意識を共有し合っているからです。そうして、1人1人の意識が変わっていけば、全体の意識の投影であるこの世の中も、変わっていくことになります。
長い間自我意識の中で生きてきた私達は、そこから脱するために多大なエネルギーが必要となります。フラワーエッセンスも含めた様々なサポートツールが現在この世に表れているということは、潜在的に意識の目覚めを望む人々が増えてきているからです。また、先に覚醒に道を歩んで無事に自我意識から脱する(解脱)することができた先人たちのエネルギーも、まだこの世に残っています。そうした覚者たちの残した言葉が記された文献なども、簡単に手にすることができます。
まずは、覚醒に至るまでの道のりを全力で歩む、という強い決心をすることが、車でいうエンジンのような役割を果たします。ギアがかかれば、あとは自動的に道を進んでいく流れになっていくでしょう。
私がフラワーエッセンスを使い始めた頃と今とでは、エッセンスに対する認識が少し変わったように思います。
初めの頃は、エッセンスのことを、どんな願いでもかなえてくれる、魔法のツールのように感じていました。エッセンスに頼り、エッセンスをあてにし、エッセンスに委ねていました。
実際、エッセンスを飲んできたおかげで様々な気づきが起こり、浄化も行われましたし、意識が変わったことで人生も良い方向に進んでいったことは確かです。けれどそういった一連の流れが起こったことの大元の原動力となっているものは、エッセンスの力というよりも、私の生命を保持し、絶え間ないエネルギーを注ぎ込んでくれている、根源的なパワーであるように感じています。自我意識からのとらわれから解放されたい、宇宙の真理に目覚めて意識の覚醒を目指したいという私の深い部分からやってくる願いが、意思の力となって人生を動かし、不要なものを振り落していったのだと思います。エッセンスのようなツールを手繰り寄せたのも、この意思のパワーがさせたことなのでしょう。
エッセンスは、執着から解放されて本物の自由を得たいと望む人にとっては、大変頼もしいサポートツールです。なぜなら、自分本来のものではない、自我や執着心をどんどん剥がしていってくれるからです。エッセンスを飲んで人生が良い方向に変わるというのは、今までとらわれていた心の重荷がなくなり、意識が浄化されるために、意識の投影である現実世界に変化が表れたということです。無意識レベルで浄化が起こることもありますし、一つ一つ気づかせる場合もあります。
エッセンスを飲んでいる方々を見ていて感じるのは、エッセンスが何とかしてくれるだろう、とエッセンスに頼りきってしまい、自分の意思の力で変わろうとする力が弱い人は、あれこれといろいろなエッセンスを飲んでいても、根本的な意識の変化が起こりにくい、ということです。(そしてそのような方は、フラワーエッセンス以外にも様々なグッズやヒーリングをあれこれ試される傾向があるようです)
そして、思うような”結果”が出なかった時に、エッセンスのせいにしたり、自分以外の誰かのことを責めたりします。
その一方で、エッセンスには助けてもらうけれども、私の人生を動かしているのは私自身である、という認識をもっている人は、謙虚で気づきのスピードも速く、意識の変化が起こりやすいです。そして不思議なことに、エッセンスもそのような方により大きな恩恵を与えてくれるように感じています。
そもそも自分の人生を創造しているのは自分自身なのですから、変わりたかったら自分が本気で変わろうと決心しない限り、いつまでも同じパターンを繰り返すことになります。それは、エッセンスを何百本飲んでも同じだと思います。逆に、エッセンスの力を借りなくても、意思の力で人生を変えていくことも当然可能です。エッセンス以外のサポートを受ける場合もあるでしょうし、とにかく使うツールは二次的なものでしかありません。
意識の覚醒を本気で目指すのであれば、あらゆる執着を手放す覚悟が必要です。その根本的な覚悟の部分で、まだそのタイミングではなかったり、勇気がなかったり、未練があったりすると、どんなサポートツールを使ったとしても、本当の意味での変革は起こらないと思います。自分の内側に目を向け、内側をきれいにしていくこと以外本質的な幸せの道はないのに、自分を変えてくれる存在を外側に求め続けていると、占いやチャネリングやヒーリングを渡り歩く、”スピリチュアル難民”になりかねません。表面的な変化は起こるかもしれませんが、深い部分では何かがくすぶり続けると思います。心の中に執着がある限り、真の幸福感というものは得られないからです。イエス様やお釈迦様のような覚者は、執着心から解放されていたからこそ、あそこまでのエネルギーを放ち、常に至福の状態でいることができました。
この世道場は、一つ一つ執着をはがし、意識を高めて真理に気づいていく道のりそのものであるようです。執着から解放されていくと、心が軽くなり、自由を得、迷ったり恐れたりすることがなくなっていきます。エッセンスは、そのような覚醒の道をサポートしてくれる頼もしいツールではありますが、根本的に『己』を動かしているエネルギーはまた別のもの、と私はとらえています。
街中で就職活動中と思われる女子大生の姿を見ると、私は少し切ない気持ちになります。自分がかつて経験した、つらく苦しかった時期を思い出すからです。あの頃は、いつ終わるともわからない、永遠の苦しみに渦の中にいるような感じがしていました。やればやるほど空回りして、私という人間が世の中から必要とされていないのではないかという気分になっていったものです。
私が通っていた大学では、女子も男子も、世間に名前の知れた企業に就職するのが花形でした。3年生の終わり頃になると、大きな会社の人事担当者が次々とやってきて、説明会を開きます。留学や院への進学、試験勉強もしくは公務員などを目指す以外は、そういった企業に就職することを目標にしていた人が多かったように思います。私は、その時になってもまだ自分が一体何をやりたいのか、どんな仕事に就きたいのかわかっていませんでしたが、特に明確な目標があったわけでもなかったので、何となく周りに流される感じで、就職活動に参加することにしました。
そんな感じで始めたので、ハッキリとしたビジョンが描けたわけでもなく、多少興味がある分野の会社をいくつも周っていましたが、鳴かず飛ばずでちっとも内定が決まりませんでした。そもそもやる気がなかったので、そのような気持ちが見破られていたのかもしれません。
その時の私は「型」にハマることが良いことだと考えていたので、就職活動においては、ガンガン自分の意見を言い、はきはきとしゃべる自信に満ちた女性をアピールすることが勝利の秘訣だと自分に言い聞かせ、そのようなキャラクターを演じていました。実際、そのような押しの強いタイプの人ほど、次々と大きな会社の内定を勝ち取っていたのです(そもそも、どちらかというと勝気な女子が多い大学でした)。私は周囲に影響され、自分を見失っていました。
周りの友人達が次々と内定をとっていく中、私はちっともうまくいかず、一体何がいけないんだろう、私は人としてダメなんだろうか、とまで考えるようになっていきました。
そんな時、一足先に内定が決まっていたある友人から、次のようなアドバイスをもらいました。
「押してダメなら、引いてみたら」。
その友人は、実体験でそのようにして上手くいったから、私に教えてくれたのだろうと思います。私はその言葉でハッとなりました。今まで、私は違う自分を一生懸命演じてきたけれど、もしかしたらそれが違和感となって現れていたのかもしれない。私らしさが全然アピールできていなかったのではないだろうか。私が欠点だと考えていた部分も、もしかしたら長所と映ることもあるんじゃないだろうか。
そのように考えが変わっていきました。そうしたら、なんだかフッと肩の力が抜けたような気がしました。自分を無理やり型にはめて演じなくてもいいんだ、そう思えただけで心が軽くなったのです。
そうなったら、今度は不思議なくらい面接がうまくいくようになりました。トントンと次のステップに進むようになったのです。今までのように、がんばって意見を言ったわけでも、強気で挑んだわけでもないのに。むしろその逆に、自然体で、無理せず必要以上にアピールもせず、控えめな感じで思ったことを話していただけです。それが素の姿なので、ストレスもありませんでした。面接官としてお話する方とも、普通に会話が弾むようになっていました。
こんな感じで上手くいくようになると、拍子抜けするくらいあっけなく、内定が決まりました。会社に就職してからは、楽しいことだけではありませんでしたが、多くのことを学ばせてもらいました。その時身に付けたパソコンスキルも、今こうして役に立っているのですから、つらかったとはいえ、会社勤めを経験することも私にとって必要な事だったのだなと思います。
この、「無理をせず、自然体で」というやり方は、その後もどんな場面でも通用するものでした。やはり、自分を偽って演じたり、自分らしさを封印して他の誰かになろうとしたり、違和感を感じる方法で突っ走ったりすると、必ずどこかで壁にぶち当たり、うまく回らなくなります。何よりそのような不自然な状態でいる自分が一番つらいです。精神的に穏やかでいられなくなります。
人は本来、その人らしさを100%出して生きることで、一番うまくいくようにできているのだと思います。ついつい、なんとかさんのようになりたいとか、あの人のように振る舞ってみたいとか、憧れの誰かに心が引っ張られて自分を変えたくなることもあるかもしれませんが、所詮オリジナリティに欠ける、一段魅力が薄い人になるだけです。その人にしかない、特別なカラーというものが全ての人に備わっているのだから、他の人のやり方や生き方は参考程度にして、自分らしさを追及するのがうまくいく秘訣だと思います。唯一無二の個性を発揮している人の方が、断然生き生きと輝いてみえます。もしそのようにして本来の自分の姿を出したことで周囲と上手くいかなくなったとしたら、場所を移ればいいだけです。自分を演じなくても済む、むしろ自分が自分らしくあることで人の役に立てるような場所が、きっとどこかにあるはずです。
ドツボにはまったような就職活動の前半を過ごしていた私が、フラワーエッセンスを知っていたら、どんなに助けられたろうと思います。その時には出会えなかったけれど、もしあの時に飲んでいたら楽になっていただろうなと思われるエッセンスを、いくつか挙げてみます。
♡セラトー
・・・周囲や他人の意見の翻弄されず、自分の直観を信じ、本心を貫く勇気と自信をもたらす。
♡ゲンチアナ
・・・がっかりすることが起こったり、物事がうまくいかない時に。
♡ワイルドオート
・・・人生の岐路に立った時に。どちらに進むべきか、何をするべきか、迷いやとまどいがある時、明確な方向性を見出すことを助けます。
♡サンフラワー
・・・困難や問題に直面している時、自信を高め、地に足を付けて行動できるように。下部チャクラがしっかりします。
♡シューティングスター
・・・自分の生まれ持った個性や使命、才能を開花させる道へとつなげてくれる。本当にやりたかったことが見つかったりします。
♡マウンテンプライド
・・・ゴールやビジョンを設定し、それに向かってまい進するエネルギーと勇気を育む
♡Courage(勇気)
・・・勇気をもたらす。困難な状況にいるとき、人が迷わず信念を持って行動を起こせるように。
♡Archangel Michael(大天使ミカエル)
・・・大天使ミカエルのエネルギーを感じ、サポートしてもらえるエッセンス。必要のない関係性やネガティブなコードを絶ち、その人が本来進むべき道からそれぬよう、導かれます。
♡Freedom from Fear(恐れの解放)
・・・うまくいかないのではないかという不安、未来への不安を解消します。
親と子の問題というものは、本当はもっと長いスパンで捉えるべきものなのかもしれません。
例えば、幼い頃から制約が多く、親が考える常識から外れることを許さないような、厳格な家庭で育ったとします。そのようにして育った子供が大人になり、未だに制約の呪縛がとれずに苦しみ、自分をそのように育てた親を怨みます。
そういった場合、怒りの矛先が親だけに向きがちですが、実際は自分をそのように育てた親自身も、また自分の親に似たような価値観を植え付けられ、制限を受けながら育ったはずなのです。そして、その親もまた先代から制限を受けながら育ち・・と、遡れば一体いつが起源になるのかわからなくなってきます。
子供に必要以上に制限をかける親というのは、心のどこかに劣等感や恐れの感情を抱いています。その劣等感や恐れの感情は、成長過程で親自身がなんらかの影響を受けて積み上げていったものです。時代が古くなればなるほど、世間一般の常識に縛られる社会的な制約が大きかったでしょうから、幼い頃から特定の価値観を刷り込まれて育つケースは、今より昔の人の方が多かったと思います。
私達は、そうした先祖代々受け継がれてきた価値観の強制という呪縛の世界から、自由を謳歌する世界へと移行していく、まさにその過程を生きているのではないでしょうか。過去に受けた洗脳から解放されようと望んでいる人々が、世界中に溢れています。そのような人々を導く指導者が世界中いたるところに現れ、意識の覚醒を誘導しています。フラワーエッセンスのような様々なエネルギーヒーリングが巷に溢れています。古い殻から抜け出して本来の姿で生きようという人々の集団意識が、社会を変えているのです。
私は、たまたま自分がフラワーエッセンスや気功といったツールと出会い、それらによって浄化が進んでいった経緯がありますので、このようにエッセンスや気功を他の方々にも広めるお仕事をさせてもらっています。けれど、どの方にもエッセンスや気功が合うとは限らないことも知っていますし、目覚めるためのツールは人それぞれなのではないかなと思っています。
仕事をしながら、子育てをしながら、自然と過ごしながら、スポーツをしながら、絵を描きながら、etc...それぞれの形で、それぞれのペースで気づきが起こり、目覚め、意識が覚醒していくものなのかもしれません。
精神世界の本などを読んでいますと、まるでその本に書いていあるやり方が唯一の正しい覚醒方法だ、と言わんばかりの勢いを感じることがあります。
けれど、本来人は、どの場所にいても、どんなやり方を通してでも、目覚めることができると私は信じています。何も、みんながみんなヒマラヤやインドへ修行をしにいかなければ覚醒できないわけではないと思うのです。セドナやハワイや、その他いろいろなパワースポットも、自分を高めてはくれるでしょうけれど、それよりもダイレクトに大きな気づきを与えてくれるのは、今目の前にいる人だったり、目の前に広がっている現実だったり、今現在の自分の心の中だったりするものではないでしょうか。己に向き合い、現実に向き合い、出会う人々と向き合う。時々、癒しの力や他者の助けを借りる。何より、自分が変わりたいと本心から願う。こうした意思の力と日々の積み重ねが、真の幸福へと人を導いてくれるのではないかなと思っています。
地球全体が、波動の大きな流れの影響を受けているようなので、今は変わりたいと願う人にとってはチャンスの時期です。きっと、望みを叶えてくれるようなその人に合ったサポートツールが、引き寄せられてやってくるはずです。
今から何年も前のことですが、私は瞑想中、ある明確な思いが湧き起ってきました。自分が本当に自分らしく、制約を感じることなく望む人生を生きていくためには、過去、特に生い立ちの過程で刷り込まれていった価値観の縛りから自由になることが必要不可欠である、と。親元を離れてかなりの年月がたつというのに、いつまでも『親』という存在に引っ張られて、未だに親の顔色を窺うような振る舞いをしてしまう自分に気づいたのです。自分が喜ぶことよりも、親が喜ぶかどうかを先に気にしてしまう。親の反応を必要以上に意識してしまう。親の価値観の縛りから逃れられず、常に制限を感じながら過ごしている。そんな子供時代の感覚が、まだ自分の多くを占めていました。
そこから自由になり、自分の本心からの望みを優先させる生き方に切り替えていくには、一度親との関係性を見直す必要があることにも、気づいていました。けれど、その時の私には、まだまだ抵抗する意識が強く、「それはわかっているけど、親との関係を変えるなんてできない」と無理やり自分を納得させるしかありませんでした。本心では変わることを望んでいるのに、自我意識が邪魔をして、変わろうとする意識をなんとかへし折ろうとするのです。
私が本気で親との関係性を見直そうと決心したのは、ある方に言われた言葉がきっかけでした。その方は「本当は親との問題を避けて通れないのはわかるんですけど、まあ自分が我慢すればいいだけですからね・・」とつぶやく私に、
「今その課題を乗り越えなければ、ご自身と娘さんとの関係性に同じ問題を引きずることになりますよ」
と言いました。更に、私と娘が、制限を与え与えられる関係性になってしまった場合、その問題をまた次の子孫にまで残すことになる、と。
私には思い当たることがあったので、その言葉が大きく胸に響きました。そんなことは絶対に嫌だ。娘、そして子孫にまで残すなんてことは何としても避けたい。この問題は、私の代で終わらせてみせる。私の中で、熱い闘志のような思いが湧き起ってきました。
そこから、本当に辛くて嫌だったけれども、私は自分の過去と向き合い、親と向き合い、話し合ったり喧嘩をしたり距離を置いてみたり、いろんな本を読んだり人と話したり、様々なことをやってみました。エネルギーヒーリングやフラワーエッセンスの力、先人たちの智恵や教え、主人や子供、友人の支えなどの助けも借りながら、ようやく過去の呪縛から解放されたな、と感じられたのは、それから2~3年たってからのことでした。
今となっては、その時恐らく青天の霹靂のようなショックを与えてしまったであろう両親には、申し訳ない気持ちがあります。私は制限や押し付けと感じたことであっても、親としては、子供を思う愛情からしたことだったのでしょうから、今さら文句をいわれるなんて、心外だったろうと思います。それに、なんといっても私を赤ちゃんの頃から育て、守り、導いてくれたことも事実なのです。そこの部分には、本当に素直に感謝しかありません。
ただ、人の感情や考えに過敏に反応してしまう私のような子供にとっては、両親という存在は大きすぎて、ともすれば親の世界観の中に無理やり押し込められて、自由を奪われたように感じてしまうことも事実なのです。そういったことにできれば気づいてほしかったです。本当にやりたいことや言いたい事を我慢して、親に合わせた言動をとり続けてきたために、幼い頃の私はいつも窮屈さを感じていました。反論してもきいてもらえなければ、望みは諦めとなり、次第に意見を言うことさえなくなっていきます。
常に制限を感じながら過ごしていた子供時代の経験を次の代にまで持ち越さないために、私は自分の子供に対して、親である私が縛りとならないよう、気を付けています。ただ、あまりに自由を与えすぎるとわがままになったりだらしがなくなったりするし、さじ加減が難しいなと思います。
ちなみに、生い立ちに向き合い、親との関係性を見直し、自分の中でようやく『過去』からの呪縛から解放されたと感じたら、今度は次の課題がみえてきました。
『過去』は、今世に限ったことではなかったのです。なぜ私はこのような、制限を受けそこから自由になるという人生を選んだのか。妨害や制約があっても意思を貫き、本当の意味で自由を感じながら人生を生きることを目的として生まれてきたのには、生まれる前の遠い過去から引きずる魂の課題があったからなのです。
この課題に関しては、今現在も向き合っている最中ですので、詳細はまたいつか書きたいと思います。
今現在、自分の中で浮上している問題や悩みの根源をさぐっていくと、これまであまり関連付けてこなかった自分の『生い立ち』と深く関係していることに、多くの方が気づき始めているようです。
育った家庭などの生育環境や、成長過程で経験したことや見聞きしたことが、自分の価値観や人生観を形作っていきます。特に幼少期、なんでも素直に吸収していた頃の影響が、今の自分の物事の捉え方や生き方などに大きく影響しています。この時期に、父親や母親によって多くの価値観の刷り込みを受け、それが大きくなった今でも自分の中で呪縛となり、行動を起こす足かせとなっている場合があります。そもそも、自分がそのように洗脳された状態であることに気づくこともないまま過ごしている方も多いと思います。
私はもしかしたら、親の影響からいまだに抜け出せずにいるかもしれない、私が本当に幸せになるためには、親の呪縛から逃れることがカギだ、ということに気づかれた方は、その気づきが大きな原動力となって、人生の洗い直し作業を始められるようです。フラワーエッセンスのような浄化をサポートしてくれるツールに出会うのも、その流れだと思います。
このように、ご自身の過去に向き合い、両親(特に母親)から受けた価値観の制約から逃れたい、その時からずっと抱えてきた鬱屈した感情を解放したい、と強く望まれる方に、たくさんお会いしてきました。
フラワーエッセンスは、そうした感情の解放をスムーズに行うことを助け、浄化の過程で味わう苦しみを和らげてくれるものです。気づきも促してくれるので、心の幅も広がり、人間として一段と大きくなれるチャンスを与えてくれます。
『過去からの呪縛』という課題を抱える方は、多くの場合、初めはご両親を責める気持ちが強く出るようです。あの時親からあのようなことを言われなければ、あのような対応をされていなければ、今私は苦しまずにいられたのに。あのような環境の家庭で育っていなければ、私はもっと自分らしく生きてこられたはずなのに。あのように親の都合で道を強要されなければ、今とは違う人生を歩むことができたのに。
・・過去を振り返って、「あの時~であれば」のような捉え方で人生を眺めてしまうと、そこに絡んでいた親の存在を責めたくなり、親を恨んだり憎んだりしてしまうものなのかもしれません。私がこうなったのはぜんぶ親のせいだ、と思ってしまうのかもしれません。
確かに、物心ついた時から自分の価値観に大きな影響を与えてきた親の責任は大きく、自分の基盤を作ってきた存在であることに違いありません。私自身も、かつては自分の苦しみを親のせいにしたこともありました。
けれど私は最近思うのです。周囲の大人達によるコントロールや価値観の刷り込みを経て、その後の人生で自分らしさを失い苦しむ。しかしそこで大きな気づきを得、過去から解放される道を選び、価値観の呪縛を自らの力で解く。過去から抜け出して自由と解放感を味わう。何ものからも縛られない、完全に自由で純粋な自分の姿に戻り、そこから再スタートを切り、人生を再び生きはじめる。今度は喜びと共に。
こうした一連の流れを、予め選択してこの世に生まれてきたのは、他でもなく自分なのではないかと。
束縛から自力で這い出し、呪縛から解放される喜びを知り、己の力の強さに気づき、人生を望むものに造り直していく。その過程そのものを、初めから望んで生まれてきたのではないかと思うのです。『とらわれから自由になること』が、人生の課題の1つだったということです。そのためには、まず最初に『とらわれている自分』を造り出す必要がありました。親との契約で、ある一定期間、自分を価値観で縛ることを望んだのです。「望んだ」というと、「そんなこと私は望んでいない!」思われるかもしれませんが、ここでは魂レベルでのことをいっています。
また、様々な価値観を子供に押し付けた親自身の学びもあったと思います。意識的に押し付けたわけでなくても、親としての行動や子供に対する対応、発した言葉などで、子供の感情面・精神面に与えた影響は大きいです。そのことによって、自分に何かしらの形で返ってきたことがあると思います。良いことも悪いことも含め、そうした経験から学ぶことが、親自身の課題でもあったのです。
つまり、お互いがお互いの学びとなるために、親として、子供として生まれることを選んだわけです。自分の深い部分では、そのことを知っているはずです。これは、ご自身とお子さんとの関係でも同じことです。
更に、物事を魂レベルでみるようにすると、自分が抱えている課題や問題の原因を、今回の人生で生まれてから自分が経験したことだけに限って探ろうとしなくなるので、特定の人や出来事だけをずっと責め続けることもなくなっていくと思います。
例えば私の例でいいますと、私は長年、「自分が本当にやりたいことや伝えたいことを、権力を握っている人に頭から非難されたりして妨害され、そこでひるんでしまい、意思を貫けなくなる」というパターンを繰り返してきました。幼い頃は、両親が自分にとっての権力者でした。学校に行ってからは、強い威圧的な先生がそうでした。更に、学生時代も、自分より弁が立って意思表示がハッキリとしている人が苦手で、そうした人によく論破されては落ち込んでいました。就職してからは、カリスマ性があってお局的な権力を握っている人に目をつけられ、自分の言うことをきかせようと今でいうパワハラのような扱いを受けたことが複数ありました。笑ってしまうようですが、子供の学校のPTA活動でも、このような強いタイプの人の攻撃のターゲットとなってしまったことがあります・・数を挙げればキリがない似たようなパターンが、つい最近まで続いていました。
まるで自分が被害者であるような書き方をしてしまいましたが、根本では、自分の奥深い部分に刷り込まれている思いグセのようなものが、パターン化した現象を引き起こしてきたということを、今となっては100%確信しています。誰のせいでもなく、私自身がそのような体験を自ら引き寄せたのです。(私が自分というものを過信しておごり高ぶることがないよう、常に謙虚さを持って他人の意見を大事にするよう、戒める意味もあったと思います)
そして、そのような魂の思いグセのようなものは、今世に限らず、数々の転生を繰り返す中で刷り込まれていったように感じています。そもそも、今世に生まれてからの出来事は、生まれる前から自分が持っていた魂のパターンや、DNAに染み込まれた先祖代々からの伝達事項のようなものの影響を強く受けています。また、同じ時代を生きている人々が共有している、集団意識の影響もあります。自分が生まれた家庭や生育環境は、このパターン化したループから抜け出すという学びを得るために自ら選んだ、最適な環境だったはずです。
今の私は、両親を含め今まで出会った人々の誰1人をも責めていません。全ての人との関わりが、魂を成長させるため、学びを得るためのものであったのだなと、心から思えるからです。かつては両親のことを責め、厳しい言葉で過去の恨みを吐き出したこともありましたが、今となっては両親のことを非難した自分の行動を反省しています。自分が選んだ人生なのに、人のせいにするなんておかしいことです。そして、親を責めていた頃には気づかなかった、親が与えてくれた愛に目を向けられるようになりました。きれいごとではなく、感謝の気持ちで満たされています。何かの原因を自分ではなく他者のせいにしている間は、その人の良い面には目がいきにくいようです。
人との関わりの中で自分の内面を見つめ、気づき、成長するという学びは、今現在も進行中です。けれど、心の浄化をどんどん進めていったおかげか、最近は自分が苦痛を感じるような人とは、だいぶ出会わなくなってきました。出会ったとしても、すぐに去っていきます。または、そうした人を見た時にも、かつての自分のように動揺しなくなってきたので、感情的に楽です。
何年もエネルギー的なヒーリングを受けたり、過去の深い部分から癒し、浄化してくれるエッセンスをいろいろ飲んだことも大きかったかもしれません。魂のクリーニングが行われたのだと思います。人生の苦しみや悲しみ、恨みや憤りも、根底にある「愛」に気づけば、全て許せるようになるのだということを、私は自分の経験を通して教えてもらいました。
私が地に足をつけてこの世での現象生活を楽しめるようになったのは、子供の存在も大きかったです。特に上の子(♀)は、私と違って最初からこの地球を満喫するために生まれてきたようで、幼い頃から何でも一生懸命、真剣に、そして楽しそうに取り組んでいました。私が小さい頃は、何をするにも違和感のようなものを感じていましたし、「こんなことやって何になるんだろう」と冷めた思いがあって本心から楽しめず、何でもやらされている感がありました。今思えば可愛げのない子供でした。お遊戯や運動会の出し物なども、大人の言う通りに動くのが嫌で、わざと嫌そうにやったり、ふてくされてつまらなさをアピールしたりもしていました。随分と無駄なエネルギーを使ったものです。
「こうしなさい」と言われること自体が窮屈な感じがしたし、制限をかけられていることにストレスを感じていましたから、学校生活などはまさに苦行でした。上から制約ばかり押し付ける大人にも心の中で反発していました。
このように、とにかく自分の今いる環境を否定ばかりしていたのです。これでは楽しむ余裕なんて生まれないでしょう。心はいつも暗く、憂鬱でした。自分がそうしていたのですが。
それに比べて娘は、保育園や幼稚園で先生に言われることに素直に反応し、ニコニコと楽しそうに課題なり遊びなりをこなしていました。お遊戯や発表会なども全身全霊でエネルギーを注ぎ、「させられている」などと微塵も感じていないようでした。
私が小学校に入学する時などは、もう自由がなくなるのが嫌で嫌で、とても憂鬱な気持ちで入学式に臨んだものでしたが、娘は違いました。小学生になれることが嬉しくて、何か月も前から入学式が待ちきれず、指折り数えていました。「どうしてそんなに学校が楽しみなの?」と聞くと、「だってお勉強ができるんだもん♪」と満面の笑顔で答えました。自由だとか制限だとか、そういった観点でとらえてはいないようでした。
待ちに待った小学校の入学式。私はかつての自分が味わったつらい学校生活の記憶が蘇り、朝から憂鬱な気持ちでいたのですが、娘はルンルン。嬉しくて嬉しくてたまらないようで、学校に行く道すがらも喜びで満ち溢れ、いざ学校に着いたらテンションはマックス。周りの子供達が緊張でこわばった表情を浮かべる中、娘1人だけ、はちきれんばかりの笑顔でいました。指定された机に座って、ずっとニコニコしていました。
私は、あまりに素直に学校生活の始まりを喜んでいる娘を、羨ましく思いました。同時に、自分も本当はこのように楽しむことができたのだ、とも思いました。ジワジワと、後悔の念が湧きあがってきました。
娘が毎日学校生活を心からエンジョイしている姿を見るにつけ、その思いは強くなっていきました。私は、10数年にも渡る学校生活を、他の誰でもない自分の意思で、つまらないものにしてしまったのです。
目の前にある現実を、苦しみとみなすのも楽しみとみなすのも、自分次第なのだなと思います。嫌な所ばかりを探して、そこにフォーカスしてしまえば、そこは嫌な場所になります。その一方で、喜びとみなすことができれば、そこは喜びの場所になります。自分の見方1つで、場所の意味が変わるのです。
娘の「学校」に対する愛のおかげで、私も次第に「学校」というものに対する見方が変わってきました。今までは、学校とは制限を受ける所、自由が奪われる所、という印象が強かったのですが(もちろん、勉強を教えてもらえる所という認識はあり、その部分は感謝していました)、娘の目を通して見てみると、多くの学びと経験を提供してくれる所、お友達との出会いがある所、楽しいことがたくさんある所、なのです。苦手だった「先生」達(申し訳ないのですが)も、大人になってから接してみると、先生も他の大人同様、悩んだり葛藤したりしながら、生身の人間として子供と接しているのだなあ、ということがわかり、苦手意識よりも親近感を抱くようになりました。実際、私がそのような見方をしているためか、素晴らしい先生に出会うことが多く、今まで抱いていた先生という職業の方々に対する認識も本当に変わりました。まったく、かつての自分は偏見だらけで、先入観があったせいで、いろいろなことがうまく回らなかっただけなのだなと思います。
今いる場所を、せっかくだったら楽しみを感じながら過ごしていたい。それは誰でもそうなのではないかと思います。もし楽しめていないとしたら、その原因を周りのせいにするのではなく、そういう場所にしている自分の内側を見つめてみると、何かが変わるかもしれません。
幼い頃の私は、夢見がちで、理想が高く、頭の中で空想の世界を創り上げ、そこで1人遊んでいるような、妄想少女でした。朝起きると、目の前に広がる現実の世界に違和感を感じ、悲しい気持ちになったものです。
『どうして自分はここにいるんだろう』という思いがずっとありました。本当はもっと美しくて愛に溢れていて嫌なことが何一つない世界がどこかにあることを知っていたので、そこを懐かしむ気持ちと憧れる気持ちが強くありました。そしてそんな美しい世界とはかけ離れた現実世界とのギャップに失望していました。自分が今いる世界は、嘘や悪意やその他汚いものだらけで、自分が理想とする世界とは全然違ってみえました。
現実を見ていると気分が沈んでしまうので、私はよく空想の世界に逃げていました。夢中になる絵や本は、私が夢見ているファンタジーの世界をよく表しているものでした。そうしたものに没頭している間は、現実を忘れていることができたので、束の間の安らぎを感じることができました。
そのような現実逃避的な過ごし方は、だいぶ大きくなるまで続いていました。特に、制限だらけで窮屈な生活が辛くなればなる程(学校生活が苦しい時など)、そのような夢の世界に逃げる傾向が強くなり、周りの世界と自分との間に見えない壁を作って、内なる世界に籠って自分をシャットアウトしていました。表向きはお友達と仲良く遊んでいるようでも、心の中ではずっと孤独感を抱えていました。
大人になり、結婚して子供もできて、だいぶ空想世界に逃げることもなくなっていきましたが、相変わらずこの世での現実に対しては幻滅を感じ、目を背けたいような、受け入れがたい気持ちがありました。別の世界、ここではなくもっと美しい世界に行きたい、という気持ちがどこかにありました。
もともと夢見がちな私にとって、フラワーエッセンスとの出会いは、ついに憧れていたファンタジーの世界に連れて行ってくれる夢のツールが目の前に現れた!と思わせるものでした。期待に胸ふくらみ、天使や妖精たちの甘いささやきが聞こえる夢の世界を想像し、私は浮かれ喜びました。
いくつか講習会も受け、そこで、私と同じようにファンタジーの世界が大好きで、現実生活に苦しみを感じている方々にも出会いました。今まで出会った誰とも、自分の描いていた空想世界の話をすることができなかったので、そうした方々と天使や妖精、魔法の話などをするのは楽しかったです。
けれど、そのような現実とはかけ離れた別の世界の話に夢中になればなるほど、そして自分自身が『そこ』への憧れが強くなればなるほど、私は現実に目を向けるのがますます辛くなっていくのでした。いくら空想話に花が咲いても、理想の世界を熱く語っても、目を開ければそこにあるのは現実の世界です。天使や妖精がいる世界も確かにあるのでしょうけれど、今自分がいるのはこの三次元の地球です。そこで生きているのです。空想の世界、理想の世界に心が引っ張られ過ぎると、現実世界とのギャップに心が苦しくなり、虚しさも広がっていくことがわかりました。
やはり、軸にするのは今自分がいるこの世界であるべきなんだな、とようやく気付いたのでした。
現実に根を下ろして生きようと心が変わり始め、地に足を付けて生きる決心をすると、それまで気づかなかったこの現象世界での楽しみや喜び、美しいもの、楽しみ、などに目がいくようになりました。今まではとにかく現象世界をなんでも否定する考え方だったので、美しいものがあったとしても、気が付かなかったのだと思います。相変わらず地球には戦争や犯罪や虚偽や悪意がたくさんありますが、それらを目にしても、以前ほどネガティブに自分が反応しなくなっていきました。そうした現象もひっくるめて、この世界を受け入れられるようになりました。地に足をつけて生きるということは、こういうことなのだなと思います。
今目にしている現象を、否定も肯定もしない。ただ受け入れる。まずそれができることが、理想の社会を作っていく上で最も必要な、初めに行うべきステップなのではないかと思います。ジャッジをしない、目をそむけない。それができて初めて、そこから自分の理想とする現実を築き上げていけるような気がします。なぜなら、何かを否定してしまうと、そこにネガティブな念が生まれて、そのエネルギーが心を汚し、行く手を阻むからです。また、肯定しすぎることも、慢心や傲慢さを生みます。執着となることもあります。
己を見つめ、成長し、現実を切り拓いていく学びを体験しようと、この地球を選んで生まれてきたのですから、今ある現実を否定することは、自分の学びの機会を否定することになります。かつての私がそうだったように、つらい時は空想の世界に逃げたくもなるかもしれません。こことは違う世界を夢見てしまうかもしれません。けれど、束の間の逃避行から戻れば、そこには現実があります。現実を受け入れ、己を見つめることをしないで魂の成長はありえません。
現実を受け入れ、向き合うことができるようになっていけば、長年の垢も剥がれて、素直な自分になっていきます。曇りがなくなれば、目の前に広がる世界を、自分の好きなように味付けするゆとりが生まれます。そうなったら、この世で生きることが苦行ではなくなり、遊びとなるでしょう。生きることが喜びになるのです。
今は、このように人生を遊んでいる人がたくさんいます。軽やかに人生を歩んでいる方ほど、心の内がきれいで、何にもとらわれていません。自分も他人も否定していません。余計なことにエネルギーを注いでいないので、軽やかでいられるのです。心の身軽さ、これが人生を楽しむ秘訣です。
全てを受け入れ、地に足をつけて、与えられた場所で目いっぱい楽しんで生きる人が増えたら、地球はもっともっと楽しい星になるのではないかと思います。
最近、書店に行くと『精神世界』『スピリチュアル』コーナーがどんどん拡充していってるなあ、と感じます。数年前と比べて、どの書店もそうした本が置かれているスペースがどんどん広くなり、かつてはどちらかというと”ひっそり”置かれていることが多かった分野だと記憶しているのですが、今では逆に華やかに、堂々と置かれている印象を受けます。それだけ、出版される本も読者も増えているのだろうと思います。フラワーエッセンスの本など、私がフラワーエッセンスを勉強し始めた頃はインターネットでしか手に入らなかったものですが、今では大きな書店に行くと、何種類も解説本などが置かれていて、時代の急速な変化に驚きます。
こうした本やインターネットに書かれている情報などのおかげで、私達の意識もどんどん刺激を受け、気づきが広がり、今までよりもっと広い観点で「人生」「生きること」を捉えるようになった方も多いのではないかと思います。うぶすなにいらっしゃったり、問い合わせをしてくださるお客様は、もう既にこの手の本をたくさん読まれていたり、インターネットなどで知識を吸収したりして、精神世界の探求を個人的に進められてきた方がほとんどです。
心の内をご自身で見つめ、抱えていることや悩んでいることをお話されるのですが、話しながら「本当はこうすれば良いとわかっているんですけどね」「自分のここが問題だとはわかっているんですけど・・」といった感じで、自分がどこに引っ掛かっており、どこを変えていけば良いのか、課題にはもう自分で気づいていらっしゃることが多いです。そして、この先自分が進むべき道というか、ここを目指すべきなのだろう、という方向性も漠然と見えていらっしゃいます。頭ではわかっているんだけど、何かが引っ掛かっていたり、なかなか実行に移せなかったり、本心から受け入れることができずにいる、というジレンマがあるようです。
真理、もしくはそれに近い情報を受けとると、自分の本質が反応し、気づきが広がります。自身が本当に望んでいる生き方、生まれる前から決めてきた目標、使命、ゴールにより近づきたい、本当の自分を取り戻したい、と深い部分からやってくる衝動に突き動かされ、今の自分に向き合わざるを得なくなります。それは自然な流れなのだろうと思います。そして、今は情報があふれていますから、より自分らしく生きるためにはどのようにあるべきなのか、イメージが湧きやすく、目標を描きやすいのかもしれません。
先に、「こうあるべき」という姿、生き方があり、そこを目指したい、という強い思いがあるので、「そうではない自分」という見方で今の自分を捉えると、失望したり、嫌になったり、できていない自分を責め、未熟であることを恥じたりもします。精神世界の本の中に出てくる、偉大な聖人と自分とを比べ、自信を失ったり、または自分も早くあのようになりたい、どうなったらなれるのだろうかと、いろんなやり方を試しては、思ったよりも自分が変わらないことにがっかりしたりします。
私は、これまで様々な講習やセミナーなどを受けてきましたが、そこで出会ったスピリチュアルな世界に興味があり、魂の成長を目指す方々特有の、見えない世界に憧れるあまり陥ってしまいがちな罠があることに気づきました。皆がそうだというわけではもちろんないのですが、精神世界の中で自分がどれだけ進歩しているか、どれだけ”知って”いるか、どれだけ守られているか、どれだけ不思議な世界とつながっているか、目に見えない世界の中で自分の立ち位置を気にしている方がとても多かったのです。
前世が見える方に、あなたはマリア様の生まれ変わりですよと言われたと誇らしげに話す方がいました。また、私には天使が見えるから、毎日その天使達とお話してアドバイスをもらっている、と話す方がいました。その方は、たいそう自信あり気な様子で、お願いしたわけでもないのに、フラワーエッセンスを学んでいるという私に、あれこれとアドバイスをしてきました。その話をそばで聞いていた他の方々も刺激を受けたのか、いかに自分が見えない世界とコンタクトをとっているか、という話で盛り上がり、その場は一時自慢大会のようになってしまいました。
見えない世界に繋がることを否定するわけではないですし、そうした世界があることも私自身感じてはいますが、その時の私には、その方達が、自分が作り上げた幻想世界にとらわれ過ぎて、現実の自分というものが見えなくなっているように感じられました。
天使もいるでしょう、前世もあるでしょう。そうした存在が自分を励ましてくれることもあると思います。けれど、やはりどんなことでもそこに必要以上にとらわれてしまえば、執着や驕りになります。とらわれれば、真理を見抜く目も濁り、自分が今向き合うべき課題がみえなくなります。甘く優しい幻想世界に逃げたくもなるでしょう。
魂の成長とは、ある日突然目覚めが起こり、自分が180°違う人間に生まれ変わってしまうような、急激な変化は起こりえないものだと思っています。一つ一つ気づきが起こり、その都度学びがあり、そこで波動が上がり、視野が広がり、そして新たな課題が見つかり、またそこに向き合い、成長し・・そういったことの繰り返しで、気づいたらかつての自分より成長していたことに気づくものではないでしょうか。何の「学び」もないまま、突然ステージが上がるとか、別の自分になっていたとか、いきなり雷に打たれたように悟りを啓いたとか、最初から期待しない方がいいと思います。また、たとえ今いるステージが一段上がったとしても、魂の成長に終わりはなく、何かを克服したと思ったらまた次の課題が表れて、というように、次から次へと成長を促す出来事が起こります。学びは永遠に続くのです。誰かより自分が上だとか下だとか、そういったことにとらわれているうちは、本当の目覚めは起こらないと思います。
急速な変化を求める裏には、今の自分に対する不満、自信のなさ、受け入れがたい思いなどが強くあるように思います。今現在の自分の姿を認めたくない、本当の自分はこんなはずではない、という気持ちが、まるで魔法の杖を一振りしたら違った世界が開けていくような、ミラクルな世界を夢見てしまうのかもしれません。フラワーエッセンスも、人の「学び」をスムーズに進めていくお手伝いをしてくれるものであって、ワープを提供してくれる夢のツールではありません。そこを勘違いされて、それさえ飲めば人生がコロッと変わるのではないかと期待されても、がっかりすることになると思います。
エッセンスを選ぶお手伝いをさせていただいて感じるのは、結果的に「速く」学びの成長を進められるのは、むしろ最初から大きな期待をかけずに、一歩一歩進んでいこうと決心されている方です。そうした方は、今の自分に対してもさほど否定的な感情は抱いていらっしゃらないようです。人生の全てのステージが、それぞれ意味のある学びだということを本心から理解され、受け入れていらっしゃるのだろうと思います。
人生の学びは一歩一歩、遠い道のりのように感じられるかもしれませんが、意識の拡大というものは、加速度的に進んでいくものです。一度気づきが起こり、そこで覚醒が進むと、魂がグンと成長し、世界が大きく開かれていきます。それまで自分が小さな世界の中で身動きが取れなくなっていたことを、不思議に思うくらいです。そうしたことが何度も何度も繰り返されて、どんどん意識が拡張していくと、今までよりも気づきのスピードが更に上がり、いろんな出来事が起こっても、動じなくなっていきます。以前よりも視野が広がっているので、同じような問題が起こった時も、かつての自分より難なく対処できていることに気づき、驚くでしょう。または、以前は”問題”だと捉えていた事象も、引っ掛からなくなってきます。気にならないのです。気にならないということは、余計な感情に自分を支配されることもないということなので、気持ちがなだらかな状態が続き、楽でいられます。
そうした成長も、とらわれや驕りがあれば、かえって困難なものになります。今の自分を認められない気持ちが強かったり、こうありたい自分の姿に必要以上に執着していると、それが逆に妨害要素となり、魂の成長が遅れます。
様々な情報が氾濫している今だからこそ、理想郷を追い求めてしまうものなのかもしれません。私自身も、かつて情報の渦に巻き込まれて、自分を見失いそうになったことがありました。けれど、結局外からの情報は100%自分にとって当てはまるとは限らないのだなということに気づき、最近はそういう心づもりで本なども読むようにしています。
”自分”がどう思うのか、どう感じているのか。本当の答えは、自分の中にあるものだと思います。様々な本を読んだとしても、そこに反応している自分の感覚というものを大事にして、外からの情報には必要以上に振り回されない、動じない。そうした強い気持ちを持つことと、いかなる自分も受け入れるという柔軟な姿勢、柔軟な対応、柔軟な考え方。一歩一歩進んでいくという根気強さ。柔軟さと強さを同時に鍛えていきたいです。
フラワーエッセンスを飲んでいると、様々な出来事が起こります。内面に変化がもたらされるので、それに応じて現実的な事象にも変化が表れるのです。身の回りに起こる出来事や、目の前に広がっている現象というのは、全て自分の心の内面を表しています。ですから、心が変われば、現実も変わるのも当然のことです。
そしてこの「出来事」ですが、一見するとネガティブと思われるものも含まれる、というところに、戸惑われる方もおられるようです。
フラワーエッセンスを飲んでいる人によく起こる、一見ネガティブともいえるような事象をいくつか挙げてみます。
①封印していた過去の記憶が蘇ってくる
②古い人間関係に終止符が打たれる(出会いもあれば、別れもある)
③自分の内面に抱え込んでいた問題に向き合わされるような出来事が起こる
④仕事が変わったり、引っ越しをするなど、今いる場所から移動させられる
⑤今まで夢中になっていたことに、急に興味がなくなる
①は、ほぼ飲んだ方全員に起こるといってもいいかもしれません。エッセンスには浄化の力があるので、過去に受けた心の傷やネガティブな思いなどが、外に出てくるのです。こうしたものが解放される前には、一度浮上してくるようです。忘れていたと思っていて、忘れようとしていたとしても、細胞のどこかに存在していたのです。中には、思い出したくもないような辛い記憶もあるかもしれません。できれば目をそむけていたいかもしれません。けれど、傷というものは、認めてもらわない限りずっとそこに居続けるものです。
フラワーエッセンスを飲んでいると、過去に向き合わされるようなことが増えるかもしれませんが、過去のとらわれから解放されるスピードも速く、また、感情の浄化が行われている最中にも、そこに飲み込まれずに冷静さをキープしていられます。
感情が放出されている間は、とまどったり、少し胸が痛いような感覚があるかもしれませんが、そこを乗り切れば、しばらくすると心のお荷物が少なくなり、スッキリ軽やかになった自分に気づくことになるでしょう。
②は、心の在り様が変わることで、自分から発せられる波長に変化が起き、それに応じて引き寄せられてくる人の質が変わってくる、という現象です。それまで出会わなかったような人との出会いもある一方で、今まで腐れ縁のように続いていた人間関係が終息したり、仲良しだと思っていた人との関係が急に悪くなって別れざるをえなくなったり、相手が転勤や引っ越しなどで自分の元を離れていったり、といった出来事もよく起こります。別れの形は様々ですが、一見人間関係が崩壊した感覚が、”ネガティブ”な出来事という印象を受けるかもしれません。実際、それまで自分に親切にしてくれていた人の態度が急に変わって、よそよそしくなったり、冷たい言動をとるようになったり、場合によっては傷つけられるようなこともあります。そうしたことが起こると、一時的に悲しい気持ちになったりショックを受けるかもしれませんが、波長が合わなくなった人同士は、どうやっても合わないものなのです。自分が変わったように相手も同じタイミングで変わるとは限りませんし、相手の自由意思も尊重してあげなければいけません。なんとなく一緒にいて居心地が悪くなってきたなと思う時には、一歩引いて関係を見直し、離れた方が良いなと感じるのであれば、そのようにするのがお互いのためだと思います。相手にも相手の事情や、学びの時期というものがあります。もしかしたら、その方にも何かが起こり、将来再び関係が戻ってくるかもしれませんが、それもないかもしれません。いずれにしても、他人のことは他人の意思次第、自分の力の及ばない領域があるものだと観念しましょう。
ちなみに、ここでいう人間関係には、家族や親族との関係も含みます。血がつながっている者同士でも、波長が合わなくなることは当然起こり得ます。赤の他人よりも、家族や親族といった近しい関係の方が、距離を置くことに対する抵抗は強いかもしれません。けれど、どうしても合わない感覚があるのに、それを強引に封印して今まで通りに接しようと無理やり努力したり、望んでもいないようなおつきあいを続けていれば、そこには必ず負荷がかかりますから、ストレスがたまって心身の不調として表れたり、”事件”が起こったりといった、ひずみを解消するためにバランスをとるような現象がどこかで起こると思います。
自分の心に嘘をつかず、他人であっても家族であっても、自分が一番心地よいと感じる一定のスペースを保ったおつきあいをすることが、心身の健康を保つ秘訣だと思います。フラワーエッセンスを飲んでいると、人とのつき合い方を見直すような気づきが起こったり、いびつな人間関係が正常に戻されるような出来事が起こったりします。諍いやトラブルといった事象として起こることもあります。それも、一見ネガティブなことに思えるかもしれませんが、結果として、自分が楽でいられる状態に導かれるためのステップだったということがわかるでしょう。
③も多くの方に起こることです。それまで自分の内面を見ないようにしていた方でも、エッセンスを飲んでいると起こる様々な出来事に直面し、否応なしに「自分」というものに向きあわざるを得なくなるのです。怖いように聞こえるかもしれませんが、身に起こる出来事というのは、何か意味があって起こるものです。その出来事を通して、何か学ぶべきことがあるから起こっています。自分の中にはまだこんな一面があったということに気づかせるために、現実的な事象として出来事が起こります。その学びを無視して、ただ起こった出来事を乗り切ることだけに注力していても、いずれまた同じような学びが自分の元にやってくることになるでしょう。それも、前回よりももっと大きな事象として。
もし何か問題と思えることが起こった時、対処法を考えるよりもまず大事なのは、自分はこの出来事から何を学ぶべきなのか、という発想を持つことです。なぜこうしたことが起こったのか、自分の中の何がこの出来事を引き寄せたのか、意味を探ってみるのです。きっと何かしら思い当たることがあると思います。それは恐れだったり、否定的な思考パターンだったり、執着だったりするかもしれません。自分でも気づかないうちに、そうしたものにとらわれ、自分らしく生きることを阻害してきたのではないでしょうか。そんな事実をただ受け入れて、手放したかったら手放します。もうそこから解放されたかったら、ただそう願うだけで天は望みを叶えてくれます。ただ、認めることが難しいのです。また、自分に足りないものに気づかせるために、問題が起こることもあります。そこを克服したら、もっとスムーズに人生を歩んでいけるよ、と教えてもらっているのです。
なぜそうしたことが起こったのか、根底にある原因に気づき、学びを得たら、あとは対処方法は自動的におりてくると思います。どんな時でも、必ず助けの手は差し出されているものです。
”問題”を飛躍のチャンスととるか、ネガティブな出来事ととるか。学びととらえてそれを成長の糧とすれば、もう同じような出来事は起こらなくなるでしょう。フラワーエッセンスは、気づきのチャンスをベストなタイミングで与えてくれるよう、私達を誘ってくれます。そして、問題と思えるような出来事が起こった時にも、慌てずに、冷静さを保って対処できるように、客観性と落ち着きを保たせてくれます。
④は、私自身も何度も経験したことです。フラワーエッセンスを飲むようになってから、私は様々な講習会やグループに導かれ、それぞれの分野の先生との出会いにも恵まれましたが、どの集団にも、どの師匠にも、どっぷりと浸かることがありませんでした。(おそらくこれからもそうなのだろうと思います)
一時、「ああこの場所は居心地がいいなあ」と思い、自分はここで先生について勉強し、しばらくがんばっていこうと思ったことも何度かありました。けれど、そんな風に考えが傾いてきた頃に、必ずといっていいほど、そこの場所の「?」と思うことが目についてきて魅力が失せてしまったり、この人について行こうと思っていた方が自分とは目指す方向性が違うことが解ってテンションが一気に下がってしまったり、関係がうまくいかなくなったりして、結局そこに留まることができなくなってしまうのです。もちろん、そこでの出会いや、学ばせてもらったことなどは大切な財産ですし、感謝しているのですが、どうも私は一か所に納まってやっていくタイプではないようなのです。そうしたことがようやくわかってきましたが、所属する場所が転々と変わり、落ち着く先が見えなかった時には、自分が根無し草になったような、不安な気持ちも抱いていました。
フラワーエッセンスは、その人を最適な出会いや学びにつなげてくれる力がありますので、もう学びが終わった場所からは、その人をそっと放すようなこともあるのです。それも、寂しかったり、先行きが見えずに不安になることもあるために、一見ネガティブな出来事と思えるかもしれませんが、やはり結果的には、その人が本当に生き生きと、その人らしく羽ばたいていける場所に導かれているのですから、本当の意味ではポジティブな移動だといえます。
⑤も、フラワーエッセンスの内面に与える影響が起こす変化です。それまで強い興味を抱いていたものや、夢中になっていたことに、急に情熱が持てなくなることがあります。それは、フラワーエッセンスを飲んでいるとどんどん執着が剥がれていくために、過去においてそれがなければ生きる活力が得られなかったような刺激的なものや人・行為などに、以前ほど魅力が感じられなくなったりするからだと思います。人との共依存の関係がなくなったり、夢中になって集めていたものに興味がなくなったり、とにかく「欲しい!」という渇望感がなくなったり。アイドルなどに異常な思い入れがあったのが、落ち着いた感覚で応援したい気持ちに変わり、純粋にアートとして楽しめるようになったりもします。
一見、「私どうしちゃったのかしら」と思うかもしれませんが、それも、活力がなくなったというわけではなく、人として落ち着きを取り戻したのだと思って、ポジティブにとらえれば良いと思います。何かに異常な関心を寄せている時というのは、エネルギーもそちらに吸われていますから、疲れますし、利用される危険性もあります。
①~⑤までのことは、フラワーエッセンスを飲んでいなくても、どんな方の人生においても起こっていることだと思います。ただ、フラワーエッセンスを飲んでいると、特にこうした変化が分かりやすい形で起こることが多く、自分自身でも気づきやすくなります。また、出来事が起こるスピードも通常より早まるようです。次々に色々な出来事が起こるので、大変なんじゃないかと思うかもしれませんが、フラワーエッセンスを飲んでいると、不思議なことに、困難だと思えるような出来事に対しても、スムーズに対応できるのです。波に乗るように、人生を渡っているような感じです。そして、自分が見えない力に導かれている感覚が強くなっていきます。実際思いもよらないような所からサポートが飛び込んできたりもしますので、面白いです。
慣れてくると、もう自分には何が起こっても大丈夫だ、守られているから安心、という心の状態に落ち着いていきます。こうなると、人生を「苦しみに耐えるもの」ではなく、「喜びを感じていくもの」という感覚で捉えることができるようになります。恐れや不安にも支配されず、物事を平らに眺めることができるようになりますので、心のさざ波もなだらかになっていくでしょう。
娘がまだ小さい頃、「愛」という言葉をどこまで理解しているのだろうと思った私は、娘に「愛ってどんなもの?」と質問してみたことがあります。娘は、
「うーんとね・・あたたかくて、大きくて、やさしくて・・」
と、自分なりに感じていることを表現してくれました。特に誰かに教えてもらったわけではないのに、幼い子供でも、ちゃんと感じ取っているものなのだなと思いました。
私達は、言葉や人、物、目に見えない存在などをどのように認識しているかというと、知識として認識しているだけでなく、それがどういったものなのかということを「感じて」います。
私の家はクリスチャンではありませんでしたが、私はキリスト教系の幼稚園に通っていました。その幼稚園の園庭には、大きなマリア様の石像が立っていました。私は、マリア様がどういった人物なのかということをよく知らなかったにも関わらず、その像の前を通る時には、なんとなく穏やかな気持ちになり、心の中に温かいものが流れていくのを感じていました。幼心に、”私がどんなに間違いを犯したとしても、マリア様は怒ったりせず、全てを許し、受け入れてくれるだろう”と、なぜか確信に似た思いも抱いていました。
大人になった今は、「マリア様」と聞くと、”慈愛”とか”母性”といった言葉が浮かんできます。内側から強烈にほとばしるような、大きな愛に溢れた存在です。
天使の波動が入ったアンジェリック・エッセンスの創始者であるルースさんは、「愛」とは宇宙に存在する最もパワフルなエネルギーだとおっしゃっていました。たとえ私達が恐れを抱いている時でも、そこには愛があります。赤ちゃんにとって、愛は食べ物とおなじように必要なもので、愛を与えられない赤ちゃんは、大きくならないのだそうです。愛がなければ、私達の魂は飢えていきます。
アンジェリック・エッセンスには、「愛」をテーマにしたものがたくさんあります。私のお気に入りは、
「Love」(「愛」をハートで感じるエネルギー。私達の認識を超えた「愛」のエネルギーを感じるために)
「Quan-Yin」(観音様のエネルギー。慈悲、優しさ、癒し、思いやり、悟り)
「Being Completely Loved」(自分は十分に愛されているのだという感覚を内側に広げ、経験する)
「God's Love」(神の愛を知り、経験することをサポート。神が愛するように愛することができるように)
などです。本当はどんな時でも、愛は私達の内側に存在しているものなのですが、時として私達は、それを感じることが困難な状態になることがあります。悩みがあって心が苦しかったり、せわしない日々を送ってゆとりがなかったり、困難な人間関係のために心がざわついていたり、思うようにいかなくて焦りを感じていたり。
そんな時は、上記のような「愛」のエネルギーを高めてくれるエッセンスを飲むと、ざわついていた心にジワジワと、温かいエネルギーが注ぎ込まれていく感覚が味わえると思います。内側に、愛が広がっていく感じです。愛のエナジードリンクを飲むようなもの、といったらいいでしょうか。凍っていたハートが大きく開かれるのを感じ、何か説明のつかないようなパワフルなエネルギーが注入されていくのです。自分の内側から愛で満たされていくと、いつの間にか心のざわつきがどこかへ去っていき、穏やかな平安が戻ってきます。
なんだか最近心が殺伐としているな、という時には、このような「愛」のエッセンスをとってみるのがお勧めです。なぜかというと、心がとても楽になるからです。愛の力は何にも勝るので、自分を愛で満たしてしまえば、ネガティブなものは自然と出ていきます。今まで批判的な目で見ていた人に対しても、愛の眼差しを向けることができるようになるので、刺々しい感情を抱くことがなくなり、気持ちが安定します。落ち着きを取り戻すことができれば、物事を客観的に眺めることも容易になり、目の前のことに冷静に対処できるようになるでしょう。
一体いつから、私達はすっかり自信を失ってしまったのでしょうか。
『自分は非力で価値がなく、弱い存在である。運命には逆らえず、本当の望みなんて叶いっこない。世の中で成功している人は特別に選ばれた人で、自分は成功とは無縁である。満たされていない状態が当たり前で、全てを手に入れることなんてありえない。もしくは、何かを手に入れたら、何かを失うものだから、多くを望んではいけない。』
このような思い込みはありませんか。もしあるとしたら、それはなぜそう思うのでしょうか。それは確かな事実ですか。
本当かどうかよりも、ただそのように教えられたから、そう信じているだけではないでしょうか。疑ってみたことさえもないかもしれません。
『だってそういうものだから』と思うかもしれません。
本当にそうなのでしょうか。
私達は幼い頃から、様々な人や媒体から、絶え間なく情報を得てきました。幼い子供ほど柔軟なので、まるでスポンジのように周囲の大人達が言うことを無条件で受け入れてしまいます。そういった情報が真実かどうかはともかく。
そして、世の中で何となく作られてきた常識や暗黙のルール、決まり事などに縛られてきました。それが本当に私達のためになるものかどうかはともかく。
更に、常識やルールから外れることは、「罪」や「恥」だという認識を刷り込まれてきました。それが真理かどうかはともかく。
こうしたことを繰り返すことで、制限される感覚が当たり前になっていき、私達の中に恐れや不安が蓄積され、本来持っている無限の力を信じることができなくなっていきました。いつの間にか、自分は非力でか弱い存在だという認識が出来上がってしまいました。
そろそろ、そのような縛りから自由になってもいいのではないでしょうか。もう薄々気づいている人たちがいます。そうした方々は、世の中の一般的な常識にとらわれない生き方を選び、真の幸せとは何かということを実感しています。ほしいものは手に入れても良いのだ、望みは叶えられるものなのだということを確信できています。何より、自分の力を信頼できています。
それは、そういう方々が特別なわけではありません。誰でも、そのように生きられるのです。ただ、そういう生き方を選ぶかどうか、それぞれが決めているだけです。
今まで教えられたこと、周りの大人達が言っていたこと、どこかで読んだこと、テレビが言っている事、インターネットに流れていること、友達が言っていること、こうしたことにいちいち翻弄される生き方は窮屈です(参考にすることはポジティブな学びだと思いますが)。自分が何をするべきかは自分の内側が知っています。外からの情報に必要以上に振り回され、全面的に判断を委ねてしまえば、自分の本当の望みがみえなくなってしまいます。
私達は一人一人が個性を持ち、それぞれ異なる目的や使命を抱いてこの世に生まれてきたのですから、自分以外の誰かと同じように生きようとすること自体が不自然で、ストレスを作り出す要因となります。
誰かが言ってくるかもしれません。「こうした方がいいよ」「ああした方があなたのためだよ」。
その人は、”私”のことをどれだけ知っているのでしょうか。”私”のことを一番よくわかっているのは、”私”なのではないでしょうか。だとしたら、自分以外の誰かが言っていることよりも、私が感じていること、私の心の声を何よりも大事にして、信じることが、その人本来の生き方といえるのではないでしょうか。そもそも、自分で自分の無限の力を信頼することができなかったら、一体誰が代わりに信頼してくれるでしょう。大抵は、それぞれが自身の抱える事で手一杯です。私以上に、私の力を信じてあげられる人は、他にいません。
自分の心が素直に感じたことを、どれだけ信頼し、貫き通せるか。その勇気と意思力が、運命を切り拓いていくパワーになるのだと思います。
先日、いじめを受けないためには自己愛を高めることが有効であると書きました。「自分に自信がない」「自分は価値がない人間だと思う」「自分は愛されていない」etc...
このように、自分で自分を貶めるような感覚を抱いていると、そっくりそのまま、そういった現象を引き寄せることになります。自分が自分に対して感じている感覚通りに、周囲からの扱いを受けてしまうのです。「自信がない」と固く信じていれば、”あなたって才能がないのね”と言われてへこんだり、正当な評価を受けられなかったり、なぜか認められない状況が続いたり、チャンスに恵まれなかったり。「価値がない」と信じていれば、相手から不当な扱いを受けたり、意地悪をされたり、傷つく言葉を投げられたり。あなたが本当に「価値がない」わけなのではなくて、あなたが固く信じている「自分には価値がない」という信念を、ますます深めるようなシチュエーションが呼び寄せられているだけなのです。人が誰かに意地悪をしたくなる時というのは、その人の中のネガティブな一側面と、相手が出している波長が一致した時です。そもそもネガティブな波長を出していなければ、そこをつつかれることは現象として起こりえないはずなのです。
そのような状況を変えたかったら、まずは自分の内面を変えることに着手するのが、一番の近道です。他人を変えることはできませんが、自分を変えることはできます。自分が自分に対してどのような意味づけを行っているのか。この部分を見つめてみます。自分は価値のある人間で、愛される権利があると本気で思っていますか。真の意味で、自分を大切にしていますか。他人の要求に合わせることに精一杯で、本当の気持ちに蓋をしてはいないでしょうか。必要以上に卑下していませんか。あきらめてはいませんか。自分は幸せになれるのだと、心の底から信じられているでしょうか。
変化を起こすには、エネルギーがいります。長年信じていたことを覆すためには、強い意思の力が必要です。全く自分のためにならないような信念であっても、長い間抱き続けていると、その状態に慣れ、どこかそこにすがりたいような気持ちや、そこにいると安心するような感覚があったりするものです。そういった状態は自分の本質ではなく、恐れがそうさせているだけなのですが。まずは、「変わろう」と強く決心することが大事だと思います。宇宙空間に向けて宣言してもいいと思います。決心することで意識が変わるので、本当に変化が起こってきます。サポートも次々とやってくるはずです。
自分の内面が変わり、満たされていくと、自分から出る波長が変わっていきます。自己否定的なオーラの代わりに、”私は価値ある人間だ”と思わせるようなポジティブな雰囲気が醸し出されるようになっていきます。そうなると、あなたを今まで攻撃していた人でも、態度が変わったり、去っていったりします。代わりに、あなたを心から大切に思い、愛してくれるような人が現れるようになります。
フラワーエッセンスを飲んでいると、人から親切にされたり、物をもらったり、チャンスが舞い込んで来たり、とにかくラッキーなことが増えた、という嬉しいご報告を受けることがよくあります。エッセンスのおかげで心の傷が癒され、自分を否定的に見てしまうネガティブな信念が取り払われていくので、自然とポジティブな波長が出るようになり、それに見合った事象が呼び込まれてくるのだと思います。愛に溢れ、温かな雰囲気を持った人をみたら、誰でも親切にしてあげたい、協力してあげたい、その人のそばにいたいと思うのではないでしょうか。人から優しくされ、愛されるようになれば、ますます自己愛が高まり、自信も深まっていくことでしょう。そして今度は、自分も他人に寛容になり、思いやりに満ちた言動がとれるようになっていくはずです。
本当は、この世は愛で満たされていたということ、そして自分も愛されていたということ(例外などありません)、ただそこに愛が「あった」のに、気づかなかっただけだということを、感覚で理解できるようになっていくと思います。
~愛されている感覚が足りていないと感じている方へお勧めのエッセンス~
☆Being Completely Loved(ビーイング・コンプリートリー・ラブド)
自分が完全に愛されているという感覚を、内側から広げていくエッセンスです。自分を取り巻く環境がどうであれ、まず自分の内面を、「愛されている」感覚で満たしてあげます。また、何が自分から「愛されている」感覚から遠ざけているのか、気づきを促します。
「いじめ」。文字として書き起こしただけで、心がざわつくような波動を感じる言葉です。
人の心の中に闇が存在し続ける限り、いじめはなくならないのだろうと思います。心が満たされて、愛に溢れている状態であれば、決して他人を傷つけることはしません。する必要がないからです。人に意地悪をする人は、心に闇を抱えています。いじめはもちろん人として良い行いではありませんが、いじめをする人をただ責め、罰を与えるだけでは、根本的な解決にはならないでしょう。いじめをなくすには、そうした人々の心の闇をなくす、つまり他人に優しくできない心の状態を作らないこと、もしくはそういう状態を癒すこと、が大切なのではないかと思います。
もう1つ、いじめを受ける側の対策もあります。それは、いじめを引き起こすような波動を自分から出さないということです。
芸能人や映画スターといった、多くの人の支持を集めることが重要な意味を持つ仕事に携わっている方々をみていると、興味深いことに気づくことがあります。それは、ある人々は非常にバッシングを受けやすく、何をやっても非難をされたり、悪口を書かれることが多い一方で、なぜかいつも周囲から良い対応を受けており、攻撃されることも少なく、時には実力以上に持ち上げられたり、良い仕事やチャンスに恵まれている人々がいる、ということです。
後者の方々をみると、どの方にも共通していると感じることがあります。それは、強烈な自己肯定感です。そういう方は、自分を認め、受け入れ、愛することができているのだと思います。その方々からは愛の波動がほとばしり、放出されているのを感じます。自分で自分を愛のエネルギーで包み込んでいるのです。マスコミを含めた世間の人々は、自然とそういう人を攻撃しなくなるのでしょう。心が安定し、受け取る体制が出来上がっていますので、仕事にも恵まれ、豊かで満たされた生活も送ることができています。
世間から愛されているから幸福感を味わっているのではなくて、順番としては、まず自分を受け入れる、ということができているのだと思います。内側から満たされた感覚が味わえているから、その波動に見合った現象がその方の元にやってきているわけです。
いじめの被害にあわないためには、もしくは今現在いじめの被害にあっている場合は、一刻も早く、「自己否定」の波動をなくし、代わりに「自己愛」の波動を出すこと、がエネルギー的な対処法となります。とにかく、自分を受け入れ、愛してあげるのです。自分をいじめる人を恨んだり、怒ったり、呪ったりといった攻撃的な感情を抱いている状態は、本当に何も良いことはありません。 自分が出した波長は、ひとつ残らず宇宙空間に放出されていますから、もしネガティブな感情を抱き続けていたら、いずれそれに見合ったネガティブな事象を自分の元に引き寄せてしまうことになります。その代り、自分を受け入れて愛してあげることができるようになれば、攻撃の対象となるような波長が自分から出ることはなくなり、誰かから攻撃されることがなくなっていきます。それどころか、人から愛され、優しくされる人になっていくでしょう。愛のギフトは、まず自分にあげることからです。
今まで、自分が誰かから悪口を言われたり、激しく非難されたり、あからさまな攻撃を受けた時のことを思い返してみてください。その時自分を責めてきた人は、あなたにどんなことを言ってきましたか。どのような種類の怒りをぶつけてきましたか。あなたのどのような一面に不満を抱いていましたか。
その人が言っていたこと、その人が気に食わなかったこと、その人が許せなかったこと、それらは、実はそっくりそのまま、その時のあなた自身が、自分に対して頂いていた不満もしくは自己認識そのものではありませんでしたか。
他人から攻撃を受けた時は、まず自分が被害者だと思って相手を責め、自分は悪くない相手が悪いのだと考えて、自分に原因があったとは思わないものです。自分を正当化することは人間の自己防衛反応の1つなので、当たり前の反応かもしれません。けれど、もし自分自身で自分のあらゆる側面を受け入れられていて、満足していたら、そのような波長が出ていますので、自分を攻撃してくる人は現れないはずです。
受け入れがたいことかもしれませんが、他人から「言われた」言葉は、実際のところは、自分がその相手に「言わせた」ことでもあるのです。
そんなことはない、自分にそのような認識はなかった、と思うこともあるかもしれません。もしかしたら、自分で認識できるレベルよりはるかに深いレベル、つまり深層意識と言われる領域にあった何かがそうさせたのかもしれません。記憶に残っていない遠い過去の体験、場合によっては、生まれる前の出来事の影響がまだ残っていることも多々あります。
思い出せないくらい昔の記憶が影響していることがあっても、それは”今現在”取り組むべき課題として、”今現在”、あなたの目の前に現象として出てきているはずですから、あまり過去の記憶にこだわる必要もないと思います。取り組むべきは、いつも、「今」目の前にある出来事です。順番にやっていきましょう。
いじめに合っている人の助けとなってくれるエッセンスも、たくさんあります。いくつか選んでみました。
☆ホリー
人に対する怒りや恨み、復讐心、ねたみ、不信感、といった攻撃的な感情を癒す。相手に嫌悪感を感じ、痛い目に合わせてやりたい、憎らしい、といったネガティブな感情がフツフツと湧き出てきて、その感情に圧倒されているような時に。そんな毒々しい感情をいつまでも抱き続けていると、自分もやられてしまいますし、客観的な判断力も鈍ります。まずは刺々しい感情を癒し、冷静な自分を取り戻しましょう。
☆バターカップ
自己価値の低い人に。子供時代、自信をなくすような育てられ方をしてきた、自信を無くすようなことを言われ続けてきた、自信を持つチャンスが極端に少なかった、いじめに合ったことがある、といった経験があると、自分の力を信じられなくなり、自分で自分を陥れるような状況を無意識に創り出してしまいます。主に幼少期からのトラウマがある方は、まずは過去から引きずる自己否定感を癒しましょう。
☆フクシア
子供時代からのトラウマがまだ癒されていないと感じる方に。感情の抑圧が長年続いている場合、まず埋もれていた感情を表に出して上げることが大切です。長い間見過ごされてきた悲しみや苦しみに光を当て、解放させてあげましょう。心の蓋が開けられ、忘れていた過去の記憶や感情が噴出してくることもありますが、エッセンスの力で、そうした感情に圧倒されることが軽減されます。落ち着いた状態をキープすることができます。バターカップと一緒にとるのがお薦めです。
☆エンジェルソード
不健康な人間関係、他人との望ましくない繋がり方に苦しんでいる方に。エネルギーレベルで、相手とのコードを断ち切ってくれます。他人との境界線も引きやすくなり、外部の影響や、サイキック・アタックから自分を守ってくれます。
☆Self Love(セルフラブ)
自己愛のエッセンス。自分を愛し、自分を大切にし、自分を尊重する気持ちを高めてくれます。人から愛してもらいたかったら、まずは自分を愛すること。自己を認め、受け入れることができれば、充足感に満たされ、他人を受け入れる許容も自然と広がっていきます。愛に基づく人間関係を築けるようになるために、自分を愛することから始めましょう。
☆Refuge(レフュージ)
一時的な避難所。守られ、安心する場所を造り出します。台風の目のようなところ、強風があなたの周囲を吹き荒れている時、あなたが静かになって休めるような場所を、あなたの内側に広げていきます。
☆Healing Emotional Trauma(ヒーリング・エモーショナル・トラウマ)
あらゆる種類のトラウマを癒します。トラウマが癒されない状態でいると、パターン化した状況や人物を繰り返し引き寄せます。同じようなシチュエーション、同じような人間関係、同じような苦しみを人生において幾度となく繰り返しているなと感じている方に。トラウマが引き起こす負の連鎖を断ち切り、過去に縛られない自由な生き方を選ぶことができます。
☆Archangel Michael (大天使ミカエル)
守護、勇気、力、真実、統合を司る大天使ミカエルのエネルギーに守られます。肉体的、心理的に私達を守ってくれるでしょう。必要のないエーテル体のコードを断ち切り、クリアーにしてくれます。依存的な関係やサイキックアタック、場の浄化や浄霊に。自分にとって望ましくない人間関係に終止符を打ち、新しい人生に踏み出す勇気を与えてくれます。このエッセンスを飲んでいると、強制的に今いる場所から退去させられるような出来事が起こったり、ある場所にいることが急に居心地悪く感じるようになったり、人との関係に終止符が打たれることがあります。
*これ以外にも様々なサポートエッセンスがあると思います。それぞれのシチュエーションによって、対応するエッセンスが異なることもあるでしょう。
フラワーエッセンスは、物質的な成分が入っているわけではありません。特定のエネルギー(波動)がお水に転写されているものです。それを私達が飲むことによって、エネルギーが伝わり、感情体(マインド)や霊体(サトルボディ)に作用します。
私達人間は、目に見える形では肉体だけを感知しているかもしれませんが、実際には、肉体よりもっと精妙なエネルギー体(サトルボディなどとも言われます)も一緒に持ち合わせています。感情体(マインド)、霊体といった、肉体よりもバイブレーションが高い次元でも、「個」として存在しているのです。つまり、エネルギー的には多層構造になっています。
水には、エネルギー的な情報を記憶するという特質があります。フラワーエッセンスは、この特徴を用いて、水に波動を転写し、情報をキープさせています。そして、それを私達が飲むと、そこにキープされていたエネルギー的な情報が私達のエネルギー体に伝わり、エネルギーレベルで変化が起こるのです。
うぶすなでは、お花のエネルギーを水に転写したフラワーエッセンスだけでなく、高次元の存在である天使達が、5次元以上のエネルギーを水に写して作られたアンジェリックエッセンスも取り扱っています。
フラワーエッセンスは、肉体次元の少し上の層にある、感情体(マインド)に働きかけるものが多いです。私達が日常的に抱きがちな、”怒り”、”不安”、”罪悪感”、”悲しみ”といった感情は、感情体に存在しているので、フラワーエッセンスを飲むと、このようなネガティブな感情が癒され、スーッと楽になっていきます。
それに対してアンジェリックエッセンスは、エネルギー的により精妙で、高い次元に働きかけるものが多いです。霊体のかなり深い部分にも作用します。そのためか、最初から感覚的に「効いている!」とはっきり感じることは少ないようです。私達が知覚できるレベルよりはるかに高い次元で作用しているので、具体的に体感しづらいのだと思います。
エネルギーにとても敏感な方や、普段からエネルギーワークのようなものに慣れ親しんでいらっしゃる方は、「自分の中で何かが起こっている」「魂レベルに変化が起きている」といった感覚をお持ちになることが多いようで、そのような報告もよく受けます。
実際、深い部分では確実に変化が起こっているので、飲んでいて全く何も変わらない、ということはないはずなのです。ただ、その変化がリアルタイムで明確に体感できなかったり、具体的な変化を知覚するまでに時間がかかったり、ということがよくあります。霊体でまず変化が起こり、その後感情体、肉体、といった順番で変化が「下りて」きます。ですから、アンジェリックエッセンスは飲み始めてしばらくしてから(場合によっては飲み終わってしばらくしてから)、「あれ?」といった感じで、具体的な変化を認識することも多々あります。
フラワーエッセンスもアンジェリックエッセンスも、エネルギーレベルで作用するものですから、普段から霊的な感性を高めている方ほど、その恩恵をより感じやすいのかなと思います。霊的な感性というものは、どの方にも本来備わっているものです。特定の人だけが持ち合わせているというのではないので、「どうせ私には無理だから」とか、「私にはそういう能力がないから」と決めつけてしまうのは非常にもったいないです。自ら制限をかけることになるからです。
例えば、長年音楽をやっている方は、聴覚が鍛えられて音感が良くなったり、音に対する反応が鋭くなったりします。料理のお仕事をされている方は、普通の方よりも味に敏感になり、繊細な味の違いがわかるようになっていきます。霊的な感性も同じで、時間をかけて能力が研ぎ澄まされていくものだと思います。
中には、生まれながらにサイキックな能力が開花している方もいらっしゃいますが、そういう方はご自身でそのような生き方を選んできたのです。初めから感性が開いている方がいるからといって、その他の人が霊的な感性がないとか、努力しても磨かれないということはないと思います。
フラワーエッセンス(アンジェリックも含めて)を初めて飲むという方は、きっとドキドキしながら飲まれることでしょう。人生が劇的に変わるのだろうかとか、別の人間のように生まれ変われるのだろうかとか、大きな期待をかけてしまうこともあるかもしれません。
大抵は、エッセンスを飲んで何かが変わるとしても、「じわじわと」表れることが多いです。時には、現象として大きな出来事が起こることもありますが、どの人にもそれが起こるというわけではないですし、飲んでいれば常にドラマチックな変化が起こるとも限りません。
ただ、何度もいいますが、エネルギーレベルでは確実に変化が起こっています。
特に飲み始めて間もない頃に、具体的な変化があまり感じられなかったり、期待していた程のことが起こらないと、「なーんだ、何も変わらないじゃない」とガッカリして飲むのをやめてしまう方もいらっしゃるかもしれません。けれど私は、ぜひフラワーエッセンスは、しばらく飲み続けていただきたいと思っています。飲み続けることに意味があるといっても過言ではありません。
私達の過去の情報は、エネルギーレベルでは全て記憶されていると言われています。普段意識していない魂の深い部分に、たくさんの傷やゴミが居座っていたりするのです。そういったお荷物が外に出ていこうとして浮上してくる際には、現象としてネガティブなことが起こりやすくなります。フラワーエッセンスは、そのような時にとても心強い味方となってくれます。どんどん余計なものが剥がれていくようにリリースを促してくれたり、ネガティブな現象が起こっている最中に「自分は大丈夫だ」という安堵感や自信をもたらしてくれたり、恐れの気持ちを持つことなく自分の課題に向き合えるように助けてくれます。
感覚としてハッキリと「これがフラワーエッセンスの効果だ!」と感じられなくても、そもそもエッセンスは高いバイブレーションを持っているので、ただ何も考えずに飲んでいるだけでもその人の波動を上げてくれます。波動が上がると、低いエネルギーのものが自分の中にいられなくなって、外へ出ていこうとしてくれます。自然にそれが起こります。
フラワーエッセンスを飲んでどうなったか、という具体的な効果に必要以上にとらわれたり、エネルギーを体感できたかできないかという部分に一喜一憂するよりも、とにかく飲み続けてバイブレーションを上げ続けること、長年自分の中に居座っていたお荷物をどんどん外に出すこと、こうしたことを淡々と行うだけでも、かなり楽になり、魂の向上が進んでいくと思います。
短期間で劇的な変化が起こらなくても、ある時ふと、かつての自分よりも今の自分が随分と「軽く」なっていると感じたり、長いこととらわれて苦しんでいた執着から脱している自分に気づいたり、身の回りにいる人たちが以前と全く違っていたり、といった変化に驚くかもしれません。
フラワーエッセンスには、人間関係にお悩みの方に大きな助けとなってくれるものがたくさんあります。
例えば、
「他人に対する怒り・イライラ・嫉妬といった攻撃的な気持ちを和らげる」
「人につい批判的な眼差しを向けてしまったり、悪い点にばかり目がいくとき、その人の良いところを見られるようサポートしてくれる」
「人との関わりで生じる悪しき感情を浄化する」
「バリアーをはり、ネガティブエネルギーの影響から自分を守る」
「他人との不必要なエネルギーコードを断ち切り、望ましくない人間関係(束縛・執着に基づく)から自由になる」
等々。
人の悩みの多くは、家族も含め、自分以外の人との関わりの中で生じているように思います。自分と価値観が異なる人、自分を束縛する人、コントロールしようとする人、攻撃的な人、思うように動いてくれない人、受け入れがたい言動をとる人などを目にした時、心の中に怒りや失望、悲しみ、恐れといったネガティブな感情が生じ、その感情に圧倒されて苦しむのです。
自分にそういった負の感情を生じさせている人が悪いのだと思い、その人に対して怒りの矛先が向かいがちですが、感情を生み出しているのは自分自身だということを思い出してください。相手は、悪しき感情を引き起こす要因となっているかもしれませんが、悪しき感情を造り出しているわけではありません。感情は、感情を味わう本人にしか造り出すことができないからです。
怒り・嫉妬・不満・恨み・ねたみ・イライラといった悪しき感情から解放されたいと願うのであれば、自分にそういった感情を与えていると思っている相手を責めるのではなく、その感情を造り出している自分の内面に目を向け、自分の中の何が反応しているのか、ということを探り大元の要因に気づくことが、実は一番の近道だったりします。
自分の中にある思いグセや執着、恐れ、とらわれ、トラウマ(取れないままだとパターン化します)、といったものがあぶり出されたら、まずはそれが「ある」ということを認めます。簡単なように思えるかもしれませんが、この「認め、受け入れる」という作業に辿り着くまでが、最もエネルギーを使うようです。自分の中にそのようなものがある、ということを認めたくない自我意識が、あの手この手を使って邪魔をしてくるからです。そもそも、そこに気づかないことが多いです。
一度自分の内面にあるものに気づいてそれを受け入れることができれば、あとはただそれを解放すれば良いだけです。「私はこれを解放します」と宣言してもいいですし、大抵は、気づいただけで出て行ってくれるものなので、そのままにしていても自然に解放されます。この時に、リリースを助けてくれるエッセンスを飲むのもお薦めです。
自分が到底受け入れられない、信じられないような人が目の前に現れた時、その人に対して悪しき感情をぶつけるだけだったり、受け入れようとするのではなく拒絶するだけで終わってしまうと、そこから何の学びも得られないので、たとえその人から逃れられたとしても、そのうちまた似たような人を自分の人生に呼び込むことになるでしょう。
自分が人生で出会う人は、全て自分自身が引き寄せています。その人との関わりにおいて、その人を見ることによって生じる感情を通して、何かを学ぶ必要があるから、その人が今目の前にいるのです。特に、自分が全身全霊で拒絶したくなるような、激しく感情を揺さぶられるような人ほど、自分にとってもはや必要のない、長年抱え込んできた心のお荷物を手放す大きなチャンスをくれる人だったりします。
そのような人がもし今身近にいるのでしたら、もしくは今後目の前に現れたとしたら、感情の矛先を向ける前に、
「自分の中の何が、この人を引き寄せたのだろう」
「私はこの人を通して、何を学ぶべきなのだろう」
と自問してみてください。きっと、答えが見つかると思います。全ての答えは自分の中にあります。私が私らしく生きることを妨げている、心のお荷物は、一体何なのでしょうか。もうそれは、外に出たがっています。だからこそ、そこに気づかせようと、自分の内面を映し出す鏡のような人物を目の前に登場させたのです。
気づきを得て、必要のない心の重荷から解放されたら、もう同じような人は自分の前に現れなくなるでしょう。もしくは、現れたとしても、以前とは自分の反応が全く違っているはずです。1つのレッスンが終わり、魂の成長が進んだので、その分だけ他人を受け入れる許容が広がっているからです。
先日ある番組を見ていたら、過去にある人から洗脳され、大金を貢いでしまったという苦い経験を話している芸能人の方がいました。
他人が聞くと「なぜ騙されてしまうのだろう?」と疑問に思うのかもしれませんが、人が洗脳されている時というのは、自分が洗脳されているという認識は全くないものです。
「洗脳」つまりマインドコントロールは、文字通り、心を意のままに操られてしまう状態です。自分以外の誰かに、考える力や意志を貫く力・自分を信じる力などを奪われてしまっています。「こうしなさい」と言われたことだけをしていれば良く、自分で考えることをしなくて済むので、ある意味楽なのかもしれません。次第にその状態に慣れ、疑問すら感じなくなっていく(感覚が麻痺していく)ので、洗脳から抜け出すにはかなりのパワーが必要です。
特に、自分に絶大な自信があり(根拠がなくても)、発言が断定的で、人を引っ張るパワーが強い人、いわゆるカリスマエネルギーの強い人が、洗脳を「する側」になるパターンが多いようです。
カリスマエネルギーというのは、本来は世のため人のためにその力を使うようにと、神から与えられたギフトなのだろうと思うのですが、人が未熟だと、ついエゴの声をきいてしまい、使い方を誤って他人を悪い方向に導いてしまう場合も多々あるようです。
生活の全てをコントロールされるレベルにまでいかなくとも、私達は多かれ少なかれ、他人の言葉や考えに引っ張られ、自分を見失いそうになる経験をしているのではないでしょうか。パワーがある人の言動に必要以上に影響を受けてしまい、意見が言えなくなったり、自分が間違っているのではないかと不安になったり、本当の気持ちに蓋をしてしまったり。次第に自分に自信がなくなり、相手が言っていることが正しくて、自分が間違っているのだ、という考え方になっていきます。
私自身も、子供の頃から、周りの大人達や様々な媒体から流れてくる情報などに圧倒され、自分を見失う経験を数多く経てきました。そして、ここ最近も、そういった経験をしました。自分ではもう流されることなんかない、と思っていたにも関わらず。
自分がある人のパワーに引っ張られ、流されているということに気づいたのは、ある出来事がきっかけでした。その人が、とても理不尽で幼稚な振る舞いをしたのです。それを見て、私はハッとなりました。自分が日頃から尊敬しているような、魂が成熟した人が行うような振る舞いでは到底なかったからです。
そこから、過去の言動で「?」と感じていたにも関わらず、深く考えないようにしていた数々の出来事が思い出され、やはり自分が感じていた違和感は本当だったのだ、ただ気づかないフリをしてやり過ごしていたのだ、と思いました。
大きな怪我をする前に気づけて良かったのですが、人は自分でわかっているつもりでいても、いざ強いエネルギーに飲まれそうになると、このように一時でもふらついてしまうこともあるのだと学びました。
精神性が高く、みせかけではない真のパワーに満ちている人というのは、誰かを自分の方に引き込もうとしたり、個人的な考えを押し付けたり、自分に力があるということを誇示したりは決してしないものです。そういった言動は、愛ではなくエゴからきています。そもそも波動が本当に高ければ、いるだけで誰もがそのパワーを感じるので、言葉や行動で「自分にはパワーがある」などと示す必要はないでしょう。
ちなみに、私が飲まれそうになっていた時、たくさんの友人や知り合いと話をしたことが、早めに気づくきっかけとなったと思っています。他人は客観的な視点で物事を見てくれるので、「それっておかしいんじゃない?」ということを冷静に指摘してくれます。
また、話すことは「放す(手放す)」ことだ、と聞いたことがあります。日頃から、様々な人の意見を聞くことを大切にするだけでなく、私自身も自分のことを素直に話すように意識していたことが、身を助けてくれました。
それから、フラワーエッセンスにも大いに助けられました。いろいろ飲んでいましたが、特にこれが効いたなと感じているのが、アンジェリックの「”Archangel Michael"(大天使ミカエル)」です。大天使ミカエルのエネルギーは、その人にとって望ましくないコードを断ち切って、自分を取り戻す力と勇気を育んでくれるものです。また、守りのパワーも強いので、害となるエネルギーから身を守ってくれます。
私が大きな気づきを得て、自分の意思を何より大切にしようと決心した途端、心だけでなく体もフッと軽くなりました。それまでは、いくら休んでもなぜか疲れがとれず、しょっちゅう横になったりしていたのですが、その時以来、頭もスッキリして体力も戻り、たくさん動いていても疲れにくくなりました。
見えないコードが切れたのだと思います。
フラワーエッセンスには、本当にたくさんのものがあります。
うぶすなにセッションのお申込みをされる方の中には、今までいろいろとエッセンスを試されたという方もいらっしゃいます。たくさん種類があり過ぎて、一体どれが自分に合うものなのかよく分からなくなったので相談することにした、と言われます。
フラワーエッセンスを選ぶにしろ、自分の内面の課題に取り組むにしろ、今一番表に出ている”感情”に注目し、そこからアプローチしていくのがお勧めです。
例えば、自分が今何かに怒りを感じているとします。その怒りは、一見何かの対象物があるかのように感じるのですが(実際怒りの対象となっている人や状況があると思います)、怒りを引き起こしている原因は、本当はその対象物ではなく、自分の心の中にあります。
「〇〇さんのせいで、怒りを感じている」
「□□が△△だから、腹が立つ」
といったように、とかく怒りの矛先を自分以外の何かに向けがちです。けれど、本当に怒りの原因は「それ」なのでしょうか。
自分は〇〇さんに怒りを感じているけれど、他の人で、〇〇さんに全く怒りを感じない人もいます。□□が△△である状況に、気にも留めない人がいます。反対に、自分が全く気にもならないようなことに、プンプン怒っている人がいたりします。何がそんなに気に入らないのだろう、全然怒ることじゃないじゃない・・そんな風に感じることはありませんか。
こうしたことからわかるように、怒りの根本原因は、その「人」や「状況」ではありません。私の中のどこかに、「これが許せない」と判断している、思い込みがあるのです。
このような場合、まずは、”怒り”を静めてくれるエッセンスをとることをお勧めします。とりあえず、一番表面に出ているトゲを抜いてしまうのです。すると、毒々しい感情がスーッとなくなり、心に平安が戻ってきます。心が穏やかになると、冷静な視点で物事を見ることができるようになり、私は一体なぜこのような怒りを感じていたのだろう、と、客観的に自分を分析することができるようになります。気づきが起こってきます。
表に出ているネガティブな感情が癒されると、自分の心の中がよくみえるようになっていきます。自分はこういう部分に執着があるなとか、特定の状況や人物で悩まされるという状況がパターン化しているなとか、こういう思い込みがあるなとか、いろいろとみえてきます。そうなってきた時には、また一段と深い部分を癒してくれるエッセンスが役に立ちます。
例えば、インナーチャイルドを癒すもの、自己愛を高めてくれるもの、母親との関係性を癒すもの、トラウマを癒すもの、ネガティブなエネルギーコードを断ち切ってくれるもの、などです。
そうしたものをとっていくと、長い間心の底に蓋をしていた部分が開いてくるので、ずっと忘れていた過去の記憶が蘇ってきたり、古い感情が蘇ってきたりといった、感情の解放が起こってきます。これは浄化の反応としてよくあることなので、淡々とやり過ごすのが一番です。同じ感情がずっと自分の中に居続けるということはないので、少し冷めた視点で、自分の中を通り去っていくのを眺めていけば、そのうち波が静まって穏やかな心になっていくでしょう。
どうしても感情があふれかえって辛いという時には、リリースを助けてくれるエッセンスや、浄化のエッセンスなどを一緒にとると良いと思います。
だいぶ心の中が穏やかになったなと感じるようになったら、次は更にもう一段深い部分で浄化を行ってくれるエッセンスをとることをお勧めします。無意識レベル、魂レベルでクリーニングをしてくれるものです。DNAをクレンジングしてくれるものや、先祖から引き継いでいるパターンを浄化してくれるもの、生まれる前からの傷を癒してくれるものなどです。
こうしたものは、とっている間具体的な反応がない場合もあるのですが、自分の深い部分で効いている感じがしたり、メッセージ性の強い夢を見たり、人との別れがあったりと、ちょっと不思議な感覚を味わうことがあります。とり終わってしばらくしてから、「あれ、そういえばなんかスッキリしたな」などと感じたりします。私がとった方を見ていて感じるのは、その方の透明感が増す、ということです。いずれにしても、自分でも認識できないような深いレベルで変化は起こっています。魂レベルでの自由度が増すので、制限がなくなり、軽くなります。
だいぶお掃除が進んだら、今度はさあ、本当の自分を出していく時です。心は澄み切り、迷いも恐れもない段階まで来たのですから、今まで着ていた重い衣を脱ぎ捨て、本来の自分に戻り、人生を楽しんでいきましょう。
このような時にお勧めなエッセンスは、インスピレーションを高めるもの、自分の使命を思い出し個性を花開かせてくれるもの、目標に向かって立ち向かっていく勇気を育んでくれるもの、余計な敵から身を守ってくれるもの、などです。
とこのように、フラワーエッセンスには、心を癒す段階においてそれぞれ相応しいものがあるように思います。
ネガティブな感情がたくさんあって、それに圧倒されているような状態なのに、いきなり高い次元に働きかけるようなエッセンスをとっても、最高最善の形ではエッセンスの効果が出なかったりします。少しは変化があるとは思いますが、結局は元に戻ることになります。解決していない課題があるのにいくら飛躍しようと望んでも、必ずどこかで、先に向かい合うべき問題に引き戻されることになります。
心のお掃除ができていないのに、豊かさや成功を望んでも、願いが叶いにくかったり、中途半端な形で叶ったりします。心を癒し、心の問題に取り組むことがいかに大切かということです。結局は、それが一番の近道なのかなと思います。
しばらくブログをアメブロの方に載せていましたが、今後はまたこちらに載せていくことにしました。
時間をみつけて、書ける時に書いていきたいと思います。時々遊びに来ていただけると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いします(^^)