2018年

11月

12日

アンジェリックエッセンスワークショップ

 アンジェリックエッセンスの作り手であるルース・ジョイさんの来日ワークショップに参加してきました。

 新しく出たエッセンスの説明も含め、今回もアンジェリックエッセンスの深淵なる智慧をたくさん聞けて大変濃厚な時間でした。

 

 今娘が思春期なので、思春期の子供を助けてくれるエッセンスについても質問をしたところ、とても丁寧に教えてくださいました。しかも、休み時間にわざわざ私の所に来てくださり、いろいろとアドバイスをしてくださり感激です。

 

「あなたが娘さんのために選んだエッセンスは、あなたも一緒に摂った方がいいわよ」

 

とのこと。どうしてかというと、

 

「母と娘というのは、(エネルギー)フィールドを共有しているから」

 

 だそうです。ということは、抱える問題も共有しているものが多分にあるということ。家族の問題というのは、代々受け継がれていくことが多いのですが、特に母と娘というのは、合わせ鏡のようにお互いを映し出しているものです。鏡であるということは、単に似たような性格になったり、同じような生き方をしてしまうというわけではありません。正反対の性格や生き方を選ぶこともまた、共鳴の別の形といえます。

 ルースさんにも同じ14歳のお孫さんがいらっしゃるとのことで、「この時期の子供が感情の起伏が激しくなることはとてもよくわかる」と親身になってくださいました。

 

 思春期は、脳にも変化が起こっているのだそうです。ホルモンも変わるし、人生に訪れる大きな変革期といえます。そのステージをくぐり抜けることは、とても大変なことなのです。様々な面で調整が起こっているので、不安定になったり、時々自分のことを上手くコントロールできなくなるのも、無理はないのかもしれません。親との関係性も変わる時期です。最終的には親の元を離れていくわけですが、その前段階として、親を拒絶するような態度をみせたりしています。(とはいえ、本当は親を必要としているのですが)

 親自身も、子供がそういうプロセスを歩んでいることを理解し、受け入れることが求められます。

 

 ルースさんはたくさんのエッセンスを紹介してくれましたが、この時期の問題は複雑なので、それだけサポートが必要だということです。

 ルースさんご自身も、息子さん達に反抗された過去があったとのことで、なんだか親近感が湧きました。親を拒絶することが「彼らの仕事」なのだから、そう考えたら「まあ、いい仕事をしているってわけね」と笑っていました。

 

 アンジェリックエッセンスは、ルースさん自身が、問題や障害に直面した時、「こんなエッセンスがほしい」と願ったことによって与えられたものがたくさんあるのだそうです。そんな風にして、自分自身がエッセンスに助けられ、課題を克服してきたとのこと。そして、今もまだエッセンスについてよくわかっていないこともあるし、これから皆さんと一緒に学んでいきましょう、とおっしゃっていました。

 そして最後に、「皆さん自身のケアを忘れないで」という話をしてくださいました。他人を助けるためには、自分がまず健全で、良い状態でいなければいけません。自分自身が安定してこそ、人のために動けるものです。自分に慈愛を与え、ケアすること。ともすればおろそかになりがちかもしれませんが、実は優先順位が高いことなのです。

 

2018年

11月

07日

人の感情を受けない

 他人の感情に敏感な人は、例えば誰かに怒りをぶつけられた時などに、まるで見えない鉄砲に打たれたかのように衝撃を受けます。ネガティブな感情が持つ威力というのはとても強いので、一瞬受けただけの感情の爆発の衝撃が、いつまでも尾を引いて影響を与え続けることだってあります。

 

 過去に受けた他人の感情の爆発に、いつまでも苦しめられたくはないものです。私も長いこと、この”感情の衝撃”を思い返しては、その都度衝撃がフラッシュバックして落ち込む、という経験を繰り返してきました。

 他人の反応や感情に対して、自分のとらえ方が変わってから、このループからようやく抜け出すことができるようになりました。

 

 その人がどんなにネガティブな感情を自分にぶつけてこようが、その感情の出処はその人であって、私ではありません。その人の中の何かが、私という対象に反応して、怒りやら悲しみやら恨みやらの感情を生み出したわけです。その人がそのような反応をしている理由は、その人の内面的な問題です。私はそこには関係がありません。他人が何に反応するかなんて、私には一切責任がないことです。たまたま対象が自分だっただけです。

 誰かの内面の問題にまで、私が責任を負う必要はありません。もしその人が、自分の内側に抱える問題を解決すれば、もう私には怒りをぶつけてこないかもしれません。そして、その人ではなく別の人だったら、同じ「私」に対して、全く別の反応をするかもしれません。人が何に反応して、その時にどんな感情が生まれるかなんて、その人の内面次第で千差万別です。私がどうだからということではないのです。全て、その人の内側の問題です。

 

 だから、どんなに怒りを爆発させている人がいたとしても、どんなに攻撃的な感情を向けられとしても、それを個人的に受け取る必要がないわけです。私の個人的な問題ではないのですから。

 

 もし、人から非難されたり攻撃をされた際、その時の自分にも非があると思うのだったら、それはそれで個別に反省をすればいいだけです。ただその時に、相手から沸き起こっている”感情”まで受け取る必要はありません。感情の渦から離れて、ただその現象から学び取れることにだけ目を向ければいいのです。

 

 

 自分の感情と、他人の感情の区別をしっかりつけることも大事です。これは自分のものなのか、相手のものなのか。自分の感情には責任を持つ必要がありますが、人の感情に対してまではその必要がありません。きちんと区別ができないと、ただスポンジのようになって周囲の想念を吸い取り、翻弄されてしまいます。人の感情や想念に意識的になって、冷静に対処すれば、それに飲み込まれることも、圧倒されて何もできなくなるようなこともなくなります。

 

 それでももし、誰かのネガティブな念を受けてしまったと感じる時は、自分でヒーリングをします。瞑想をしたりお風呂に入ったりエッセンスを飲んだり眠ったり、できることは何でもします。そして、自分のエネルギーフィールドに光を通すようにします。ネガティブな想念は攻撃力はありますが、所詮低い波動のエネルギーなので、光を当てられると消えてしまいます。

 

 ちょっとしたコツとテクニック、そして訓練が必要ですが、私はこれで人の想念に振り回されることが劇的に減りました。

 

2018年

10月

31日

自己価値を高めるには

 割と最近(といっても2015年ですが)出た、『Worthiness(ワージネス)』というアンジェリックエッセンス。うぶすなでも使用頻度が高く、すぐになくなります。これは、その名の通り”自己価値”を高めてくれるエッセンスです。

 

 ナルシストタイプの人や、エネルギーバンパイアの餌食にならないためには、自分という存在を確固たるものにしておく必要があります。自分以外の誰かの言葉に左右されたり、意のままに操られたり、労力や金銭をもぎ取られるような状況にいる時というのは、大体自分がどこかに置き去りにされています。

 

 ”私”はどう感じているのか。”私”はどうしたいのか。”私”はどの道に進みたいのか。こうした意思や気持ちは、本当はどの人の中にもあるものです。けれど、自分をなおざりにする習慣が長く続いて、それが当たり前になっていると、心の声を無視したり、聞こえないフリをしたり、抑え込んだり、ということを無意識で行ってしまいます。

 

 しかも、心の底から他人に同意して合わせているわけではなく、どこかで自分の本当の望みや気持ちを抑圧した状態で他人に無理やり合わせていると、怒りや悲しみといった鬱屈した感情も同時に抱え込むことになります。

 

 更に、「いい人」を演じる傾向がある人は、こうした鬱屈した感情をネガティブなものとして否定し、そういう感情を抱いている自分もまた許せません。自分を押し殺し、他者に合わせ、表面上は従順ないい人を演じていながら、内側にはずっと、自分を認めてもらえない悲しさや、理解してもらえない悔しさ、気づいてもらえないことに対する怒り、フラストレーション、などを蓄積していきます。

 

 長い間他人(家族も含めて)に合わせて自分を造り上げてきた人が、そんな自分に気づき、変わりたい、これからは自分の本当の気持ちに正直に生きよう、と決心した時、まず最初に取り掛からなければいけないのは、心の中にたくさんため込んできた、負の感情を吐き出すことです。蓋をして、我慢して、見ないようにしてきた自分の内面に向き合い、そこに何があるのか、正面から向き合う時間が必要になります。それは勇気がいることです。怒りや恨みなんて、自分が持っていたくはない感情なのですから、それが「ある」ということ自体、認めたくないかもしれません。

 

 けれど、前に進むためには、心の浄化が不可欠ですし、自分のありのままの姿を認めて受け入れられていなければ、他者に振り回されることのない、芯の通った自己を確立することは難しいです。自分の過去も、弱さも、全てひっくるめて自分という存在を受け入れられなければ、どこかで自分をいじめる構造が残ります。自分に認めたくない一面があったり、自分を責め続けていると、意地悪な人や妨害してくる人を引き寄せたり、肝心な所で夢が叶わなかったり、自分が不幸になるシチュエーションを創り出すことになります。

 

 なんだかしっくりこない今の状況があるとすれば、本当の意味で自分が幸せになる許可を、自分が出していないからです。自分を責めていたり、私なんか取るに足らない存在だと、どこかで価値を低くしてしまっていると、世界はその通りになります。価値のない(と思っている)自分に見合った状況が創造されていきます。

 

 

 自己価値を上げる方法は様々ですが、まずは取り掛かりとして、自分の気持ちに素直になることを何より優先させてやってみてください。自分が率直に感じていることを否定しない。責めない。どんな感情が湧いてきたとしても、それをそのまま認めて受け入れてあげる。どんな風に感じていようが、とにかく自分を否定しない。誰が何と言おうと、私は今、こう感じているのだから、そんな自分をまず受け入れてあげる。

 

 否定せずに、受け入れることで浄化が進みます。否定している間は、どす黒い膠着したエネルギーとして、悶々と抱え込むことになります。手放したかったら、認めて光を当てるしか方法はありません。それを繰り返していくうちに、自分を責めるパターンから少しずつ脱却していき、エネルギーフィールドがクリアーになっていきます。暗闇に光が差し込むと、暗闇が消えてなくなるように、負の感情を消すには、そこに光を注ぐことです。

 慣れてくれば、淡々とこの作業を行えるようになります。内面が浄化されていけば、自然と自己価値も高まり、自分という存在を大事に扱うようになっていくでしょう。

 

2018年

10月

23日

組織からの脱却

 子供の頃に読んだもので、魂の深い部分に響いた記憶がある本がいくつかあります。プロイスラーという人が書いた、『クラバート』という本がそのうちの1つです。私はこの本を確か小学校の高学年くらいの時に読んだ記憶があるのですが、読み終わった後になんともドシーンと残るものがあったのを覚えています。

 その時には、まだこの本の真のメッセージ(私の勝手な解釈かもしれませんが)に明確には気づいていなかったと思いますが、大人になってからこの本のことをふと思い出した時に、「あ、あの本は、支配からの脱却を示唆しているんだ」と感じました。

 大人が読んでも十分に心に響く内容なので、ご興味があればぜひ読んで頂きたいのですが、親方(水車小屋にいるが実は魔法使い)に弟子入りしたクラバートという少年が、親方の下で修業しているうちに、親方の裏の顔に気づき、ある時意を決してその呪縛から逃れる行動に出る・・といったお話です。私はなぜかこの本のことを、大人になってからジワジワと思い出すことが増えました。親方の下に導かれるようにして弟子入りをし、その後親方の本当の姿を知ることになって、不条理に従うことに違和感を覚え、そこから逃れることを考え始める。けれど、一度組み込まれてしまった支配構造から抜け出すのは、そう簡単なことではなかった・・

 最終的には、クラバートは恋人の少女の助けを借りて脱却を果たすのですが、この物語には、示唆的な出来事がたくさん散りばめられています。親方自身も、実は大親方に支配されていて逆らえない状況であること、盲目的に服従する弟子達の姿、逆らおうとしたが、やり方がまずくて身を危険にさらすことになった兄弟子、不安によって自由が奪われ、逃げるという発想すら湧かない異常心理状態など。現代社会においても、組織やグループの中では、こういうことって実はよく起こっているのではないかと思います。

 

 

 最近、娘の仲の良い友達や、知り合いのお子さんが、立て続けに中学校の部活を辞めるという出来事がありました。どちらも、言葉の暴力がひどく、生徒を威圧的に指導する顧問の先生に耐えられず、心が折れてしまったのが大きな理由でした。中学生にとって、所属している部活を辞めるというのは、本当に大きな大きな決断です。どんなにつらくても、なんとか踏ん張って最期までやりきるか、思い切って辞めてしまって自由になるか。きっといろいろな葛藤があったと思います。肉体的にも精神的にも苦痛を感じながら続けるのは本当につらいことですが、辞めたら辞めたで、周りの視線が気になるし、辞めた自分に対する罪悪感や、後悔の念が湧いてきたりと、どちらの決断をするにしても苦しむものです。

 

 けれど私は、自分を追い詰めて取り返しがつかない状況になるくらいなら、いっそのこと今いる環境から思い切って自分を解放してあげて、一度リセットしてもいいのではないかと思います。逃げ、というとなんだかずるいことをしているような響きがありますが、こういう状況では、逃げるというのは身を守るための1つの手段でもあります。逃げるというか、脱出、といった方がいいかもしれません。

 辞めたお子さんのお母さんは、「子供が逃げ癖がついてしまうのではないか」と心配をされていました。そう思う気持ちもわかります。けれど、自分が選んだ組織が、入ってみたら自分に全然合わないことが判明したり、実はとんでもない場所だったことに入ってから気づいたなんてことは、誰もが経験する類のものです。私もこれまでそんなことはたくさんありました・・

 そういう経験も、長い人生の中では数ある学びの1つとして、後々何かの役に立つのではないでしょうか。逃げとか失敗とかみるのではなくて、自分のことをより深く知るきっかけになった体験、今まで知らなかった世の中の現実を身をもって学んだ貴重な経験、ととらえれば良いのではないかと思います。一度こういう経験をすると(もしかしたら何度か同じパターンを繰り返してから気づくかもしれませんが)、自分というものがだんだんわかってきます。そして、世の中にはこういう人もいるのだなということも学び、身の処し方を学習します。

 この世は様々な波長の人が、ごっちゃまぜに存在しています。自分がどんな場所、どんな人と波長が合って、どんなことを本当はしたいと思っているのか。そういうことは、いろんな人と出会って、ウマが合ったり合わなかったりということを身をもって経験して、だんだんにわかっていくものです。それに、ある特定の人とはどうがんばっても波長が合わないということも、ごく自然に起こり得ることです。そういう人とはどういう距離感で付き合うのが良いのか、どうしたらお互いを傷つけずにうまくかわせるか、自分の中でどのように折り合いをつけていけば良いか、そういうことも、全て経験から学んでいくことです。

 

 中学生の部活は、根性論がまだまだ支配的なんだなと感じることが多いです。何十年も昔と変わっていないことが驚きです。でも、世の中や人々の意識は変化していっています。今の中学生も、私達が中学生だった頃とはだいぶ違う部分があります。繊細で、大人より物事をわかっているなと感じる子も多いです。そういう子は、普通に話せばちゃんと理解できるし、大人のことを冷静に見ているので、幼稚な振る舞いには拒否反応を起こします。それなのに、親や先生世代が昔の気質をそのまま引きずり、怒鳴ったり威圧したりすることがマイナスにしかならない子供にまでスポコン指導で接しているのを見ると、空回りしているのがどうしてわからないのだろうかと虚しくなりますし、羽をむしられている子供が気の毒になります。

 もちろん、昔ながらのスポ根気質にぴったりはまる人はそれで良いのかもしれませんが、違うなと感じる人まで、無理して自分を合わせる必要は1mmもないと思います。そんな環境に身を置いて、精神を蝕み、生きる気力までも失われるくらいなら、絶対に絶対に逃げた方が良いです。所属しているグループから出るというのは、本当にエネルギーが必要なことで、勇気と決断と相当な意思力もいります。誰か支えてくれる人がいると心強いです。自分を自由にしてあげた勇気をむしろ褒めてくれる大人がいれば、罪悪感を感じずに済むかもしれません。

 

 今の中学生に、不登校が増えているのも、世の中に対するメッセージなのではないかと感じています。昔から変わらない、同じやり方で、子供達を一緒くたに教育するやり方に、ひずみが出てきているのではないのかなと思います。

 合う子もいるかもしれないけれど、合わない子もいる。合わない子がはじかれてしまい、不必要な劣等感や自己嫌悪を抱くことがないように、個性が大事にされ、子供の選択を大人がサポートしてあげられるような環境が整っていけばいいなと思います。

 今の教育制度が悪いとか、そういう風には思いません。例えば我が家の子供達は、かつての私と違って学校が好きで、生き生きと通っています。親としても、本当に学校ってありがたい、日本の教育は素晴らしいと思うことがたくさんあります。けれど、学校という組織に馴染まない子供がいることも事実ですし、そういうお子さん達が辛い思いをしているのを見ると、私も辛くなります。

 私は今年PTAをしているので、時々子供の学校に行くのですが、自習室という教室の前を通ると、必ず毎回、数人のお子さん達がいます。教室に入ることができずに、一日を自習室で過ごすのです。私自身も、学校が好きではなかったので、教室に行くのに勇気がいる気持ちがわかります。中には、自習室にさえ行けずに、ずっと家にいるお子さんもいます。私は、そういう子達に、本当は声をかけて励ましてあげたいのですが、そんな立場ではないしきっと望まれてもいないので、ただ心の中でエールを送って通り過ぎるだけです。

 学校という組織や、今の教育制度が、どうしても合わない人がいるのも、自然なことだと思うのです。学校や今の教育制度を糾弾するつもりはなく、むしろありがたいと思っているのですが、合わない子に対する救済制度が、もっと充実したら良いなと思います。合わないということは、自然の摂理として起こっていることで、怠惰でも罪でもありません。努力したけれどダメだったことなど、誰にでも経験があると思います。自分に嘘をついてまで、何かに無理やり合わせることは本当に苦痛です。逃げ道は、用意されているものだと思います。罪悪感を感じずに、勇気をもってそちらに踏み出してみたら、案外すんなり進めたりするかもしれません。

 

2018年

10月

22日

理想の指導者

 自分自身や、自分の内なる声に対する信頼感が低かった時。私にとって理想の”先生”は、私がどのような道を進むべきか、アグレッシブに助言をしてくれるタイプの人でした。あなたはこういう人なんだから、こういう事をした方が良い。あなたの使命は○○なのだから、この道に進みなさい。こういう方法でやりなさい。そんな風に、具体的にハッキリと、道を示してくれるような人に惹かれていました。そして、その先生の下で、その先生の助言に従い、その先生のやり方を踏襲することで安心感と自信を得ていました。

 今振り返ってみれば、自分自身で考え、道を切り開いていく勇気がなかったのだと思います。誰かに依存することで、安心とそこそこの成功は約束されていたかもしれないけれど、その分自由と個性と成長は制限されていました。力を持つ人の門下に入れば、その知名度や影響力の恩恵を受けて、自分もある程度活躍の場が持てたりします。けれどその分、師匠に対する絶対服従は逃れられないし(意見をするなどもってのほか)、決められたやり方から外れるようなことができないので、次第に窮屈さを感じるようになるのです。また、自力で考えたり、大きな挑戦をすることがない状況というのは、失敗がない分、学びも少ないです。安定と安心が一番だと考える人もいるのかもしれませんが、私には、自由と変化が限られた環境は耐えられませんでした。

 

 

 今の私が感じる理想の指導者は、決して自分のやり方や考えを押し付けないタイプの人です。相手の成長と幸せを心から望むのであれば、自分に服従させることではなく、その人が個性と能力を最大限に花開かせられるような、自由な環境を与えるはずです。適度に助言を与えつつ、最終的にはその人が自立できる道へと導いてあげるのが、真の指導者だと思います。

 誰もが、本当は自分の望みが何なのか、心の底では知っています。悩んだ時、迷った時も、本当は、答えはその人の中にあります。誰かに教えてもらう必要はないのです。指導者ができることというのは、テクニカルなコツを教えてあげること、希望を持たせてあげること、励まし背中を押してあげること、そして最後に手を放してあげること。そんなものではないかと思います。

 

 自由ほど尊いものはないし、その自由を相手に与えられるかどうかは、その人の魂の成長レベルと心の広さにかかっているように思います。賞賛と金銭に目がくらみ、自分を頂点としたヒエラルキーを造り上げることに執心している指導者は、欲とエゴに憑りつかれています。与えられた力をどのように使うかが、人間として試されている部分かと思います。

 

 

 

2018年

10月

19日

知ることの大切さ

 これまで、「サイコパス」と「ナルシスト」について書いてきましたが、それぞれ程度の差や性格的な特徴などは個人差があります。また、サイコパスなどは先天的な要因も大きいですが、育った環境によっては、上手く社会に適応できている場合もありますし、表に出ている状態は様々かと思います。

 

 また、サイコパスと一見誤解されてしまいそうなタイプとして、アスペルガー症候群等があります。アスペルガーの方は、一般に共感能力が低く、コミュニケーションが苦手であるといわれますが、良心が欠如しているわけではありません。生まれつき良心を持たないサイコパスとは、そこが大きく違います。

 

 

 私がこのブログでこういったお話をするには、理由があります。それは、知るということは、受け入れることにつながるからです。それから、相手を知れば、自分がどのように振る舞えば良いのか、どのような関係でいることが賢い選択なのか、判断がしやすくなります。最近、サイコパスやソシオパス、発達障害といった心理学用語が、広く認知されるようになってきました。大人になってから、自分が発達障害であったことに気づき、それまで自分でも不可解だった自分自身への理解が深まった、という方もいます。また、家族やパートナー、親しく接している人がそういうタイプだったことを知り、それまで理解することができずに苦しんでいたけれど、適切な接し方がわかって関係性が良くなった、というケースもたくさんあります。

 

 

 このブログを読んでくださっている方は、繊細で気持ちが優しく、エネルギーに敏感なタイプが多いかと思います。そういう方というのは、サイコパスやナルシストのような強いエネルギーを放つ人を目の前にした時、よほど自分の軸を保っていないと、簡単にエネルギーを持っていかれる危険性があります。相手の強い渦に巻き込まれないためにも、まずは「知る」ということが大事かと思います。世の中には、自分の欲望を満たす為に他人を平気で利用する人が存在すること、そしてそういう人は、簡単に騙されてしまう心優しい、少し自分に自信がない人達を終始ハンティングしている(自分になびかせる術を心得ている)こと、一度餌食になるとなかなかマインドコントロールから抜け出せなくなること。

 少なくとも、知識があれば、いざそんな人が現れたとしても、自分の中で危険信号が灯り、”危ないよ。距離を置いた方がいい”と内なる声が教えてくれるかもしれません。

 

 あとはやはり、自分軸をしっかり保つ努力はした方が良いと思います。私もそうでしたが、自分の中で確たる自信が定まっていないと、誰か強い人に導いてもらいたい、という気持ちを抱きがちですし、そうした方が楽だったりもします。誰かが言うことに無条件に従っていればいい状態というのは、あれこれ考えたり悩んだりする必要がないし、心強かったりもします。けれど、自分を抜きにして他者に合わせ続けていると、必ずどこかで違和感を感じることが出てきますし、成長も限定的なものになってしまいます。自由と飛躍を心から望んでいるのであれば、誰かの言うことを聞いていさえすればいい、誰かのマネをしていればいい、という制限された環境は、いずれ窮屈に感じるようになっていきます。

 何かを学ぶ時、先生や師匠の下で学ぶことはもちろん有意義なことかもしれませんが、自分を全て明け渡す必要はありません。そもそも、本物の”先生”であれば、決して弟子を自分の思うように利用するようなことはしないはずです。一見、いかにも弟子のことを最優先に考えているように見せていても、実は自分が神のように崇められることで優越感に浸っている人もいます。そういう人は、いつかどこかでボロが出ます。見抜く目を持っていれば、しばらく一緒に過ごせば気づくはずです。

 

 習っていた先生が、弟子達の崇拝を受けるうちに、気分が良くなり、どんどんエゴが肥大化していく様を目の当たりにしたこともあります。人に何かを教える立場の人というのは、よくよく気を付けなければ、いとも簡単に蛇の道に転げ落ちる危険性があります。

 

 

 自分が騙す方にも騙される方にもならないように、人とは適切な距離を保って接する。どうにもならない状況からは、潔く身を引く。どうにもならない人とは、縁を切る(同情心からずるずる付き合っても、双方の為にならない)。相手を変えようとしない。責めるのではなく、理解しようと努める。どうしても逃れられない状況であれば、ポリティカリーコレクトなやり方で、主張や抗議をする。相手が抱えている問題は、相手のもの。そこに自分が絡んでいたとしても、それは相手の問題なので、個人的に受け取らない。自分は自分の問題だけにフォーカスしていればよい。

 

 現実世界を上手に乗り切るために、こんな感覚で人との関係性をとらえるようにしています。

 

 

2018年

10月

16日

ナルシスト

 前回のブログでは、サイコパスについて紹介しました。サイコパスに一見似ているタイプとして、「ナルシスト」があります。サイコパスと共通しているところは、

 

●自己中心的で、自尊心が強い

●自分の欲求を満たすことに労力を惜しまない

 

 あたりかと思われます。サイコパスと違うのは、ナルシストタイプは感情が人並みにあり、良心も持ち合わせていることです。後悔や葛藤を感じ、内面的には実は苦しんでいる所がサイコパスと大きく異なります。また、サイコパスが自分の目的を達成するために手段を選ばないのに対し、ナルシストはある程度常識の範囲内で行動します。自分がかわいいので、批判されたり世間からブロックされることは根本的に恐れています。ただし、自分がかわいい余り周囲が見えなくなっていることもあるので、普通の感覚では考えられないような、突拍子もない言動をとることも時々見受けられるかもしれません。これは、人を傷つけるのが平気なわけではなくて(サイコパスはここが平気)、気づいていないか、見えていないだけです。

 

 ナルシストタイプの人は、人生のどこかの時期において、自尊心を傷つけられたり、自信を失うような経験をしています。と同時に、心の中で「自分は本当はこんな扱いを受ける人間じゃない。自分の人生はこんなことで終わるはずがない」という思いを抱いています。傷ついたプライドと、肥大化したプライドが共存している状態です。そして、再び人生のどこかの段階で、自分のプライドを奪回させられるようなチャンスに出会った時、それまで眠っていた、”自分をもっと認めてほしい”欲求が爆発するのです。

 

 ナルシストが持つ自信には、傍から見ると根拠がないものがほとんどです。一体なぜこの人は、こんなに自分に自信をもっているのか、一体何がすごいのか、他人からしてみれば「さほど大したことない」程度のことであっても、ナルシストはその空虚な自信を生きるよすがにしています。また、容姿はそこそこだったり、良くても人並みより少し上くらいであることが多いのですが、ナルシストは、自分は容姿が大きな武器で、この上なく魅力的であるという幻想に浸っています。

 その他の能力も、ずば抜けて優れていることは稀で、大概メインストリームで活躍していることはありません。ナルシストは基本的に謙虚さが足りないので、さほど努力をせず、自分を客観的に分析する能力もないので、実力も名声もある程度のレベルまでしかいかないものです。

 華やかな世界や、人の上に立つポジションに憧れるので、講師業やインストラクター、タレント(二流以下の)、ヒーラーもどき、飲食業、などによく見受けられます。またヒモやヒモ的な生活を送っている人にも、このタイプが多いようです。いつまでも非現実的な夢を追い続け、自力で生活ができていないのに、「自分はこんなもんじゃない」と言い続けたり、実現不可能な将来設計をとうとうと語るような人です。

 

 ナルシストは、冷静な目で見れば、自分が見えていない、エゴが肥大化した虚しい人物なのですが、どういうわけかその空虚な自信に惹かれ、吸い寄せられるように近づいてしまう人がいるのも事実です。かくいう私も、過去何回か、ナルシストタイプの”先生”にエネルギーを吸い取られた経験があります。

 

 ナルシストに引っかかってしまうタイプにも、特徴があるように思います。

 

●優しい

●エネルギーに敏感(憑依体質)

●人が言うことをすぐに信じてしまう

●自分や自分の考えに自信がない

●人に尽くすことで充足感、あるいは安心感を得られる

●向上心はあるのだけれど、1人で切り開いていく勇気がない

●誰か強い人についていけば、自分の人生が好転するだろうと期待している

●判断を他人に委ねがち。または、他人に決めてもらわないと行動できない

 

 このようなところでしょうか。ナルシストは、自信がなく、共依存体質で、誰かに自分を認めてもらいたがっている人を見つけると、甘い言葉や時には強い言葉を使って、巧みに自分サイドに引き込もうとします。一方で、どういうタイプなら騙せるかということに関しては勘が鋭く働くので、騙せないタイプと知ると、サッと手を引きます。

 

 ナルシストが苦手なタイプは、自信があり、現実的で、自分の考えをしっかり持っている、軸が定まった人です。そういう人には、自分の弱さや足りない部分を見破られることを知っており、どこかで恐れているのでしょう。

 ですから、ナルシストにうっかりハマらないためには、自分がそのような人物になれば良いわけです。

 

 私が過去に、ナルシストから自分を解放できたのも、自分の「軸」がだいぶ固まってきた頃でした。そして、ナルシスト先生の矛盾に気づき始め、次第に違和感を覚えるようになっていったのです。ナルシストは、常に自分が一番でいたいので、弟子が自分より秀でたり、自分よりちやほやされるような状況は決して認めたがりません。指導を受けながら、そこはずっと牽制されているのを感じていました。要所要所で、聞いてもいない過去の自慢話をふってきたり、「あなたは私の下」というニュアンスの言葉を使ってきました。そして、私が先生の矛盾しているセリフを指摘した際、それまで見たこともない程動揺し、赤面して早口で言い訳をまくしたてました。それは支離滅裂で、論点も定まらない、まるで子供のような言い訳でした。ナルシストがボロを見せる時というのは、人物が違っても、おかしいくらい似ていました。

 

 私はこういうレッスンを何度か経験して、ようやく自分の弱さと、真の意味で自信を持つということの大切さを学びました。それから、人を見る目も養われました。今では、なぜか自信たっぷりな人を見かけても動揺することはありません。本当に自信がある人は、決してそれを表に出そうとしないことを知っているからです。そして、魂が磨かれていけばいくほど、人は謙虚になります。自分をよく見せようとしていたり、プライドや威圧感が前面に出ているということは、その人がまだ未熟で、心が満たされていないという証拠です。

 

 私は決して、ナルシストを責めるつもりはありません。その人なりの苦しみや悲しみがあることも知りました。彼らも、何かを学んでいる最中なのでしょう。ただ、私はもう、そういう人とは距離を置き、できるだけ関わらないようにしています。

 過去にそういった人と関わった自分を責めた時期もありまし、仕返しをしたいくらいの怒りを抱いていたこともありましたが、今ではどの経験も大切なレッスンだったと思えるようになりました。あの経験がなかったら、またどこかで同じような人といびつな関係性で繋がってしまっていたかもしれません。人を頼り過ぎず、内なる声を信頼しさえすれば、何も怖くないのだということも、紆余曲折を経てきたからこそ、たどり着いた答えです。

 

 もし、そういう人と出会ったことがあったり、今現在関わっている方がいたら、私が経験から学んだことが少しでも気づきの助けとなれば幸いです。

 

 

2018年

10月

15日

サイコパス

 「サイコパス」。割と最近、耳にすることが増えてきた言葉かもしれません。

 

 サイコパスというのは、心理学用語で、ある特定の人格的特徴を持った人のことを言います。サイコパスの特徴としては、

 

●良心がない(先天的に欠如している)

●感情が薄い

●罪悪感や後悔の念を持たない

●自己中心的で、他人に同情することがない

●自分を守るためや、自分の利益を優先させるために、平気で嘘をついたり、人を騙したり傷つけたりする

●自尊心が高く、自分をよく見せるために手段を選ばない

●失敗したり責められても反省することがなく、平然と同じ行動をとり続ける

 

 といったようなことが挙げられます。脳の作りが普通の人とは異なるという、身体的な特徴も最近ではわかってきています。つまり、サイコパスというのは生まれながらにしてサイコパスなのであって、環境や教育次第でサイコパスを変えられるというものではないのです。社会の中に一定数(欧米では3~4%等といわれる)存在しているといわれ、私達の身近にも普通にいると考えられます。おそらく、どの人でも過去に一度や二度、サイコパスとは絡んだことがある(もしくは今現在関わっている)のではないでしょうか。

 

 サイコパスの人の中には、IQが高く、教師や弁護士、医者といった専門職に就いている人もいれば、社長やカリスマ経営者のような立場にいる人もたくさんいます。感情に動かされることなく、瞬時に冷静な判断がくだせるので、人を束ねたり、リーダーとなるのが得意な面もあるのです。また、サイコパスは比較的容姿に優れ、口達者で人を引き付ける魅力を持ち合わせている人が多かったりします。そういった人が悪の道に暴走してしまうと、カルト宗教のグルや、独裁者、凶悪犯罪者、詐欺師といった存在になりがちです。人を傷つけることを厭わず、他人は全員自分の駒としか見ていないので、どれだけの人が苦しもうが、どれだけの人に恨まれようが、自分が気持ちよければ、自分が得をすれば、それで全てOKなのがサイコパスの特徴です。

 また、サイコパスは決して自分を顧みたり反省することがないので、たとえ自分のとった行動が多くの人に批判され、普通の人なら立ち上がれないくらいの手ひどいバッシングを受けたとしても、驚くほど平然とまた社会に舞い戻ってきます。サイコパスには、そうした手打ちは全く意味をなしません。カエルの面に・・というくらい、世間からの叱責など気にも留めていないのです。おそらく、死ぬまでそれは変わりません。

 

 ここまで書いて、「あー、いるいるこういう人」と、何人かの有名人の顔が浮かんだかもしれません。しかし、サイコパスというのは、必ずしも社会の中で派手な地位に就いている人ばかりではありません。私達が日常的に接している人の中にも、十分サイコパスが紛れ込んでいる可能性はあります。私自身も、これまでに出会った人を振り返ってみると、幼少時から含め、数人思い当たります。

 こちらの良心を無残に裏切られ、びっくりするような仕打ちを受けたことが何回かあります。その時は、サイコパスという言葉も存在も知らなかったため、ただただ悲しく、ショックを受け、落ち込んだものです。そしてその後、どうしてあんな人を信じてしまったのだろうかと、自分を責めました。世の中には、このように平気で嘘をつき、人を騙し、そして全く罪悪感を抱くことのない人がいるのだ、と知りました。

 

 気持ちが優しく、奉仕の精神にあふれている人は、サイコパスの餌食になりやすいので、要注意です。

 

 サイコパスの人は、誰にも救えません。生まれてから死ぬまで変わらないのです。助けてあげたいとか、教えてあげたいとか、変えてあげたい等と思わない方が良いです。自分が消耗します。もしサイコパスと思われる人と関わっていたら、とにかく距離を置くこと。極力関わらないのが得策です。

 サイコパスの人は、人の感情は”理解”することはできませんが、知識や経験として”知る”ことはできるようです。例えば、怒りや悲しみを抱いている人がいたとしたら、一般的な場合、その感情を自分も同じように感じ、同情したりします。ところがサイコパスは、感情そのものを自分が感じることがほとんどありませんから、同じように”感じる”ことはできません。その代わり、「こういうことを言ったら人は”怒る”のだな」とか、「こういうことが起こると、人は”悲しむ”のだな」といったように、知識として感情を”知る”のです。そして、自分を優位に立たせるために、今度はその感情を上手く利用するようになっていきます。

 感情に自分が動かされることがありませんから、人が感情で動くということを経験で知った後は、とても冷静に、そして狡猾に、感情で人をコントロールしたり、打ちのめしたりして、自分の都合の良いように他人を操ろうとします。時には、涙を流したり、感動しているふりをしたりして、他人の同情を誘ったりもします。それは、「涙を流すと人は優しくしてくれる」「感動した様子を見せると、自分の味方になってくれる」という知識を上手く利用しているだけで、本当に悲しかったり感動しているわけではありません。

 

 気持ちが優しい人は、サイコパスのそういった狡猾さを、見抜く目を持ってください。残念な事実かもしれませんが、この世の中は、良心のかけらを持たない、こうした人が一定数存在しているのです。自分を守るために、そうした人から距離を置いてください。

 

 スピリチュアルな団体のグルを名乗っている人や、自己啓発系のセミナーを開いている人の中にも、サイコパスは潜んでいます。彼ら・彼女らは、気が弱く、自分に自信がなく、でも何か変わりたいと思っている人を利用するのが得意です。ある特定の手法を使って、耳に聞こえの良い言葉を使い、自分についてくれば幸せになれるよ、人生が好転するよ、お金持ちになれるよ、と上手に誘導していきます。または、敢えて恐怖心を煽るような脅しをかけてくることもあります。恐れが人を操る最も簡単なツールであることを知っているのです。自分に自信がない人は不安をたくさん抱えているものなので、そこを上手く利用しているのでしょう。そしてそういう人は、堂々とした振る舞いやカリスマに弱いということも知っていますので、自分を神のように見せたり、見た目や雰囲気を作ることに労力を使います。

 

 もし騙されたり、一時でもついていってしまった経験がある方も、どうぞご自分を責めないでください。人は経験しなければ本当の意味で学ぶことはできません。人生で起こるどんな出来事も、自分にとっては貴重なレッスンであり、成長のために必要なステップだったはずです。その経験を活かし、これからの人生と、社会に役立てていきましょう。

 

 それから最後に、サイコパスに一度でも痛い目にあわされたことがある経験がある方は、どうしてもゆるせない、という怒りの感情が湧いてくるかと思います。けれど、怒りは自分の意識を汚します。一銭の得にもなりません。サイコパスはサイコパスで、何らかの役割があってこの世に存在しています。彼ら・彼女らの存在を否定するのではなく、葛藤はあるかもしれませんが、存在自体は受け入れるようにしましょう。罪を憎んで人を憎まず。自分の受けた傷は自分で癒し、他人を恨まないようにしましょう。

 

 

2018年

10月

09日

勉強と読書にお勧めのエッセンス

 写真は、アラスカンの「イージーラーニング(Easy Learning)」というエッセンスです。

 

 私はいつも、読書をする前や、パソコン等で細かい作業をする前にこのエッセンスを飲みます。意識がクリアーになり、明晰さが得られるので、とても集中できるのです。気が散乱していたり、頭の中が落ち着かない状態だと、いざ集中したくてもなかなか難しいものです。けれどこのエッセンスを飲むと、不思議なことにスーッと気が一点に集中して、他の事に惑わされることなく、黙々と作業が進みます。集中し過ぎて、時間が経ったことにもすっかり気が付かず、いつの間にか外が暗くなっていた、ということもよくあります。

 

 このエッセンスは勉強にも大変お勧めです。我が家でも、娘の試験が近づくと、愛用のマグカップにお茶を淹れ、そこに数滴「イージーラーニング」を垂らします。集中力が高まるようで、他のことにあれこれ意識が向かず、”ゾーンに入った”ような状態になっているように見えます。

 

 

 気持ちがあちこちに飛んでしまい、”今”自分が何をしたら良いのか、頭の整理がつかない時などに飲むのも良いです。頭がクリアーになり、目の前にある、なすべきことに意識を集中させることができます。学習障害を持つお子さんにもお勧め、とエッセンスの説明にはあります。

 

 

2018年

10月

01日

念エネルギーの影響を受けないために

 私達人間は、社会的な生き物です。たった1人では生きていくことができず、生まれてからこの世を去る時まで、様々な人との関わりの中で生きています。何らかの形で関わりを持っている人とは、エネルギー的にも繋がりができているものです。見えないパイプの太さは様々ですが、一般的に、肉親や親しい関係性、もしくは会う頻度が高い人程、エネルギー的な繋がりも強くなりがちです。

 

 エネルギーに敏感な方は、自分のエネルギーフィールドに異質なものが入ってきた時や、誰とどのようなエネルギー的な繋がりができているかなど、普段から自然に感じることができているかと思います。何となくこの場所は良い感じがしないな、と最初に感じた場所でしばらく過ごしたりすると、体が重たく感じたり、頭痛がしたり、気分が悪くなったりすることはないでしょうか。また、とてもネガティブなエネルギーを発している人の近くにいった時、刺すようなマイナスエネルギーの刺激を”感じた”経験はないでしょうか。

 

 エネルギーの世界では、物理的に接触を持つことをせずとも、想念を飛ばしたり、サイキックな技術を使って相手のエネルギーフィールドをかき回すようなこともできてしまいます。良識的に考えて、他者を傷つけるようなエネルギーの使い方をするのはご法度なはずですが、この世にはそのような形で他人をエネルギー的にコントロールしようとする人が存在しているのも事実です。

 意識的に他人のエネルギーフィールドに侵入するようなサイキック能力を持たずとも、無意識的に念を飛ばしたりして、相手といびつな形で繋がってしまうこともあります。自分が加害者となる場合もありますし、被害にあうこともあるでしょう。

 

 少しおどろおどろしい話になりますが、この世にもういない人の想念が、特定の物や場所に宿っていることもあります。

 

 私達は見える世界と同時に、見えない世界の中にも存在しているので、できれば定期的に、自分のエネルギーフィールドをお掃除するのがお勧めです。様々な方法があるかと思いますが、私はやはり普段からフラワーエッセンスやアンジェリックエッセンスのお世話になることが多いです。

 特に、人の想念を取り除く力が強いと感じるのが、アンジェリックの『Shamanic Extraction』です。これを飲んでいると、普段から様々な場所で様々な人と関わりを持っていて、特定の人の念エネルギーがやってくることがあっても、それをはじき返してくれているのがわかります。

 これと一緒に、『Archangel Michael』や『Courage』を飲んでいれば、周囲の目や、誰かの思いに必要以上に振り回されることなく、自分の意思を貫きやすくなります。

 

 フラワーエッセンスが手元になかったら、一日の終わりに粗塩を入れたお風呂にゆっくりと浸かるだけでも、ネガティブなエネルギーはかなり出ていってくれます。また、瞑想をすると、自分のエネルギーフィールドがみえやすくなるので、自分が誰とどのようなパイプで繋がっているかなどを感じる事ができます。

 もし、誰か特定の人といびつな形で繋がってしまっていると感じ、その鎖を断ち切りたいと望むのであれば、やはり一番効果的なのは、その人と物理的な距離を置くことです。とにかく会わない。関わらない。電話やメールも、念が飛んでくるのでやめた方が良いです。エネルギー的に太いパイプで繋がっていると、離れた方が良くても、なぜか「離れる」という発想が湧かないことが多いので、ここは強い意志が必要です。実は、その人と離れる方法は存在しているのに、自分の顕在意識や恐れが、それはできない、と解釈してしまっているのです。いわゆる洗脳されている時というのは、そういう状態かと思います。

 

 私は、フラワーエッセンスの助けを借りたり、瞑想をするようになってから、必要以上に他人に振り回されることなく、本当の自分にとって望ましい選択は何なのか、だいぶ冷静に分析して判断できるようになってきました。誰かに依存したり、依存されたりすることは、本当は不自然な状態で、自分の意思で自由に選択できる状態が一番自然な形です。そのように自分の意思で選択していけば、スムーズに道が拓かれていきますし、自由でいることが、その人の能力を最大に開花させる条件でもあります。

 

2018年

9月

27日

親の器

 子供がまだ幼い頃、中学生や高校生くらいの大きなお子さんを持つお母さん達を見ると、

 

「あんなに大きくなったら、さぞかし手がかからなくて楽なんだろうなあ」

 

 と思っていました。そして実際、「お子さんが大きいと、手がかからくなって楽になりますか」と質問したりしていました。すると、大体似たような返事が返ってきたものです。

 

「物理的な世話は減るけど、精神的な負担が増える」

 

・・・自分の子供が思春期に入った今、その時のお母さん達の気持ちがとてもよくわかります。確かに、自分のことは大体自分でできるようになったので、母親としての物理的なお世話といえば、ご飯を作ることと洗濯をすることくらいで、小さかった頃に比べればものすごく負担は減っています。けれど、子供はもう、幼い頃のような能天気な世界にはいません。成長と共に、周囲のお友達や先生との関係、学校生活の中で出てくる問題、自分の将来に関する悩みなど、何かと心が揺さぶられる経験が増えてきます。そして、その都度こちらも心配し、気にかけ、親として何ができるかを考え、そして実行して(反発も受ける)・・と、小さい頃にはなかった心理的負担が生じるのです。

 人生で最も不安定な時期を過ごしている子供を受け止めるために、親としてドーンと構えていなければならないのだけれど、かといってこちらも親としては初めての経験なので、常に「これでいいのだろうか」「もしかしたら自分はものすごい間違いを犯しているのではないだろうか」といった疑問も拭えない状態です。

 

 それに、自分が子供だった頃と比べて、世の中も人の意識も、だいぶ変わっています。だから、かつて自分がこうだったからとか、普通はこういうものだからといった因習や常識も、今の時代や今の子供達には、あまり当てはまらないと感じています。子供自身が、そういう古い考えや決まりきったやり方の押しつけを嫌いますし、無理矢理大人のいうことをきかせようとしても、反発したりおかしくなったりして、うまく回らないことが多いです。

 

 最近、スポーツの世界でも、子供自身がとても生き生きと動いており、そして従来考えられなかったような素晴らしい成績を収めているチームを見ていると、束ねている監督さんが、子供の自主性を大事にして、あまり自分の考えを押し付けないようにされているのがわかります。そういう監督さんは、子供がどのような環境で潜在能力が開花するかをちゃんと理解されていて、その能力をつぶすことなく、いかに伸び伸びと実力を発揮できるかということに気を配っているようにみえます。子供自身が、それぞれ自分の考えを持ち、どのようにしていくのが良いかを本当は「知っている」のだと気づいているのだと思います。だから、大人が必要以上に口出しをしたり、子供の考えを押しつぶすような雰囲気を作らないように気を付けているのでしょう。

 

 ただし、いくら自分の意思をもつ子供であっても、ほったらかしにされたり、何をやっても許されるような環境に放り込まれたら、やる気も湧かないでしょうし、無秩序の中で混乱が起こります。ある程度の規律と、愛に基づいた叱咤激励は、子供が奮起したり頑張ろうという気持ちになるためには、必要不可欠なのかなと思います。根底では子供の能力を信頼して、大人が出過ぎることなく、伸び伸びとできる環境を作ってやりつつ、同時に適度な規律と緊張も持たせる。そういう匙加減が上手にできるような大人にならなければいけないと思っていますし、できればそういう大人が増えてほしいなとも思います。

 今はまだ、子供達を指導する立場にいる大人の中にも、昔ながらの一方的な教え方で、子供を威圧して恐怖心で抑え込もうとするようなタイプの方がたくさんいます。そういう関わり方をしている大人は、まず本当の意味で子供の心を掴むことができていないので、ある程度の所までは成績を伸ばすことができるかもしれませんが、限界があると思います。子供は委縮してしまうと、本来の力を最大限に発揮することができません。

 

 自分の子供が関わっている先生にこういうタイプがいると、自ら子供の才能をつぶしてしまっていることに気づかないのだろうかと、不思議に思い、教えてあげたくなってしまいます。けれど、親としてできることにも限界があります。相手を変えることはできないし、状況を全て変えることもできません。できる範囲で、できることをするしかないのです。

 子供がある程度大きくなってくると、そういう意味でも、親が口出し・手出しできる範囲がグンと小さくなってきます。自分の考えより、本人の選択と学びを尊重しなければいけない場面も増えてきます。人間として、精神的に鍛えられている時期なのだろうなと思います。

 

 

2018年

9月

21日

覚悟と勇気、そして忍耐

 うぶすなでは、お勧めのフラワーエッセンスをご紹介する際、バッチやパワーオブフラワー、オーストラリアンブッシュといった「お花」のバイブレーションが入っているフラワーエッセンスだけではなく、アンジェリックエッセンスも一緒にとることをお勧めすることが多いです。

 

 フラワーエッセンスには、ネガティブな感情や心の状態を和らげてくれる力があるので、一時的な感情の波が治まります。そうすると、物事を冷静な目で見ることができるようになり、目の前にある問題や現実に落ち着いて向き合えるようになります。今自分がどんな状態で、何が問題なのか、そして具体的に何をしたら良いのか、といった分析がしやすくなります。フラワーエッセンスを飲んだからといって、問題が消えてなくなるというわけではなく、問題に対処しやすくなる、という感じです。感情に支配されている状態では、問題を問題と認識することさえ難しいでしょう。フラワーエッセンスがもたらしてくれるのは、現実に向き合う力と、現実と上手に付き合っていく冷静さといえます。

 

 アンジェリックエッセンスは、フラワーエッセンスよりもバイブレーションが精妙で、人間の魂の領域に作用するといわれています。自分の身に降りかかってくる問題や悩みが、何かいつも似ているな、と感じるのであれば、それは魂のクセのようなものが引き寄せている可能性があります。もう解放されたと思っていたのに、再び似たような人と、似たような状況の下で、似たようなトラブルを抱えている・・そんなパターン化したサイクルから逃れられないような気がする時は、アンジェリックエッセンスを飲むことをお勧めします。自分の身に起こっている出来事の根本原因を、より深いレベルで癒すお手伝いをしてくれます。

 

 ただし、アンジェリックエッセンスを飲んだからといって、ただ何もしないうちに癒されたとか、気づいたら問題が解決していた、というようなことはまずないです(そうだったら楽でしょうけれど・・)。やはりそこにも、自分という存在に向き合う覚悟と、自分の内側を見つめる勇気が必要ですし、本来の自分に属さないものは徹底的に浄化し手放していくバイタリティ―も求められます。アンジェリックエッセンスを飲んでいると、自分の内側が見えやすくなります。明晰さが増し、気づきやすくなります。そして、もう手放したいと望んでいる場合、解放のプロセスをスムーズに導いてくれます。最短距離で導いてくれるようなイメージです。

 ですが、肝心の本人に、「変わりたい」「変わろう」という心構えができていない限り、いくらアンジェリックエッセンスを飲んだ所で、ほとんど変わらないか、表面的な変化が起こるにとどまります。

 

 あくまでエッセンスというのは(フラワーにせよアンジェリックにせよ)、準備ができた人のお手伝いをしてくれるものであって、大元にあるのは、その人の意思と決意なのだなと思います。

 

 人間の意識が変わっていく過程では、現象としても、様々な出来事が起こりやすくなります。そんな時、起こっている出来事に気持ちがゆすぶられたり、急な展開に圧倒されてしまったりと、心が動揺することも増えるでしょう。また、封印していた過去の記憶がパカッと蓋を開けたように出てきたりして、過去に受けた心の傷が再び痛みだすこともあるかもしれません。

 

 どうして今なのだろう、どうして私は今こんなに苦しまなくてはいけないのだろう。見たくないものは見ないまま、やり過ごすことはできないのだろうか。ずっと忘れていることはできないのだろうか。

 

 そんな風に思うかもしれません。辛くて逃げたくなるかもしれません。けれど、一度意識の覚醒が始まると、後にはもう戻れないものです。個人の力ではどうしようもない大きなうねりの中に、今私たちはいます。

 

 じゃあどうしたら楽になれるのだろうかというと、それはもう、「逃げないこと」。これしかありません。自分の元にやってきた大きな流れに逆らうのではなく、受け入れる。自分の内側からあふれ出てくる感情にも抵抗せず、出るがままに任せる。抵抗すれば、ますます大きくなるものです。拒むのではなく受け入れる。今目の前にある問題から目を逸らさずに、落ち着いて向き合う。そして、問題に向き合うと同時に、その問題を引き起こしている自分の内側も見つめてみる。この、内側を見つめる作業をしないうちは、いくら表面的に物事に対処していった所で、似たような問題が繰り返し起こることになります。

 

 現実的な問題に向き合いつつ、自分の内面にある闇や傷にも向き合い、癒し、浄化していく。このプロセスを、ただひたすら、淡々とこなしていく。求められるのは、勇気と忍耐です。

 

 意識の覚醒の途中でつらくなってしまったためか、フワフワした幻想の世界に逃げてしまって戻ってこられなくなっている方達もいますが、それはただの現実逃避といえます。いずれ現実に引き戻される時がやってくることでしょう。覚醒の道は孤独で地道な作業であり、夢見心地の空想世界で遊ぶ類のものではありません。

 

 己に向き合い、己の小ささを知り、謙虚に学ぶ。この姿勢を大切に、脇道にそれないように気を付けていきたいものです。

 

2018年

9月

04日

愛VS恐れと我欲

 ここ最近、世の中の動きを観察していると、以前にも増して、不正やごまかしなど、今まで埋もれていた隠し事が表面に出てくる事例が立て続けに起こっていると感じます。地球全体のエネルギー(波動)が上がってきているので、愛と対局にある、恐れや我欲に基づいた人々の動きがどんどん表面化し、禊が行われているようです。浄化のために、自然とあぶり出されてきているのでしょう。

 この傾向は、この先ますます大きくなると思われます。そういう流れのようです。

 

 これは、世の中全体の動きだけではなく、個人的な出来事としても起こっています。今まで自分の奥底にしまい込まれていた、恐れや不安、怒り、悲しみなどが、パカッと蓋が空いたかのように表に出てきている方が増えています。それは全て浄化のために出てきていることなので、これを機にしっかりと向き合い、自分を癒し、解放していくのが良いかと思います。一度そうなったら、もう元には戻れない(”気づかなかった”ことにはできない)ので、再び無理やり封印しようとしても、ものすごい抵抗が戻ってくるだけです。

 こうなった時に、自分の中から湧き出てくる諸々の感情を他人にぶつけようとしても、うまくいかないどころか、出したエネルギーが自分に戻ってくるだけなので、お勧めしません。「こうなったのは〇〇のせい」と、起こった出来事を自分以外の誰かのせいや、環境のせいにしたところで、本当の癒しは起こりません。一方で、もう自分に嘘をついて生きていくのはやめようと腹をくくり、今まで見ないようにしていた心の内面にきちんと向き合う勇気が持てた人には、見える世界&見えない世界からの強力な応援やサポートもやってきます。

 

 何かを始めようとする時、何かを決断する時にも、それが愛に基づいた選択であれば、たくさんのサポートがやってきて、まるで波に乗るかのようにスムーズに事が進んでいく、ということが起こりやすくなっています。反対に、恐れや我欲に基づいた選択であれば、上手くいかなかったり、妨害が入ったり、どんどん空回りして前に進めない状態が続いたり、場合によってはこっぴどいお仕置きが待っていたり、という状況が起こりがちです。このことは、何となく自覚されている方も多いのではないかと思います。

 私自身も、特に最近、このような「愛VS恐れ・我欲」の構造を目の当たりにする出来事が増えていて、結局根底に愛さえあれば、何も怖くないんだなという確信に至っています。例えば最近の例で言うと、娘の部活問題。本当に生徒のことを思いやったやり方ではなく、己のエゴを満たすために生徒を利用するような部活の運営は、結局うまく回らなくなるのだな、と感じています。そして、そんな部活で苦しんでいる中学生達を助けたい、何かできることがあったらしてあげたい、と望んでいたら、あちこちからたくさんの助けがやってきて、動かされるようにして動く流れになり、改善の方向に進んでいます。

 こんな風に、愛に基づいた願いを宇宙に放出していれば、パーフェクトなタイミングでチャンスがやってくるので、それが来たら(ピンときたら)すかさず行動に起こす。これを繰り返していれば、どんどん波に乗れて、どんどん望む方向に導かれていきます。ただし、何度も言いますが、恐れや我欲に基づいた願いは、大きな痛手を食らうことになりますので、十分気を付けてください。巷で売られている「引き寄せ」のツールを書いた本にも、そもそも我欲に基づいた内容のものが数多く含まれていますので、本物か嘘かを見極める眼力を持っていなければ、そちらに引っ張られて堕ちていく可能性があります。

 愛に基づいた引き寄せは、お金や名誉を求める引き寄せとはベクトルが違います。恐れや我欲に基づいた引き寄せは、いずれ必ず立ち行かなくなり、将来的に破滅の方向に向かっていくはずです。表面上のきらびやかな世界に惑わされることなく、芯をしっかり保って、自分の選択が愛からくるものなのか、それとも恐れや我欲からくるものなのか、どうぞご自身に問いかけながら進んで行ってください。

 

2018年

8月

30日

チャレンジを助けてくれるエッセンス

 長かった夏休みが終わりました。静かな家で、1人静かに過ごす時間がとても久しぶりな感じです。

 

 この夏休みは、子供関係のお仕事がいろいろとありました。今年は、上の子の学校のPTAや部活の保護者役員をやることになったため、何となくせわしなく動いています。中学校になったら、PTA活動や保護者の仕事は小学校と比べて減るのかなと勝手に思っていましたが、意外とそんなことはありませんでした。PTAの組織はむしろ小学校より堅固だし(これは学校によるのかもしれませんが)、活動している方達はとても熱心です。また、中学校になると仕事をしているお母さんの割合が一段と増えるため、私のような、日中比較的動ける人の負担が自然と増えることになるのは致し方ないことなのかもしれませんが、保護者の負担の不公平感は小学校よりも増えているように感じます。

 PTAのお仕事というのは、一体どこまで携わったら良いのか、今でもよくわからないなと思います。関わり方の度合いが、その人のやる気と状況と考え方等によって大きく変わってきますし、「ここまでやったら合格」といった明確な目標があるわけではありません。そもそも、任期は基本は1年間なので、なんだかよくわからないうちに気づいたら1年が経ってしまった、という感じでいつも終わってしまうように思います。

 

 ちなみに私はPTAのお仕事というのは決して嫌いではないのですが、いつもこの「どこまでやったらいいのか」という加減の部分でよくわからなくなり、引き受けた仕事をいい加減にできない性格も相まって、任期中は何となく気ぜわしくなり、心身ともに疲弊してしまうパターンがこれまでは多かったです。

 ただ今年は、やるからには楽しんでやろう、そして誰も責めないようにしよう、と心に決めているので、あまり心理的にモヤモヤすることなく、ポジティブに頑張れています。PTAのお仕事というのは、何をやるかということよりも(もちろんやっている内容も大切なことですが)、PTAに関わることによって得られる、先生や他の保護者とのコミュニケーションや情報の方が大きいような気がします。PTAを引き受けた年は何かと負担が増えるものですが、その分、やらなかったら得られなかったであろう目に見えない報酬がたくさんあります。それに気づいてからは、他の人に代わって仕事を引き受けることも全く苦にならなくなりましたし、自分の時間と労力を提供できることにありがたさを感じるようにもなりました。

 

 そんなわけで、自分のできる範囲で頑張ろうと決めたために今年はあれやこれやとやることが増えてしまったわけなのですが、結局増やしているのは自分なんじゃないかとも思いつつ、あと約半年だし後悔しないようにやりきろうと自分にはっぱをかけている状態です。

 特に部活に関しては、例年にない酷暑だった今年の夏、そのことでいろいろと心配している保護者の声が聞こえてきたこともあり、先生に対して保護者としての意見・要望を代表して伝えるようなこともありました。ただ感情的に訴えるだけでは効果がないかもしれないと思ったので、保護者のLINEグループをまず作り、ちょっと一体感を出してから、そこで皆さんの声を集めて、それをまとめて先生に提出するという形をとりました。やはり集団の声は強いです。保護者が1人でワーワー言っても、うるさい親だなで済まされてしまったかもしれませんが、保護者全体としての意見です、という形できちんとした書面で提出した所、訴えがきちんと通りました。

 今年になって、スポーツ庁から新しい部活のガイドラインが出されましたが、今部活というものが大きく見直される流れになってきています。かつては当たり前だったスポ根気質のやり方も、今のご時世と、今の子供達にはフィットしていないなと感じますし、そういう昔風の威圧的な指導法をごり押ししている先生方は、子供達の心が離れ、どんどん空回りしていっているように見えます。

 私が中学生だった頃も、部活という狭い世界の中で自分の持てる権威を最大限に振りかざし、ピュアで力のない中学生の心と体を傷つけている教師はいましたが、その頃は部活とはそういうものだと思っていたし、親が助けてくれるという発想もありませんでしたから、黙って耐えるしかありませんでした。

 しかし自分が親になって、自分の子供や他の子供達が似たようなシチュエーションの下、教師の一方的な(時には理不尽な)指令に歯向かうこともできず従っている姿をみると、大人としてできることがあれば助けてあげたい、という気持ちが湧いてきます。たまたま今年は役員という立場になったこともあり、いろいろと工夫しながらチャレンジしています。今自分がやっているやり方が正しいのかどうかもわかりませんが、理不尽なことを黙って見過ごすことができない性格なため、直観を信じて、他の保護者の方達の協力も仰ぎつつ、時代に合った部活の指導方法を模索して頂くよう、これからも訴えていこうと思います。

 

 

 とこんな状況ですが、フラワーエッセンスにもたくさん助けてもらっています。特に心から感謝したいのが、アンジェリックの「Archangel Michael(大天使ミカエル)」。時には先生に面と向かって意見を伝えなければいけないシチュエーションもあるのですが、そんな時に勇気と力を与えてもらっている気がします。自分でも話しながら、「あれ、私よくこんなことが言えるな」と驚くことがあります。こんな時は、バックで自分を支えてくれる存在を感じますし、言っているのが自分であって自分ではないような感覚があります(言わされているような感じ)。うぶすなでのセッション中でもよくあることなのですが、この”言わされている感じ”になっている時は、自分の口から言葉が自然に出てくるに任せていると、相手の心にスーッと響いていくのがわかります。

 それから、意思をもって行動する時には、周りの反応とか、自分に返ってくる否定的な念などが気になって不安に陥ってしまうものですが、そういう不安も払拭してもらっている感じがします。不安があると、ともすればその裏返しで攻撃的になってしまう危険性があります。決して自分自身もモンスターになってしまわないよう、細心の注意を払って、冷静な判断と行動を心がけていこうと思っています。

 

2018年

8月

19日

恥とフラワーエッセンス

 アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは、著書『菊と刀』において、日本は「恥の文化」であると述べました。キリスト教世界である西欧が「罪の文化」(個々人の内面に”神”がいて、良心に逸れた行動を”罪”と考える)であるのに対し、多神教がベースである日本は、絶対的な”神”より、世間からどう見られるか、という周囲の目を気にしている、とのことです。

 確かに日本人は、個人的にどうしたいか、どう思うかよりも、周囲が自分に何を求めているか、何を期待しているかを気にして、それを行動のベースにしていることが多いような気がします。周囲の期待に背いた行動をとっている人が批判され、世間一般的な常識から外れた考え方を持つ人が異端視されることが多いのも、日本人は個性を前面に出すより、協調性を重視する傾向があるからかもしれません。

 そんな社会的風潮がある中で、周囲の目を気にして生きることが当たり前として育った人が、オリジナリティを発揮して自分独自の個性を花開かせることは至難の業ともいえます。よほどの強い意志と、逆風が吹いても負けない根気強さが必要です。また、ある程度「鈍感力」もあった方が助けになるのかなとも思います。誰がこう言った、ああ言われた、非難された、よく見られていない、云々を気にしていると、やりたいことにも思い切ってチャレンジできませんし、たくさんの制限をつくることになります。制限は、周囲からやってくるようで、実は自分がつくりだしているものです。意思と決意さえしっかり持っていれば、周囲の目や声というものは、実はたいした力を持つものではないことに気づきます。

 

 

 我が家には思春期の女子がいるのですが、思春期というのは特に、この「周りからどう見られているか」という感覚が強くなる時期のようです。周囲から浮くことや孤立することを極端に恐れており、そうならないために、個人的な主張を極力抑え、周りの友達に合わせることにかなりのエネルギーを注いでいます(個人差はありますが)。

 当然、日本人特有の”恥”の感覚も持ち合わせているので、「そんな恥ずかしい事はできない」とか、「そんなことしたら変な目で見られる」、「そんなことは誰もしてない」等々、”恥”をかかないための気遣いも大変そうです。

 

 娘もご多分に漏れず、一般的な思春期女子の感覚の持ち主なので、今現在は、あれこれと制限があるやや不自由な環境の中に生きているようにみえます。思い返せば自分もかつてはそういう時期があったし、今でも全く周囲の目を気にしないかと言うとそんなことはないので、ある程度縛られて生きるのは人間の性なのかなとも思います。

 ただ、必要以上に周りの目を意識し過ぎるのは窮屈ですし、ともすれば自意識過剰に傾きがちなこの時期、フラワーエッセンスにも何かとお世話になっています。例えば今、娘のトリートメントボトルにはオーストラリアンブッシュの「ビリーゴウトプラム」とアンジェリックの「Shame Free」を入れています。前者は、自分の肉体や容姿を嫌悪する人のためのエッセンスで、後者はその名の通り、「恥ずかしい」という感覚を癒すものです。これを飲むようになって、だいぶ細かいことであれこれと気にすることが減ったな、と感じます。例えば、ものすごく近くに寄ってジーっと見ない限り気づかない程度の小さな傷跡やできものなどを、必要以上に気にして「これどうしよう」と言ってくることがなくなりましたし、日焼けの線が恥ずかしくてサンダルが履けなかったのが履けるようになったり、着る服を気にし過ぎて何を着たら良いかわからなくなってしまうことも減り、着たい服を好きなように着るようになりました。

 また、今度英語の弁論大会に出ることになったのですが、その練習の時に、恥ずかしくてパッションを全面に出して表現することができなかったのが、思い切って表現することができるようになりました。

 

 日本人は特に、DNAの中に”恥”の意識が刷り込まれている民族なので、自分の中にどれだけこの”恥”の感覚が住み着いているのか、一度客観的に見てみるといいかもしれません。冷静に眺めてみると、”恥”とは実体のない魔物であり、周囲の目も周囲の期待も、全て幻であることがわかります。

 

 ところで、冒頭で紹介した文化人類学上の名著『菊と刀』を書きあげたルース・ベネディクトさんですが、なんと日本には一度も行ったことがなかったのだそうで、それを知った時に私は卒倒しそうなくらい驚いたものです。日本を訪れたことがない人に、なぜこれほどまで深い洞察の日本人論が書けるのか・・チャネリングでもしていたのでしょうか。

 それはさておき、日本人の民族的特性を調べる研究は、第二次世界大戦中に行われました。敵国である日本を知り、終戦後に占領下に置いた際、日本人をどのように扱うかという計画の参考にするためだったそうです。こう聞くと、完全に日本は手玉に取られていたようで悲しいものがあります。

 ただ日本や日本人も、第二次世界大戦の時代と比べると大きく変わってきていますし、多様性や個性もかなり尊重されるようになってきたように感じています。元々柔軟性もある日本人なので、より多くの人が生きやすい世の中になっていってほしいなと思います。

 

2018年

7月

30日

自己犠牲タイプの方は

 先日、残り少なくなってきたエッセンスを何本かまとめて発注しました。その中に、オーストラリアンブッシュの「アルパインミントブッシュ」というエッセンスがあります。

 

 到着してからエッセンス棚に並べようとしたら、なんと既に在庫として陳列していたことに気づきました。少し前に発注していたことをすっかり忘れていたのです。よほど私に必要なエッセンスなのでしょうか。

 

 アルパインミントブッシュは、他者のケアを優先させるあまり、自分のケアがおろそかになったり、バーンアウトしてしまったりしがちな人を癒すエッセンスです。ヒーリングや福祉関係のお仕事に就いている方や、育児や介護、看病などに時間と労力をとられている人など、他者への責任を負うことが多い人に最適です。

 お世話を必要としている人を助けることや、困っている人の役に立つことはとても尊い仕事ですが、やり過ぎて自分のエネルギーが枯渇してしまったり、気力や体力の限界まで頑張って参ってしまっては、元も子もありません。時には休んでリチャージすることも大切ですし、バランスをとりながら自分のケアもきちんと行っていくのが、長続きする秘訣かと思います。

 

 特に、人の役に立ちたいという思いが強い方は、できるだけ多くの人を助けようとするあまり、どんどん忙しくなり、プライベートの時間を犠牲にするような状況に陥ってしまうことがあります。癒しのお仕事に就いている方であれば、クライアントさんが必要以上に依存してきたりといった、共依存の関係にはまってしまう危険性もあります。

 また、「人に頼られている=自分が存在している価値がある」という無意識の思い込みがある場合、自分の価値を確認する手段として、”私がいなければだめ”という状況を創り出していることもあります。

 休む間もない程スケジュールがびっちりで、休むことに罪悪感があったり、忙しいということはそれだけ世の中から求められている証拠だという思いがあるような方は、少し立ち止まって、今の状況が本当に自分が望んでいる状況なのかどうか、問いかけてみると良いかもしれません(アルパインミントブッシュを飲みながら)。

 

 

 ちなみに私がこのエッセンスを飲んでみたところ、夏休み中、息子の友人達が遊びにきた時、家のリビングを使ってもいいけど1時間までにしてね、と言うことができました。今流行りのゲームを、テレビの大画面を使って遊びたがるのですが、テレビはリビングにあるので、息子達が遊んでいる間、私は別の部屋でしか作業ができません(とてもうるさいので・・)。アルパインミントブッシュを飲んでいたところ、ふと、「あれ、なんで今まで息子達にこんなに気を遣って遠慮していたんだろう」という思いが湧いてきました。考えてみたら、彼らがゲームをやるために、私が何時間もリビングを明け渡す必要もないわけです。

 提案してみると、案外息子もすんなり了承し、約束の時間になったらさっさと二階へ移動してくれました。

 

 無意識に抱いている思い込みというのは、その思い込みがあるということに客観的に気づいてみると、「どうしてあんな風に思っていたんだろう」と不思議に思うものです。人は、とらわれている間は、とらわれているという事実になかなか気が付かないのです。フラワーエッセンスは、こんな風に、人がとらわれている状況から抜け出すお手伝いをしてくれます。

 

2018年

7月

18日

酷暑のさなかのエッセンス

 フラワーエッセンスをご愛用の方は、エネルギーに敏感なタイプが多いようです。そのためか、”バリアー・プロテクション系”や”浄化・クリアリング系”のエッセンスが自然と人気になっています。うぶすなでも、よくそういったエッセンスのリクエストを頂きます。

 様々なメーカーさんが、バリアー系、浄化系エッセンスを扱っています。単品のエッセンスもありますし、数種類がミックスされているコンビネーションタイプもあります。

 それぞれ好みや相性などもあると思いますので、ピンときたものや、一度使ってみて効果を体感したものなどを選ぶといいかもしれません。

 

 私も、個人的にブレンドしたバリアー系のエッセンス、浄化系のエッセンスを常備しているのですが、両方共ほぼ毎日のようにお世話になっています。どこかに出かける前は、必ずバリアー系エッセンスを飲みます。これを飲んで行った日と飲まなかった日とでは、帰ってきてからの自分の状態がが全く異なります。フラワーエッセンスに出会う前は、人混みや様々な人が交わる場所に行った後には、必ずと言ってよいほど体が重くなったり、頭痛がしたり、気分が悪くなったりしていたのですが、バリアーのエッセンスを飲んで行くとそういうことがありません。自分がエネルギーフィールドの中で守られている感覚があります。

 また、バリアー系を飲んで行くのを忘れて出かけた際、少し重たいエネルギーがついてしまったなと感じても、浄化系のエッセンスを飲むとスーッと軽くなって、気分がスッキリします。何かショッキングな体験をしたり、見たり聞いたりした時、頭の中に焼き付いた映像が離れなかったり、誰かの言葉や念などが突き刺さって取れていないように感じる時などにも、浄化系のエッセンスは助けてくれます。

 

 最近は酷暑が続いているので、新しく作ったバリアー系のトリートメントボトルに、オーストラリアンブッシュの「ムラムラ」を入れています。これは、”火”にまつわるトラウマや、火傷、日焼け、ほてりなどに対応してくれるエッセンスで、強い日ざしを受ける前に飲んで行くと、そのダメージを直で受けるのを防いでくれる感覚があります。ワークショップの時にも、フィールドワークに出かける直前、イアンさんが参加者たちに、「皆さん、今日は暑いので”ムラムラ”を飲んで行くのを忘れないで!」とおっしゃっていました。

 私は暑さが苦手で、例年この季節になると外出するのが億劫になっていたのですが、ムラムラを飲むようになったら、不思議とこの猛暑のさなかでも、外に出るのがさほど苦痛ではなくなりました。強い日差しを浴びても、なぜか耐えられるというか、ダメージが少ない感覚があるのです。苦痛が軽減されている感じです。そのためか、最近会う人会う人に、「日焼けしましたね」と言われます。「綺麗に焼けていますね」とも言われます。そういえば、日焼けで赤く腫れることもなくなりました。(一応日焼け止めは塗っていますが)

 また、中学生の娘はとてもハードな運動部に入っているので、親としては熱中症にならないか心配です。一日中外で試合がある日などには、必ず水筒にムラムラを入れるようにしています。本人に「最近暑いけど大丈夫?」と聞いてみたら、「そんなに暑いっけ?」との答え。暑さの影響を和らげてくれるエッセンスを入れていることを伝えたら、「そういえば、暑いは暑いんだけど、辛いとかもう嫌だとかは思わない」とのことです。

 エネルギーフィールドでバリアーが張られていると、肉体レベルでもダメージが少なくなるのだなと思います。

 

 ちなみに浄化系のエッセンスは、家族全員のトリートメントボトルにそれぞれ必ず入れています。仕事や学校などで、日々様々な人と関わっていろんな経験をしていると思いますが、家に帰ってきた時は一度リフレッシュして、また次の日へのエネルギーをチャージしてほしいなと思うからです。ただいまと帰ってきた時に、少しキツイ目をしているなと感じた時でも、エッセンスを飲んでしばらくすると、少しずつ表情が和らいでいくのがわかります。

 

2018年

7月

15日

オーストラリアンブッシュワークショップ報告②

 ワークショップ二日目には、屋外に出て自然を感じるフィールドワークも行いました。ワークショップの主催者ネイチャーワールドさんの建物から歩いて数分の所にある、とても気持ちの良い緑道です。

 そこでしばらくお散歩(?)をした後、涼しい木陰がある場所で、イアンさんが自然界と自然霊の話をしてくださいました。

 

 イアンさんによると、数年前くらいから、自然界と人間界との間にあったヴェールが薄らいできているのだそうです。今の時代に生きている私たちは、数十年前と比べると格段に自然界(霊)とのコンタクトがとりやすくなっているとのこと。

 庭仕事の途中に精霊に出会ったという、イアンさんの友人の話など興味深かったです。その友人は、下半身が獣で上半身が人間の姿をした精霊が歩いているのを見たそうなのですが、その精霊と目が合った時、向こうは自分の姿が見えていることに驚き、一度通り過ぎようとしたけれど再び戻ってきて、『オレの姿が見えるのか?』と聞いてきたのだそうです。

 

 イアンさん自身も、たくさんの自然霊の協力を得てエッセンス作りをしています。諸々の自然霊を引き連れて歩いているような人なので、フィールドワークの時にもそうした存在が背後で協力してくれているのを感じました。

 フィールドワークの最後の方で、”スピリチュアル・グリーティング”という祈りの言葉を全員で唱えたのですが、その祈りを唱えた後、自然界や精霊界との境界線がフワッと薄れたのを感じました。各々の木には精霊が宿り、鳥たちの鳴き声にはメッセージが込められ、風は何かを運んできてくれている・・・そんな自然界が発しているバイブレーションを、感じようとしてこなかったのは人間の方であって、あちらの世界が拒絶していたわけではないんだな、と思いました。壁を作っているのは、私達の意識でしかないのかもしれません。

 このフィールドワーク以降、日々の生活の中でも、できるだけ”自然”にふれあい、そこに宿るスピリットの存在を感じるようにしています。こういう感性というのは、スピリチュアルマッスルなどと言ったりもしますが、筋肉と一緒で、鍛えれば鍛える程強化されていきます。「自分にはそういう能力がないから」などと思い込んで感性をフルに使う努力をしないのはもったいないです。スピリチュアリティ(霊性)は本来誰にでも備わっているものなので、感性を磨いていこうという意識を強くもっていれば、時代のエネルギーも手伝って、どんどん開花されていくと思います。

 

2018年

7月

04日

オーストラリアンブッシュワークショップ報告①

 オーストラリアンブッシュフラワーエッセンスのワークショップ「レベル2」を受けてきました。

 

 相変わらず目の覚めるようなカラーのスーツに身を包んだイアンさん。今回もたくさん深淵な知識を授けてくださいました。大変濃密な2日間でした。

 

 オーストラリアンブッシュ(AB)のエッセンスは、飲んだ方がエネルギーを感じやすいようで、具体的な変化も起こりやすく、ファンがとても多いです。スピリチュアルな変容をもたらしつつ、現実的な問題解決にもわかりやすく繋げてくれますし、エッセンスを飲んだからといってフワフワと地に足がつかない状態が続くようなことはまず起こりません。

 

 エッセンスは、作り手さんの個性が反映されるものですが、ABエッセンスがこのように堅実な変化をもたらしてくれるのは、作り手であるイアンさんのキャラクターが強く影響しているような気がします。イアンさんは、スピリチュアルな深い知識をお持ちで、見えない世界とも強く繋がっていらっしゃる方ですが、同時にしっかりと地に足をつけた、現実的な考え方をなさる方でもあります。話は非常にわかりやすく、筋道が通って論理的ですし、地球や自然界との繋がりもとても大切になさっています。スピリチュアリティを高めながら、しっかりとグラウンディングして生きるとは、こういうことなんだなと思います。

 スピリチュアルに興味があり、見えない世界との繋がりが元々強いタイプの方は、ともすればそちらの世界に引っ張られ過ぎてしまい、現実との折り合いをつけて生きるのが難しくなることがあります。スピリチュアルな世界は美しく、パワーも強いですし、惹かれるのは当然かもしれません。けれど私達は意味あって今こちらの世界にやってきているので、あまりスピスピし過ぎて現実が嫌になってしまうと、こちらでのミッションになかなか辿り着けなくなってしまいます。なんでもバランスが大事なので、スピリチュアリティとグラウンディング、この二つを同時に意識して、極端な方向に偏り過ぎないように気を付けた方が、いろいろとうまく回っていきます。

 

 イアンさんはアボリジニの方々とも深い繋がりを持っていらっしゃるのですが、元々アボリジニというのは、しっかりグラウンディングをしている人々なのだそうです。地に足をつけつつ、スピリチュアリティを追求しているというわけです。ABエッセンスは、そのエネルギーを持っているとの話に、納得がいきました。

 

 

 足場が不安定な崖の上の花を採取したり、ワニやヒルがうようよいる池に入っていったり、トゲのある花で怪我をしそうになったりと、エッセンス作りも楽ではありません、とおっしゃっていました。今でも個々の花からエッセンスを作るのはイアンさんだけなのだそうですが、広いオーストラリアの大地をあちこち駆け回ってエッセンス作りをやりつつ、毎年世界各地でワークショップを開いているだなんて、そのバイタリティに頭が下がります。

 スーパーマンのようなイアンさんですが、数年前に車の事故に遭った時の話をしてくださった時には、”裁判のことを考えていたら頭の中でいろいろなことがグルグルまわってしまい、それを鎮めるエッセンスをとった”とおっしゃっていました。イアンさんほどの方でも、そんなことがあるんだな、と少しホッとしたりしました。

 最初は意外だったのですが、イアンさんはジョークもお好きで、たまにきわどい冗談を真顔でとばすお茶目な一面もお持ちです。スピリチュアルに生きるといっても、人間らしさってやっぱり大事だよなあ、と思います。

 

 今回のワークショップでは、ここに書ききれない程多くの貴重な話を聞いてきましたが、中でも"The power of prayer"(祈りの力)を強く私が確信することになった、ある女性の話が印象的でした。

 

 ある女性が高速道路を運転していると、前の方で事故があったようで、車が渋滞でとまりました。その女性は、事故に巻き込まれた方々のために、運転席で癒しの祈りをしました。

 6週間後、その女性の家のドアをノックする音がしました。ドアを開けてみると、見知らぬ女の人が花束を抱えて立っていました。そしてこのように言いました。

 

『私は交通事故でひどい怪我を負ったものです。意識が抜けていた(体外離脱をしていた)際、あなたの車の中から、癒しの白い光がとんでくるのがわかりました』

 

 その方は、ヒーリングエネルギーを送ってくれたことに感謝をしに来たのです。意識が宙を飛んでいる時、ナンバープレートも目に入ったため、病院にいる間、どの方が自分にヒーリングエネルギーを送ってくれたのかが分かったのだそうです。

 

・・・イアンさんはこの話を、強い肉体的・精神的ショックを経験した時に人は体外離脱をすることがある、という説明の一環で話してくださったのですが、私は祈りの力って本当に具体的に存在しているんだな、と強く思いました。体感的に感じてはいましたが、こういう話を聞くと、それが確信に変わります。

 

 これまでもうぶすなのセッションでABエッセンスは使ってきましたが、ワークショップで1つ1つの花とそのエッセンスのディープな説明を受けたことで、また更に理解が深まったように感じます。今回のワークショップで得られた知識と経験を活かしつつ、私自身が向上していく努力を続け、皆さんに還元していけたらと思っています。

 

 

2018年

6月

28日

思春期って

 先日、娘が通う中学校の体育祭がありました。小学生とは体格も異なり、中学生が本気で走る姿は、近くで見ていてとても迫力がありました。毎日部活で鍛えているだけあって、娘の同級生達が中学校に入学してからどんどん顔つきや体つきが精悍になっていく様は、傍目で見ていても頼もしく感じます。中2になった娘も最近は身長がちょうど私と同じくらいになり、本気でかかってこられたら負けそうです。食事も私の二倍くらいの量を食べるので、それだけエネルギーを使っているのだろうなと思います。

 そんな風に見た目では逞しくなっているように見える中学生ですが、やはり中身はというと「まだまだ子供なんだな」と感じることも多いです。肉体的にも内面的にも大人と子供の狭間にいて、その間を迷い悩みながら行ったり来たりしているのが中学生のように思います。

 

 大変盛り上がった体育祭でしたが、その余韻はまだ続いているようで、クラスの子達と今度打ち上げをやることになったから行ってもいい?と聞かれました。中学生で打ち上げとは・・時代が違うからなのか、私が育った田舎とは環境が異なるからなのかはわかりませんが、私が「打ち上げ」なるものの存在を知ったのは高校生になってからだったように思うので、カルチャーショックを受けました。

 こういう質問をされてとっさにどう答えたら良いのか、こちらも初めての経験なので少し迷います。とりあえず、お店の場所を教えることと、帰ってくる時間ををきちんと守ること、などを約束させてOKしました。

 その答えを聞くや否や、携帯の所にダッシュして何やらお友達に報告をしていました。普段は反抗的態度が多く、こちらが何か言えば条件反射的に反発してくる娘ですが、こういう時は一応「母親の了承」がものをいうのだなとおかしくなります。

 

 打ち上げに行くことが決まったら、次は「何を着ていくか」でひと騒動。お風呂に一緒に入っている間、上はどのTシャツを着て、下は何を合わせたらいいのか、あれは合わないこれは生地がダメ、これはいいけどちょっとガーリー過ぎるかも、髪型はどうしよう、どのヘアバンドが合うか、etc... ずっとしゃべり続けていました。

 一応基準があるようで、ガーリー過ぎるものは(ぶりっこだと思われるので)だめ。無難なカジュアル路線を採用しつつ、かつおしゃれで流行もさりげなく取り入れたい様子。イヤリングはつけていきたいけど、誰もつけてなかったらまずいから、お店に行って様子を見てからつけるとのこと。自分1人が浮いてしまうことと、おしゃれじゃない人のレッテルを貼られることを極度に恐れているようです。

 そんなに他人の目を気にしないで自分が着たい服を着たらいいんじゃないの。自分が思っている程他人は気にしてないと思うけど・・などと間違っても口に出してはいけません。自分の立ち位置と、周りからどう見られているかを極端に気にするのが思春期というものです。

 

 今、娘が思春期を謳歌していることで、私自身もなんだか青春を再び味わっているような気持ちになることがあります。大人の冷めた目で見れば、そんな服装1つで大騒ぎしている状況なんて、一笑に付す程度のものかもしれません。けれど自分の若かりし頃を思い返してみても、渦中にいる時というのは、不安と自信のなさに圧倒されながらも、何とか無難にこなそうと1つ1つが真剣勝負です。

 いろいろとツッコミを入れたくなることは多々ありますが、二度とやってこないと思っていた青春を、間接的にだけれどもう一度楽しませてもらっていることには、感謝しなければいけません。私は自分の時は思春期を全く楽しんでいなかったので、特にそこに関しては少し後悔があります。「こんな時期早く終わればいい」とずっと思っていました。純粋に、もっとエンジョイしていればよかったな、と思います。

 

2018年

6月

13日

ミュージカル

 小学生の頃、初めて福島から上京して家族とミュージカルを観に行って以来、ミュージカルは私の心のエネルギー源となっています。学生時代や独身の若い頃はお金もなかったのに、よくもあんなにたくさん観劇に行けたなあと思うくらい、足繁く劇場に通っていました。少しでもお金があったらチケットを買っていたので、毎月ギリギリの生活をしていました。それでも心は満足でした。

 人気の作品は何度も再演されるので、同じ作品を別のキャストで繰り返し観たりもします。良い作品は何度観ても感動しますし、演者によって表現の仕方が異なるので、その違いを感じるのもまた楽しいです。また、年月を経て私自身の内面が変わっていったことにより、同じ作品でも昔と違った視点で眺めている自分に気づいたりもします。

 

 若い頃とてもとても大好きで、観る度に深く感動していた、とある有名作品があります。主人公は、純粋でひたむきな心の持ち主の女性。愛する男性のために身を捧げ、子供も宿しますが、社会的な事情から恋人と引き裂かれてしまいます。会うことが叶わなかった何年もの間、女性はいつか恋人と再会できることを夢見て忠実に待ち続けます。ところが、男性側は途中であきらめてしまい、別の女性と結ばれてしまうのです。主人公がその事実を知り、自分の想いがもはや叶わないことを知った時、絶望して自ら命を絶ってしまいます。

 

 10~20代の頃の私は、主人公の熱いパッションに共感し、純粋でひたむきな思いに心を打たれて毎回涙して観ていました。自分の命をかけてまで愛を貫くって美しい、などと感じていました。

 

 数年前、久しぶりにその作品が上演されることになり、私はチケットを購入しました。またあの感動を味わえる、とワクワク楽しみにしていました。

 ところが、いざ観劇してみると、以前とは感じ方が全く異なっている自分がいました。若かりし頃のように心が動かされていないことに、少なからずショックを受けました。私は鈍感になってしまったのだろうか・・

 主人公がひたむきに1人の男性を愛し、引き離されている間も諦めることなく、熱い情熱を保ち続ける姿に、かつての私は胸を打たれていました。けれどその時の私はふと、

 

――――― あれ、これって、”執着”なんじゃないのかな ―――――――

 

 と思ってしまったのです。現実を受け入れられず、1人の異性に固執し、周りを見ず、更に更に自らの命まで絶ってしまうとは。他にも男性は星の数ほどいるわけだし、1人の人にこだわる必要はないし、もっと広い視野で人生を眺めれば、一度思うようにいかなかったからといってそこでリセットすることもないのでは・・しかも子供もいるのに。現実を見るべきなのではないだろうか。本当の愛って、相手を思いやることではないだろうか。そして人生の流れを受け入れてそれに身を任せることではないだろうか。子供と相手のことを本当に思うなら、自分は潔く身を引いて、その先の人生を前向きに生きればいいんじゃないだろうか。それを拒んで人生を終わりにしようだなんて、自分中心の欲に負けたっていうことじゃないだろうか。

 観ている間にモヤモヤとそんなことを思ってしまっていました。そんな冷めた視点で眺めてしまっている自分が、なんだかすごく年をとってしまったかのように感じました。

 

 同じように、その後間もなく娘と一緒に観に行った「ロミオとジュリエット」も、悲劇の展開にハラハラと涙する娘の隣でやはり、

 

―――――ー あれ、これも”執着”なんじゃないのかな ―――――――

 

 と引いて観てしまった自分がいて愕然としました。恋愛って一見美しいけど、実の所執着なんじゃないか・・周りが見えなくなって盲目になり、1人の人に異常にこだわることは執着というのではないか。恋愛に夢中になっている人って、浮足立って地に足がついていない、冷静さを欠いた視野狭窄状態なんだな・・そんな風に思ってしまいました。もはや、恋愛ものや悲劇を純粋に感動できないのだろうか。私はもう感動する心をなくしてしまったのだろうか、とかなり焦りました。

 

 

 その時から数年経った今、よくあるラブストーリーなどを、それはそれでエンターテイメントとして受け入れられるようになってきたので、ちょっと安心しています。一周回って純粋に楽しめるようになってきた感じです。一度ものすごく冷めた視点で眺めた後、それを普通に楽しもうというゆとりが生まれたような気がします。人間なんだから、この世で生きているんだから、ドラマがあっていい。

 

 ミュージカルを観た後の自分が、若い頃と違うことがもう1つあります。それは、舞台のエネルギーに圧倒され、その波にしばらく飲まれた生活を送ることがなくなったことです。観劇の後、フワフワと別の世界に漂って現実生活にうまく対処できなくなるようなことはなくなり、きちんと地に足の着いた状態に切り替えることができています。

 年をとったせいなのか、自分がエネルギースポンジになることをやめたからなのか、もしくはその両方なのかもしれません。

 

2018年

5月

29日

悩みを捨てたかったら

 フラワーエッセンスの売れ筋商品としては、「豊かさ」や「女子力アップ」「恋愛成就」をテーマにしたものが多いです。それと同時に、「浄化」や「手放し」系も根強い人気があります。

 

 何かを手に入れようともがくより、まずは必要のない心の重り(トラウマ、思い込み、とらわれ、執着、恐れ等)を外した方が、より心は軽くなり、本当の幸せに繋がりやすくなります。

 

 人が悩んでいる時というのは、何かに縛られている時です。何かを失うのが怖かったり、何かが手に入らないのではないかと不安になるから、自分の中で矛盾が生じてその葛藤に悩むのです。悩みから解放されたかったら、自分の中にある「縛り」を捨てると、悩みそのものが生じなくなります。外的な要因は、実はあまり関係がありません。不思議なことに、自分が内側で縛りから解放されると、今まで自分を散々悩ませてきた外的な要因がなくなったりします。周りの人や環境が自然と変わっていくのです。まずは内側で変化が起こり、その後外側に変化が起こります。

 

 フラワーエッセンスには、その人が何かに固執している時、そのとらわれを剥がしてくれる作用があります。何かにとらわれている状態というのは、その人にとって理想の状態ではありません。フラワーエッセンスは、その人がその人らしく輝いている姿に導いてくれるものです。

 

 

 自分が一度根本からクリアーになりたいという方は、2017年に新しく出た、アンジェリックの『Cosmic Reset』というエッセンスがお勧めです。とらわれている時というのは、とらわれているという事実にすら気づかないものです。こうしたものを飲んでいると、まずは自分が「とらわれている」「とらわれていた」という現実に気づかされます。そして、その後不必要な執着やら思い込みを手放すプロセスが始まります。エッセンスは、そのプロセスさえも助けてくれます。

 

(Cosmic Resetの解説です↓)

全てがふさわしい場と状態にあり、私たちは新たな人生に向けてリセットする準備ができました。コンピューターや電話等がさらによく機能できるよう時折リセットする必要があるように、私達も人生を時にはリセットする必要があります。リセットを行うと秩序が戻り、役に立たなくなった古いエネルギーが解消されて、私達のエネルギーや人生が洗練されて、新鮮さと明確さをもって進むことができます

~ネイチャーワールド㈱ホームページより引用

 

 

 私が浄化・手放し系のエッセンスを飲んでいた時のこと。ボーっとテレビを見ていた時、ふと

 

「今回できなかったら、次(の人生)でまたチャレンジすればいいんじゃない」

 

 という言葉が内側から響いてきました。いきなり響いてきた言葉には力があり、深い部分から強く訴えるパワーがありました。

 そっか、それもそうだ。何も今回の人生で、やりたいことを全て成し遂げようとむきになる必要はないんだ。できなかったら、また次の人生でやればいい。全然焦らなくていいんだ。

 

 そんな風に自然と思えました。あれもこれもやらなきゃ、やり遂げなきゃ、と少々気負い気味だった私は、なんだか肩の荷がスーッと下りたような感じがしました。案外、人生で成し遂げるべき課題は、実はそんなに数多くあるわけではないのかもしれません。神様は、一度にそうたくさんの宿題は与えないものです。その時その瞬間、自分の目の前にある課題を1つ1つこなしていけばいいのであって、結果や遠い未来のことは思い案じる必要はないような気がします。1つ1つこなしていったその先に、自然と道が拓いていきますし、学ぶべき課題は必ず学ぶことになっているから、環境や物質的な状況も自然と整います。

 

 長年しがみついていた心の縛りを取り外していくと、憑き物が取れたように心が軽くなっていきます。自分の外側でどんな嵐が吹き荒れていようと、内側が穏やかな状態であれば、苦ではなくなります。心さえ平穏を保っていれば何が起こっても大丈夫なんだとわかれば、外的な要因を怖がることもなくなっていきます。

 

2018年

5月

24日

アファメーション

 昨年8月に91歳で亡くなったルイーズ・ヘイさんといえば、アファメーションの力を世界中に広めた先駆者として、自己啓発・スピリチュアル界では知らない人はいない存在です。

 私も、彼女の著書を何冊も読み、その生き方を含めた力強い前向きパワーにだいぶ助けられました。

 

 ルイーズさんの本に出合った頃、はっきり言って私はネガティブまみれでした。昔から批判精神が旺盛で、何事も最初から疑ってかかる所がありました。物事を斜めから見る習慣がいつの間にかついてしまい、若い頃はそんな皮肉屋である自分を、性分なのだから一生変わることはないだろうと考えていました。

 けれど心のどこかでは、そんなひねくれた自分に違和感を感じ、このままでは嫌だ、このままでいてはいけない、という思いがありました。本当は、私は人を信じたいし、人を愛したい。思えば、とても小さかった頃の私は、それができていました。自分で言うのもおかしいですが、ストレートでピュアで、人が言うことは何でも信じてしまうような子供でした。それが、世の中の汚い部分や人のダークな一面を垣間見ていくうちに、次第に変わっていきました。いちいちショックを受けてへこむのが苦しくなっていったのです。それで私は、防御策として、逐一裏切られて嫌な思いをするくらいなら、最初から世の中は汚いものだと思うことにしよう、人は信じられないものだと思うことにしよう、と自分自身を納得させるようになっていきました。

 そんなこんなで、ナイーブな内面を抱えながらもひねくれた少女に育っていった私は、すっかりネガティブ思考が身につき、でも本質的にはピュアな部分も併せ持つために、違和感と自己嫌悪感も同時に抱いているという、自己矛盾した心の状態が続いていました。

 

 ルイーズ・ヘイさんの本と出合った頃は、そんな自分にほとほと嫌気がさし、また自分自身の内面を揺さぶるようなウェイクアップ・コールが起こっていた時期だったので、読みながらとても共鳴する感覚がありました。

 けれど、ルイーズさんの本にもたくさん書かれていて、彼女自身がずっと実践してきたポジティブなアファメーションに関しては、なぜかその時には実践する気持ちになれませんでした。思うに、ずっとネガティブ優勢の心理状態で生きてきた人が、いきなり180度ポジティブにシフトすることはちょっと難しいというか、無理があります。ルイーズさんのように、自分のダークサイドを克服してポジティブに自己変革しながら理想の人生を生きられたら幸せなのだろうな、とは思いつつも、ちょっとその時の自分にはその道のりが遠すぎて、いきなりポジティブ全開にはなれないし、拒否反応が出てしまったのだと思います。

 

 その後私は長い時間をかけて1つ1つ心のお荷物を外していき、かつての自分とは比べものにならないくらい内面がクリアーになりました(まだ完璧ではありませんが)。ネガティブ思考の餌食になることも減り、ともすればダークサイドに偏りがちだった自分が、気づいたらポジティブ優勢になっていました。その状態になって初めて、私は改めてルース・ヘイさんのポジティブアファメーションを具体的に実行してみようという気持ちになりました。「これを実践すれば自分は更に変われる」という確信のようなものがありました。

 実践してみると、アファメーションというのは本当にパワフルで、思ったより即効性があって驚きました。言葉の力というのは、私達が考えている以上に影響力があります。そして、心の中で唱えるより、実際口に出して言った方が絶対に効果があります。

 

 最近わかったのですが、ポジティブアファメーションというのは、心の中で信じていようがいまいが、とりあえず口に出して言ってみることに意味があります。自分自身が疑っていても、信じることができなくても、とりあえず”言葉”に出して言うことで何かが変わるのです。ネガティブまみれだったかつての私は、そのことさえ信じることができず、実践するまでにかなり遠回りをしてしまいました。その効果を実感した今となっては、ネガティブまみれであっても、信じられなくても、とにかく騙されたと思ってブツブツ唱えていればもっと早く楽になれたかもしれない、と思います。

 

 

2018年

5月

22日

怒りの大元

 フラワーエッセンスを使い始めた頃、個人的に使用頻度が高く、大変お世話になっていたのが、バッチの『ホリー』というレメディでした。これは、イライラ・むしゃくしゃ・怒り・嫉妬・妬みといった、他人に対する攻撃的な感情を和らげてくれるものです。思えば若かりし頃の私は、”怒り”を原動力に生きてきたような所がありました。世の中でゆるせないこと、ゆるせない人がたくさんいて、そういう不満や疑心を糧に、反抗心や反発心をエネルギーにして、頑張っていたような感じです。

 若かりし頃は、そのおかげでいろいろなことに挑戦することができましたし、ある程度プラスに働いていた部分もあるとは思います。けれど、そういう生き方をずっと続けるのは疲れるし、とてもしんどいです。怒りのエネルギーは、相手に向かっているようで、そのベクトルは必ず自分の方にも向かっています。怒りの感情に苛まされると、まず自分の内面が爆発して、その余波でしばらくどす黒い燻煙がたち続けます。この余波によって、自分の内面が汚されていく感じがずっとありました。簡単に言うと、怒りを抱いている間は、まったく気分が良くないのです。

 結局、怒りの感情は、他人にとってだけでなく自分にとっても、良い事なんか何もないということに気づき、私は自分の中の”怒り”と対峙することに決めました。

 

 ちょうどその頃、「怒りに向き合う方法」や「アンガーマネジメント」といったテクニックが巷で紹介され始め、いくつか試してみたりもしました。けれど私の感覚として思うのは、そういったテクニックは、一時的に怒りを鎮めてくれるかもしれませんが、結局は対処療法に過ぎないということです。怒りの根本原因が癒されないままであれば、次に似たようなシチュエーションが起こった時、怒りは再びやってきます。そして、その状況は何度も繰り返されます。

 

 この根本原因を突き止める努力を避け続けていれば、どれだけアンガーマネジメントを実践しても、何十本ものフラワーエッセンスを飲んでも、怒りは生じ続け、その感情に苦しみ続けると思います。

 

 この先の人生、怒りに支配されて生きるのはまっぴらごめんだと決心し、”怒り”が生じる度に、徹底的に自分の内面に向き合い、一体私の中の何がこの怒りを生じさせているのか、自分に問い続けました。自分が本気で知りたいと願ったことは、必ず答えが返ってきます。勇気を出して己の内面に向き合ってみると、今まで気づかないフリをしていた、たくさんの”思い”や”信念”や”恐れ”が出てきました。私はその1つ1つに向き合い、受け入れ、そして手放していきました。

 

 

 ふと気づいたら、私はすっかり、「ホリー」のお世話になることが減っていました。今でも時々飲むことはありますが、大体は日々の生活で起こるかすり傷程度の感情です。私が私に正直に向き合うようになったら、怒りで自分をごまかすのではなく、あるがままの在り方を受け入れられるようになってきました。怒りは、何かを受け入れることを拒絶している、抵抗の証です。自分の中の許容が深まれば深まる程、抵抗が減り、結果怒りが生じることも減っていきます。

 

2018年

5月

16日

Turst(信頼)

 最近セッションでよく出るのが、アンジェリックの『Trust』。

 自分の中の、”信頼”を高めてくれるエッセンスです。

 

 本当はこうしたい。本当はこっちに進みたい。本当はこうありたい。今目にしている現実や状況とは別に、自分の本質的な部分が望んでいる状態が他にある場合。そんな自分になることを本心では望んでいるのに、なぜか一歩が踏み出せなかったり、現状に甘んじてしまったり。人間は変化を起こすよりも、現状を維持することに安心感を覚えるものなので、どうしても前に進むことに躊躇しがちです。

 

 セッションでいろいろな方とお話していても、皆さん本当は、自分が「どうしたいか」「どうありたいか」という心の奥底にある願望には、ちゃんと気づいています。気づいてはいるんだけれど、それが「正しい」のかどうか、そっちに進んで大丈夫なのかどうか、少し不安を抱いてしまうことが多いようです。特に、今までの人生で、自分の本質的な望みより周囲の願望に合わせることが多かった場合、自分の気持ちより周囲の望みを優先する方が、何となくしっくりきてしまうのです。その場合、自分が本当に望んでいることを優先させることに対して、罪悪感があったり、批判されるのではないかという恐れが湧いてきたりします。

 

 自分の本当の気持ちに忠実に生きる、自分の本心が望んでいる選択をする、と決めた時、重要になってくるのが、”信頼”です。自分の思い、直観、能力、導き、そういったものに全幅の信頼を置けるかどうか。誰がああ言っているとか、あの人がこうしてるとか、一般的にはこうだとかいう固定概念に縛られず、次々と沸き起こってくる疑念や恐れに惑わされず、そして何より自分が自分に対してずっと抱いてきた不信感に負けることなく、進むべき道をただ進む。

 アンジェリックの『Trust』は、そんな状況にある人に、自分を信じる気持ちを高めるサポートをしてくれます。深い部分から、「あ、これで大丈夫なんだな」と思えるようになるエッセンスです。そして、自分の元にやってくるガイダンスに対する信頼感も高めてくれるので、たとえ現実世界で孤立無援であっても、自分は1人ではない、守られている、導かれている、という感覚がもたらされ、深い安心感に包まれます。

 

 

2018年

5月

07日

タロットのこと

 うぶすなでは、ご希望されたお客様には、無料でタロットセッションをしています。私が行うタロットは、いわゆる”占い”としてのものではありません。人の未来など、その人次第で一瞬先の出来事も、いくらでも変わる可能性があります。そのような未知数の出来事を、まるでその通りのことが起こるかのように決めつけてしまうのはとても危険なことだ、と強く思うようになってから、未来予測のようなことはしないように気を付けています。

 

 私は、タロットとは、その方の潜在意識を映し出すもの、と思っています。不思議なことに、タロットのカードを広げていると、カード(なのかそのカードがもつエネルギーなのか)がメッセージを発しているように感じます。カードの出たポジションや向き、隣り合うカードとの関連性などを読み解いていくと、その方がどのような流れで今の状況に至り、本質的には何を望んでいるのか、そして何を恐れているのか、手放すべきことは何か、逆にどんどん開発していくべきことは何か、ということがみえてきます。その方の高次の意識が、カードを使ってメッセージを送っているのだと思います。私はただ、感じ取り、読み取った内容をそのままお伝えします。その時、個人的な感情や思い込みはできるだけ排除し、メッセージを伝える媒体に徹するようにしています。

 

 リーディングを無料にすることに決めたのも、そこにお金のやり取りが入ることで、どうしてもエネルギーが濁ってしまうように感じたからです。お金を頂かなくなってから、より、メッセージがクリアーで力強いものになったような気がします。初めてお会いした方でも、「どうしてそんなことがわかるんですか」と驚かれることがあります。「どうして」と言われても、私自身にもわかりません。どうしてこのようなことがわかるのか、私にも毎回わからないのです。ただ、その時に感じることを言っているだけです。

 

 タロットは、私たちが日常の様々な出来事に忙殺され、本当の自分、本当の自分の望みを忘れてしまっているような時、あなたが進むべき道はこちらですよ、と、高い次元から改めて導いてもらうためのツールのような気がします。私自身も、迷ったり悩んだりして行き詰った時は、無心でタロットを広げます。そしていつも、ハッとさせられたり、勇気づけられたリ、自信をもらったりしています。何より大きいのは、私はたった1人ではない、どんな存在かはわからないけれど、私を応援して、導いてくれる頼もしい存在がいる、という確信を得ることができ、大きな安心感に包まることです。

 

2018年

4月

27日

フラワーエッセンスの恩恵

 学年が変わり、新しいクラスになった娘。新しい先生に新しい友人、新しく入ってきた部活の後輩・・この時期特有の、緊張感と期待感で入り混じった気持ちで過ごしているようです。

 

 ここしばらく、娘用のトリートメントボトルの中身を変えていなかったのですが、数日前、「ねえねえ、今の私に合うエッセンスない?」と聞いてきました。”今の私”の状態を聞き、合いそうなエッセンスの名前を挙げようとすると、すかさず

 

「あ!言わないで!私が選ぶから」

 

 と言われました。娘はこれまで何度も、インスピレーションで今の自分にドンピシャなエッセンスを選んできました。そのためか、エッセンスの直観選びには自信があるようです。そんなわけで、私は候補になりそうなエッセンスをテーブルに並べました。娘はエッセンスの知識はほぼありません。テーブルに並んでいるエッセンスを眺め、「うーん、これかな」と言いながら、あっという間に6種類のエッセンスを選びました。

 それらのエッセンスは、『苦手な人や嫌いな人が周りにいてストレスを感じている時や、新しい環境にいて新しい概念を取り入れる必要がある時』『自分の中で長年培われてきた偏見を癒したい時』『ネガティブエネルギーから身を守り、自分にとって何が真実かを見極める』『オーラについた傷を癒す』『周囲で嵐が吹き荒れているような状況の時、周りの喧噪から離れた、自分だけの聖域をつくる』・・・といったテーマのものでした。まさに今の娘にぴったりな内容です。自分でも「すごーい!」と感心していました。

 

 選んだエッセンスでトリートメントボトルを作っている間、娘はしみじみと、

 

「あー、エッセンスがあって良かった。私、こういうのがなかったら今みたいにはなっていない気がする」

 

 と言いました。あ、そんな風に思ってくれているんだなと私は少し嬉しくなりました。小さい頃からずっと、当たり前のようにエッセンスを飲んできたので、エッセンスが本当に自分の役に立っているのか、どれだけの恩恵を受けているのか、よくわかっていないのではないかと思っていたからです。

 

 パワーオブフラワーの作り手であるイーシャさんが、ワークショップの時に教えてくれた話を思い出しました。イーシャさんの娘さんが結婚することになった時、結婚に向けての準備でとても忙しい日々を送っていたそうです。あまりにも目まぐるしい毎日を送っていて、精神的にも疲れ果てている様子の娘さんに、イーシャさんはフラワーエッセンスを飲ませてあげたそうです。すると、それを飲んで気持ちが落ち着いた娘さんが一言、「ママ、フラワーエッセンスって本当に効くのね」と言ったとのこと。

 イーシャさんは、娘さんが幼い頃からずっとフラワーエッセンスを飲ませてきて、彼女はフラワーエッセンスを飲んで育ったようなものなのに、その時になるまでその恩恵に気づいていなかったの、と驚いたとおっしゃっていました。

 

 

 ちなみに、私は息子と夫にも同じようにエッセンスを毎日飲んでもらっていますが、こちらの二人もおそらくいまいちピンときていないのだろうなという感じがします。ただ、何となく飲んでいると「良い感じ」というくらいの感覚はあるようで、エッセンスのボトルを片づけたりすると、「あれ、ぼくのエッセンスは?」と聞いてきたりします。

 

 

2018年

4月

17日

本当に私はゆるせたのか?

 ずっと、「ゆるす」ということについて熟考してきましたが、じゃあ果たして自分が誰かを完全に「ゆるす」ことができたかどうかは、どうやったらわかるのでしょうか。

 

 自分が本当にそのこと、その人のことを心からゆるせたのかどうか。私の中では、それを判断するための、ある明確な基準があります。

 

それは、

 

『自分が、無条件で、その人の健康と幸せを望めるかどうか』

 

です。

 

 心のどこかで、まだその人を恨んでいたり、ゆるせないと思っているうちは、なかなかその人の健康と幸せを祈る気持ちには至りません。しかも、「無条件で」というのがミソです。「あの人が~してくれたら」「あの人が変わったら」「謝ってくれたら」云々・・といった条件は一切なしです。ゆるすゆるさないというのは100%自分の問題なので、相手の今の状況や言動には、フォーカスする意味がありません。

 

 表面的に、「もうあのことは忘れたから」などと吹っ切れたかのように振る舞っていても、実のところは全くゆるせていないことも多々あります(考えた時に怒りが湧いてくるようなら、まだゆるせていないということです)。思い出さないようにしている、考えないようにしている、といった記憶の封印は、ゆるしのプロセスを避けている証拠でもあります。ゆるし、手放すことに抵抗している時、よくこのように「見ないように」しようとします。

 

 

 私は、過去においてゆるせないと思っていた人や出来事を思い返した際、心の底からその人の健康と幸せを望む気持ちを抱けているかどうかをまず確認します。それで、素直にそのような気持ちを抱けていない場合は、ああまだ自分の中で完全にはゆるせていないんだなと思います。そして、なぜ自分はまだその人のことをゆるせていないのだろうと考えます。私の中の何が抵抗しているのだろう。何にしがみついているのだろう。その人をみる際、自分の中の何を投影して見ているのだろう。

 そんなことを内省します。そして祈ります。私の中の抵抗を、執着を、すぐに剥がしてください、サポートしてください、力を授けてください、と。

 ゆるせない人がいるということは、自分の中に怒りを保持しているということで、その怒りが潜在意識を汚し続けているということです。そんな状況が嫌なので、私は自分がゆるせていないことを発見したら、すぐさま手放しのワークに取り掛かります。

 

 

 自分の中で、完全にゆるすことができると、記憶がよみがえった時の自分の反応が、かつてのそれとは全く違ったものになっていることに驚きます。起こった出来事は変わらないけれど、それに対する自分の見方が変わったので、反応が変わったのです。

 

 アンジェリックエッセンスに、「Unconditional Forgiveness(無条件の赦し)」という、そのものズバリのエッセンスがあります。 本気で「ゆるす」ことを決心した人には、強力な助っ人となってくれるエッセンスです。

 それ以外にも、手放しの過程をスムーズにしてくれるものや、手放しの過程で起こる感情的な葛藤をサポートしてくれるもの、怒りを和らげてくれるもの、等々、ゆるしのプロセスを楽に乗り切るために、助けとなってくれるフラワーエッセンスはたくさんあります。

 

 

2018年

4月

10日

ゆるすということ~その4~

 何年か前に私は、自分のそれまでの人生の中で出会った「ゆるせない」と思っている人(大小様々で何人かいました)や、「ゆるせない」と思っている出来事を、全てゆるしたいと強く思いました。というか、どんなことがあっても絶対にゆるそうと決心しました。なぜかというと、時々過去の記憶を思い出しては、怒りや憎しみの感情であふれかえるような経験に、もういい加減うんざりしていたからです。何かを恨むということは、自分の中でどす黒い爆弾を抱えているようなものです。その爆弾は時々くすぶり、燻煙を上げ、私の心の中を汚していました。

 確かにその人達は、ひどいことを言ったかもしれませんし、非難されてしかるべき行動をとったかもしれません。けれど、それはそれとして、私がその経験と記憶のために、この先もずっと苦しみ続けるなんてまっぴらごめんだと思いました。その苦しみから逃れるためには、私が、その人達と、起こった出来事と、そして私自身をゆるさなければいけないのだと、どこかで気づいていました。気づいていたけれど、それまでは、どこかでまだ、手放す準備ができていなかったのでした。自分が被害者であると思い、相手を悪者にし続ける方が、起こった出来事の責任は自分にあるという事実を認めるより、楽だったのだろうと思います。

 

 けれど同時に、私は私の人生で起こる全てのことに責任があることにも気づいていました。誰か他の人のせいではなく、私が選んだから、この人生を歩んでいるのです。ということは、私の人生で起こった出来事も全て、私に責任があるということです。他の人を責める理由がありません。そもそも、責めたり怒ったりしている心の状態がとにかく嫌なのです。せっかく心の平安を望んでいるのに、時々古い記憶がよみがえり、それと共に、怒りや憤りの感情が湧き上がってくるのが、もう嫌で嫌で仕方なかったのです。こんな不毛なことをこの先の人生もやり続けるなんて、無駄どころか自分にとって損にしかならないだろうと思いました。

 

 

 そんなわけで、自分の中で「過去をゆるそう」と決心してから、いろいろなことがありました(内面での話です)。ある日突然、光が降りてきてパーッと視界が開け、瞬時にあらゆることがゆるせるようになった、なんてことは起こりませんでした(それができたら楽なのでしょうけれど)。地味な、地道な作業でした。一歩進んではまた戻り、また進んではまた戻り、をひたすら繰り返しました。もう自分の中で完全にゆるせただろうと思っていたのに、しばらくしたらまだゆるせていなかったことに気づいたり、なんていうこともよくありました。

 

 ゆるしというのは、プロセスなのだなと感じています。少しずつ、心の中のお掃除を進めていく作業です。一週間やそこらで終わる作業ではありません。謙虚に、忍耐強く、地道に進めていくしかありません。

 フラワーエッセンスにもたくさん助けてもらいました。必要な時に、必要な本だったり、誰かの言葉だったり、「あ、これはサポートだな」と思うような助けもありました。人が本心から望んだことは、必ず天が味方してくれるものなんだなと思いました。

 

 自分の中で少しずつ、過去をゆるし、受け入れ、手放すことができていくにつれ、心の中にあった重荷が外れ、軽く、楽になっていきました。数年前には怒りしか感じていなかった出来事でも、気づいたら、愛と感謝の目で眺められている自分がいました。この解放感は、言葉では言い表せられなくらい、自由で、楽です。

 それから面白い事に、ある出来事(や人)がゆるせるようになったら、同時に他の出来事も同レベルでゆるせるようになっていました。1つの記憶、1つの出来事にフォーカスして癒しを進めていったら、その他の記憶や出来事も同時に癒されていった感じです。おそらく、心の許容量が増えていったためだと思います。現実に起こる出来事や、出会う人々に対する自分の許容量も広がっていきました。数年前だと絶対に拒絶していたであろう出来事や人に対しても、寛容に見られている自分に驚きます。

 

 まだまだプロセスは進行中だし、学びの半ばにいる状態ですが、内側に多くの怒りを抱えていた過去の自分と比べて、だいぶ心が軽く、穏やかになりました。この先もどんどんお荷物を捨て続けたら、もっともっと軽くなれるのだろうと思います。

 

2018年

4月

06日

ゆるすということ~その3~

 ゆるしの第二段階として、私自身が学んだ、ある深淵な智慧があります。それは、

 

『どのような出来事であれ、その出来事やそれに関わった人をゆるしたいのであれば、まずは何よりも先に自分自身をゆるすこと』

 

 です。

 

 「ゆるす」というと、もしかしたら、相手をゆるすことにまずフォーカスしてしまうかもしれません。けれど、自分が過去に起こった出来事をゆるせていないということは、そもそも、その現実を自分の人生に引き起こした、私自身をゆるせていないということです。そういう人生を選択した私を、私がゆるせないのです。人生とは、選択です。こんな人生じゃなかったら、こういう親に生まれていたら、あんな環境で育っていれば、あの時ああしてれば、ああ言っていれば、云々、いろいろとたらればを考えてしまうものですが、全ての道と環境は自分が選んだものです。その事実を認めたくない思いが根底にあると、自分ではなく、他人を責めたくなります。

 

 自分の人生と、人生で起こった出来事全ては、私に責任がある。私が選んだものである。その事実を受け入れたくないがために、怒りのベクトルを外側に向け、過去を悔やみ、自分の身に起こった不幸を誰かのせいにしたがるのです。

 

 

 自分をゆるすというプロセスは、自分の身に起こった全ての出来事を、ギフトだと受け止めることでたやすくなります。それが起こった背景には、必ず深淵な意味があります。メッセージがあります。そこに気づくことで、受け入れやすくなります。過去を責め、悔やんでいる間は、学びはありません。ただいたずらにネガティブな感情を生み出し、その感情に自分自身が苦しみ続けるだけです。

 過去から学び、成長し、強くなった自分に気づくことで、どんな出来事でも、そこからポジティブな意味を見つけることができます。感謝することができます。

 

 過去に起こった出来事は事実として変わらなくても、それに対する自分の見方が変わることで、出来事そのものの意味が完全に変わります。自分を痛めつける悪しき記憶から、私を成長させてくれた深淵な経験、に変わります。とらえ方が変われば、感情も変わります。悩まされることもなくなります。記憶はなくならなくても、それに煩わされることがなくなるので、苦しみはありません。

 

 災いとみなすか、糧とみなすか。とらえ方ひとつで、過去に縛られ過去に苦しめられる生活から、過去を手放し、過去から学び、過去に感謝できる生活へと変わっていきます。

 

2018年

3月

27日

ゆるすということ~その2~

 ゆるしの第一段階として、自分の中で、その出来事(もしくは人物)を「ゆるす」と決心する、という大事なプロセスがあります。

 

 当たり前のことのようで、実はこの決心がなかなかできていないのが実情だと思います。自分は、本当に、心の底から、微塵の迷いもなく、その出来事(人)をゆるそうと思っているのか。

 

 微塵の迷いもなく、というのが難しいところかもしれません。心のどこかに、ゆるすことを妨げている思い(怒り)や恐れがあったりするものだからです。

 

 どこかに、相手に対する復讐心がないでしょうか。相手を傷つけたい、反省してほしい、自分に詫びてほしい、変わってほしい、そういった願望はないでしょうか。

 

 また、自分がもし、このことをゆるした場合、どんなことが起きるか。そのことが起きる、つまり”変化”が起こることに、不安や恐れを抱いてはいないでしょうか。葛藤を手放した時に、何かを失うのではないか。相手をゆるしたら、私が何かを失うのではないか。

 

 あまりにも長いこと、怒りを抱いて生きてきたから、怒りを保持しながら生活することに慣れてしまい、おかしなことに、怒りを抱いている状態に妙な安心感を抱いてしまうこともあります。怒りを抱えながら生きていくことは、本来窮屈で苦しいことであるはずなのに、変わることよりも、変わらずにいることの安心感の方に流れてしまうのです。これも、手放しを妨げている大きな要因の1つであることが多いです。ゆるすこと、怒りを手放すというプロセスは、強い意志とエネルギーが必要なので、それを行うだけの心のゆとりがないと、手放す覚悟がなかなかできないかもしれません。その場合、一見変わらないでいる方が、楽なように感じてしまいます。

 

 また、怒りを抱えて、不幸せな自分でいることが、相手に対する復讐だと(無意識下で)思っている場合もあります。特に、ゆるせない相手が親や身近な人であるケースに多いです。ハッピーな自分より、苦しんでいる自分をみせることで、相手にも苦しんでほしいのです。私が不幸なのはあなたのせいだと、身をもって見せつけたいのです。

 

 

 過去を引きずり、過去の記憶の中で生きることがあまりにも当たり前になり、それが自然なこととして疑うことすらしなくなっている、という状態が、もしかしたら最も一般的かもしれません。何度も何度もリピートしてくる過去の記憶と、その記憶に付随してくる感情に自分自身が慣れてしまい、疑問を抱くことすらない状態です。特に問題意識をもつこともなく、それがごく自然なこと、当たり前のこと、変わる必要がないことという認識になっているのです。

 変わる必要がないと思っている間は、手放そうという意識さえ生まれないかもしれません。それは、その人にとってまだそのタイミングではないということです。

 

 ただし、もし自分が気づいてしまったら、それはもう後戻りはできません。プロセスは始まってしまったのです。自分の中のどこかで、「ゆるしたい」「手放したい」という思いが芽生えてきたなら、それはもう、手放す時期に来ているということです。深い部分からやってくるウェイクアップコールは、無視しようと思ってもそうはいかないものです。聞こえないふり、気づかないふりをしても、繰り返し、その声はやってきます。

 

 

2018年

3月

22日

ゆるすということ

 しばらく前に、息子のクラスで喧嘩が起こり、ある男の子がもう1人の男の子の顔に軽い傷をつけてしまったことがありました。その出来事をその日の晩酌時に夫に話していたら、夫が子供の頃、友達同士で戯れていた時に負った傷の話になりました。夫は、その時のことをずっと忘れていたようなのですが、話しているうちにいろいろな記憶が蘇ってきたようでした。

 

「そういえばあの時、とばっちりをくらって怪我をしたのはオレの方なのに、先生は『ボーっとしていたお前が悪い』とかいってオレが叱られたんだ」

 

 と夫。そんなことを思い出したせいか、その時のやるせない、悔しい思いがふつふつと湧き出てきたようで、

 

「あー、いろいろ思い出したら腹が立ってきた!もうやめよう、この話」

 

となって、その話はおしまいになりました。

 

 それを聞いて私は、夫はまだその時のことをゆるせていないのだなと感じました。話している間、夫の怒りの感情がこちらにも伝わってきました。もうその出来事が起こってから30年以上も経っているにもかかわらず、根本的にその出来事をゆるせていないので、思い出すと怒りが湧いてくるのです。

 

 このような”ゆるせないこと”は、小さなものから大きなものまで、多くの人が未解決の問題として、内側に抱えているものです。もう還暦をとっくに過ぎた女性タレントが、とあるテレビ番組で、子供時代に父親から受けた心理的虐待の話をしながら泣いていたことがあります。過去を手放せているかいないかは、年齢や、起こった時期は関係ありません。その人が、自分の身に起こった出来事を受け入れ、ゆるせているかどうか次第です。

 

 夫は、少年時代に起こったある理不尽な出来事を、ゆるさないという選択肢をとりあえずとったようでした。今は彼の中でゆるすタイミングではなかったのかもしれません。まあ普段は忘れているようなので、日常生活に支障をきたすような深刻な問題にはなっていないようです。

 ただ、その人の中で、その出来事(やそれに関わった人物)のことを常に反芻し、その度に怒りや憤りや悲しみなどネガティブな感情に苛まれ、苦しみ続けているようであれば、それは確実に、その人のエネルギーレベルを下げ、幸せを阻害する要因となっています。相手を恨んでいるようで、実は、自分自身が、自分の思いによって不幸になっているのです。

 

 ゆるすゆるさないというのは、相手があるようで完全に自分自身の問題です。相手は関係ありません。自分を傷つけた人が反省していようといまいと、忘れていようと覚えていようと、生きていようと死んでいようと、相手の今現在のシチュエーションは全く、これっぽっちも、微塵も関係ありません。ゆるしというのは、100%自分の問題です。

 恨み、ゆるせないと思っている人がいたら、その人に報復したい、自分の思いを伝えたい、と考えるのは、人間としてごく自然なことなのかもしれません。けれど、仮にその人に復讐をしたり、自分の思いを伝えられたとして、それができたからじゃあその人をゆるせるかというと、そうとは限りません。自分の中でゆるせていなければ、相手に何をしたって、相手がどう変わったって、ゆるせないものはゆるせないままです。

 

 他人の問題は、他人が責任を負うもので、私ではありません。私は、私の問題の責任を負えばいいだけです。どうせ私の問題に相手は関係ないのだから、もうその人のことを考えるのはやめて、ベクトルを完全に自分に向けた方が、手放しがスムーズに進みます。

 

 

2018年

3月

14日

恐怖心

 昔、誰かの本の中で、

 

「怖がりな子供は将来有望」

 

と書かれていたのを目にした時、一瞬なぜだろうと思いましたが、その理由を読んで納得したことがあります。それは、

 

「怖がりということは、想像力が豊かであるということだから」

 

 ということでした。確かに、物事を怖がる背景には、イマジネーションの力が働いています。目には見えていないものを感じる力や、今後起こるかもしれない出来事を予測する力、そして、自分という存在よりも大きな、抗えない力が存在するという認識があるからこそ、得体のしれない恐怖というものを感じるのではないかと思います。それらは生きていく上で、助けとなってくれる要素でもあります。周りと調和しながら、謙虚に生きていくために、想像力と共感力は大きな力となってくれます。

 

 ただ、いたずらに恐怖心ばかりが刺激されたり、不安ばかりが肥大化していってしまうと、圧倒されて足がすくみ、望ましい行動がとれないという状況も起こり得ます。

 

 特に、敏感で想像力の豊かな子供は、恐怖心を覚えやすい傾向があります。そんな時に助けとなってくれるフラワーエッセンスといえば、アスペン、ミムラス、アンジェリカ、ダンデライオン、Freedom from Fearあたりでしょうか。こういった不安と緊張を癒すエッセンスに、プロテクション系のエッセンスなども入れてトリートメントボトルを作れば、怖がっている子供にぴったりのボトルができそうです。

 

 恐怖心というのは、人間の生存本能の一部だといわれます。自分の身を守るための、本能的な感情です。元々私達に備わっている感覚なのだから、恐怖心を感じること自体は責める必要はないと思います。実際、本能的に恐怖心を感じる時というのは、私達の第六感が、何かを伝えたい時だったりします。

 恐怖心をいたずらに悪者扱いするのではなくて、うまくバランスをとりながら、必要な時には活かしながら、付き合っていきたいものです。

 

 

2018年

3月

08日

愛と赦しと人間関係

 先日、4年生の息子のクラス懇談会に行ったら、女の子のお母さんが何人か、最近女子特有の人間関係問題が出てくるようになった、という話をされていました。そういえば娘の時も、大体4年生頃から友達同士でグループを作るようになって、その中でいざこざが起こったり、仲良くしていたはずの友達と突然口を利かなくなったり、かと思えば今まであまり話さなかった子に急接近するようになったり・・といった、面倒な”女の子問題”が出てきたように思います。

 男の子は、付き合い方があっさりしているので、気が合わない子とは最初から無理して付き合うことがないし、後腐れもありません。見ていると、思ったことはお互い率直に口に出していますし、時には激しく怒ったり文句を言ったりして、ある意味コミュニケーションがダイレクトにとれています。また、何となく仲のいいグループのようなものはあるようなのですが、女の子のように特定の人とひたすらベッタリ付き合うということがあまりなく、関係は割と淡泊です。そんな感じだから、女子のようにドロッとした問題が起こりにくいのかなと思います。

 

 女子特有の問題は、中学生になった娘も相変わらずちょくちょく悩まされていますが、小学生の頃と比べて、対処の仕方も多少は学んできたのかなと感じます。

 そういえば、娘が小学校高学年の時、例によって女の子問題が起こり、そのことで相談されたことがありましたが、その時に、

「こういう女の子特有の面倒な人間関係の問題は、大人になってからも続くよ」

と言ったところ、え、そうなの、と愕然とした表情をしていたのを思い出します。

 

「そうだよ。お母さん達だってPTAでそういうのあったよ。あ、そうそう、おばあちゃんも、習っている習字教室であったってこないだ言ってた。ってことは、一生続くってことだね。あははは、頑張ってね!」

 

「・・・・」

 

 大人になったらこういう面倒な問題には悩まされることがないだろうと思っていた娘にとっては、ショッキングな事実だったに違いありません。

 けれど私が言いたかったのは(その後ちゃんと話しました)、こういうことでした。世の中にはいろんな人がいるし、これからもそういう複雑な人間関係の中で生きていかなければいけない。自分と気が合わない人と出会わないようにするのは無理なことだし、これからだって面倒な関係性に巻き込まれることがきっとあると思う。どうせ避けて通れない問題なのであれば、それに対処できるスキルを身につければいい。今後、人間関係の問題が起こった時、相手を拒絶して腹を立てるのではなくて、その人を受け入れられるようになったら、悩みに苦しめられることなく、穏やかな心をキープしたままでいられるよ。今抱えている問題は、そういうスキルを身につけるためのレッスンだと思えばいいんじゃない。

 

 ・・話しながら自分で気づいたのですが、かつての私は、どうしても受け入れがたい人が目の前にいた時、完全に拒絶してシャットアウトしてしまっていました。嫌だなとか離れたいなとしか思っていなかったので、そういう人が身近にいるだけで苦痛でしたし、とんでもないストレスを抱えていました。今思えば、何て傲慢で失礼なことをしていたんだろうと恥ずかしくなります。

 娘にも偉そうなことを言えないくらい、かつての私は人づきあいがとても下手くそでした。それが、だいぶ最近、人を受け入れられるようになったのは、自分の内面が大きく変わってきたからだろうと思います。他人を変えようとするのではなくて、自分が変わること、このことにひたすら一点集中するようになってからです。

 

 「じゃあ、どうやったら受け入れられるようになるの?」

 

 と娘に聞かれた時、私はこう答えました。

 

「とにかく、その人のことを理解しようとするんだよ」

 

 私も完璧にできているわけではありませんが、否定しそうになる気持ちを抑えて、とにかくその人のことを理解するように努力する。努力、努力、努力。どうしてその人はそういう言動をとっているのか。どうしてそんな態度を私にとってくるのか。言葉や態度の裏にある、その人の事情や”思い”に目を向けるようにします。そして、更に大事なのが、どうして今その人は、自分の目の前に現れているのか、ということに気づくことです。その人は、私の中の何を鏡として見せてくれているのだろう。私に何を教えようとしているのだろう。私はこの出会い、そしてこの出来事から、何を学べるのだろう。完全にはできなくても、少しでも深く、理解できるように努めます。そして、その出会いを、自分自身の成長の糧となるように、感謝の気持ちで受け入れます。

 

 

 他人に対する理解を深めてくれるエッセンスもいろいろありますが、最近の一押しは、アンジェリックの「ホ・オポノポノ」。部活内での様々な問題に日々直面している娘も、今飲んでいます。だいぶ他者を受け入れる能力が高まっているようで、いろんな気づきも起こっているのがわかります。そして面白いのが、こういうエッセンスを飲んでいると、問題の解決、つまり自分の理解を深めてくれるような出来事が実際に起こるということです。全然関係のない友達からの助言だったり、今までとは全く異なる価値観との出会いだったり。視野が広がると、受け入れ能力も高まります。

 

 「ホ・オポノポノ」は愛と赦しの両方のエネルギーが入っているエッセンスだと感じます。自分の内面が、その二つのエネルギーで満たされていくので、拒絶そして怒りに苦しんでいる人には、お勧めのエッセンスです。

 

2018年

2月

28日

「ツリー・オブ・ライフ」にみる父親との問題

 何年か前に見た映画で、とても印象に残っているものがあります。テレンス・マリック監督の「ツリー・オブ・ライフ」。

 アメリカを舞台にした、ある一家の物語なのですが、全体を通して映像がとても美しく、人生と宇宙との繋がりが絵巻物のように壮大に描かれ、深く心に染み入ってきます。

 

 私は、主人公のとてもナイーブな少年は、テレンス・マリック監督自身なのではないかなと見ていて感じました。愛情豊かで穏やかな母親に対して、ブラッド・ピット演じる父親は、厳格かつ頑固。自分で作り上げた”強い”父親像を必死に演じているのですが、その息苦しさを主人公の少年は勘づいています(そして自分も苦しむ)。自分を大きく見せるための父の様々な言動が、実は内面に潜むコンプレックスの裏返しであることにも気づいているのですが、そこは実の息子にとって受け入れがたい複雑な現実でもあります。父親を受け入れたい気持ちと、拒絶する気持ちとの間で揺れ、葛藤を抱えたまま少年は大人になっていきます。

 家族が精神的に父親に支配されている閉塞感が伝わってくる映画で、見ていて正直苦しくなる部分もありました。誰でも、”父親”との問題は心のどこかに抱えているものなのではないでしょうか。

 

 中でも印象に残っているシーンがあります。それは、成人して立派な職業に就いている主人公が、電話で父親と話しているシーンです。ショーン・ペン演じる主人公は、もう50代くらいにはなっていると思われるのですが、電話で話す様子が、まるで少年なのです。

 

「うん、わかった父さん」

「父さんの言うとおりにするよ」

 

 といった(少々うろ覚えですみません)感じのセリフだったと思うのですが、その瞬間だけ、主人公の中年男性が、すっかり少年に戻っていました。

 

 

 こういうことは、映画の中だけでなく、実際にも起こっていることです。精神的に支配的な親の元で育った人が、大人になってもその支配から脱却できずにいる場合、親と対面した際、瞬間的に少年・少女の心理状態に戻ってしまうのです。ほとんどは無意識かもしれません。親自身も、自分が我が子を支配したつもりもないし、ましてや大人となった今でもその支配力が続いているなどという認識はないかもしれません。

 これは、親が変われば自分も変われるということではなく、完全に自分の問題です。自分が、かつて自分自身で作り上げた殻から自ら抜け出さなければ、本当の意味で自由にはなれません。

 

 もし、親と向き合っている時、自分が子供に戻っているなと感じているようだったら、自分の中でまだ親の呪縛を強く引きずっているのかもしれません。それは本来息詰まる状況なのですが、不思議なことに、「変わる」ということに対する恐怖心が強いと、そのままでいることに安堵感を覚えるものです。変わるよりは、今のままでいた方が、何となく安心してしまうのです。変化を起こすには、莫大なエネルギーがいるものです。

 

 

 

 ちなみにこの映画の父親役は、本来ブラッド・ピッドではなく他の役者さんが演じる予定だったのだそうです。私も、ブラッド・ピッドと言えば若かりし頃の王子様的なイメージが強かったのですが、この映画の、自ら作り上げた虚像ゆえに自ら苦悩する父親の姿は、本当に見ていて子憎たらしいほどリアルでした。この父親のいびつな行動の背景には、「息子たちに、自分のようになってほしくない」という本心が実はあって、愛情がないわけではなく、愛情が歪んだ形で表に出てきてしまっているだけなのです。自分の思いを、ストレートに出せない事情が、この父親なりにあるのです。そういった1人の男性としての不器用な生き方と、時折見せる弱さ、葛藤なども、ブラッド・ピッドは繊細に演じていました。

 おかげで、「愛情をストレートに出せない父親」に対する理解が、私の中でかなり進みました。

 

 

2018年

2月

20日

エッセンス選びは直観で

パープルクロッカス
パープルクロッカス

 今から数年前。その頃小学生だった娘が、学校から帰ると、フラワーエッセンスが並んでいる棚の前に行き、おもむろにあるボトルを指さして、

 

「お母さん、これ飲んでいい?ねえ、いい?」

 

と聞いてきました。今すぐに飲みたい、今飲まないと苦しい、といった息せき切っている様子でした。

 

 普段そんな風に飲みたいエッセンスを自分から指定してくることはありませんでしたし、そもそも数あるボトルの中でなぜそれを選んだのか(娘はエッセンスの知識がほとんどありませんし、ボトルに書かれている英語も読めていないはず)よくわかりませんでしたが、もちろん私はいいよと答えました。

 

 それから1週間くらい経ってから、私は担任の先生との面談で、娘がエッセンスを飲みたいと言ってきたあの日、クラスの中で娘がちょっとしたショックを受ける経験をしていたことを知ったのでした。それは、長い人生の中では誰しもが一度くらいは味わうであろう、ほろ苦い類のものです。

 

 その話を聞いて私は、娘がなぜあの日にあのエッセンスを欲していたのか、ようやく腑に落ちました。娘が選んだエッセンスは、パワーオブフラワーの「パープルクロッカス」。”悲しみ”に対応するエッセンスです。悲しみや恥辱感、罪の意識、批判的な思い、そういった胸に集まるネガティブなエネルギーを優しく緩和してくれます。作り手のイーシャさんは、この花の形は人間の肺に似ているといいます。

 人間の各感情は、諸臓器と繋がっているそうなのですが、悲しみは肺に集まるといわれています。長年深い悲しみを抱き続けていると、肺に不調が表れることがあります。そういえばオーストラリアンブッシュのイアンさんも、孤児院の子供は肺炎に罹る率がとても高いとおっしゃっていました。両親がいる子供より、悲しみや寂しさが強いからなのでしょうか。(ちなみにイアンさんは、そうした子供達に無償でエッセンスを送っているとのことで、エッセンスを飲むようになったら、子供達の罹患率が急速に下がったのだそうです)実際、悲しくつらい経験をした時に、肺がキューっと握られたような、物理的な痛みを感じることがあります。

 

 

 この出来事のことを随分忘れていたのですが、つい先日、中学生になった娘が再び、エッセンスの棚のじっと眺めながら、

 

「お母さん、この2つのエッセンスが気になる」

 

 と言ってきました。パシフィックの「ハートスピリット」と、コルテの「ピンクイルカ」。両方とも、ハートをオープンにし、感情や人間関係の問題を楽にしてくれるものです。中学校生活を送る中で、日々様々な人と接し、何かと胸に抱える思いなどもあることでしょう。父親にシャッフルしてもらい、目をつぶってどちらを飲むべきかを選び(ピンクイルカが選ばれました)、その日から毎日自ら水に入れて飲んでいます。なんとなく、表情が柔らかくなり、優しい雰囲気になってきました。緊張感が緩和されて、攻撃的な感情がほぐされてきている感じです。口ごたえや、私に突っかかってくることも減りました。

 

 そういえば、思春期の入り口に差し掛かったくらいの頃にも、いきなり「このエッセンスが飲みたい」といってきたことがありました。パワーオブフラワーの「ニューライフバランス」。変容の時期を迎えている人に良いエッセンスです。

 

 こんな風に、直観が命じるまま、どんぴしゃで自分が最も必要としているエッセンスを選ぶことができるなら、私のようなプラクティショナーなんて本当はいらないんじゃないかと思ってしまいます。子供は先入観が少ないので、特に迷いなく選べるものなのかもしれませんが、こうした能力は本来誰にでも備わっているものです。大人でも、エッセンスを選ぶのに迷ったら、自分の直観を信じて、その導きに従って決めるのが一番いいのかもしれません。

 

2018年

2月

15日

祈りのちから②

 ミッション系の幼稚園でいわゆるクリスチャンの”お祈り”を経験していた私ですが、家には神棚もありました。お墓参りをする際や、仏壇の前でも手を合わせます。なんとなく、キリスト教風の”お祈り”と、神棚や仏閣での”お参り”は別物、というイメージをずっと抱いていたのですが、次第に私の中で、これらの行為が共通するものとして感じられるようになってきました。

 祈りとは、高次のスピリットに畏敬と感謝の念を伝え、そして時には助力を願い、自分の意思を表明する。こうした、自分と”神”的な存在とのコミュニケーション手段であるような気がします。祈りとは相互の力が働くものだというのも、最近強く感じています。つまり、こちらから高次の存在に一方的に何かを伝えるだけでなくて、向こうからも何かしらフィードバックがもらえるものだということです。

 

 何年か前、実家に帰省した際、仏壇の前で手を合わせて拝んでいました。そこには亡くなった祖父母が祀られているのですが、私はその時、自分の両親(祖父母にとっては息子と嫁)をいつも守っていてください、とお祈りしていたのです。すると、全身がとても暖かいエネルギーで満たされていくのを感じました。物理的な熱を感じるほどの、ビリビリとした、力強いエネルギーでした。優しい愛のエネルギーに包まれながら、私はそれが祖父母からのメッセージであると感じました。

 特に仏壇がなくても、亡くなった人のことを思い、こちらからメッセージを送ると、何かしらの形で返答が返ってくることが多々あります。それは、温かいエネルギーだったり、パッと目に飛び込んできた文字だったり、音楽だったり、動物だったり、繰り返しやってくる単語だったりといろいろです。スピリットは、物理的な肉体を持たないので、こうした形で生きている人間とコミュニケーションをとろうとするようです。

 

 また私は普段から、何となく調子が悪いなとか、外部からあまり良くないエネルギーをもらってしまったなと感じる時は、今住んでいる家にある神棚に向かって手を合わせることにしています。そして神様に、私を苦しめている、私に属さないエネルギーを全て取り除いてください、とお願いします。すると、全身総毛だつような感覚と共に、私のエネルギーフィールドにあったネガティブなエネルギーがスーッと浄化されていくのを実感するのです。その後はきまって、スッキリと憑き物が取れたような感じがし、思考もクリアーになって体も軽く感じます。

 

 神棚にも大変お世話になっていますが、悩んでいることや疑問などがあると、私は場所や時間を問わず、とりあえず高次の存在に助けを求めます。教えてください、とか、助けてください、とメッセージを送るのです。そうすると、何らかの形で答えがもたらされたり、助けとなるようなヒントがやってきたりします。それも、具体的な言葉でやってくることもあれば、本や人を介してもたらされることもあれば、気づきという形でやってくることもあります。

 

 

 手を合わせて心静かに祈っていると、頭のおしゃべりが静かになり、高次の存在とのコミュニケーションがとりやすくなるように感じます。”繋がる”感覚がより得やすくなる感じです。様々な祈りの形がありますが、自分という存在を謙虚に受け止め、人知を超えた力の助けを借りることができる、宗教を超えて私達を助けてくれる手段だと思っています。

 

 

2018年

2月

05日

祈りの力

 私が通っていた幼稚園は、聖母マリア様を名前に抱くミッション系の幼稚園でした。家がクリスチャンだったというわけではないのですが、母は昔近所の教会に時々遊びに行っていた経験があるそうで、何となく良いイメージがあったようです。

 

 幼稚園では、朝の登園後すぐと帰る前に、きまってみんなでお祈りをするのが習いでした。そのお祈りの文句は、「天にまします我らが・・」で始まる文語調の内容で、出てくる単語も「おんみ(御身)」とか「おんな(御名)」といったちんぷんかんぷんなものばかり、幼稚園児には一体何の意味のお祈りなのかさっぱり理解できないまま、ただ呪文のような感覚で唱えていました。

 

 とはいえ、そんな意味不明とも思われるお祈りの文句でしたが、唱えていると何となく厳かな気持ちになり、心が静まるような感覚があったのを覚えています。今でも、お友達や先生方と手を合わせて頭を垂れ、一緒に同じ祈りの文句を唱えているシーンが脳裏に浮かんできます。短い時間でしたが、あれは今思えば癒しの時間でした。

 

 その後、幼稚園を卒園してからはずっとお祈りとも遠ざかった生活を送り、やがて私は大学に入るために上京しました。大学3年生くらいの頃、クリスチャンでもない私は、ある時クリスチャンの友人に誘われたことをきっかけに、聖書研究会というサークルに顔を出すようになりました。そこでも、毎回必ず皆で行う「お祈り」がありました。それは、幼稚園の時に唱えていたような、決まった祈り文句ではなく、その時その時、牧師さんやメンバー達が即興(?)で唱える内容でした。例えば、その時風邪をひいている人がいたら、その人のために、「〇〇さんの風邪が早く治りますように」と言ったり、留年しそうな人がいたら、「△△さんが無事試験をパスできるようにお導き下さい」と言ったり。それは、お祈りといえば幼稚園時代のあの決まり文句しかイメージになかった私にとって、とても新鮮な経験でした。お祈りって、こんな風に自由に言ってよいものなのだということをそこで初めて知りました。

 そしてやはり、そこにいる人たちと一緒に手を合わせ、同じ空間の中で、1つのことを祈っていると、何ともいえない穏やかな、優しい、厳かな空気が場を満たすのを感じたものです。一度だけ、何のことを祈ってもらったのか今となっては全く覚えていないのですが、私のために皆が祈ってくれたことがありました。その時は、ビリビリと感じる程、力強い、暖かなエネルギーで自分が満たされていくのを感じました。それは未知の体験で、怖いくらいでした。祈りというものが、何か目に見えないパワーを引き起こすもので、本当に癒しの力があるのだということを、身をもって経験したのでした。

 

 大学卒業後、再び祈りとは無縁の生活に戻り、毎日が慌ただしく過ぎていきました。結婚して子供が生まれ、子育てがひと段落しつつあるのを感じ始めた頃、私はいろいろなきっかけがあって、また「祈り」という不思議な力に興味を抱くようになりました。祈りのことをいろいろと調べていくと、海外には、「祈り」の力を癒しのツールとして使っている人々がたくさんいるということを知りました(キリスト教系の団体が多いようです)。祈りの力だけで病気や怪我の人を治したり、精神的苦痛を和らげたりといった、具体的な実績がたくさんあり、祈りの力を科学的に証明する実験もあるそうです。

 とあるアメリカ人の神父さんの本を読んでいたら、次のようなことが書かれていました。

 

「イエス・キリストが始めたキリスト教が、短期間であっという間に全世界に広がっていったのは、イエス・キリストの教えた内容が人々の心を打ったからだけだろうか。イエス没後、弟子や教徒たちが行った癒しの力が本物で、強力だったからというのが、信者が一気に増えた大きな理由ではないだろうか」

 

 私はこれを読んでなるほどそうかもしれないなと思いました。宗教や教えが多くの人々に受け入れられていく理由は、やはりその宗教や教えによって、”実際に”癒されたり救われる人々が存在するからなのではないかと思うのです。

 そしてキリスト教の場合は、祈りの力というものがとても大きな影響力を持っていました。祈りのメカニズムに関してはよくわかりませんが、とにかく何かしらのパワーがあるものには間違いないようです。私自身は何の宗教にも属してはいませんし、これからもそういった団体に入ることはないだろうと思います。ただ、「祈り」の持つ力は実体験も含め確信しているので、宗教とは切り離して、この「祈り」の癒しパワーをもっと自由に、柔軟に、人々が使っていけたらいいんじゃないかなと思っています。

 

 

2018年

1月

30日

フラワーエッセンス依存にならないために

 年々新しいブランドが立ちあげられ、既存のメーカーでも次々とニューエッセンスが登場しているフラワーエッセンス業界。

 自分が一体どのフラワーエッセンスを飲んだらよいのか、迷われる方もいらっしゃることと思います。調べれば調べるほど、膨大なエッセンスの量と情報に圧倒され、あれもこれもほしくなってしまうかもしれません。

 

 最近は、「宇宙と繋がる」「魂と一体化する」「神意識と繋がる」「アセンションを加速させる」といった、壮大なスケールのエッセンスもいろいろと出ています。そういったエッセンスの説明を読んでいるとワクワクしますし、早く飲んで一気に変わりたい!と思うかもしれません。

 確かに、エッセンスによっては、宇宙規模の高次元のエネルギーを含んでいるものもあります。こうしたエッセンスは、飲む人が飲めば、意識が高まり、自己変革が起こったりします。ただ、この手のエッセンスが最も効果的に作用するのは、ある程度心のクリーニングが進んでいる方に限られるように思います。

 幻想をくじくように聞こえるかもしれませんが、潜在意識の中に、手放すべきお荷物がまだまだたくさんある人が、高波動のエッセンスを飲んだとしても、「それなりに」しか作用しないものです。宇宙と繋がるエッセンスを飲んだからといって、いきなりその人の波動がビューンと上がって、雷に打たれたように覚醒が起こる・・なんていうことはまずありません。むしろ、その人が抱えている心のお荷物を手放す方向に物事が動きます。その人が見ようとしてこなかった、ずっと避けてきた課題が浮上するかもしれません。”事件”が起こるかもしれません。別れがあるかもしれません。エッセンスとは、そのように作用するものです。

 それは別に、エッセンス(高次のエネルギー)が意地悪をしようとか、罰を与えようとしているわけでは決してなくて、むしろ、その人が真の幸せを得るために、手放すべき心のお荷物に気づかせようとしてくれているのです。

 

 潜在意識の中に、過去の癒されていないトラウマやら悪しき記憶やらネガティブな思い込み、信念、固定観念などがたくさん残っているのなら、まずはとにかく、それらを1つ1つ浄化していくのが先決です。その課題を見事にクリアーした暁に、ようやく真の覚醒へのスタートラインに立つことができます(そしてこれもまた果てしなく長い道のりになることでしょう)。頭のおしゃべりに日常的に強い影響を受けているなら、宇宙(ハイヤーセルフ、神、大いなる存在、etc..)と繋がりたいと望んでも、マインドに邪魔をされて宇宙からのメッセージが受け取りにくくなってしまいます。

 自分がそういう状態だと感じているのであれば、まずは「トラウマを癒す」「執着を手放す」「浄化を促す」といったテーマのエッセンスを飲むことをお勧めします。そして、気が遠くなるかもしれませんが、1つ1つ、意識的に、お荷物を手放していきましょう。感情に向き合うワークが有効です。フラワーエッセンスは、時として痛みを伴う浄化の過程を優しく、かつ強力にサポートしてくれます。浄化や気づきのスピードが高まり、殻が破れる行程をスムーズに導いてくれます。とらわれ、停滞している状態から、次の段階へと促してくれます。

 1つ1つ心のお荷物を手放し、殻を破っていくと、どんどん楽に、軽くなっていきます。そして何より、潜在意識のクリーニングが進んでいくと、目の前に広がる現実が変わっていきます。出会う人や、引き寄せる物事、現象が、より望ましいものになっていきます。たとえ問題が起こったとしても、もう以前の自分のようにとらわれた見方でみることがないので、大きなダメージを受けることなく、自然な形で解決へと導かれるようになります。物事をスケールの広い見方でみることができるようになれば、かつての自分であれば動揺していたような出来事が起こっても、動じることなく、落ち着いて対処できます。

 

 フラワーエッセンスは、あくまでサポーター、助けてくれる存在でしかなく、その人が変わるためには、意思の力と行動、努力そして忍耐がより重要な要素になります。ただ飲んでいれば変われるわけではないので、過剰に期待したり、全面的に依存してしまわないように、上手につきあっていくのが良いかと思います。

 

2018年

1月

23日

困ったらリラックス

 私は映画が好きで時間がある時によく観るのですが、いろいろ観ていると、演じている俳優さんには、主に二つのタイプがあるように思います。1つ目は、頭で考えて、緻密な計算をした上で演じるタイプ。もう1つは、頭で考えず、感覚的に演じるタイプ。憑依型と言われる俳優さんがこれです。憑依型のタイプの方は、演じている時に目が変わっていることが多いですが、オーラや、場合によっては体質まで変化することがあるそうです。霊的な世界で自分以外のものとシンクロしている状態、まさに憑依現象そのものです。

 私が大好きな、憑依型タイプのある女優さん(アメリカの方)がいるのですが、その方が以前、何かのインタビューで、難しい役を演じる時にはどのように役に取り組んでいるのですかと聞かれた時、次のように答えていました。

 

「何も考えず、何もしない。ただ、リラックスするのよ」

 

 本番前、緊張していたら、1人静かになれる場所に行って、深呼吸したりしてリラックスすることで、役にスッと入り込むことができるのだそうです。

 

 

 

 リラックスした状態というのは、緊張している状態より、高いバイブレーションの情報が入ってきやすくなります。高い次元の叡智と繋がるのも、こんな時です。

 ノーベル賞クラスの大きな発明をされた方が、決定的なアイディアを思い浮かんだ瞬間のことを聞かれると、似たようなことを述べていることが多く、興味深いです。実験に煮詰まって散歩に出た時にふとヒントがやってきた、お風呂に入ってボーっとしていたらアイディアが浮かんできた、夜布団の中で寝ようとしていたらいきなりひらめきが降りてきた、等々。研究に没頭している時ではなく、むしろ少し研究から離れた時に、アイディアが降りてくることが多いようです。

 夜眠りにつく前と、朝起きてすぐの半覚醒状態の時というのは特に、あちらの世界との繋がりが強くなり、この時に高い次元からの情報がやってくることが多いと言われています。いずれも、緊張していたり、頭のおしゃべりが鳴りやまない状態とは異なる、深いリラックス状態といえます。

 

 何か問題を抱えていたり、物事に煮詰まっている時、一度そこから離れてふっと一息つくことで、自然と解決法に導かれることが多いのは、心と頭がリラックス状態になり、高い次元とのアクセスが可能になるからです。物事は、より高い観点でとらえた時に、解決策が見えてきます。答えがほしかったら、まず自分のバイブレーションを上げるのがお勧めです。一生懸命頭で考えて、うーんうーんと唸って答えを絞り出そうとするより、思い切ってリラックスした方が、バイブレーションが上がるので、実はより簡単に答えを得やすくなります。

 どんな問題にも、必ず解決策はあります。それは、自分が予想したり期待していたやり方とは異なるかもしれません。けれどそもそも、私達が頭で考えることをはるかに凌駕しているのが、宇宙の叡智というものです。人知を超えた導きを信じて、そこに合わせていった方が、よりスムーズに、より楽に、望ましい方向に導かれていきます。

 

 

2018年

1月

19日

エンパスであるということ

 エネルギーに対して敏感体質な人のことを”エンパス”といいますが、日本人は特にこのエンパスの比率が高いといわれています。

 

 エンパスは、場所や他人の放つエネルギーに敏感で、放っておくと自然に、スポンジのように周囲のエネルギーを吸い取ってしまいます。

 

 自分がエンパスであるという自覚がなく、周囲のエネルギーを知らず知らずのうちに吸収していることにも気づかないままだと、なぜ自分が特定の場所に行ったり特定の人と会った後、特別疲れたり、頭が痛くなったり、体が重く感じたりするのか、よくわからないままかもしれません。

 

 うぶすなにも、エンパスの方がたくさん(というかほとんどの方がそう)いらっしゃるのですが、多くの方が、自分がエネルギーに敏感過ぎることを「面倒くさい」「疲れる」「損だ」といったようにネガティブにとらえていらっしゃるようです。

 

 けれど、何事にも意味があり、持って生まれた資質は全てがギフトだということを考えれば、自分がエンパスであるということも、天から授けられた貴重な贈り物であるといえます。エンパスであるということは生まれつき備わっている能力なので、後天的に身に着けることはなかなか難しいです。エンパスにしかできない役割や仕事というものがあり、1人1人にその道が与えられています。そうした役割を受け入れ、自分の力を最大限に開発させて、他者や世の中に何らかの形で貢献していくことが、エンパスとしての使命なのではないかなと思います。

 特別ビッグなことをするまでいかなくても、日常生活の中で、例えば他者に共感するとか(共感能力は、エンパスの最大の武器)、人の話をじっくり聴く(傾聴)とか、芸術的センスを生かして何かをする(エンパスはアーティスティックな能力が高い人が多い)とか、何かしら自分の能力を活かすツールはあると思います。

 

 エンパスであるという資質をプラスにとらえて、プラスに転じていく方法はいくらでもあります。周囲のマイナスエネルギーを簡単に吸収してしまうという側面に悩まされることも多いかもしれませんが、それを回避したり軽減する方法もいろいろあります。

 私が経験を踏まえてとても有効だと思った方法をいくつかご紹介します。

 

①自分のエネルギーと他人のエネルギーを明確にする

 これは、エンパスである人がまず最優先で身に着けた方が良い、とても強力な方法です。外部のエネルギーにあまりに無防備でいると、エンパスはいとも簡単に外部のエネルギーを自分のエネルギーフィールドに取り込んでしまいます。まず、自分のエネルギーフィールドを守るためにも、「どれが自分以外のエネルギーか」ということを常に意識していた方が良いです。どこかにでかけたり、誰かと会った後、自分のエネルギーフィールドに何か異質なものがまとわりついている感じがすることがあると思います。それが、他人のエネルギーです。こうしたことは、意識するようになればなるほど、どんどん敏感になっていきます。そのうち、人と話している間、その人の感情やマインドのエネルギーが自分のフィールドにやってきた瞬間がわかったり、それがどういうエネルギーで、どのように自分に影響を及ぼしているのかまでわかるようになります。

 少なくとも、それが”自分のものではない”という事実が理解できただけでも、そのエネルギーの影響を最小限に抑えることができます。何事も、気づくことが大事です。自分のものでなければ、すぐに手放せばよいのです。自分の元を去っていくイメージをするだけでも、だいぶ解放されていきます。

 こうしたトレーニングを積み重ねていくと、どんどんエネルギーに敏感になり、様々なエネルギーの種類を区別することができるようになっていきます。そうなってくると、もはやネガティブエネルギーの影響も不必要に受けることがなくなり(取り込んだままということがなくなる)、自信もついていきます。人を癒すお仕事に就いている方などは、こうした能力を研ぎ澄ませていけばいくほど、自分を守るだけでなく、他人にも大きく貢献していくことができるのではないでしょうか。

 

②自分のエネルギーフィールドをブロックする

 そもそも、ネガティブなエネルギーの影響を必要以上に受けないためにも、自分のエネルギーフィールドを最初から守ることも大切です。イメージトレーニングや祈祷、ストーン、護符など、様々なツールがあるかと思います。私は毎日、防御の力があるエッセンスの助けを借りています。電車に乗ってどこかに出かけた日や人が大勢いる場所に行った日など、これをちゃんと飲んで行った時と飲まずに行った時とでは、帰ってからの疲れ具合が全く違います。

 

③ネガティブエネルギーにできるだけ近づかない

 どんなにプロテクトしても、どうしても周囲のエネルギーの影響は受けてしまうものです。何か嫌な感じがしたり、ざわざわするような場所や人からは、できる限り遠ざかった方が良いです。最初から近づかないのが身のためです。エンパスの人は優しい人が多いので、他人の愚痴や悩みを聴いてあげるシチュエーションが自然と多くなるかもしれません。それも、自分ができる範囲で、自分がつらくならない程度に、を心がけた方が良いかと思います。世の中には、ネガティブエネルギーが確かに存在しています。ネガティブエネルギーを纏った人も存在しています。そういうネガティブ全てを、自分1人が何とかしようなんて思わない方が良いです。自分が求められている場所で、自分の能力の範囲内で、できることをすればいいと思います。その人が倒れてしまう程は、天も仕事を与えないものです。時には、逃げることも大事です。それは罪ではありません。

 気が進まないけどどうしても行かなくてはいけなかったり、会わなくてはならない人がいる場合は、まず最初にしっかりと自分のエネルギーフィールドを守った上で、「私はこの場所(人)のエネルギーを受けません」「私は守られています」といった意識を強く持ち、①のような、自分と他人との境界線をしっかりとキープしましょう。

 

④毎日エネルギークリアリングを行う

 エンパスの人は、プロテクションと同時に、日常的に浄化をした方が良いです。浄化の方法も様々ですが、私がいろいろ試した結果、習慣づいたものは以下の方法です。

 

 ★浄化のフラワーエッセンスを飲む

 ★浄化のフラワーエッセンスや、海塩を入れたお風呂につかる

 ★神棚に手を合わせる

 ★瞑想をする

 

 これをやっているだけで、まずどんな強いネガティブエネルギーをもらってしまった時でも、しばらくするとスーッと浄化されていきます。神棚は、なければ自分だけの神聖な空間を作り、そこを高い次元の存在と繋がる場所にしていけば良いかと思います。私が感じるに、浄化というものは、何か高い次元の存在の力が働いて行われているようです。自分で何とかしようと思うのではなくて、素直にスピリット界に助けを求めて、浄化してくださいとお願い(お祈り)すると、助けてもらえます。どこでもどんな場所でもそれはできると思いますが、例えば神棚や祈りの場所など、”繋がる場所”を決めてしまった方が、より簡単に、そして強力に繋がれる感覚があります。

 また、こうした場所を作っておくと、モヤモヤしている時に尋ねると答えが返ってきたり、前へ進むための大きなヒントをもらえたりするので、日常的に手を合わせてスピリット界と繋がる習慣をつけておくと、浄化の意味だけでなくても大きな助けとなってくれます。

 

 

2018年

1月

16日

完璧ではない自分

 今から80年程前、バッチ博士が作ったフラワーエッセンス(バッチ博士は”レメディ”と呼んでいました)は、38種類でした。その後、次々と新しいフラワーエッセンスが世界中で作られ、今現在は数千種類かそれよりもっと多くのフラワーエッセンスが存在しています。更にその数は年々増えており、そのすべてを把握するのは難しいくらいです。うぶすなでも200種類ほどのエッセンスを取り揃えていますが、中でも人気が高かったり、使用頻度が高いものは、20種類前後です。

 

 よく出るのは、「ネガティブな感情を浄化する」「自尊心を高める」「罪悪感を弱める」「自分の思いに素直になり、本当の望みに気づく」「古い殻を脱ぎ捨て、新しいスタートを切るのを後押しする」「あるがままを受け入れる」といったテーマのものです。

 繊細で敏感な方というのは、周囲の期待や思いをくみ取るのが得意なので、知らず知らずのうちに、自分の願望よりも他人に合わせた選択をする習慣が身についていることが多いです。また、エネルギーに敏感なため、特に他者の怒りや悲しみなどのネガティブな思いに過敏に反応してしまい、それを避けるためにも、自分を押し殺す癖がつきがちです。

 そうした習慣が長く続くと、 自然と「自分」がおろそかになり、「自分」が価値ある存在であるという認識が低く(自尊心の低下)なっていきます。また、周囲の期待に完璧に応えられない自分を責めたり、物事がうまく進まないことを自分のせいにしてしまうことも多く、常に「罪悪感」を抱き続けることにもなります。本来、その人が最も輝いて幸せを感じるためには、他人ではなく自分自身の本当の気持ちに素直になるしか道はありません。それが宇宙と調和する唯一の方法だからです。物事の多くはそのことに気づかせるために起こるので、自分の気持ちに素直にならない限りは、何かがしっくりいかないまま、空回りしたり、満足のいかない状況がずっと続いていくことになります。

 何かが違う、私の人生うまくいかないのは、私が悪いからだ。あの時こうしなかったからだ、あの時あんなことをしてしまったからだ。そんな風に自分を責めている方が多いように感じます。

 

 私は、繊細で敏感タイプの方には、案外”完璧主義”が潜んでいることが多いということにも気づきました。自分自身のあるべき姿や、人生のあるべき形、または社会や世界の理想の在り方など、あらゆる物事に対して、崇高な理想を抱いていることが多いのです。理想を抱くこと自体は悪い事ではないと思うのですが、あまりそこに縛られ過ぎてしまうと、そうでない自分や、そこに至っていない「今」に満足できなくなります。そして、そこにたどり着いていない自分や周囲を無意識的に責めてしまうのです。

 

 「あるがままを受け入れる」エッセンスが必要なのは、理想や高い目標を抱きつつも、「今」を大事にし、物事のプロセスに価値を見出しやすくするためです。また、完璧ではない自分や他人の姿を、欠けているとみなすのではなくて、学びの途中であると認めて、そのままの姿を受け入れることを助けるためです。

 そもそも、人は完璧ではないからこそ、この世に生まれてきているわけです。この世に生きているということは、完璧ではないのです。学ぶことがあるから、今ここにいます。最初から、自分は完璧ではないこと、完璧でないことは当たり前であること、全く責める必要なんかないことを、素直に受け入れてしまった方が楽だと思います。ネガティブな思いが湧き出ることもあるし、嫌な自分が表に出てくることもあるでしょう。それでいいんです。それがこの世に生きる人間の普通の姿だからです。みんな同じです。もし、完璧に悟りを開いていたら、この世に来る必要がなかったでしょう。仏様やその他多くのマスター達と共に、あちらの世界でサポート役に回っていたはずです。

 完璧ではない自分に気づいた時に、「そんなことない、そんなのは自分ではない」と否定するのではなくて、「それも自分の一部だ」と認めた方が、自分を受け入れやすくなります。そして、自分を受け入れることができたら、今度は他人を受け入れるのも容易になっていきます。

 

 

2018年

1月

12日

涙と決別

 うぶすなに来てくださったお客様が、お心の内側を話されているうちに、堰を切ったように涙が出てくることがあります。私たち日本人の意識の中に自然と埋め込まれている、”人前で涙を流すのは恥”という概念のためか、そんな時はたいていの方が「ごめんなさい」という言葉を口にします。泣いてしまって恥ずかしい、とお感じになるのかもしれません。

 私としては、そもそも全く謝る必要のないことだと思っていますし、逆に涙が出たのをみると、「ああ良かったな」と思います。なぜかというと、涙が出るということは、1つの区切りだからです。自分の中で、何かを手放した時、そして気づきを得た時、過去にため込んでいたものを浄化し、次に進むために、人は時として涙を流す必要があるのです。

 

 何事も、高い次元でまずことが起こります。その後で、肉体に反応が表れます。人が深い部分で癒されたり、浄化が起こると、それが肉体次元にまで降りてきて、涙という反応として出ることがあります(ヒーリングの最中に自然と涙が出るのはよくあることです)。なので、自然な形で涙が出てきたのであれば、それは手放しのプロセスなので、無理やり止める必要などなく、むしろ流れるがままに流した方が良いです。

 

 ひとしきり泣いた後、スッキリするのは、自分の中にあった古いものを手放したからです。次のステップへと進む心の状態が整ったわけです。涙というのは物理現象なので、古い自分を脱ぎ捨てたことを自分自身が知るためにも、わかりやすい反応といえます。自分で納得しやすいのです。

 

 

 このことで思い出すのは、かなり前の若かりし独身時代に味わった、手痛い失恋時の記憶です。その人と自分は決してうまくいかない、何もかもが合わないことがわかっていたし、幸せになるどころか辛くなるだけ(もう既に十分ツライ思いを味わっていた)だということも知っていたのに、それでも、いざ別れを決意した時、涙がとめどもなく出てきたのです。それはもう、おかしいくらい勝手に出てきて、止めようもありませんでした。泣きながら、「別れた方がいいし、早めにわかって良かったと思っているのに、なんで私泣いているんだろう」と、不思議に思ったものです。

 

 また、これは少し前の話ですが、娘が中学に入ってからというもの、中学生とはこんなにも忙しいものかというほど忙しい毎日を送る娘を、私は頼もしく思ってみていました。朝早く出て行って夕方暗くなってから帰る日々で、土日も部活やら何やらであまり家にいません。親よりもだんだん友達との関係が大事になり、時には私の言うことに激しく反抗することもあります。そんな毎日を本人は生き生きと楽しくやっているし、私もよくここまで成長したなあ、と喜ばしく感じていました。

 けれど、そんな生活が1か月ほど続いた頃。私の中に、何か吹っ切れていないものがある感じがしました。娘の成長と、人生のターニングポイントを喜ばしく思う一方で、新しい段階に進むことに若干抵抗している、何かがあるなと思いました。

 そこで私は、深く長く瞑想をしてみました。私の中にある、このモヤモヤは何ですか、と問いかけながら。

 すると、しばらくしてから、思ってもいなかったことに、涙がスーっと出てきたのです。意外な反応に自分でも驚きました。それは自然に出てきました。そしてその瞬間、

 

「あ、私、寂しかったんだ」

 

 と思いました。

 

 子供の成長を喜ぶ自分がいる一方で、どんどん自分の手から離れていく状況に対して、本当は少し、寂しかったのです。私はそのことを素直に受け入れていませんでした。もうかつてのような、お母さんを全面的に頼って、信頼しきっている小さな女の子ではなくなったことを、心の底から認めることにどこかで抵抗していたのです。親離れしていく子供を無理に引き留めてはいけない、という自分を諫める思いもありました。嬉しいけど少し寂しい、がホントのところだったのに、”寂しい”を否定していたわけです。だからモヤモヤと引っかかっていたのです。

 

 そのことに気づいたら、涙と共に、自分の中にあった抵抗も出て行きました。寂しい思いにきちんと向き合ったら、それはもう抵抗ではなくなりました。そして、気持ちがスッキリして、自分と娘との関係が新しいステージに移ったことを、心の底から受け入れることができました。後ろに引っ張られる気持ちや、モヤモヤがなくなったのです。

 

 

 

 この二つの経験で、どちらとも、私は進むべき道を進んでいることがわかっていたし、自分の選択は間違っていないことも知っていました。だから、なぜ自分が泣いているのかが最初はよくわかりませんでした。これでいいはずなんだから、泣くことなんかないのに。

 けれどやはり、”物理的に”、私は泣く必要があったのだと思います。肉体次元で最後に反応して、はい終了、だったのです。それがあったからこそ、気持ち新たに次の段階へと進むことができました。きっぱりと割り切る決意ができました。

 そういう部分で、涙を流すという行為は、儀式のようなものなのかもしれません。終業式や卒業式をしなかったら、「終わった」気分にそう簡単には切り替わらないことでしょう。頭でわかっているだけでは、人間どこかで納得がいかないものなのかもしれません。

 

 

2018年

1月

07日

粛々と

 新しい年になりました。

 

 去年は、振り返ってみれば、古いもの、自分にとって必要のないもの(物理的なものに限らず)を一気に手放した年でした。

 

 いざ手放してみると、なぜ今まで自分はこれに縛られていたのだろうと不思議に思います。何かに縛られている間は、なかなか自分が縛られている、執着しているという事実に気が付かないものです。そして、一度執着が外れると、もうそれまでと同じような付き合い方ができなくなります。

 

 思い返すと、ここ数年で随分、人間関係の変化もあったなあと思います。本当は楽しくないのに楽しいフリをしたり、義務感や相手に気を遣って望まないお付き合いをするのをやめることにしたからです。

 

 また、かつての私は、何かを決める際に、誰かの同意や後押しがなければ何となく不安でした。自分が信頼している人に、「それでいいんじゃない」とか、「やってみたら」と言ってもらい、背中を押してもらうことで、自分でも納得して進めることができたのです。なので、相談する人が何人か必要でした。

 けれど最近は、全ての答えは自分の中にあること、自分の人生の舵取りをするのは自分でしかないこと、私の本当の望みは私にしかわからないこと、他人の意見は関係ないこと・・・こうしたことが明確になってきたので、いちいち誰かの反応を気にしたり、人の意見を求める必要がなくなってきました。そのため、相手を頼り頼られといった共依存の関係に陥ることもなくなりました。

 

  最近、自分の内なる声に従って人生に変化を起こそうとしているのだけれど、いまいち自信が持てずにいる人達をターゲットにした、各種セミナーなどの自己啓発商法が巷に溢れています。私もかつて、うっかりそうした商法に乗っかりそうになった経験があります。自ら「先生」であろうとする人々の本質を見抜く眼力を養うのも、これからの世の中大切かと思います。

 ポイントは、その人の目的がエゴによるものか、それとも純粋な魂の望みからきているものか、という部分です。人間はいとも簡単に、金銭欲、名誉欲、自己顕示欲といった誘惑に引っ張られ、エゴの罠にハマってしまうものですが、純粋な目的を維持する強い意志力があれば、そうした欲望の道に簡単に堕ちていくことはありません。例えば、本がどれだけ売れたとか、何千人もの教え子がいるとか、有名セレブも通っているとか、そんな表面的なことばかりを自慢げにアピールしているのであれば、その人はエゴの罠に引っ張られている証拠です。そして、似たようなエゴの誘惑に惹かれて寄ってくる人達が、次々と餌食になっていくことになります。

 

 私自身もこれまでに散々迷い、あちこち彷徨い歩いてきた経験からいうと、世の中で本当に純粋な目的を抱いて活動している導師というのは、ごくごく希少な存在です。人生で一度でも出会えるかどうかさえわかりません。だいたい、そういった純粋で高次の目的の元に活動している人は、自己アピールをしないので、人目に触れることがあまりありません。本もやたら出しませんし、セミナーの類もほとんどしません。必要な時に、必要な人がやってくることを知っているので、自分からむやみに動かず、人目につかない場所でひっそりと暮らしていたりします。

 

 

 とにかく、邪の道に陥ることは簡単でも、純粋な意思を貫き通すことは至難の業です。今年も、周りに必要以上に振り回されず、淡々と、謙虚に、己の信じる道を一歩ずつ歩んでいこうと思っています。

 

 

2017年

12月

21日

子離れと断捨離

 断捨離をすることになったきっかけの1つとして、子供の成長もあるような気がします。上が中1、下が小4になり、だいぶ手がかからなくなってきました。基本自分のことは自分でできますし、親といるよりお友達と過ごす方が楽しくなってきています。特に上は部活が忙しいこともあって、中学に入ってから、家にいる時間がめっきりと減りました。家にいる間も、習い事の練習や宿題などで慌ただしく、私とゆっくり話す時間もないくらいです。あんなに私にべったりだった下の子も、最近は周りの目が気になるようで、一緒にお買い物もしたがらなくなりました。学校から帰ると、ランドセルを置いた瞬間外に飛び出し、真っ暗になるまでお友達と遊ぶ毎日です。男の子なので、思春期にでもなれば、私とは口もきかなくなるかもしれません。

 

 子供がこのように、やがて来るであろう本格的な自立に向けて着実に変化を遂げつつあるのだから、私自身も内面で子離れをしていかなければ、釣り合いが取れません。

 最初にこのことを受け入れなければいけないことに気づいた時は、やはり寂しさを感じました。子供が少しずつ親を離れていく話は、先輩ママ達からたくさん聞いてきたにもかかわらず、いざ自分のこととなると、何となく認めたくないような気持になっていたのでした。

 

 とはいえ、いくら本音では認めたくないからといって、いつまでも小さな子供のままであるような錯覚を覚えたまま接していたいわけでもないのです。そんなことをすれば、お互いにとって害になります。親のエゴで子供に接してはいけないし、したくありません。その弊害はこれまでたくさんみてきました。

 ということは、私が認めるしかないのです。今後、子供が自分からどんどん離れていくことになるという事実を、まずはちゃんと受け入れなければいけないのです。

 

 頭ではこのことを理解してはいましたが、心の底からそれを実行するには、ある程度の時間と、”儀式”が必要でした。

 

 家の2階のクローゼットの中に、子供達が幼稚園で使っていた、カバンやら制服やらをずっとしまっていました。私は今回、これらを一気に処分することにしました。

 少し前までは、こうした昔の思い出が詰まった品々に手を付けることができませんでした。眺めていると、あの頃の無邪気だった子供達の姿が浮かんでくるからです。けれど私の中で、何かが変わっていました。心のケリが付いたのです。過去への執着を捨てて、次へ進む。そのように気持ちが切り替わってきたのです。

 

 細々したものも含め、もう使うことはない、子供達の小さい頃のグッズを一気に捨てました。さよならありがとう、と言いながら次々にゴミ袋に入れていきました。過去は過去。物は関係ない。今とこれからのためにスペースを作る。優先させたいのはこっちです。

 

 断捨離がひと段落して、家の中がスッキリと片付いた時、心の中で、ぽっかりと大きな空間ができたような感覚になりました。それまでごちゃごちゃと詰まっていたものが、一気に噴き出してなくなったような感じです。それは意外にも、寂しいとか悲しいとかいう負の感覚ではありませんでした。キレイに空いた分、これからこの中に何かが入ってくる、という、ワクワクするような嬉しさを含んだものでした。

 子育ての区切りを迎えているんだな、と思いました。まだ自分1人では生きていけないけれど、親にべったりでもいたくない。そんな時期を子供が迎え、それに対応して親としても接し方や心構えを変えていかなければいけない。寂しい面もあるかもしれないけれど、同時に親自身が新しい生き方をスタートする時期でもあります。これまで全面的に子供にベクトルを向けて過ごしてきた生き方から、少しベクトルの方向性を変えていく。時間や心のゆとりが生まれた分、何か別のことに注力することができます。

 

 求められていることや自分の役割は、少しずつ形を変え、いつまでも同じであるということはありません。その変化を正面から受け止め、自分の役割を理解し、その時にするべき仕事をただやっていけばいいのだなと思います。あらゆる物事は変化していきます。宇宙の真理なのでこれは絶対です。変化に対して柔軟でいることは、相手にとってだけでなく、自分の人生をスムーズに乗りこなしていくためにも、大きな助けとなってくれることだと感じます。

 

 

2017年

12月

20日

断捨離と心の問題

 最近、家の中の大がかりな断捨離を決行しました。ずっと気にかかっていたにもかかわらず、時間がないとか何とか自分の中で言い訳をつくって、先延ばしにしていたことです。片づけはそんなに苦手というわけではないですし、家が汚いということでもないのですが、普段使わない奥の部屋は物置のようになっていましたし、クローゼットや押し入れの中に、数年間手つかずのものがいろいろと入っているのが気になっていました。

 

 数か月前くらいから、「一日一個、何かを捨てる」という行動を自分に課し、それを実行してきました。一気に片づけることが難しいとしても、一日一個、必要のないものを捨てるくらいなら、気軽にできると思ったのです。一日一個とはいえ、それを毎日続けていれば、一年間で365個もの不要なものを処分することができます。

 そう思って、毎日コツコツと物を捨て続けていました。少しずつ、引き出しや戸棚のスペースが空いていくようになっていきました。やっていくうちに、必要のないものを捨てると、その分だけ心がスッキリすることに気づきました。そのうち、一日一個といわず、一日数個から時には数十個くらいのものを捨てる日が出てきました。

 

 そんなある日、テレビの番組表を見ていたら、断捨離を決行した家族のことを追ったドキュメンタリー番組が目に留まりました。なんとなく今の自分にぴったりのような気がして、録画して見てみました。

 断捨離エキスパートの力を借りながら、思い切って断捨離を決行した何組かの家族の姿を、1人1人の心のひだまで丁寧に映し出す、とても良い番組でした。それを見て、断捨離とは、ただ物を捨てるという物理的な作業ではなく、その人の心の中で、何かとけりをつける作業でもあるのだなと思いました。幼い頃の子供との思い出が詰まった本、おばあちゃんから譲り受けた嫁入り布団、家の中で自分の存在を主張する代わりに買い続けた小物たち・・他人から見れば大した価値がないような物でも、そして実際使うことはなくても、その人の心の中では、とても大きな意味を持つ品々。

 それらを捨てるという行為は、自分の中で、それらの物を介して視覚化してきた、自分の中の”思い”と決別するということです。捨てられずにいる物たちは、自分の中でまだ手放すことができずにいる、思い入れや古い観念を表しているのです。

 

 断捨離を決行しようという気持ちはあっても、いざ作業を始めると、どの方もある時点で必ず何らかの葛藤に苦しみ、迷い悩む姿が映し出されていました。今まで、物を捨てて家をスッキリさせねばと思っていてもできなかったということは、心の中でそれを決断する勇気が持てなかったということです。その決断を実行する前に、必ず葛藤の時期がどの方にも訪れるのでした。

 そこは断捨離のエキスパートの先生、慣れたものです。1人1人の心と向き合いながら、時にはズバリと厳しく現実の状況を指摘し、順を追って断捨離の作業を促していきます。一度その人の中で何かが外れ、心が定まると、断捨離は一気に進みます。この辺りは、私が日ごろから感じている、心のお荷物の外れ方と同じだなと思いました。

 

 とにかく、一度にやろうとしないこと。少しずつ、「今日はここだけ」といったように場所を決め、着々とやっていく。空間を上手く使う。戸棚やクローゼットといった、物をしまう場所は7割だけ使う。服や食器は、「着られるか着られないか」「使うか使わないか」ではなく、「着たいか着たくないか」「使いたいか使いたくないか」で取捨選択する。いろいろなポイントも教わりました。

 その中で、私の心にスコーンとヒットしたのが、「捨てるのではなくて、リサイクルではだめなのですか」と質問した人に対しての先生の答えでした。断捨離の先生は、

 

「もちろん、リサイクルも良いと思います。ただ、今は、リサイクルよりも、とにかく必要のないものを捨てて、心のゆとりをつくることの方が大事です。そういう状態になってから、リサイクルをすればいいんです」

 

 この言葉で私も目が覚めました。私はこれまで、”必要のないものはできるだけリサイクルに出すべき”という観念に縛られていたのでした。そのため、家の中のものを断捨離するとしても、リサイクルに出せるものをきちんと分別しなければいけない、1つ1つ分別するには手間も時間もかかる、そのため取り掛かるのに二の足を踏んでしまう・・といった構図になっていたのです。

 リサイクルに縛られなくても良いのであれば、次々にゴミ袋に放り込んでいけばいいだけですから、作業がスイスイ進みます。番組に出ていた断捨離家族の決心にも後押しされて、私は家の断捨離を思い切って進めようという気持ちになっていきました。

 

 まずは、一番気になっていた食器棚から始めました。この中には、結婚する時に母から譲り受けた数々の食器たちが眠っています。文字通り、使われることもなく眠っている食器がたくさんあったのです。私は、せっかく母からもらったものだから、捨ててはいけない、申し訳ない、という思いがどこかにあったのでした。

 けれど、母がくれた食器の多くは、母自身も使わないから私にくれたものです。誰かからの頂き物だったり、何かの景品でもらったものだったり、古くてもう使わないものだったり。母にとってあまり魅力がないものは、私の心にもやはり響かないのです。結果、使うこともなく棚の中で眠り続けてきたのでした。

 それらの食器と思い切って決別することにしました。リサイクルのことは取りあえず置いといて、次々といらない食器をゴミの袋に入れていきました。一度心が決まったら、作業は驚くほどスムーズに進行しました。

 大量に出たゴミの袋を、一度近くのクリーンセンターに運ぶことにしました。夫に車を運転してもらって運んだゴミの量(第一陣)は約120キログラム。燃えないゴミの集積場に、食器の袋を投げ込んだ時に聞こえてきた、「ガッシャーーーン」という食器類の割れる豪快な音を聞いた時、私の中で完全に何かが吹っ切れたのでした。

 

 その日から、今日は二階のクローゼット、今日は和室の押し入れ、今日は本棚、といった感じで、着々と断捨離を進めていきました。何かに後押しされているかのように、エネルギーが湧いてきました。一心不乱に物を捨て続ける妻の姿を見て、それまで受け身の姿勢だった夫も、いそいそと自分の不用品を捨て始めました。娘も何か影響を受けたのか、自分の部屋の片づけをしていました。

  物置のようになっていた和室は、お茶でも淹れたくなるようなスペースに変身しました。食器棚が片付いたことでキッチン全体の掃除もしたくなってきました。台所が綺麗になると、料理をするのがより楽しくなってきました。もう読まない本を処分したことで、かえって読書に対するモチベーションが今まで以上にアップしました。衣装棚を整理したことで、ファッションをより楽しめるようになりました。

 

 そして何より、私自身の心が整うようになりました。今までどこかで引っかかっていたものが取れたおかげで、気持ちがスッキリし、思考までがクリアーになって、日常生活の1つ1つを、丁寧に行えるようになったのです。

  ”捨てられない”は心の問題、と言いますが、身をもってそのことを実感した断捨離体験でした。

 

2017年

12月

11日

一番偉いのは誰

 息子が今よりも少し小さかった頃、

 

「日本で一番偉いのは誰?」

 

と聞いてきたことがありました。私は返答に困りました。「偉い」という概念を、どのように説明したら良いのだろうかと思ったからです。権力がある人が”偉い”のか、人徳がある人が”偉い”のか、大きな事業を成し遂げた人が”偉い”のか・・

 

 誰が偉いかなんて、その人それぞれの価値観で、変わってくることのような気がします。

 

 

 イエス様はある時、議論をしていた弟子たちに向かって、一体何を評議していたのかと尋ねました。するとお弟子さん達は黙ってしまいます。道々、自分たちの中で誰が一番偉いかということを論じ合っていたのです。するとイエス様は、12人の弟子たちを集め、次のように言います。

 

一番上になりたい者は、皆の一番下になりなさい。皆の召使になりなさい

 

 弟子の1人が尋ねました。

「ではいったい、誰が天の国で一番偉いのですか」

 

 するとイエス様は、1人の子供を呼び寄せて、弟子たちの真ん中に立たせ、このように言いました。

 

あなた達は生まれ変わって子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。だから、この子供のように自分を低くするもの、それが天の国では一番えらい人である

 

 

 謙虚であること、自分を特別な存在だと思いあがらないこと、他者より秀でることよりに頓着しないこと・・これをイエス様は言いたかったのではないかと思います。これができないうちは、いつまでも神の国に近づくことはできない、つまり、真の心の平安はもたらされない、ということです。

 

 物理的な富や名誉は、究極の心の平穏はもたらしてはくれません。そういったことに執着している間は、手に入れても手に入れても、心が完全に満たされることはなく、虚しさがどこかに残り続けます。真の幸福は、形ではなく、心の状態だからです。

 

 

 とはいえ、そういったことが何となくはわかっていても、本当に物理的な欲望を捨てきることは至難の業です。富や名誉を手に入れた人こそが勝者であり、富や名誉さえ手に入れば幸せになれると思わせるからくりが、世間には溢れているからです。形あるものをゴールだと無意識的にとらえてしまうのは、今の世の中では自然なことなのかもしれません。

 

 

 

狭い門から入りなさい。滅びに至る道は大きく、かつ広く、ここから入る者が多いのだから。命に至る門はなんと狭く、道は細く、それを見つける者の少ないことであろう!

 

 

 ”狭き門”から入ることを決心し、それを実行することは、多くの葛藤との闘いを意味します。蛇の道に惹かれ、盲目に突き進むことの方が、はるかに簡単です。

 

 

〈参考文献〉新約聖書『福音書』塚本虎二訳、岩波文庫

2017年

11月

29日

受け取る準備

 繊細で心が優しい方は、感性が豊かなので、他人をケアする福祉的なお仕事や、芸術的センスを生かすお仕事が向いていたりします。実際、そのようなお仕事に就いている方もいますし、本当はヒーリング系のお仕事や、アーティスティックなお仕事をしたいと望んでいるのだけれど、「どうせ無理」と思っていたり、なんやかんやとできない理由を挙げて自分にストップをかけてしまっている方も多いようです。

 

 もしそれが本当に心(魂)から自分が望むことであれば、やってできないということは絶対にありませんし、宇宙も応援してくれます。実際始めてみると、スイスイと導かれるように進んでいくものです。

 けれど、最初の一歩を踏み出すのが難しいのです。今はまだ子供が小さいからとか、お金がないからとか、周りに反対されるからとか、何かと障害を創り出してしまいます。本当の障害は、そういった物理的な事情ではなく、「自分にはできない」と思い込んでしまっている、内面の意識でしかないのですが。制限は、外からやってくるのではなく、内側で創り出しているものです。

 

 そうした制限を知らず知らずのうちに創り出してしまっている背景には、成長過程で身近な大人達に、自分が本当に望むことを制限されてきた経験が大きく影響していたりします。直接的に反対されたわけでなくても、周りの大人達が話す内容や声のトーンなどから、自分の進みたい分野をよく思っていないことを感じ取ったり、自分の感性に気づいてもらえなかったり、自分がいいと思うことを受け入れてもらえなかったりといった経験を重ねるうちに、次第に自分が素直に感じている感覚が信じられなくなり、自信を失っていきます。繊細で心が優しい人は、周りの望みに合わせる習性が身についていることが多いので、何に関しても、自分の本当の望みより、周囲の進める道を優先して選んできたということも多いでしょう。

 もうとっくに自立した大人であるにも関わらず、精神的に未だにその呪縛を引きずって、自由に生きられないでいる方は案外多いようです。自分らしく生きられないことほど窮屈なことはないのに、自分の人生はこうなのだから仕方ない、と諦めてしまっているのです。

 また、かつて自分が良かれと思ってやったことを誰かに否定された経験や、上手くいかずに失敗した経験などが、未だに意識の深い部分でトラウマとなっていることもあります。本当にやりたいことがあるのだけれど、また否定されたらどうしようとか、失敗したらどうしようといった恐怖心が先立ってしまい、やる前に尻込みしてしまうのです。

 

 

 見えない制限(何度も言いますが創っているのは自分です)から自由になるためには、まずは自分の意識を変えるしかありません。「私には自由がない」「私には自分が本当にやりたいことができない」「私が望むことは反対される」「どうせやっても失敗する」といったネガティブ意識から、「私にできないことはない」「私には、私らしく人生を創造していく力がある」「私のもとにたくさんのサポートがやってきて、スムーズに事が進んでいく」という前向きな意識に塗り替えていかなければいけません。

 自分の人生を創り出しているのは自分自身でしかないこと、現状を変えたかったら自分が変わるしかないこと、周り(親も含む)は関係ないということ、本当は制限など存在していないこと。これらを知り、過去の自分から切り離して、新しい自分になると心を決めることが大事です。そして何より、望む人生を創り出す許可を自分で自分に与えなければいけません。「周りに反対されるから」というのは言い訳で、本当のところは、自分が自分にゴーサインを出していないだけなのです。自分の中で心が定まっているのなら、そしてそれが進むべき道なら、周りが賛成しようが反対しようが関係ありません。

 「私には受け取る価値がない」という思いが強ければ、欠乏がやってきます。チャンスは無限にあふれていますが、受け取る体制が整っていなければやってきません。「私は両手を広げてギフトを受け取ります」という心の状態でいることが、実際に受け取るための必要条件になります。

 

2017年

11月

20日

心の垢を落とすと

 心のお掃除をして、長年の垢が落ちてくると、人間関係もどんどんシンプルになっていきます。さほど気持ちが通じ合っているわけでもないのに腐れ縁のような関係を保っていた人や、本当は縁を切りたいけれど思い切った行動がとれずにぐずぐずと付き合っている人、一緒にいて盛り上がらないんだけれど何かを失うのが怖くてお付き合いを続けている人、など、自分の本当の気持ちに嘘をつきながら付き合っている関係にピリオドが打たれることが増えてきます。

 だんだん連絡が疎遠になっていき、気づいたら会うことがなくなってく場合もありますし、何か決定的な出来事が起こることもあります(もしかしたら、こちらの方が多いかもしれません)。それは一見ネガティブな出来事のように思われるかもしれませんが、しばらく経ってからその時のことを眺めてみると、ああいうことがあったから、無理してお付き合いをしていたことに気づけたんだな、とありがたく感じるものです。

 

 心のお荷物が減っていくことで起こりうる、人間関係における大きな変化は、共依存の関係がなくなっていくことです。人はしばしば、自分に欠けている(と思っている)部分を誰か他の人に補ってもらうために、その欠けている部分とうまく共鳴して近づいてくる人と関係を結ぶことがあります。

 自分が「足りていない」「できない」「愛されていない」存在であるという思いが減っていき、反対に「私は足りている」「私にはできる」「私は愛されている」と感じることが増えていけば、自分の満ち足りていない部分を誰かに補ってもらう必要がなくなり、そのためだけに引き合っていた他人との関係性が終わることになるのです。

 

 どんな関係性にしろ、誰かと別れる時には結構エネルギーを使いますし、けんか別れなどした暁には、しばらくは後味の悪い思いをするものです。もしかしたら、相手の方に分かれる準備ができていない場合、その人はあらゆる手段を使って、関係性を保とうとしてくるかもしれません。

 けれど、波長が合わないもの同士はどうがんばったって合わないのです。これはもう宇宙の法則で逆らえないのですから、あれこれ考えるのはやめて、手放してしまった方がいいです。自然の流れで、ことが進んでいくはずです。相手に悪いとか、自分はひどい人間だなどと思わなくて大丈夫です。そもそも共依存の関係性を続けていくことは、自分だけでなく相手にとっても、成長を妨げる行為なのですから。

 

 身の回りがシンプルになったら、同じ波長のものは引き寄せ合うという法則に従って、自分にとって本当に必要な情報や人だけが引き寄せられるようになっていきます。ある日いきなりそうなるというのではなくて、心のお掃除が進んでいく過程で少しずつ、そうなっていきます。

 

 

2017年

11月

13日

カスタムエッセンス~その後

 しばらく前にオーダーした、アンジェリックエッセンスの「カスタムエッセンス」。こちらは、世界に二つとない受注生産のエッセンスで、注文した方にとって必要なエネルギーが入っています。

 

 アンジェリックエッセンスは、そもそもどのエッセンスでもそうなのですが、飲む人、飲むタイミング、飲んだ時の状況などによって、”効果”の表れ方が異なります。ですから、「このエッセンスを飲むと、こんな変化が起こります」といった具体的な説明が難しいのです。

 カスタムエッセンスは特に、ボトルにどんなバイブレーションが転写されているのか前もって教えてもらえるわけではないので、もう飲んでからのお楽しみとしか言いようがありません。

 

 私はかれこれ、自分用に作ってもらったカスタムエッセンスを数回ほど飲んでいますが(その都度トリートメントボトルに希釈して飲んでいます)、その度毎に異なる反応があり、これはひょっとしてボトルの中のバイブレーションはどんどんアップデートされているのではないかとさえ思います。

 

 ただ共通しているのは、何となく、飲んでいると「自分に戻れる」感覚があるということです。何かに追われるような毎日を過ごしている時、こうしなきゃ、ああしなきゃと強迫観念的になっている時、目標を達成しようと頑張るあまり少々無理してしまっている時など、優しいけれど大きな強い力で、グイっと「私らしくある」という状態に引き戻してもらえる感じです。

 自分以外の誰かのようにならなくてもいい、自由なやり方があっていい、どんなタイミングでもいい、焦らなくてもいい、評価を気にしなくてもいい、やりたいようにやればいい、・・・

 そんな風に自然と思えるようになります。周囲と比較してしまったり、こうあるべき、こうしなければいけない、と画一的な基準に縛られがちな心を溶かしてくれます。どこかではそれでいいんだとわかっているのだけれど、表面的な事象に信念がブレそうになる時があります。そんな時にカスタムエッセンスを飲むと、「これでいいんだ」という自信を取り戻すことができるのです。

 

 

 そもそも世の中には正解も不正解もないのだから、どんなやり方であれ、どんな状況であれ、自分さえ納得できていればそれでOKなのではないかと思います。ただ、確固たる信念をキープするのが難しいのです。世の中の常識、何となくみんながそうあるべきだと考えているラインに合わせるのがよしとされる風潮が圧倒的に強いからです。周囲に合わせるのではなく、自らの信念に付き従っていく生き方を選ぶためには、相当強い意志と勇気、恐れない心が必要です。

 フラワー(アンジェリック)エッセンスは、その人がその人らしく生きるのを手助けしてくれるものですから、飲んでいると、様々な呪縛や不安が取り去られていきます。多くの場合、誰かの行く手を阻んでいるものは、現実に存在している妨害要素というよりも、その人の心の中に潜んでいる不安や恐れであることが多いものです。実際にその人を物理的に止めている人や状況があるわけではないのに、心の中で障害を創り出し、それがあるために自分は動けないのだと自分を納得させていたりします。

 

 そんな空想上の妨害要素を消していくためにも、エッセンスは大きな力となってくれます。もちろん、少しずつ自分の力で行動を起こしていくことによって、その行動が自信となり、不安が小さくなっていくこともあります。いづれにしても、原動力となるのはその人の意思と信念の力であることには変わらないと思います。

 

 

2017年

10月

30日

中学生の悩み

 娘が中学生になってもう半年以上経ちました。授業や部活、友達との付き合いなど、終わってしまったこちらからしてみれば、青春真っ盛りが眩しく見えるのですが、渦中にいる本人にとっては、何かと悩むこともあるようです。

 成績をひけらかす人、行事に真剣に取り組んでくれない人、生徒に対して威圧的な態度をとる先生など、「いたなあ、私の時にも・・」と聞きながら思い出がフラッシュバックしてきます。状況は違えど、人間関係が悩みの比重として一番大きいということは、大人も子供も変わりはないようです。

 

 私は周囲にそういった悶々とした悩みを話せる大人がいなかったので、 大概、内にこもって本や空想の世界に逃げ込んでいました。

 娘は今の所はまだ私に話してくれるのですが、その時には決して上から目線にならないように、最初はただひたすら聞き役に徹するようにしています。子供でも大人でも、まず最初は自分の気持ちを聞いてもらいたいものです。気持ちを洗いざらい吐き出せば、スッキリして、思考もクリアーになり、自分の今の状況を客観的に眺めるゆとりができます。

 そうして落ち着いたら、アドバイスというか、「こんな考え方をしてみたら?」といった、別の視点からの物の見方をちょっと教えてあげます。例えば、いつも威張っている人がいたとしたら、「どうしてその人はそのようなことをしているんだろうね」と聞きます。その人のとっている言動そのものではなく、その言動を引き起こしている要因に目を向けるためです。その人がとっている行動や、その人の口から出ている言葉というのは、その人の心の状態の表れです。

 

 威張っているということは、自分を大きく見せたい、自分という存在を認めてほしい、という思いがあるからです。そしてそのような願望があるということは、裏を返せば心の奥底では、自分は「認められていない」と感じているのです。頑張って大きく見せて、自分の実力以上のものになろうとしてやっと、自分という存在が価値あるものになれるような気がしているのです。今の自分に満足できておらず、不満なわけです。そして、何とかして他人に自分の言うことを聞かせたいと思います。自分が正しい、間違っていないということを、他人をねじ伏せることで納得させたいのです。

 「他人に対して威張る」という言動の裏には、そんな心の状態が伺えます。そういう話をしていると、娘も次第にその人を責める気持ちがなくなっていくようです。周囲に威張ることで、目に見える形で自分を承認してもらいたいのだ、という陰の願望がわかってくると、その人の心の苦しみが理解できてきます。心が満たされていないために、他人を巻き込んでその苦しみを埋めようとしているわけです。悲しい、つらい、やりきれない思いが根底にあるのです。そこに気づくと、ただ威張っている嫌な人、という見方が変わってきます。

 

 威圧的な態度、理不尽な態度で生徒に接する先生も同じです。満たされない心を、自分1人で解決できるゆとりがないから、自分より弱い立場の人間を使って、何とかバランスをとろうとしているのです。

 

 私は、「先生だから」とか「大人だから」という理由で、理不尽な態度が許されるとは思いませんし、そのために弱い立場の人間が傷つく必要もないと思います。とはいえ、学校という状況では、一生徒が先生に面と向かって立ち向かっていくことは難しいでしょうし、いろんな支障が出てきます。

 だから娘には、「その人を変えようとするのではなくて、今の状況を理解して受け入れられるように自分が変わればいい」と言っています。他人を変えることはできなくても、自分を変えることはできます。その人がなぜそのようなことをしているのか、今目に見えている状況から一歩深い視点で眺めるようにします。否定するのではなくて、理解して受け入れようとします。そして何より、このことが自分にとってどんなレッスンになっているのか、自分にどんなことを教えてくれているのか、謙虚に受け止めます。自分が見ていることは、自分の心の表れです。特に怒りの矛先が他人に向かっている時はその視点から離れがちですが、最終的には、ベクトルを自分に向けることで、本当の意味での解決になっていきます。

 

 

2017年

10月

19日

心のお掃除はライフワーク

 フラワーエッセンスを使っていると、自分の中の「感情」に客観的に向き合えるようになっていきます。

 

 以前は、感情というものは、どこからか自然発生的に湧いてくるもので、コントロール不可能だと思っていました。ある時は嵐のように荒れ狂い、ある時はしつこく付きまとい、ある時は出てきたかと思ったらすぐに消えてしまい・・自分で制御することなんてできないと思っていたので、感情に自分を乗っ取られたり、感情に押しつぶされそうになったり、感情が優位になって冷静さを保てなかったり、ということがしょっちゅうでした。

 

 感情というものは、思考とセットになっています。自分の中で「思考」が生じ、その思考と現実を照らし合わせた時(これは日常無意識に行っています)、その思考の種類と自分が目にしている現実とが反応して、感情が生まれます。

 

 では思考はどうやって生じるかというと、これまでの人生経験や、身に着けた習慣、常識、刷り込まれた価値観、期待、動物的本能、等々に基づいて生じています。思考に反応して感情が出てきているので、感情に自分を乗っ取られそうになったら、それとセットになっている思考に目を向けます。

 そもそもなぜこの感情が生まれてきたのか、元になっている思考を探り、さらにその思考の元となっている固定観念や自分の「思い」に注目するようにすれば、感情の大元の出処を突き止めることができます。そして、その大元を癒します。それが一番手っ取り早い、感情に支配されない方法です。

 

 こうしたことが理屈で理解できるようになったのも、フラワーエッセンスを飲み始めてからです。自分の中に感情が湧き起こってきた時、それまではただなすがまま、感情が自分の中で好き勝手に大きくなったり小さくなったりして動き回るのを、野放しにしていました。けれど最近はもう感情に自分を乗っ取られることも、感情が抑えられなくて爆発してしまうこともほとんどなくなりました。感情を客観的に眺められるようになったので、感情に支配されなくなったのです。

 

 

 人の念や場所のエネルギーに敏感な方は、人混みや集団生活に大きなストレスを感じることが多いと思います。他人の感情や思いを、自分のエネルギーフィールドに取り込んでしまうからです。こう言うと、まるで周囲のエネルギーが自分に向かって襲い掛かってくるかのようにとらえてしまうかもしれません。けれど、そもそも自分の中に「ある」ものにしか、外の世界のものは反応しません。ネガティブな人がすぐ近くにいたとしても、自分の中にその人と同じ要素がなければ、そしてその人に対して自分が何のジャッジもしなければ、その人のネガティブエネルギーは自分の中にそう簡単には入ってこれません。そもそも、その人が「ネガティブ」であると自分で意味づけを行っているから、その人が自分にとってネガティブな存在になっているわけです。そして、そんな自分の思いと、その人のバイブレーションが共鳴し、エネルギーの交換が起こります。

 

 いちいちジャッジをしたり、様々な固定観念に縛られていると、それだけ他人と接した時に悪しき感情が生まれますから、ストレスや衝突も多くなります。そんな人は、他人を責めてばかりで、解決の糸口が自分の中にあることには気づいていないかもしれません。

 意味づけするのをやめればいいのです。固定観念を手放せばいいのです。非難することを徹底的にやめてみればいいのです。善悪二元論で物事をとらえているうちは、他者をそのまま受け入れることは絶対にできません。

 

 

 意味づけ、ジャッジをしないようにするのは、ハードな修行です。もはや訓練あるのみです。これまでの人生で散々定義づけを行ってきたわけですから、一か月やそこらでは自分の中の思い込みをクリアーにするのは到底無理です。ライフワークだと思って、時間がかかることを覚悟した方が良いかと思います。

 全ての殻を一気に破ろうとすると、現実でも極端な事象が起こりがちです。どちらを選ぶかは人それぞれですが、大きな事故や病気などを経験することがなくても、人は努力次第で、意識の変革を大胆に行っていけるものだと思っています。

 

 

2017年

10月

05日

夢ワーク

 自分が毎瞬毎瞬抱く思考を改めて見つめてみると、いかに多くのネガティブな思考を宇宙空間に向かって放っているのか気づき、驚きます。そして同時に恐ろしくなります。自分が放った思考が様々な事象を引き寄せ、現実を創っているからです。

 たとえボーっと外を眺めている時間であっても、待ちゆく人々をただ見つめているだけの時でも、自分がどれほどのジャッジ(判断)を行い、好きか嫌いかで対象物を評価し、個人的な価値観にそぐわない現実を非難しているか。少し客観的になってみただけでも、驚くほど膨大な頻度で、自然に行っていることに気づくはずです。

 

 今の文明社会は、批判精神がベースになっています。物心ついた時から、ルールや価値観に縛られて物事を判断する精神構造が自然に出来上がっていくのが普通です。多くは、その状態を疑うことすらしません。

 特定の価値観に基づいた見方をし続けている限り、その対象物をジャッジする作業からは逃れられないので、ネガティブなエネルギーを自ら作り出す無限ループからも逃れることができません。ジャッジをするということは、「良い」か「悪い」かを選ぶ作業だからです。必然的に、「悪い」、つまり自分の抱く価値観にそぐわないと評価した対象物に対しては、悪しき感情や思考を抱くことになります。

 けれど人はなかなか自分自身の内側に目を向けようとしません。物事の原因は、外にあると思いたいからです。自分が直面している現実、自分が受け入れられないでいる状況、悩み、苦しみの大元の発生源が自分であるなんて、認めたくないものです。認めたくないので、自分の内側を見ようとせず、外ばかりに目を向け、他人を責め、環境を責め、社会を責めます。

 

 

 自分がいかに特定の価値観や信念に縛られて生きているか、客観的に知る方法があります。それは、自分が見るに注意を向けることです。夢というのは、その人の内面世界を視覚的に見せてくれる世界です。例えば、仕事でストレスを抱えていたり、締め切りに追われているような状況の時、誰かに追いかけられる夢を見たりすることがあります。また、自分の意思を犠牲にして他人に迎合しているような人が、手足を縛られ動けずにもがいている悪夢にうなされたりします。

 私はかつて、もうとっくの昔に卒業している学校で、その当時私に辛くあたっていた先生に向かって、大人になった自分が罵詈雑言を浴びせている夢を見たことがあります。その夢を見るまで、自分はその先生のことをすっかり忘れられたと思っていたのですが、実は本当に赦すことはできていなかったのだということを知りました。

 

 普段、夢というのはあまり意識しないものかもしれません。朝起きると何となくぼんやりとは覚えているのだけれど、そのままいつの間にか忘れていき、2、3日もたてば大抵の夢の内容などすっかり記憶から消えていくでしょう。

 けれど、一度自分が見る夢に注意を向けるようになると、不思議なことに、夢の記憶がだんだん鮮明になっていきます。自分が昨日見た夢の内容が、今までよりも明確な残像で、自分に訴えかけてくるようになります。そして、その夢からのメッセージに気づけるようになります。夢が、私が抱えている心のお荷物の存在を教えてくれるのです。どんな価値観や信念に縛られているのかということに、気づかせてくれます。

 

 そして、夢が教えてくれた”縛り”に気づき、それを解放しようと心に決め、お掃除を繰り返していくと、だんだん見る夢の内容が変わっていきます。それは、自分の放つ思考が変わっていく過程とリンクしています。悪夢を見る回数が減っていき、夢がますますメッセージ性を帯びるようになってきます。

 

 

 フラワーエッセンスにも、いくつか夢見を助けてくれるものがありますので、夢のワークに挑戦してみたい方は、そんなエッセンスの力を借りてみるのも良いかもしれません。

 

 

2017年

9月

26日

フラワーエッセンス依存症?

 フラワーエッセンスのプラクティショナーとして活動を続けているうちに、私は多くのクライアントさんの中に、次のような”思い”があることに気づきました。それは、

 

「フラワーエッセンスの助けを借りたいのだけれど、フラワーエッセンスの力にずっと依存していたくない」

 

という思いです。頼りたいんだけれど、頼り過ぎたくはない、という感じです。

 

 エッセンスに頼り過ぎたくない、と考えるのは、自分が感情的に苦しい時、スッとその苦しみを取り除いてくれたり、マイナスエネルギーに引っ張られている時、それをポジティブに引き上げてくれる力が強いことを知っているからこそ、エッセンスなしではやっていけない、という状態になることを恐れているのかもしれません。

 

 私自身は、フラワーエッセンスを常時摂ることについては特に「依存」とはとらえていません。エッセンスは決して依存性のあるものではないからです。むしろ、エッセンスに対して執着が出始めたりすると、その状態に気づかせ、バランスの取れた状態に引き戻されます。エッセンスは、常に自分を落ち着いた状態に保ってくれ、また、より高い所に導いてくれる頼もしい味方だと思っています。

 これまで何度もエッセンスに心の苦しみを救ってもらいましたし、また引き上げてもらいました(これからもそうだろうと思います)。けれど、根底にあるのは、私自身の「自分は変わる」「余計なお荷物を捨てて自由になる」という強い意志であり、エッセンスはその意志を助けてくれているに過ぎない、とも思っています。エッセンスの恩恵を受けている他の方々も同じだろうと思います。もし、その方の芯の部分に、「変わりたい」「良くなりたい」という思いがなければ、エッセンスとの出会いさえ起こっていないはずです。もしくは、たとえ何リットルものエッセンスを飲んだとしても、望んでいるような変化は起こらないでしょう。

 

 その方が心の奥底から決心した時、物事は動き出します。自分の元にやってくる人や物やツールは、意志のエネルギーに付随してやってきたに過ぎません。人によって気づきのきっかけや、助けてくれる媒体は様々です。その方なりに、ユニークな形で自己変革を創造しているのです。

 

 ツールはあくまでツールでしかなく、自分をサポートしてくれるもの以上にはなり得ません。自分が何か(物でも人でも)に支配されていると感じているなら、自分が自分の意思でその環境を創り出しているという現実から目を逸らしていることになります。何かに依存したり、頼らずにはいられない状態というのは、自分が自分の意思の力で変化を起こしていることを信じられていないということです。自分以外の誰かや、何かがそうさせていると思いたいのです。

 

 

 そういうわけで、もし目の前にエッセンスがあり、その助けを借りたいと望むのであれば、それは自分のコアの部分で希求した結果、あなたを助けるためにやってきたわけですから、自分の現実創造の力に感謝をして、躊躇することなく利用すればいいと思います。

 もし、もうエッセンスの力に頼らなくても大丈夫、自分には必要ない、と思えるようになったら、その時はエッセンスのお役御免ということです。またいつか使いたくなる時が来るかもしれませんが、とりあえず今はなくてもやっていける状態になったということです。そういう時は、自然にエッセンスに手が伸びなくなったりします。

 いずれにしても、エッセンスでも何でも、自分が「それ」を今必要としているのかいないのかは、自分自身がちゃんとわかっているので、やめられなくなったらどうしようなどという心配は、杞憂なので大丈夫です。

 

2017年

9月

20日

自分を愛する言霊

 前回のブログに書いた魔法の言葉4つは、”他人”に対してだけでなく、”自分”に対して使う時にも、大きな威力を発揮します。

 

 特に心優しく慈愛の念が強い方に多いのですが、愛が自分以外の対象物にばかり向いてしまい、自分自身を愛することがおろそかになってしまっている場合があります。

 

〇幼い頃、傷つき体験を数多く経験している

 

〇人の感情に敏感過ぎて周囲との境界線が曖昧になり、いつの間にか他者の痛みを自分の痛みのように感じることが普通になってしまった。そして他者の痛みや苦しみの責任が自分にあるかのような錯覚を覚えることが多かった

 

〇他者の痛みや感情に過敏に反応し過ぎるあまり、何事も「自分」を軸に物事を考えるのではなくて、「他人」軸に合わせて選択することが自然になっていった。それは時としてトラブルを避けるためだったり、自分を守るために致し方ない状況にいたからでもあった

 

〇世の中で苦しんでいる人や悲しんでいる人がいる事実を目にすると、自分が楽しんだり幸せになることに罪悪感を感じてしまう

 

〇自分は幸せになってはいけない、幸せになる価値がない、幸せになるはずがないと心のどこかで思っている

 

〇自分が自分の気持ちに正直になり、「幸せ」になると、誰かを傷つけてしまうような気がする

 

〇人生で受ける恩恵は、他人に尽くした分だけが自分に返ってくると思っている

 

〇我慢は美徳だと思っている

 

〇今の悩みや苦しみは、過去の自分が犯した「罪」の代償だと考えている

 

 

・・・以上の項目に心当たりがある方は、知らず知らずのうちに、自分を責め、過去を悔やみ、将来を悲観する癖がついてしまっているかもしれません。繊細で敏感で心優しいタイプの方は、周囲のネガティビティに過剰に反応し、それを自分のエネルギーフィールドに取り込んでしまうということを、物心ついた時から自然にやってきていることが多いです(特に幼少期から青年期にかけて、バリアーがきちんと築けていなかった時代に取り込んでしまったものに、未だに影響を受けていたりする)。

 次第に自分の中で膨らんでいった罪の意識や恐れ、怒りなどを、大人になってからも手放すことができずにいると、自分の内面で大量のネガティビティをため込んだ状態になっていきます。そして、周囲や他人との関係性を築く途上で、自分の内面にあるネガティビティがいちいち反応し、悪しき感情が生まれ、ネガティブな思考に圧倒されて苦しむことになります。

 自分が苦しい時、つい他人や周囲の環境を責めたくなりますが、自分の身に起こっていることの原因は、外側にはありません。他人の言動に反応しているとしたら、その要素が自分の中にあるためです。

 

 自分が本当の意味で自由になり、心が解放されたいと望むのであれば、まずは私が私自身を愛してあげなければいけません。私を赦してあげなければいけません。愛と赦し、これが人生の最大の課題です。他人にはできるけど、自分に対してはできない、では中途半端な状態で終わってしまいます。そもそも、全体が幸せになるためには、まずは1人1人が自分自身を愛していなければ始まらないのです。

 

"I love you"

"I'm sorry"

"Please forgive me"

"Thank you"

 

 この4つの言葉は、ただお題目のように唱えているだけでも、潜在意識を浄化してくれる力があります。長い間自分の中に抱き続けてきた「思い」こそが、自分の人生を花開かせる最大のブロックになっています。ブロックを外すためには、一つ一つ、心の中に巣くっている「思い」を取り外していくしかありません。言葉の力を使って、固定観念を緩め、解放させていきましょう。

 

 

 

"I love you"

私は私を愛しています。私のあるがままを全て受け入れています。私は私が幸せになることを心から望んでいます。私は私の過去に起こった全てのことを受け入れます。何も「間違って」などいなかったことを認めます。私は何も「間違った」ことはしていませんし、私以外の誰も、「間違った」ことなど何一つしていません。「間違っている」ことなどこの世に1つも存在していません。

私はこのことを受け入れ、認めます。

 

"I'm sorry"

ごめんなさい。私は今まで、自分を否定し、傷つけ、価値のない存在だと思い込んできました。ごめんなさい。私は私が幸せになるための道を自分自身で閉ざしてきました。ごめんなさい。魂の導きに従う心の声を無視してきました。ごめんなさい。自分の可能性を信じることができませんでした。ごめんなさい。自分の身に起こったことを全て他人や環境のせいにしてきました。ごめんなさい。私の人生の舵を握っているのは私自身だということに長い間気づかずにいました。ごめんなさい。

私は今、このことを私自身に謝ります。

 

"Please forgive me"

ゆるしてください。私が今まで私に対してしてきたことをゆるしてください。私に向かって浴びせた言葉を、思いを、行動を、ゆるしてください。私の価値を落とす全ての思い込みをゆるしてください。私を縛り付け、苦しめ、停滞させてきたネガティブな観念をゆるしてください。幸せになっても良いと、長い間自分に許可できなかったことを、ゆるしてください。

 

"Thank you"

 ありがとうございます。私が今、このことに気づけたことに感謝します。私が私を愛しても良いのだと思える段階にきたことに感謝します。これまで私の身に起こった全てのレッスンに感謝します。私の運命と、私の強さと、 私に与えられた全てに感謝します。私をここまで導いて来てくれた全ての存在に感謝します。

 

 

 

2017年

9月

12日

ホ・オポノポノ

 フラワーエッセンスには、様々なネガティブな感情を癒す力があります。怒り、悲しみ、恐怖、絶望、妬み、etc...

 それらの感情が湧いてきた時に適切なエッセンスを飲むと、スーッと感情が治まり、どこかに去っていきます。本当にありがたいツールなのですが、そうはいっても常にあらゆる感情に対応するエッセンスを持ち歩くわけにはいきませんし、そもそも感情など湧いては消え、湧いては消え、と目まぐるしく生じ続けるものです。

 

 感情、特にネガティブな感情に振り回されたくなければ、そもそもなぜそれらの感情が湧いてくるのか、その源泉、つまり感情が生じている根本原因にメスを入れなければいけません。感情は、その人の心の中にある何かしらの定義づけであったり、思い込みであったり、「こうあるべき」という理念などが、現実に目にしている事実と反応することで生じています。それらの固定観念と現実を照らし合わせた時、その現実が「良い」のかそれとも「悪い」のか、無意識にジャッジしているのです。ジャッジすることがなければ、感情はさほど湧いてきません。湧いてきたとしても、その規模は煩わされることはない程度にとどまるでしょう。

 

 試しに、外を歩いている時、自分がどれだけの物事をジャッジしているか、少し意識的になってみてください。本当に驚くほどやっていると思います。向こうから歩いてくる人を見た時に、その人をどのように見ていますか。暗い顔をしている(嫌なことでもあったのかしら)、脚を引きずっている(事故にでも遭ったのだろうか)、子供をたくさん連れている(大変そう)、派手な色の服を着ている(私ならあんな服は着ないわ)、酔っぱらっている(節度がないのね)、・・・

 表に出ている事実以上に、どれほどの個人的な価値観でその人を判断していることか。そして、自分の価値観に照らし合わせて、「こうすればいいのに」「なんでこうしないんだろう」と、その人の個人的な領域にまで踏み込んだ余計なおせっかいまでやいてしまいます。もしかしたら、自分がジャッジしているという認識すらないかもしれません。そのくらい、ごく自然に、物心ついた時から行ってきているものなのです。

 

 ジャッジすることで、「こうあるべき」と自分が考えている事実と異なる事実を目にした時、その都度、嫌な感情に苛まされることになります。なぜなら、私が考える「こうあるべき」姿ではないから。「こうあるべき」なのに、「こうあるべき」ではないから、つまりそれは「良くない」ことになるわけです。あの人の言葉遣いも、あの人の行動も、趣味趣向も、服装も、考え方も、どれもこれも、私が考える「こうあるべき」と違う。だから許せない。本当は「こうあるべき」なのに。怒りが湧いてきます、悲しみが湧いてきます、変えたいのに変えられないことで絶望感も湧いてきます。

 

 このように、自分の中で頑なに特定の価値観や定義を抱き、そこに縛られていると、周囲を見た時に自然とジャッジすることになり、それによって生じるネガティブな感情に自分自身が苦しみ続けることになります。その時、原因は自分の中にあるのに、周りや他人にあると思っています。周りがこうだから、自分がこうなっている、と考えています。

 

 悪しき感情に苦しみたくなかったら、自分が心の中に抱いている、自分を縛っている信念を手放せばいいのです。「こうあるべき」という固定観念から、自分を解放してあげれば良いのです。周りや他人は関係ありません。私が変わればいいのです。私が変えることができるのは、私だけです。

 

 具体的に、どうやったら固定観念や思い込みを手放すことができるのでしょうか。私が一番お勧めする強力なツールは、言霊です。古代からハワイに伝わるホ・オポノポノという考え方に、「自分の目の前で起こっていることは、100%自分に責任がある」というものがあります。自分の思いが、現実を創っているのです。ホ・オポノポノの提唱者が勧める、有名な4つの言葉があります。

 

「愛しています」

 

「ごめんなさい」

 

「ゆるしてください」

 

「ありがとう」

 

 これらの言葉には、潜在意識を浄化する力があるといわれています。実際、自分がついジャッジしそうになった時、この4つの言葉を言うことで、スッと囚われから解放される感覚があります。心の中で唱えるだけでも効果があります。ちなみに私の場合、なぜかはわかりませんが、日本語で言うよりも英語で唱えた方が力強さを感じます。

 

"I love you"

 

"I'm sorry"

 

"Please forgive me"

 

"Thank you"

 

 誰かを見た時、その振る舞いに対してジャッジしそうになったらすぐさま、この魔法の言葉をひたすら唱え続けます。"I love you", "I'm sorry","Please forgive me", "Thank you",  "I love you", "I'm sorry","Please forgive me", "Thank you",  ...

 

"I love you",

何はともあれ、あなたのことを愛しています、認めています、受け入れています、あなたがどんな状態であれ、あなたを愛しています、あなたがどんな言動をとっていようが、あなたを愛しています

 

"I'm sorry",

ごめんなさい、あなたのことをジャッジしようとしました、ごめんなさい、あなたが〇〇であると判断しました、あなたは△△だからこうなっているのだと決めつけようとしました、ごめんなさい、こうあるべきだと考えました、ごめんなさい、あなたの選択を否定しようとしました、ごめんさい、私が正しいと思ってしまいました、ごめんなさい、私の価値観と異なるあなたの価値観を、あなたの選択を間違っていると思ってしまいました、ごめんなさい、あなたの行動を責めてしまいました、ごめんなさい、あなたの有り様を、あなたの人生を、そのまま受け入れられなくてごめんなさい

 

"Please forgive me",

あなたをジャッジした私を許してください、あなたが間違っていると考えた私を許してください、あなたがこうするべきだと考えた私を許してください、あなたがしたことを責めた私を許してください、あなたを受け入れられなかった私を許してください

 

"Thank you",  

ありがとう、私に気づかせてくれてありがとう、教えてくれてありがとう、大切なレッスンを与えてくれてありがとう、成長する機会を与えてくれてありがとう、出会えたことに感謝します、気づけたことに感謝します、お互いの存在に感謝します、あなたがいてくれたことに感謝します、この経験を与えてくれた大いなる存在に感謝します

 

 

 

 言葉はエネルギーですから、続けていけば、物心ついた時から長いことジャッジすることに慣れてきた、癖を矯正していくことができます。潜在意識をクリーニングしていくことができます。思い込みや固定観念に縛られて苦しむことが減っていきます。

 

 

2017年

9月

07日

今更だけどエッセンスの不思議

 アンジェリックエッセンスの中には、時々「?」と思うような不思議なエッセンスがあります。中でも私が最も「?」と思うエッセンスは、「Next Level」(ネクスト・レベル)。”次の段階”といった意味ですが、一体何のことを言っているのでしょう。

 

解説は、次のようなものです↓

 

「とても高いバイブレーションのエッセンス。次の段階の意識や存在のエネルギーのようです。現存するエネルギーより高いエネルギーで、私たちがより高次の意識とバイブレーションへ進化することを助けてくれます。私(ルース)がこのエッセンスを初めてつくって試したところ、エネルギーに満たされ充電されました。エネルギーを見たり感じたりする私の能力が高められたようです。このエッセンスは、その人のバイブレーションを引き上げるのにぴったりです。」

~㈱ネイチャーワールドHPより抜粋

 

 解説にも、「・・・のようです」とあるように、作り手のルースさん自身にとっても、ちょっと「?」なのでしょうか。

 

 アンジェリックエッセンスは、摂る人によって変化の表れ方も様々で、一概に「これを飲めばこうなります」と断言できない部分があります。とても波動の高いエネルギーが入っていることは確かなのですが、バイブレーションが精妙過ぎて、今現在私たちが感知できるレベルではないのかもしれません。

 かといって、飲んだから何の変化も感じないかと言うとそういうわけではなく、不思議なことに、しばらく飲んでいると、「あ、これはあのエッセンスが効いているんだな」という感覚を味わうことができます。複数のエッセンスをブレンドして飲んでいる時でも、その中の何が効いているのかが、どういうわけか「わかる」のです。これは私に限ったことではなく、飲んで頂いているお客様も、大体皆さん同じようです。

 

 この「Next Level」は、アンジェリックの中でも特に、人によって変化の表れ方が異なるような気がします。しかも、同じ人でも飲む時によって変化が違います。私はこれまでこのエッセンスを複数回飲んできましたが、その都度違うことが起こります(内面での話ですが)。いずれの場合も、解説にあるように、私が「次の段階」へと引き上げられるのを感じます。大きな気づきがあったり、今までどうやっても取れなかった心の重荷が急に取れてスッキリしたり、意識のレベルが一段階グンと持ち上げられるような感じです。個人的に、このエッセンスを飲む時、「Grace」と一緒に飲むのがお気に入りです。とても暖かな、力強いバイブレーションに守られます。

 

 とにかくアンジェリックはよくわからない部分が多いのですが、わからないからこそ興味が惹かれます。

 

 ちなみにここ最近は、「Balance of Dark」を飲んでいたのですが、これを飲んでいた時に図書館に行ったら、ある本がポンと目に飛び込んできました。開架書庫をブラブラ歩いている時、その本だけが、何か特別なバイブレーションを放っているのを感じたのです。近づいてタイトルを見てみると、ルドルフ・シュタイナーの「悪について」。この本の中に、私が知りたいと思っていたことが書かれているのだなとすぐにわかりました。

 エッセンスを飲んでいると、こういうことがよく起こります。シンクロニシティを引き寄せるのだろうと思います。その人の成長を、後押ししてくれているようです。

 

2017年

8月

27日

「闇」を受け入れる

 アンジェリックエッセンスには、私達の認識を根本から揺り動かしてくれるような、とてもディープな部分に働きかけてくれるものがいろいろあります。

 

 例えば、「Balance of Dark」(バランスオブダーク)というエッセンス。”闇”のバランスをとる、といったエネルギーです。

 

 解説は次のようなものです↓

 

『闇のバランス。本当はこの世に「闇」など存在せずただ意識が欠如しているだけです。このエッセンスは、怖れ、貪欲、暴力など二極性のネガティブな側面として認識されているものを見つめ、すべてのものに光が宿っているのだという新しい気づきをもたらしてくれます。そしてネガティブな要素をバランスと調和の中に戻してゆきます。新たなものや事柄、未来のエネルギーに取り組む際に重要な役割をしてくれるエッセンスです。また、無自覚だったことや知らなかったことに認識をもたらし、私たちが「闇」と呼ぶ側面に内なる安らかさと理解をもたらしてくれます。』

~㈱ネイチャーワールドHPより抜粋

 

 

 私達は、物心ついた時から周囲や環境の影響を受け、知らず知らずのうちに、様々な偏見や思い込みを抱いていきます。そのため、何か出来事が起こった時や、他人を見た時、または自分がとる言動一つ一つに対して、逐一「良い」「悪い」というジャッジをしてしまいます。それは、意識をするまでもなく、瞬間的に行っていることがほとんどです。

 

 しかし、最初の段階で「悪い」と判断した出来事であっても、しばらくしてから振り返ってみた時に、実はそれがあったおかげで助かったり、成長することができたり、またはより望ましい方向に進むきっかけとなっていたことに気づくことは多々あります。歴史を振り返ってみても、大きな災害や悲劇が起こったことにより、世の中の意識の覚醒が進み、社会がよりポジティブな方向に転じていくという流れはたくさん起こっています。

 一見「悪い」ことにしか見えない出来事や環境、人、状況なども、見方によっては、私達の成長のために必要なことであったり、糧だったりするわけです。

 

 

 また、自分の価値基準から大幅に外れる他人の言動を目にした時、それを「良くないこと」という見方でとらえれば、嫌悪感が生じ、受け入れるのが難しくなります。けれど、そもそも「良い」か「悪い」という二元論的な見方をしなければ、もう少し深い観点で、その人の状況を理解できるのではないでしょうか。今、その人は何かの理由があって、愛と対局にある言動をとってしまっているわけです。その人の言動の裏にある思いや、そうせざるを得ない理由に目を向けるようにすれば、表に出ている今現在の姿1つをとって責め立てたり、悪い人というレッテルを貼ることも減っていきます。

 

 あらゆる物事に対して、逐一「良い」「悪い」のジャッジをすることは、何より自分自身を苦しめることにもなります。自らが創り出した規範によって、自らが縛られ、苦しくなり、自由に生きることへの障害となります。他人を批判しているようで、実は自分が見ているのは、他人の中の自分の一部です。それが許せないから、責め、批判をしているのです。

 

 

 「バランスオブダーク」を飲んでいると、無条件にジャッジをすることが減るか、もしくはジャッジをしている自分に気づくようになり、それまで「悪」や「闇」、「ネガティビティ」ととらえていた部分に対する抵抗が減っていきます。冷静で広い視点で眺めることが可能になると、今まで自分が受け入れられなかった物事や人も、その存在を認め、尊重できるようになっていきます。自分の中の許容量が増えるということは、結果的に、自分が縛りから解放され、自由になるということでもあります。

 

2017年

8月

24日

感情のコントロール

 オーストラリアンブッシュの創始者イアンさんは、ボランティア活動も精力的に行っていて、例えばブラジルの孤児院にエッセンスを送ったりしているそうです。そこにいるプラクティショナーは、子供達1人1人に合わせたドーセージ(希釈)ボトルを作っていて、それを毎日飲ませているとのこと。

 孤児院の子供達がフラワーエッセンスを飲むようになったら、子供が肺炎にかかる回数が大幅に減ったのだそうです。なぜ孤児院の子供達が肺の病気に罹りやすかったかというと、肺は「悲しみ」と繋がりがある臓器だからです。親がいない子供の悲しみのエネルギーが、肺の病気を引き起こしていたのではないかと思われます。

 

 私達は、悲しみや寂しさが強い時、確かにハートチャクラ(胸周辺)がキュっと痛くなるような感覚を覚えます。感情は肉体に蓄積されますから、長年ため込んだ感情エネルギーが少しずつ肉体を蝕んでいき、ある時具体的な疾患として表出するのもわかります。

 

 感情を抑圧し、内側にため込んだ状態でいると、心が苦しいだけでなく、肉体にもあまり良い影響を与えません。特にネガティブな感情は悪者にされがちですが、肝心なのは、自分がその感情を抱いているという事実を素直に認めることです。1つ1つの感情に「これは良くない、これはOK」と無意識的にジャッジをし、あまり自分が「良い」と考えていない感情がやってきた時に、自分を責め、その感情とそれを抱いた自分を否定する。こんなことをずっと繰り返してきた方は多いのではないでしょうか。否定された感情は行き場を失い、どんどん内側に押し込まれ、抑圧された状態で蓄積されていきます。

 

 そもそも、人間は感情を抱く生き物なのですから、感情があって当たり前、それが自然な状態です。そして、良い感情も悪い感情も本来ありません。感情は感情です。良いとか悪いとか判断しているのは、人の頭(自我意識)です。

 

 ヒンドゥー教の聖典、バガヴァッド・ギーターには、人が心と感情の活動を抑制することの大切さが繰り返し書かれています。人が精神的修練を積むと、次第に心の抑制がとれるようになり、エゴ的な欲望や執着、情動の影響を受けない安定した状態が保てるようになっていきます。

 ここにも、感情を「抱いてはいけない」という文言は書かれていません。ただ、感情にコントロールされるのではなくて、感情をコントロールできる状態にまで自分を持っていくよう、修行を重ねなさい、といっています。

 

 感情をのものを悪者にするのではなく、そして好ましくない感情を抱いている自分を否定するのではなく、その感情の出処を探り、なぜ自分が今そうした感情を抱いているのか、掘り下げて考えていく。感情が出てきているからには、何か原因があるはずです。自分の中の、心の重しがその感情を引き起こしているわけです。重しが外れたら、同じ出来事が起こっても、以前のような悪しき感情は湧き起こらなくなり、感情そのものに苦しむこともなくなります。

 

 感情は、自分の心の内にある傷やトラウマ、執着、固定観念の存在を知らせてくれる、アラームのようなものです。アラームを責め、アラームを否定したところで、本体機能が変わらないままであれば、また繰り返し似たような場面でアラームが鳴り続けることでしょう。

 

 

 

2017年

8月

15日

豊かさと自己価値

 自己価値が低い、自己否定感や劣等感、罪悪感が強く、自分を苛む感情が心の多くを占めている・・こうした、自己肯定感の問題を抱えている方は、経済的な問題も抱えていることが多いです。

 

 自己価値が低いと、「私なんて」と自分を卑下する思いが強く、「どうせ私など価値のない人間なのだから、豊かさなんてやってくるはずがない」という認識が、無意識レベルに強く浸透していたりします。豊かで経済的に何の不自由もなく過ごしたいという願望があったとしても、潜在意識を覗いてみると、実は「私は豊かである」「私は豊かに生きる権利がある」という認識よりも、「私は豊かさを受け取る価値がない」「私には豊かさがやってこない」という認識の方がはるかに強かったりするのです。

 目の前に広がる現象はその人の意識の表れですから、心の中が「私は豊かではない」という思いで占められていれば、その通りの現実が造られていきます。

 

 チャンスに恵まれないことや、経済的に苦しい環境から逃れられずにいる状態を、神様や誰かのせいにしたり、こういう運命なのだから仕方ないと諦めてしまうのは、本当にもったいないです。原因を外側に求めて他者を責め続ける日々を送るより、自分の意識を変え、行動を変え、長い間自分にこびりついてきた垢をそぎ落としていくことにエネルギーを注いだ方が、魂が本当に望む人生へと時短コースで進むことができます。

 

 自分の意識と行動次第で現実は変えていくことができます。それは、誰かの許可を得なければいけないことでもありませんし、誰かに自分の代わりに決めてもらう必要もありません。というより、本当に心の底から自分が決心しない限り、具体的に動いていくことは難しいと思います。

 誰それが反対している、きっと○○が良い顔をしないだろう、周りにいろいろ言われそう、変な目で見られるのが怖い、etc...行動に移す決心がつかない状態の時に、よくこうした言い訳が浮かびます。自分が本当に望む道へと進ませないように、エゴが邪魔をしてくるのです。そこで、エゴの声を聞いて今まで通りの人生を歩むか、恐れを払拭して自己変革の道へと進むのか、それはその方次第です。選択しているのは、全て自分です。

 

 経済的に苦しい状況でいることで、現実的な「縛り」を生み出し、自分を次の道へと進むことをストップさせている場合もあります。行動を起こすには勇気とエネルギーがいるので、たとえ行き詰っていたとしても、今の状態でいることを無意識レベルで選択し、停滞状態に身を置いているのです。現状維持でいる方が、一見安全で安心感があるようにも思えるからです。

 また、自分以外の誰かに、ストップをかける役割を演じてもらっていることもあります。家族など身近な人や、自分にとって影響力を持つ人であることが多いです。

 

 

 フラワーエッセンスにも、豊かさに関連したものはたくさん出ています。そういったものを飲むことで、内面が「豊かである」という気持ちに満たされ、一時的に豊かな状況が生まれることはあります。ただ、その状況を定着させるためには、根本的な部分から自分が豊かであるという認識を持つ必要があります。「自分は豊かに生きていいのだ」と、自分に許可を与える必要があります。

 

 

2017年

8月

07日

オーストラリアンブッシュフラワーエッセンス②

 イアンさんは、現実とスピリチュアルな世界の両方に理解と深い造詣があり、そしてそのバランスをとても上手にとっていらっしゃる方だなあ、という印象を受けました。どちらかというと、あまりスピリチュアルな方向に傾倒し過ぎることなく、肉体や現実的な事象に対しての具体的なアプローチをとても大事になさっているようにも感じました。オーストラリアンブッシュフラワーエッセンスには、お医者さんなどの医療関係者のファンが多く、実際に医療機関でも使われていたり、研究に用いられているというのもわかります。

 

 世界中をあちこち飛び回っているイアンさんですが、年の半分は、エッセンス作りに時間をとっているのだそうです。エッセンスを作る植物が自生している場所の写真をいくつかスライドで見せてくれたのですが、中には素人が登るにはあまりにも危険と思われる、急斜面の崖のような場所もありました。体にロープを巻いて登っていくのだそうです。誰かに手伝ってもらったり、他の人に頼むことはできないものなのだろうかと思っていたら、ご自身が次のように言っていました。

 

「オーストラリアンブッシュフラワーには40人ほどのスタッフがいますが、実際にエッセンスを作るのは私1人です」

 

 それも、自分の調子が良く、クリアーな状態の時だけにしているそうです。エッセンスを作る時には、瞑想をし、お花(のディーバ)とコンタクトをとって、許可を得てから作るとのこと。

 

 そして、エッセンスを作る時には、見えない世界のガイドの助けも借りているそうです。そのうちの1人としてイアンさんが名前を挙げていたのが、私が最近個人的に探究をしているあのヒルデガルド・フォン・ビンゲン(のスピリット)。イアンさんはヒルデガルドが過ごしていたドイツの修道院にも過去に訪れており、その場所(大変波動の高い場所だったとのこと)でヒルデガルドのスピリットからのメッセージを受け、そこにあった石のエネルギーを使ってエッセンスを作るようにいわれたのだそうです。

 

 イアンさんは、現実に根を下ろして極端にスピスピしていない方との印象を受けましたが、根本的な部分では、自分はスピリットに動かされて、スピリットの助けを借りて行動しているというスタンスをお持ちのようでした。

 

 ワークショップの終わりに、参加した方達全員で輪になり、手をつないで歌を歌ったのですが、その時にもイアンさんは、次のようにおっしゃっていました。

 

 

「今日このようなワークショップを開くにあたってご尽力してくださった方々にお礼を申し上げます。そして、この機会を作ってくださったガイド達にも感謝をいたします。私達がこのような場をもつためには、たくさんのガイド達の助けがなければ実現しなかったでしょう。参加してくださった皆さんのガイドも含めて。」

 

 

 長い間、人々の心身の不調を癒すため、精力的に活動していらっしゃるイアンさんは、このように謙虚な姿勢で取り組んでいらっしゃるからこそ、目に見えない存在からも愛され、助けられ、パワーをもらっているんだなあ、と思いました。

 

 

2017年

7月

31日

オーストラリアンブッシュフラワーエッセンス

 うぶすなにお問い合わせくださるお客様の中には、オーストラリアンブッシュ(AB)のフラワーエッセンスを以前使っていたとか、今現在使っている、ファンであるという方が多いです。そして口々におっしゃるのが、ABのエッセンスは効果が出やすい、強力である、わかりやすい、ということ。私自身も個人的に使っていてそのように感じていますし、エネルギー次元に作用しているのだろうけど、同時に肉体的次元でも変化が表れやすかったり、エネルギーの質を体感しやすいという印象があったりして、いろいろと興味深いです。以前、創業者であるイアン・ホワイト氏の著書を読んだ際は、その造詣の深さと自然界に対する真摯な姿勢に感銘を受けました。一度ご本人から直接講義を受けたいと思っていた矢先に、イアンさんが来日してワークショップを開くというお知らせがあったので、満を持して参加してきました。

 

 2日間の講習は、連日時間があっという間に過ぎ、気づいたら終了の時刻になっていて驚いた程、濃密で奥の深い内容でした。イアンさんは、エネルギー世界への理解と知識もさることながら、肉体・医学・解剖学・植物学的分野における造詣も深い方です。植物界がどれほど私達人間に恩恵を与えてくれているか、そして私達の三次元的肉体がいかにして感情・マインド・魂レベルの世界と繋がっているかといったことを、非常にわかりやすく、明瞭に説明してくださいました。ボディ・マインド・スピリットを三位一体でとらえ、そのどれもが大切であり、それぞれが密に影響し合っているという事実を、様々な事例やデモンストレーションを通して教えて頂きました。

 

 以前から興味があったキネシオロジー(筋反射)テストも、きちんとした形で見ることができ、エッセンスって本当に肉体次元にも影響を与えているのだな、ということが改めて実感できました。

 私自身も一度、前に出てデモンストレーションの実験台になったのですが、それは次のような実験でした。

 

 

①まず、被験者が左腕をまっすぐに伸ばした状態で肩の高さまで上げ、筋力を使って腕が下がらないよう、しっかりとホールドします。

 

②被験者は目を閉じます。そして、対面している数十人の人々が一斉に、被験者に対してややネガティブな念を送ります。

 

③ネガティブな念を送られている間、被験者の左腕を下に押すと、簡単に下がってしまいます。

 

④次に、被験者は、オーラを保護してくれる作用のあるエッセンスを飲みます。

 

⑤飲んだ後、対面している人々は再び被験者に向けて、先ほどと同じようなネガティブな念を送ります。

 

⑥ネガティブな念を送られている間、被験者の左腕を下に押すと、今度はがっちりとホールドしたまま、簡単には下がりません。

 

 

・・・つまり、腕が下がらないということは、その人のエネルギーフィールドがしっかりと守られているということ。1度目と同じようなネガティブな念を送られているにも関わらず、2回目の時には、エッセンスのおかげでオーラフィールドが守られ、自分の元に送られてきたネガティブエネルギーを跳ね返したということがわかります。

 話を聞いただけではこの手の話は半信半疑に思うかもしれませんが、これは私自身が被験者になったので、嘘でもヤラセでもないことが本当に体感できました。③の時は、イアンさんに左腕をチョンと下に押されただけで、自分でも驚くほど簡単にフニャリと下に下がってしまったのです。ちなみに②の状態の時、対面している人々から送られてくるピリピリした念が私のエネルギーフィールドめがけて一斉にやってくるのを感じ、正直「怖い」と感じました。そして、急に心臓がバクバクと速く脈打ち始め、サーッと自分の中から力が奪われていくと同時に、自分が無抵抗になったような感覚がありました。気力と体力が一気に持っていかれたような感じです。

 ④でエッセンスを飲んでからすぐに⑤を行ったのですが、この時は、前述したような心臓バクバクも治まり、全体的な安心感がありました。見ていた方が言うには、④の後、私の目の力が強くなったとのこと。⑥でイアンさんにもう一度腕を押された時には、しっかりと力が入り、腕が下がることはありませんでした。③の時と違って、自分の意思できちんと体をコントロールできる状態であり、自分は安全である、大丈夫だという自信がしっかり保てていました。

 

 ネガティブな念エネルギーというものは、目には見えないけれど本当に存在しています。できるだけ他人とネガティブな関係を作らず(その分ネガティブエネルギーを受けることになる)、と同時に自分のエネルギーフィールドをしっかりと守ることがいかに大切かということが改めてわかりました。

 芸能人や有名人など、自分の姿を日常的に大衆の目の前に晒し続けている人というのは、膨大な人々の様々な念を日々受けているわけですから、それだけエネルギーフィールドの浮き沈みも激しくなるものなのかもしれません。極端なメンタルの変容が起こりやすいのも理解できます。ポジティブな念だけを受ければ良いのでしょうが、中にはネガティブな念を送り付ける(無意識的にでも)人もいることでしょう。大衆の面前に姿を出すということは、あまり無防備な状態ではやらないに越したことはなく、また相当の覚悟と自分を守る努力が必要だと思います。

 

 

 

 イアンさんを見ていて感じたのが、スピリチュアルな世界に深い理解がありつつも、しっかりと地に足を着けた状態で、現実世界を精力的に生きていらっしゃるということです。エネルギーとかスピリチュアルとか、そちらの方向に引っ張られ過ぎると、肉体や現実から乖離してしまったり、日常生活に魅力を感じなくなったりといった分裂が起きやすくなります。私もこれまで多々失敗を重ねてきましたが、改めて、どちらかに極端に偏るのではなく、両方の世界を大切に、両方の世界への理解を同時に深めていこう、そして目の前の出来事に一つ一つ、真摯に向き合っていこうと気持ちを新たにしました。

 

2017年

7月

20日

苦しみの原因

 少し前に、働く女性のアンケート結果を目にしました。「一番の悩みはなんですか」との問いに対し、ダントツの一位は「人間関係」でした。この種の質問はだいたい、どんな世代でも、どんなグループの人であっても答えが同じであることが多いです。実際、悩んでいる人の話を聞くと、そのほとんどが対人関係の問題です。

 

 人間関係の悩み。具体的には、自分と他人との関係性から生じるネガティブな思いや感情に悩まされているパターンが多いように思います。つまり、人との関係性そのものや、今いる状況それ自体に悩んでいるというよりも、その状況に身を置いていることで生じている、怒りや嫉妬、恐怖、不安、閉塞感、みじめさ、悲しみといった悪しき感情に圧倒され、苦しんでいるのです。

 

 人との関係性は、自分の心の中の信念を表しています。自分が信じていることが、現象という形をとって自分の目の前に現れ、他人の振る舞いを通して、自分の深層にある意識に気づかせてくれます。

 自分に対して理不尽な振る舞いや物言いをしてくる人がいたとします。普通は怒りの矛先はその言動をとっている本人に向かうでしょう。けれど、その人を悪者にして、相手を責め続けていたとしても、状況が良くならないどころか、本質的な問題の解決にはなりません。たとえその人と離れられたとしても、根本の原因が未解決のままなので、しばらくしたらまた似たような人を人生に引き込むことになります。そして再び似たような関係性が始まり、それに対してかつての自分と同じような反応をしている自分に気づくはずです。

 

 同じようなパターンがなぜ繰り返されるかというと、それは自分の深層意識の中にある信念が変わっていないからです。他人は関係ないのです。他人は自分の内面を映し出してくれる鏡でしかありません。ベクトルを相手に向けるのをやめて、自分の内側をのぞき込み、そこに何があるのか、どんな信念を自分が抱いているのか、どんな思いが今のこの状況を創り出しているのか、気づいて癒して解放してあげない限り、同じ状況は延々と繰り返されます。

 本当は、薄々気づいていると思います。どんなにひどい、赦し難いことを相手が自分にしてきたとしても、どんなに相手が「悪い」としても、怒りをただその人にぶつけているだけでは、自分のこの苦しみが消えることはないということを。

 

 「赦し」は人生における最も難しい課題の1つかもしれません。けれど、これができないうちは、心が真に解放されることはなく、本当の意味での自由は得られません。

 

 心の内側にある信念や思いは、大変深い根を張っていることが多いです。場合によっては、生まれる前から引きずっているものもあり、魂として背負っている傷や課題であることもあります。そうした魂レベルの信念は、私達が自我意識として認識しているレベルでは解決することが難しいです。癒しが別次元のレベルで起こる必要があります。

 私達ができることは、祈り、魂レベルの癒しと解放を「お願い」することです。自分の力で何とかしようとするよりも、もはや手放して、大いなる力に委ねてしまった方が、癒しのプロセスがスムーズに起こりやすくなります。

 

 私が抱いている信念。「こうあるべきだ」「私は~だ」「~しなければいけない」という固定観念。私が私に対して抱いている評価。世の中に対する思い込み。これらは、深層意識の中にどっしりと鎮座し、長年我が物顔で人生を仕切ってきました。あまりにも当たり前のように存在し続けてきたため、存在そのものに気づきにくくなっています。私の魂は、わざわざ現象を通して、他人を通して、私がどのような思いを深い部分で抱いているのか、気づかせてくれています。現象に惑わされないでください。私を傷つけ、苦しめ、縛ってきた張本人は、時折目の前に現れる他人ではありません。私の中にいます。

 

 

2017年

7月

12日

迷い

 二つの選択肢の狭間で、決断を下すことに躊躇している場合。二つの内の1つが、恐れ・不安・心配といった自我意識(エゴ)に基づいた選択肢で、もう1つが、魂の声、天の声、ハイヤーセルフの声に基づいた選択肢であるというシチュエーションがとても多いです。

 心の奥底では、後者の声に従った方が全てうまくいくこと、そして本当はそうすることを自分が望んでいることを知っているのだけれど、エゴの声の方を聞いてしまって、進むべき道がわからなくなってしまっているのです。恐れや不安が強い時というのは、エゴの声つまり頭のおしゃべりがとてもうるさくて強いので、心の内側で静かに囁いている魂の声に気づきにくかったり、アクセスが難しくなります。

 一般的にエゴの声の方が、強い調子で具体的な指示や断定的な考えを出してくるので、惑わされやすいです。「こうしなければこれを失うことになる」「○○がこう言っているので、こうするべきだ」「こうなりたくなかったら、これをしなければいけない」etc...

 頭で響いているそんな声に従っていた方が、一見楽で簡単なようにも思えるかもしれません。けれどエゴの声に従っていると、結果的に更なるエゴを助長することになるので、心の充足感は永遠に得られないままです。また、恐れベースで下した決断は、往々にしてうまくいかないものです。

 

 本当は、魂が望む方向性はわかっているはずなのですが、内なる望みを自分でシャットアウトしていたり、アクセスできないと思い込んでいたり(自分以外のものや人に依存することになります)、何らかの理由をつけて遠ざけようとしていたりします。エゴの声を聞かずに内なる声に従うのは、とても勇気がいることなので、つい逃げ腰になってしまうものです。けれど、本当に自分が望んでいることは魂の声に従うことなので、そこの部分で葛藤が生まれます。そして、エゴと魂の声との狭間で悩み、決断を下せずにいるというわけです。 

 

 エゴの声は聞かず、内なる魂の声に従って生きる。そう強く決断し、強い意思を持つことで、エゴとの葛藤とは次第に無縁になれます。エゴがなくなることはないけれど、少なくともエゴを主役に奉り、エゴに支配される苦しみからは逃れられます。内なる声、魂の声、天の声とのパイプが太くなり、迷いがなくなっていきます。

 

 

2017年

7月

04日

自己価値を高めたい

 自己肯定感。果たして世の中のどれだけの人が、この感覚を真に持ち合わせているのだろうかと思います。「自分に自信がある」と口では言っている、もしくは自信があるかのように振る舞っている人でも、心の内には様々なコンプレックスや自己否定感を抱えていることだってあります。極端な自己アピールや、他者に対する威圧的な態度は、こうした内面の自信のなさの表れである場合が多いものです。

 自己価値が生まれながらにして高く、そして高い状態のまま成長する人など、世の中にいるのでしょうか。

 

 幼い頃、家族や先生など周囲の大人達から否定的な言葉を投げかけられたり、いじめを受けたり拒絶された経験を持つために、「自分はだめな(価値のない)人間なんだ」という感覚を抱くようになるケースはよくあります。その場合、そういった自己否定的な感覚は、物心ついた時からごく”自然に”自分の中にあったため、自分の一部として当たり前の存在になり、大人になってからでも特に客観的に意識することがなく、自分に自己否定の気持ちがあるという認識さえしていないことが多いです。誰かに言われて初めて、もしくは何かのきっかけで自分を見つめなおした時に、「そういえば私、自分のことを大切に思ってないかも」と気づいたりします。物心ついた時から自分の中にあるものには、客観的に気づきにくいものですし、何もしなければ、あって当然のものとして居続けます。自己変革には、多大な意思の力と勇気と努力がいるものです。

 また、たとえ運よく愛に恵まれた家庭環境で育ち、自己肯定感が健全に育まれていったとしても、いざ学校や社会に出て行って他者との関わりを持つようになった時、そこで出会った人々や体験した出来事によって、挫折を味わったり、自信を失ったりすることなど、どの人だって経験するに違いありません。何の挫折も失敗も自信を失う経験もしたことがない人なんて、おそらく1人もいないのではないでしょうか。

 そう考えると、多かれ少なかれ自己肯定感の問題は、私達人類が共通して抱える問題なのかもしれません。

 

 自己肯定感が低い人が、自分は自己肯定感が低いことに改めて気づき、「自分をもっと愛したい」「自分の本当の望みを大切にしたい」「自己価値を高めたい」「自信を持ちたい」と思った時、一体具体的に何をしたらよいのか悩むことが多いかもしれません。自己肯定感はどうやったら高めることができるのでしょうか。

 

 たくさんの自己啓発本を読んで、そこに書かれてあることを実践し、毎日ポジティブな言葉を話すように心がけていれば、ポジティブな自分になれるのでしょうか。言われた通りにマントラをぶつぶつ唱えていれば、エネルギーが高まって自動的に自己価値も高まるのでしょうか。セミナーやカウンセリング、ヒーリングを受け、その道では有名なカリスマ講師・カリスマヒーラーの教えを受ければ、何かが変わるのでしょうか。石や護符、その他諸々のエネルギーグッズを身に着けていれば、何もせずとも勝手に自分が望む道に導かれていくのでしょうか。

 

 逆に言えば、世の中で自己否定感を努力によって克服し、自分という存在を本当の意味で大切に思える境地に至った人々は、自己啓発本やらヒーリングやらグッズやらがあったおかげで、そこにたどり着くことができたのでしょうか。

 

 それらを否定するつもりもありませんし、場合によっては大きな助けとなってくれることもあるとは思います(フラワーエッセンスだってそのうちの1つです)。けれど、自己価値を高めるためのマストアイテムだとも思えません。なぜなら、それらの助けを一切借りることなく、自己肯定感を育んでいける人々がたくさんいるからです。

 

 自分という存在を価値ある存在に思える時。それはどんな時でしょうか。それは、頭の中では決して起こらないものだと思います。実生活の中で、具体的に手や足を使うことでしか、得られることができないと思います。

 自分の作品、自分が創造したもので、誰かが喜んでくれた時。助けを必要としている人に、自分ができることをした時。本当にやりたかったことに思い切ってチャレンジしてみた時。他の誰に言われるでもなく、自分の内なる声に従って行動した時。恐れを振り切って、困難に立ち向かった時。落ち込んでいる人に、明るい励ましの言葉をかけてあげた時。誰かのために、自分の能力と時間を使っている時。目標に向かって、コツコツと努力をしている時。

 

 そんなことを1つ1つやっていくうちに、自然と自分がこの世にいる意義や、自分の存在価値などが少しずつ高まっていくものなのではないでしょうか。自分がいることで、自分がした行動で、誰かの役に立つ。人が直接介在していなくても、ポジティブな行動を起こすことによって内面がポジティブになり、バイブレーションが高まって、その波が周囲にも波及していくので、潜在的に世の中のためになっています。

 

 何の具体的な行動も起こさず、実生活において何の変化も起こさないまま、ただ頭の中で、ポジティブワールドを創り出そうとしてもまず無理です。自分に自信が持てなかった、以前の自分と同じ状況、同じ状態でいるのに、自己価値や自信をどうやって高められるのでしょうか。

 具体的に動いて、自分や自分の生活、パターン、人生を変えていくことでしか、心から望ましい生き方をしている感覚など、得られないと思います。 

 

 

 

2017年

6月

29日

聖ヒルデガルトの治療法

 ヒルデガルトの預言書『病因と治療』を読んでいると、すっかり”科学的な”論拠に基づく説明に慣れてしまっている現代人の私にとっても、なぜか深い部分でストンと腑に落ちる文章に出会います。例えば、

 

「夏、体内がとても熱いのに大食すると、血が温まりすぎて体液は有害なものとなり、肉はぶよぶよと膨れあがる。それは空気が熱すぎるからである。もしこの時期に小食を守れば、病気に罹ることはなく、健康でいられることができる」

 

「深い悲しみの中にある人が元気を取り戻すためには、適切な食べものを十分に摂る必要がある。それは悲しみに打ち負かされないためである。大きな喜びにある時は、小食を心がけるべきである。こうした時、血は緩んでおり、さまよっているからである。このような時に大食すると、体液は嵐のようになって激しく発熱する」

 

「体格ががっちりしていて健康的で、腱(神経)が丈夫で、強い食欲を持った美食家の中には、肉や贅沢な飲食物に惹かれる人たちがいる。彼らの血は蝋のような色に変色し、どろどろになっている。それがため、血は正しい経路を流れることができないのである。こういう人は健康体であるため、熱や体の衰弱によって血が減るということはなく、血はむしろ肉や皮膚の中へと広がっていく。その血が有毒な体液で肉や皮膚を侵し、その部位を変色させて潰瘍だらけにするのである」

 

「容器の中で圧力をかけてチーズを造るには、凝固した牛乳を常に加え続ける必要があるように、赤子や子供にも、彼らが十分に成長するまでずっと飲みものや食べものを与え続ける必要がある。そうしなければ赤子や子供は成長できず、死んでしまうであろう」

 

「年をとり老衰した人たちにとって、飲食物の補給は必要不可欠である。というのも、血と肉が減る年齢になると、食べ物によってそれを補わねばならないからである。人間は大地のようなものである。大地は湿り過ぎても害になるが、湿り気が少なすぎたりなかったりしても肥沃にはならない。このように、大地は程よい水分を必要とするが、それは人間においても同じである」

 

 

 科学的なメカニズムをとうとうと説明されるより、人体の機能がより多元的にダイナミックに表現されているヒルデガルトの記述を読む方が、なるほどそうなのだなと因果関係がより明快に理解できる感じがします。

 

 『病因と治療』の後半部分は、具体的にどのような方法で心身の不調を治したら良いのか、とても詳細な説明が多岐にわたって書かれています。多くは植物(特にハーブ)の力を使った方法です。例えば肝硬変の治療法については次のようにあります。

 

「種々雑多な食べものを節制もせず分別なく食べていると、肝臓が損なわれ硬化してくる。フキタンポポとその倍量のオオバコの根、ナシの木に着くヤドリギ周辺にできるどろどろしたものをフキタンポポと同量用意する。

 フキタンポポとオオバコの根に、千枚通しなどの小さな道具を使って穴をあけ、その穴に前述したドロドロしたものを詰める。これを純粋なワインに入れ、そこにクルミの木の葉や小枝に出来るマメ状の瘤(こぶ)を1ペニーウエイト分加える。食事とともに、あるいは単独に、温めずにこれを飲む。フキタンポポの熱と冷は肝臓の腫れを鎮め、オオバコの熱は肝臓の硬化を防ぎ、ナシのヤドリギにできるどろどろしたものの冷はリヴォル(毒素)を減らし、クルミの木の葉や小枝の瘤は、その苦さにより悪い体液を運び去る。これらは温めず、ワインにそのまま漬けるだけにする。こうすることで、より穏やかに肝臓に達することができるからである」

 

 このように、種々様々なるハーブや自然界の原料を用いたありとあらゆる治療方法が紹介されており、その情報量は膨大です。ヒルデガルトの元には、遠方からも多くの患者たちが訪れ、その名声は皇帝や教皇の元にまで届いたといいます。

 植物の持つ、人体に対応する癒しの力を活用することで、当時の病める人々を数多く癒していたわけです。自然界の恵みのありがたさと、人間に与えられた救済の力を感じます。

 

  興味深い治療法だなと思ったのは、癲癇(てんかん)の治療法です。「モグラの血を乾かしたものにメスのアヒルのくちばし、さらにメスのガチョウの足の皮と肉を取り除いたもの」をすり潰した粉末を用いた治療法なのですが、それを布で包んだものを、「最近モグラが地面を掘った場所に三日間置いておく」とします。なぜモグラかというと、「モグラはふいに姿を現したり隠れたりする習性をもっており、また地面を掘ることに慣れているので、その血は、同じように現れたり引っ込んだりする癲癇に有効である」からとのこと。そして混ぜ合わせた粉末をモグラが穴を掘った場所に置かなければならないのは、「その土の方が他の土よりも健康であるため、これらの粉末は自らの液汁と生命力とを、その土の液汁と生命力から授かるからである」。

 モグラの血の物理的な成分のみならず、モグラという生き物が持つ習性とエネルギー的な質までもを取り入れた、まさに波動療法的な治療法ともいえます。

 この他にも、ハーブを乾燥させる場所と時間を少しずつ変えて、24時間全てのエネルギーを取り入れる方法があったり、また、使用する水にもよく細かい指定がなされています。川の水には空気の質が入っている、泉の水は湿性が強い、井戸水には乾の傾向がある、等々、病気の質と治療の方向性によって、水さえも使い分けていたのです。ヒルデガルトの治療法にはよくワインが登場するのですが、熱や温のエネルギーが必要な場合は過熱しますが、それがかえって邪魔になるケースでは、「温めてはいけない」と書かれています。

 

 今から800年以上も前に、物理的なアプローチだけでなく、エネルギー的なアプローチも同時に行う、こんな多次元的な治療法が行われていたことに新鮮な驚きを覚えます。

 

 

2017年

6月

28日

聖ヒルデガルト

 今から800年以上も前、ドイツ(当時は神聖ローマ帝国内)の修道女であったヒルデガルトという人は、神から与えられたとする聖なる預言をいくつかの書物にまとめました。預言というのは、高次の存在からの情報です。預言を受ける人の心の状態、意識の高さ、いかに自我意識から己を切り離せているか、によって、受け取る預言の質と正確性が変わってきます。

 古から人類に多大な恩恵を与えてきた数々の預言の書は、より純粋な媒体を通して伝えられ、その質の高さとメッセージの正確さをもって、時代を超えて現代にまで残されている情報といえます。

 

 ヒルデガルトの時代、修道院は祈りと学びの場であると同時に、病人を治療する病院のような役目も果たしていました。当時は、薬といえば主に植物の成分など、自然界に存在する物質から作られていました。ヒルデガルトも膨大な植物学の知識を活かして、庶民から王侯貴族まで多くの人々の心と体の病を癒したといいます。彼女の残した預言の書の1つ、『病因と治療』には、宇宙の成り立ちから人体の構造、病気の原因とその治療方法まで、明快な論理性に基づく具体的な説明が、詳細に記されています。

 

 地動説が出てくる時代より遥かに昔の、自然科学の考えが未発達であった中世のあの時代に、理路整然と宇宙と生命の仕組みを解釈することは、個人の力では到底困難だったのではないかと推察します。やはり、ヒルデガルト自身が述べているように、「神の命ずるところに従って」与えられた知識であると思わざるを得ません。

 

 ヒルデガルトによると、この世界は、4つの元素から成り立っているといいます。それは、「火・空気・水・土」のことで、これら4つの元素は互いに絡み合い、結合し合って一体であるとしています。また、植物を始めとする自然界の生物を「温・冷・湿・乾」の性質に分類したり、人体は4種類の体液から構成されるなど、東洋の陰陽五行やアーユルヴェーダの考えとも共通する部分があります。

 

 また、人体と月との関係性において、ヒルデガルトは次のように述べています。

 

「月が満月に向かって大きくなる時に、人の血は増加し、月が小さくなる時に、人の血は減少する」

 

 その理論は、植物にも同様のようです。

 

「根から葉を生じる木もまた月の満ち欠けに伴い、その樹液を増減させている。月の満ちてゆく時期に伐採すると、木の中には樹液や湿が残っているため、虫や腐敗によって木が消耗する率は、月が欠けてゆく時期に伐採したものに比べると、高くなる。月が欠けてゆく時期に伐採すると、月が満ちてゆく時期に比べて、樹液がやや減少しており、木はより堅くなっている。堅くなった木の中では、月が満ちてゆく時期に比べて虫が育ちにくく、木の腐敗によって受ける損害も、月が満ちてゆく時期に比べれば少ない」

 

「よいハーブとは、月が満ちてゆく時の、薬効が高まった時期に採取したものをいう。この時期のハーブは、月が欠けてゆく時に摘んだものと比べると、舐剤や軟膏などを含め、あらゆる薬用に適している」

 

 昔から、満月の夜にハーブを採取するハーバリスト達は数多くいました。満月の夜にハーブの薬効が最も高まると考えられていたからです。そのため、魔女は満月の夜に集会を開くというイメージが持たれたとも言われています。

 女性の月経周期が月の満ち欠けの周期と連動していたり、満月の日には出産の数が増えるなど、人体と月との関連性は昔から言われ続けてきました。ヒルデガルトの唱える説とも重なります。

 

 

 「痛風」の説明の部分では、「人が種々雑多な食べ物を食べると、有害な体液が過剰になってあふれ出し、抑制が効かなくなって体中を過剰に流れ、ついには下半身に降りていき、脚と足を侵すようになる。この体液は、本来あるべき上半身に昇ることができずに降りてきたものである。この体液は下半身に留まってリヴォル(毒素)へと変化し、硬くなる。こうして脚と足は痛風を病むようになり、その痛みによって、歩行は困難になる」

 と書かれてあります。そしてなぜ女性は男性と比べてこの病気になりにくいかというと、女性はたとえ暴飲暴食をして有害な体液が増加したとしても、「月経によってこうした体液を排出している」ために、痛風には罹りにくいのだそうです。実際現代医学の説によると、女性が痛風になりにくいのは女性ホルモンが尿酸を腎臓から排出するのを促しているからなのだそうで、ヒルデガルトの記述と何となくリンクします。

 これ以外にも、女性は月経があることで、様々な有害な物質を体外に排出しており、そのことで体のバランスが保たれている、という説明が何度も出てきます。女性にとって月経とは浄化でもあるとのことです。

 

 

 宇宙誕生の話や人体の仕組みと病気のメカニズムなど、ヒルデガルトの預言は壮大で深淵です。時として説明が難解だったり、果たしてそれは本当なのだろうかとつい疑問符がついてしまうような記述も出てきますが、800年以上の時を経てもまだ色褪せない普遍的なテーマや、現代にも役立つ実践的な知識がちりばめられています。それと同時に、ヒルデガルトという人の、この世の真理に向き合う真摯な姿勢と、神への献身が伝わってきます。

 

参考文献:『聖ヒルデガルトの病因と治療』ポット出版、ヒルデガルト・フォン・ビンゲン著

 

 

2017年

6月

26日

自分は特別な存在だというのはエゴの声

 心のお荷物が減っていくと、確かに現実も変化していきます。魂の目的にフィットした方向に軌道修正されていくという感じです。とはいえ、浄化が必要な間(おそらく死ぬまで)は、何を手放せば良いのか、そこに気づかせるような出来事が起こり続けます。

 

  心のお掃除が進んだからといって、現実で何事も起こらなくなるわけではありません。何の「問題」も起こらなくなるなんてことはありません。生きている限り、予想外の出来事も、受け入れがたい現実も、たくさん起こります。ただ、そういった出来事が起こった時に、その人がどれだけ執着を手放せているかどうかで、反応が違ってきます。同じ出来事でも、人によって感じ方やショックの受け方、そしてそこから何を学び取るのかが異なってくるのは、そういうわけです。出来事はただ起こったことでしかなく、良いも悪いもひどいも素晴らしいも本来ないのです。

 

 辛い思いをたくさん抱えている人は、自分がどれほど大変な思いをしているか、どれほど悲惨な幼児期を過ごしたか、どれほど恵まれずに不幸であったか、とうとうと語ります。もちろん、心の傷を癒すためのステップとして、まずその傷に向き合い、感情を解放することは大切なのですが、そこにずっと固執していると、次に進むことができません。

 自分は不幸であった、もしくは自分は不幸である、という考えを手放せずにいる時は、「なぜ自分ばかりがこんな苦しみを味わわなければいけないんだろう」という憤りを抱いていることが多いです。その裏には、自分が受けた不幸は、本来受けるべきではなかった、もしくは受けずに済んだはずのものであるという思いがあり、自分の身に起きた現実を否定し、受け入れることに抵抗があります。そして、自分の身に起こった現実を、誰かのせいにしたり、何かを責めることで、自分で責任を取ることを放棄してしまいます。

 

 確かに、自分の身に起こった受け入れがたい現実を、誰かのせいにしたり、自分以外の何かに責任を負わせることは簡単かもしれません。けれどそのような考えでいるということは、怒りや恨み、憤りの感情と共に生きるということであり、それは必ずその人の心と体を蝕んでいきます。そして、復讐心に基づいた、見返してやりたいというエゴに支配された人生、不幸を恨んで悲しみと嘆きに満ちた人生は、生産性がなく、息苦しいものです。どうして自分ばかりがこのような目に遭わなければいけないのだろうという被害者意識も、裏を返せば「自分は特別である」というエゴの声から来ています。自分は特別であるから、本来このような不幸は受けるべきではないと思っているのです。

 また逆に、自分は「特別」な存在だから、神様が私を選んで、こんなにたくさんの不幸を授けてくださったのだという考えも、やはり思いあがった自我意識のなせる業です。自分の身に起こった不幸を誰かにひけらかしたり、いかに自分が困難と「闘って」いるかということを周りに知らしめる必要も本来ありません。誰かに自分のことを話したいと思うのなら、その動機がどこから来ているのか、注意深く眺める必要があります。

 

 

 過去を清算し、過去に縛られず、過去を振り返らず、自分の身に起こったこと全てを粛々と受け止め、誰のせいにもせず、誰も責めず、(必要以上にアピールもせず)、ただそこから学ぶべきことを学び取って、今後の人生と他者のために生かしていく。難しいことですが、結局一つ所に留まって恨み節をつぶやいているより、1人でも多くの人に知ってもらおうと躍起になるより、ずっとずっと自由で楽で、縛られない生き方であるような気がします。

 

 

2017年

6月

21日

ロイヤル・タッチ

 その昔、ヨーロッパ特にフランスやイギリスの王様は、病を癒す「不思議な手」を持つと信じられていました。病気を持った人が王様の手に触れられると(”ロイヤル・タッチ”)病が治ると信じられていたため、多くの人々が王の元に殺到したといいます。「信じられていた」だけでなく、王が手を触れた多くの人が実際に病が癒えたという記録が残っています。かの有名なエリザベス一世にも、癒しのパワーが備わっており、多くのロイヤル・タッチを施しました。

 かつての王様が特別なヒーリングパワーを持っていたのか、それとも、その時代の人々の王権に対する信仰が癒しの力を呼び起こしたのか。プラシーボ効果を唱える人もいますし、当時の王様が民衆に対して威力を見せつけるためのパフォーマンスとして行っていたという説もあります。

 何が真実かはわかりませんが、とにかく中世から近代に至るまで、歴代の王様が膨大な数の人々の病を、手で触れることで癒していたことは事実のようです。

 

 福音書にも、イエス様が数多くの病人に手をかざしてヒーリングを行っていた記述がたくさん出てきます。興味深いのは、ある時イエス様が故郷ナザレに行った時の話です。そこで人々は、

 

「これはあの大工の息子ではないか。母はマリヤで、兄弟たちは皆私達の所に住んでいるではないか。この人は、こんなことを皆どこから覚えてきたのだろう」

 

と言い合います。イエス様は、

 

「預言者が尊敬されないのは、その郷里と家族のところだけである」

 

 と言い、その場所では奇跡を起こすことができませんでした。人々が信じなかったからです。イエス様は何度も何度も、「信仰(信じること)」の大切さを人々に説きます。

 

わたしを信じる者は、わたしを信ずるのではない。わたしを遣わされた方を信ずるのである

(ヨハネによる福音書)

 

 奇跡が起こる時というのは、そこに関わっている人間個人の力を信じた時というより、その人を動かしている大いなる力を信じ、身を委ねられた時に起こるのではないかと思います。人は媒体に過ぎず、私達を動かしている存在はもっと高い所にあります。その存在を介してのみ、人は癒され、救われ、浄化されると思うのです。

 

 

2017年

6月

16日

感情の解放

 フラワーエッセンスには、ネガティブからポジティブに切り替える力が確かにあります。けれど、フラワーエッセンスを飲んでいれば、ネガティブな感情が湧かなくなる、というわけではありません。

 例えば、長い間自分の感情を押し殺し、表に出さないよう出さないようにと抑えてきたような人がフラワーエッセンスを飲むと、ずっと抑えてきた感情の扉がパカッと開いて、一気に流れ出す(浮上してくる)ことがあります。

 

 それはやはり、その人が本当にその人らしく生きるためには、まずは自分自身に素直にならなければいけないからです。自分に嘘をついて、本当に自分が感じていること、本当に信じていることに対して目を背けていては、本当の自分らしい生き方などできません。手始めに、過去からずっと背負ってきたお荷物を一度降ろし、ため込んできた負の感情を外に出し切ることで、自分の中身を綺麗にする必要があるのです。

 内面がドロドロと負の感情で渦巻いている状態で、「私らしい」新しい人生など始めることは難しいです。望んでいる結果が受け取れないことが多いですし、いずれ内的な問題にぶち当たることになります。望むように生きたかったら、まずは心のお掃除、浄化が先です。

 自分に素直になること、自分の感情に素直になること。泣いてわめいて、怒りをぶちまけて(他人を傷つけない範囲で)、悔しかった、悲しかった、寂しかったのだと正直に認めてください。ずっと「良い子」できた人ほど、ネガティブな感情を表に出すことや、自分がそういう感情を抱いていることに対して罪悪感があったり、否定しようとする傾向があるようです。けれど感情は感情、良いも悪いもそもそもありません。どんな感情を抱いているから罪だとか善だとか、ジャッジする必要はないのです。ただ、その感情を認めてください。存在を認めて受け入れてください。その感情を自分が抱いていることを否定も拒絶もしないでください。ただ、眺めてください。

 

 感情を否定しているうちは、自分に対して本当の意味で素直になれておらず、自分のことを真に受け入れていることにもならないので、どこかで自己否定感がくすぶり続けます。自己否定感が拭い去れないままだと、人生自体が膠着します。

 人生を変えよう、自分らしい生き方をしよう、魂の望む方向に進もうと決心したら、まずは心のお掃除、感情の解放がスタートラインです。そこを飛び越えて次に進むことはできません。フラワーエッセンスは、そんな時にとっても大きな力になってくれます。自分の負の感情に向き合うのはつらいですが、向き合い、受け入れ、そして手放す過程をよりスムーズに、楽に進めてくれます。

 

2017年

6月

09日

他人の想念 vs 内なる強さ

 世の中には、想念の力が一般的なレベルと比較して特別強い人がいます。ポジティブな想念であれネガティブな想念であれ、その人の抱いている”念”の渦がとても大きいため、近くで接している人にも多大な影響力が及ぶことがあります。

 

 その人と話していると、まるでその人から出ている感情と思考のボルテックスの中に自分も引き込まれていくような感覚がし、自分の軸が揺り動かされ、冷静な視点と高い見地から物事を眺めることが難しくなる場合。特に、相手のネガティブな想念に反応してしまっている時は、穏やかで落ち着いた状態の時には全く及ばないような考えが浮かんだり、恐れが触発されて不安感が高まったり、エゴに対してエゴで応酬してしまったり(喧嘩にも陥りやすい)と、あまり好ましい結果にならないのが普通です。

 

 その人の想念に反応しているということは、多かれ少なかれ、その人の抱いている恐れや怒りなどの自我意識(エゴ)と似たものが自分の中にもあるということなのですが、なかなかそこには気づきにくいし、認めたくないものです。

 まずはそういった想念の渦に巻き込まれないためには、想念が人一倍強い人とは距離を置くのが一番ですが、ただそれだけでは、また似たようなシチュエーションがやってきた時に(それは必ずやってきます)何の解決にもなりません。

 私の中の何かがその人の想念に反応して動揺しているのだから、その何かが解決されないうちは、またいつかどこかでそれが刺激された時、再び動揺の渦に巻き込まれることになるでしょう。

 

 大抵は、その人の執着と自分の執着は、根本部分で同じ種類のものです。執着の度合いは異なるかもしれませんが、ベクトルは同じであることが多いです。人よりも秀でていたい、人に認められたい、賞賛されたい、バカにされたくない、負けたくない。

 こうした欲は誰もが内に抱いているものですが、そうした欲望を自分の行動の規範にするのか、それとも、エゴの声と魂の声とを切り離して考えるのか。エゴの声を聞くのは慣れていますし、世の中で多くの人が陥っているエゴベースの競争の波に流されるのはたやすいです。けれど、エゴの声を原動力としたボルテックスに自分も巻き込まれていけば、恐れや怒り・不満などが増長されることがあっても癒されることはありません。欺瞞と自己満足、見せかけの豊かさや優越感などは、現世的な充足は与えてくれるかもしれませんが、本当の意味での心(魂)の充足感を与えるものではありません。目に見えるゴールなど、真の幸せとは全く関係ありません。むしろ、形に執着する心をいかに解放していくか、手に入れるよりもいかに手放していけるかが、真の安寧と充足感に繋がっていく唯一の道だと思います。

 

 自分がどの道を選ぶのか、決意が固まっていない状態だと、他人の想念の渦、つまりエゴのパワーに飲まれやすくなります。他者に力づくで引っ張られているようで、本当は自分の内面のエゴに屈しているだけです。

 もし、自分がエゴの声を聞かずにぶれない信念を保ち続けることができたら、どれほど想念のパワーが強い人が目の前に現れたとしても、迷うこともなければ、動かされることもありません。内面の城を頑丈にすればするほど、外野の声は入ってこられず、たたくこともできず、次第に攻撃することを諦めて退散していくでしょう。

 

 

2017年

6月

01日

ハートで他人を受け入れる

 中学生活にも少しずつ慣れてきた娘ですが、慣れてきたらきたで、友達との関係や部活の先輩との関係など、様々な試練も出てきているようです。

 

 いつも娘用のトリートメントボトルには、その時の様子を見て私がいくつかブレンドして入れているのですが、今回は、オーストラリアンブッシュの「ボウヒニア」「フレッシュウォーターマングローブ」を入れています。前者は、新しいものや人、環境などを受け入れる力を高め、自分とは異なる慣習や考え方をもつ人に寛容になるためのエッセンス。後者は、偏見や固定観念を解きほぐしてくれるエッセンスです。

 今まで出会ったことのないタイプの人や、経験したことのない出来事に日々遭遇している娘が、自分の置かれている状況にどう対応したらよいのか、どうしたらうまくつきあえるのか、暗中模索している様子だったので、選んでみました。

 

 飲んでから1週間ばかり経った頃、娘が

 

「お母さん、あの”受け入れる”っていうの、すごいね」

 

 と言ってきました(娘にはエッセンスの効用をわかりやすく伝えてありました)。どうしてそう思うのかと聞くと、部活でどうしても苦手意識を持ってしまっていた友人と、最近うまく付き合えるようになってきたのだそうです。

 なんでも、一緒に部活の準備作業をしていた時、作業をしながらいろいろな話をしたそうです。すると、話が弾み、雰囲気が良くなって、「楽しかった」とのこと。それと共に、それまでその子に対して抱いていた偏見もほぐれ、自分が誤解していた部分があったことにも気づいたのだそうです。

 

 

 苦手だなと思っていたり、良い印象を抱いていなかった人と実際に会って話をしてみると、自分が考えていたような人ではなかったことに気づき、今までどうしてあんな風にネガティブに見てしまっていたんだろう、と反省することはたくさんあります。コミュニケーションをとることで、その人の立場や考え方への理解が深まり、一方的な価値観で見ることをしなくなるからだと思います。また、事前にあまり良くない噂を聞いていた人と実際に触れあってみたら、他の人たちが言っているのとは異なる印象を受けることもあります。その人がどのような理由でどのような思いを抱いているのか、理解したい、わかりたいという姿勢でいると、相手も心を開き、ハートとハートのコミュニケーションが起こりやすくなります。

 

 大抵、他者に対する偏見や誤解はマインド(頭)によって生じています。マインドは、事前にあれこれと理論武装をし、自分を正当化したいがために他人を悪者に仕立て上げる傾向があります。人を受け入れるためには、このマインドが創り出している偏見を打ち壊さなければいけません。偏見は、自分を客観的に見つめない限り、自分の中にあることにすら気づかないものです。頭のおしゃべりに圧倒されている状態は、マインドが優位に立っているということです。その状態では、他者への理解はまず生まれません。マインドレベルから抜け出して初めて、ハートで感じることができます。そして人は、ハートでしか人を受け入れることはできません。

 

 

2017年

5月

30日

同じ苦しみを繰り返さないためには

 「今」、自分の心の中でモヤモヤと渦巻いている悪しき感情。ストレスやトラウマ。人間関係の悩み。

 

 少し引いた目でそれらを眺めてみてください。

 

 その悪しき感情を、人生の中で一番最初に感じたのはいつですか。そのイライラや怒り、悲しみ、嫉妬、恐怖を初めて味わったのはいつのことですか。

 

 多くの場合、最初の経験の記憶は、幼少期にまで遡ることになるでしょう。人が繰り返し味わう苦しみや悩みは、大元となっている経験があり、その時にしっかりと感情を消化することができなかったために、何度も似たようなシチュエーションが起こることになります。

 

 戦場から帰還した兵士や大きな災害を経験した人など、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされている人の心に向き合ってみると、実はその人が戦場や災害現場で味わった恐れや悲しみなどの感情が、幼い時のショッキングな経験に端を発していることがあるそうです。

 

 幼少時、感情が大きく揺り動かされるような出来事があった際、多くの子供は、その感情を素直に出すことを禁じられます。「怒るんじゃありません」「そんな風に騒いではダメ」「我慢しなさい」「どうして泣くの」etc...

 あるいは、敏感な子供であれば、親や周囲の大人達の反応を見て、自分が素直に感情を表現してはいけないんだ、感じてはいけないんだと考えます。そして、感情に蓋をして、それらを”感じなかった”ことに、”なかった”ことにする習慣が身についていきます。湧き上がってきた感情を否定したり、そんな風に感じている自分は悪い子だ、と考えるようになります。

 

 けれど、どんな感情も生じるべくして生じています。感情はその人の思考・信念の表れです。その人が考えていることや価値を置いていることをベースに、引き金となった出来事と反応して、自然発生的に産み出されています。自然に出てきているものを、本来止めることはできません。なかったことにするということは、自分に嘘をつくということです。

 

 その時に素直に感じなかった感情は、行き場を失って深層意識に蓄積されていきます。消えるわけではないのです。そして、その感情がきちんと消化され、受け入れられる時が来るまで、繰り返し繰り返し、その感情を味わうようなシチュエーションが起こります。

 

 自分が過去に味わった恐怖や悲しみ、その他あらゆるネガティブな感情を追体験するのはキツイですが、一度表に出してきちんと向き合わないうちは、いつまでも自分の中に残り続けます。今後似たような状況に繰り返し悩まされ続けることがなくなると考えれば、勇気を出してきちんと自分の感情に向き合ってみる。”あの時”の自分が本当はどのように感じていたのか、否定せずにしっかりと感じてみることで、心の重荷とネガティブなパターンから解放されていきます。

 

 原体験となっている、幼少時の出来事にフォーカスすることがポイントです。

 

 

2017年

5月

23日

昼と夜

 自然界の一部でもある私たち人間は、意識しているいないに関わらず、自然のサイクルに影響を受けています。太陽の動きもその一つです。

 

 午前中から夕方にかけて、私たちはマインド(頭)が優位の状態です。大体17~18時頃を境に今度は感情が優位に立ち、マインドはおとなしくなっていきます。切り替えのタイミングにあたる夕方(14~16時頃)は、私たちが一番疲れを感じる時間帯と言われています(この時間に眠くなったりしんどさを感じる人は多い)。

 

 午前中はマインドが優位なので、知的な作業などには向いていますが、何分頭のおしゃべりも活発ですので、内省にはあまり向いていません。もし、今の課題や悩みに向き合い、深く内観をして解決策を導こうとするのであれば、朝よりも夜に行う方が効果的です。その際、思考を一度クリアーにして頭のおしゃべりを鎮めるためにも、まず瞑想を行うのがお勧めです。内なる声に繋がりやすくなります。

 フラワーエッセンスにも、頭のおしゃべりをなだめてその人のエネルギーフィールドを浄化してくれるものがたくさんあります。

 

 頭がパンパンで、思考がとめどなくやってきている状態では、悩みの本質を突き止めるのは難しいです。マインドは解決策を知っているわけではないからです。頭のおしゃべりは、どんなものであっても、直接悩みの解決に導いてくれることはありません。

 本質的な答えは、私たちのハート、魂の声が教えてくれます。魂の声はどうやったらきけるのですかと言う方がいますが、マインド(頭)の声と内なる声の違いは本当に明らかです。少なくとも、頭のおしゃべりが魂の声でないことはわかると思います。ですので、まずは頭のおしゃべりを鎮めること。それをやってみるだけでも、内なる声がより明瞭になってくると思います。

 

 

2017年

5月

16日

恐れに基づいた判断

 何かを選択する時、それが恐れ・不安に基づいた決断なのか、それとも自分の直観からくる決断なのかで、受け取る結果が異なってきます。

 頭(マインド)の声を聞いてると、不安や恐れに基づいた判断になりがちです。それに対して、直観やインスピレーションに基づいた判断というのは、明確な理由や根拠がないにも関わらず(時には常識からは考えられないような突拍子もないアイディアであったりします)、なぜだか知らないけれど自分の深い部分で”こうするべきだ”とか”こうした方が良い”ということがなぜか「わかる」という感覚です。こちらの方がより高い次元と繋がった情報なので、宇宙の波に乗った、よりスムーズで迷いのない方向性に導かれます。

 前者は、判断の基準が恐れという低いバイブレーションのものなので、魂の望みや宇宙の流れに必ずしも調和したものとは限らず、本来の進むべき道から外れてしまったり、結局うまくいかなくて大きな痛手を被ることになったりします。

 

 そもそも恐れていることのほとんどは、根拠がないものか、実際に起こらないことか、自分の力ではどうしようもないことです。もしそれが本当に起こったとすれば、自分が抱いていたその恐れがまさしく現実化してしまったか、抗えない大きな力が働いているということです。手放してしまった方が身のためだし、気が楽です。

 

 ためしに、10年前の自分が抱いていた不安や恐れを思い出してみてください。そのうちのどれだけが、実際役に立ったでしょうか。そのうちのどれだけが現実に起こったでしょうか。そして、その時自分が不安に支配されていたことで、何か大切なことを見過ごしてはいませんでしたか。

 あの時から10年間、こうして無事に過ごして来られたのですから、何も問題はなかったといえるのではないでしょうか。もちろん大小様々なトラブルはあったかもしれませんが、今こうしてここにいられるということは、自分はそれらを全て乗り越えてこられたということです。それだけの強さがあったということです。つまり、10年前に抱いた不安や恐れは杞憂に終わったということです。あの時の自分は、問題が起こった時に、それに圧倒されて立ち行けなくなることを恐れていたわけですから。自分の強さを信じられなかったのです。

 20年前はどうでしょうか。その時にもいろいろな不安や恐れがあったと思います。今思い返してみて、それらを抱くに値するメリットは何かあったでしょうか。

 

 そして私はこうも思います。今から10年後、20年後、30年後(もしその時まだこの世にいたらの話ですが)、振り返って今の自分を眺めてみたとしたら、今の私が抱いている不安や恐れが、いかに意味のないものだったか、きっと未来の私は鼻で笑っていることでしょう。そんな暇があったら、もっとポジティブな未来に目を向けて今を楽しんでいた方が100倍得だよと、未来の自分は過去の自分に言ってあげたいのではないでしょうか。

 

 恐れや不安というのは、引っ張る力が強いので、ともすればそちらにどんどん吸い寄せられて、恐れベースの判断をし続け、悪循環に陥っていく危険性があります。ネガティブエネルギーに飲み込まれないためにも、自分が下している判断が一体何に基づいているのか、意識的になってみるといいかもしれません。 

 

2017年

5月

15日

モヤモヤから解放されるには

心配することは何もない
心配することは何もない

 自分の中で漠然と抱えているモヤモヤが一体何なのか。そもそもそれがわからないからモヤモヤしているわけなのですが、その正体が分かった時に、解放のプロセスが始まります。

 自分の中にあるモヤモヤの理由が分かった時。例えばそれは”不安”だったり、”悲しみ”だったり、”寂しさ”だったり、”憎しみ”や”嫉妬”だったり。より具体的に名前がついた感情であることが判明した時、まるで堰を切ったようにその感情があふれ出てくることがあります。その時に、決してその感情が自分の中にあることを否定しないことです。それは、ようやくスポットを当てられた感情が、存在を主張してきている瞬間だからです。認めましょう。その感情を私が抱いていることが紛れもない事実であることを、受け入れましょう。ただ、「ある」ということを認めるだけです。否定している間は、解放されるどころか、ますますその感情のネガティビティに支配され続けることになります。

 

 感情には、不思議なことに、受け入れた瞬間一時的に大きくなり、その後消えてなくなっていく性質があります。そしてその時、感情が持っているメッセージに気づくか気づかないかが、その後繰り返しその感情に悩まされるか、それともその時限りで解放されていくかを決定します。感情には、伝えたいメッセージがあるのです。

 

 自分の感情に冷静に向き合うためには、感情に支配されている状態ではまず無理です。感情に負けてしまいます。感情がある次元よりも高い次元から眺める必要があります。

 1人心を落ち着ける静かな場所を作り、こんな感じで祈るといいでしょう。

 

”私にこの感情の正体を理解させてください。そしてそこから何を学ぶべきなのかを教えてください。私がなすべきことを教えてください。理解したら、私を苦しめている感情を、神の恩寵によって溶かしてください。”

 

 自分が抱えている苦しみや悩みを解放するのは、私という個人の力ではありません。もっと高い次元の力が働いて、その恩寵がやってきて初めて、私たちは理解することができるし、縛りから自由になることができます。そこへたどり着くために、より高い次元での助けを求め、解放へのプロセスの準備が整った意思表明をすることが、祈りだと思っています。

 

 

2017年

5月

11日

脳の機能と精神力

 パチンコ屋さんの前を通ると、一瞬開いた扉の奥から、けたたましいまでの騒音が漏れてきます。かつて聞いた話なのですが、パチンコ屋さんというのは、あえて1人1人の座るスペースを狭く作ってあるのだそうです。狭い場所で、一点を見つめ続けることで、人は視野狭窄状態になり、思考が鈍ります。ひたすら玉を打ち続ける依存状態からなかなか抜け出せられなくなる環境を、計算して作ってあるのです。

 また更に、あのような耳をつんざくほどの大きな音を流し続けることも、思考停止状態を作るのに一役買っているように思います。人は絶え間ない騒音を浴びせられると、脳が疲弊し、機能が低下します。尋問や拷問などで、あえて騒音を聞かせ続けたり睡眠を削ることで、脳が正常に機能することを阻害し、人の意思力や抵抗力を奪うという手法が用いられることがあります。

 私たちがまともな判断力と思考能力を持つためには、脳をしっかりと休め、正常に働く状態を維持することが不可欠なのです。

 

 少し前に、ある有名企業に就職したばかりの新入社員が、非人間的なプレッシャーと環境の下で過重労働を強いられ、肉体も精神も疲弊仕切って生きる気力を失い、自ら命を絶つという痛ましい出来事がありました。新人にも関わらず過酷なまでの仕事量を与えられたその社員は、休日も返上で会社に通い、睡眠も限界まで削って仕事にあたっていたそうです。

 人の脳は、疲労やストレス、不眠、低栄養状態に置かれると、伝達物質がうまく分泌されず、正常に機能できなくなります。もっぱら受動的、機械的な処理だけが行われ、言われるがまま、されるがままの、主体性を欠いた言動をするようになり、抵抗する気力も失せてしまいます。

 閉鎖的な環境において、過度のストレスと仕事量を与えられ、睡眠も削り、肉体も疲労困憊している中で、まともな精神状態を維持するのは至難の業です。

 

 人間にとって休息とは、肉体を休めるためだけでなく、思考力と判断力を鈍らせないためにも重要なものなのだなと思います。疲れている時ほど、ものの見方や考え方がネガティブになり、明るい展望が描きにくくなります。一晩ぐっすり眠ったら、気持ちも頭もすっきりクリアーになって、昨日までのモヤモヤした思いがどこかに行ってしまった、なんてことはよくあります。私たちの肉体と精神は密接につながっているので、気力だけで何とかしようとせずに、肉体も大切にしてあげなければいけないなと思います。

 

 

2017年

5月

10日

情報との付き合い方

 アンジェリックエッセンスの”Discernment”(ディサーンメント)は、「洞察、識別」といった意味です。受け取る情報で、何が真実で大切かを見極める能力を高めてくれるエッセンスです。

 

 私たちは今、情報過多ともいえるほど、様々な媒体から流れる膨大な量の情報に晒されています。

 

 人間の脳の特徴として、人が一度に処理しきれない程度の量の情報を浴びせられると、脳が一時的にオーバーフロー状態となり、その情報の質を吟味したり、真偽を冷静に判断する処理能力が落ちるのだそうです。そして、与えられた情報をただただ受け身で取り込み、考えることなく鵜呑みにしてしまったり、言われた通りに動いてしまったりということが起こります。

 

 実際、そのメカニズムを応用した洗脳方法が、宗教やテロ組織、思想集団などによって利用されてきました。人間の脳の処理能力の限界を巧みに使って、相手の抵抗力と判断力を奪い、こちらにとって都合の良い思想を植え付けたり、言動を引き出したりするのです。

 

 そこまで強制的に洗脳されているとまではいかなくても、毎日膨大な量の情報を闇雲に浴び続けている環境は、まともな判断能力と思考能力を削ぐ一因となり得ます。特に子供は、与えられた情報をそのままに受け止める傾向が強いので、大人以上に晒される情報の質と量には注意をした方が良いかもしれません。

 

 

 私にも経験があるのですが、ある事が気になって、あれこれと情報を求めているうちに、情報の膨大な量に圧倒され、一体何が正しくて何が間違っているのか、どの考えを受け入れれば良いのかがわからなくなり、かえって混乱してしまうことがたまにあります。

 第一子が生まれたばかりの時など、子育てに対する自信のなさと不安から、育児本を読み漁ったものですが、様々な人が唱える様々な説に翻弄され、安心感よりもむしろ不安感の方が増強された記憶があります。

 

 情報が自分の周りで氾濫し、混乱している時こそ、一度情報の海から身を引いて、静かな場所でクールダウンすることが、主体性を引き戻す一つのステップになります。不安な時ほど情報を求めたくなりがちですが、過剰な情報収集はかえって答えを見えにくくします。

 私たちには本来、自分の力で物事を判断し、決断する力が備わっています。適度に適切な情報さえ与えられれば、何が自分にとって正しい道なのか、己の内なる声に耳を傾けるだけで、自然と答えが見えてくるものです。そのためには、脳のオーバーフロー状態を避けることと、心を鎮める状況を作ることが大切になります。

 

 情報の洪水から意識的に身を守ることも、今の時代においては必要なのかなと思います。その気になれば、いくらでも情報を受け取ることができる環境にいるからこそ、上手に付き合う術を身に着けることが大事です。

 やってくる情報にまともに対峙するためには、こちらもしっかり軸を保っていなければいけません。情報の量や刺激に圧倒されて思考停止状態にならないためにも、心にゆとりを持ち、冷静に受け止めて取捨選択したり、内容をかみ砕いて理解し、自分の糧としていきたいものです。

 

 

2017年

5月

08日

路地裏の少年が教えてくれること

 ヴィクトリア時代のジャーナリストであった、ヘンリー・メイヒューという人は、産業革命下に生きるロンドンの貧しい民衆の生活を、一冊の本にまとめました。綿密な取材と鋭い観察による詳細な記述は、そこに描かれた人々がまるで今でも生きているかのように思われるほど克明で、当時の庶民の生活と環境が生き生きと伝わってきます。

 当時イギリスは、産業革命と植民地支配によって『世界の工場』と言われる程の経済的繁栄を築き上げていましたが、社会の底辺に生きる貧しい労働者たちの生活は、本当に悲惨なものでした。

 ロンドンの中心部を流れるテムズ川周辺には、潮が引いた後、川が運んできた数々のゴミやがらくたの中から金目の物を探して見つける「泥ひばり」と呼ばれる少年少女たちの姿が見られました。少しでも売れそうな物を見つけると、それを拾い、わずかなお金に換えてその日の食べ物を買うのです。彼らは、浪費もしくは災難によって極貧状態に陥った親の子供達か、孤児でした。6歳にも満たない子供達もたくさんいたそうです。

 メイヒューは、その中の1人の少年に目をかけ、話を聞きます。その少年は14歳で、泥ひばりの生活を3年ほど続けていました。父親は事故で何年も前に亡くなっていました。母親は小さな八百屋を営んでいましたが、ジャガイモが腐る病気が流行ったために店が立ち行かなくなり、更に熱病にも罹って働ける状態ではなくなったため、息子の収入に頼らざるを得なくなってしまったのです。メイヒューが少年に出会ったのは真冬でしたが、まるで裸同然の恰好で、裸足の足はしもやけだらけでした。ボロボロのズボンをたくし上げて泥の中を歩き回る日々で、時々ガラスの破片や釘が足に突き刺さるのですが、そんな時は家に帰って怪我の手当をし、またすぐに仕事に戻るのでした。何も拾えなかったら、その日の食事にありつけないからです。

 メイヒューの胸を打ったのは、その少年の真摯で素直な態度でした。そんな極貧でみじめな生活を送りながらも、少年は誠実さと、希望を失っていなかったのです。少年の母親に話を聞きに行くと、涙を流しながらこのように語りました。

 

 

「あの子はあれだけのお金を稼ぐのに大変な目にあっていたのに、いっさい文句も言わず、それどころか少し肉を買えるくらいのお金を持って帰ってきた時には、自慢げにしていたくらいですよ。わたしが落ち込んでいると、時々それを見て、あの子は私の首にまとわりついて、ぼくが神様を信じていれば、きっといつか神様がぼくたちに目をかけてくれるよ、と慰めてくれるのです」

 

 

 メイヒューは、少年に次のように質問しました。君は本当に違った生き方をするつもりがあるのか、と。すると少年は、きっとそうするつもりです、だからぜひとも自分を試して下さいと答えました。

 その話をメイヒューの知り合いにしたところ、その人がある有名な印刷屋に勤め口を見つけてくれ、少年はそこで働くことになります。非常に真面目に良く働いたので、少年はたった数週間で賃金を上げてもらい、息子の努力のおかげで母親も小さな店を持つことができたとのことです。

 

 今から150年ほども昔の出来事ですが、少年の純粋な魂と希望の持つ力が、時空を超えて胸に訴えてくるかのようです。

 

 

 この話を読んだ時、私は福音書に出てくる、ある言葉を思い出しました。

 

 イエスが群衆の前に行くと、ある人がイエスに近づいて跪きました。息子の癲癇を治してもらいたかったのです。以前、イエスの弟子たちの所に連れて行ったのですが、息子の癲癇は治りませんでした。するとイエスは次のように答えます。

「ああ不信仰な、腐り果てた時代よ、私はいつまであなた達と一緒におればよいのか。いつまであなた達に我慢しなければならないのか。その子をここに連れてきなさい」

 そしてイエスが悪鬼を𠮟りつけると、悪鬼が出て行き、その子は治ります。弟子たちは後でイエスに質問します。

「なぜわたし達には悪鬼を追い出せなかったのでしょうか」

 イエスは答えます。

 

「信仰がないからだ。アーメン、私は言う、もしあなた達にからし粒ほどでも信仰があれば、この山に向かい『ここからあそこに移れ』と言えば移り、あなた達に出来ないことは一つもない」

(マタイ17.14-21)

 

 

 イエス様が言っていた「信仰」というのは、”信じる”心のことを言っているのではないかと私は思っています。信じるということは、自分と神様との太いパイプを築き上げることです。

 そして、信じる気持ちというのは、人が困難な状況にいる時ほど、抱きづらくなるものです。信じる気持ちがなくなった時、人は希望を失い、絶望と悲しみの中で身動きが取れなくなります。やる気も行動する気力も低下するので、不幸のドツボにハマり込んだような錯覚に陥ったまま、何かを変えようとする努力さえしなくなります。

 私達が試されるのは、こんな時なのかもしれません。希望の光が全く見えないような環境の中にいながらも、いかに自分を保ち、希望を抱き続けることができるか。信じる気持ちをどれだけ強く持つことができるか。周りの環境に惑わされず、自分と神様との関係を強く感じていれば、迷うことも諦めることも、自分にはできないと決めつけることも、なくなるのかもしれません。

 

(参考文献:『ロンドン路地裏の生活誌』ヘンリー・メイヒュー著、原書房)

 

2017年

4月

27日

表層の問題と深層の問題

 フラワーエッセンスには、「豊かさ」をテーマにしたものがいくつもあります。様々なメーカーから出ていて、中には知る人ぞ知る有名エッセンスとなっているものもあります。

 

 それぞれ特徴はありますが、私の感覚としては、「豊かさ」をテーマにしたエッセンスを飲んでいると、”欠乏感”や”足りていない”という感覚が確かに薄らいでいくようです。満ち足りている感覚が得られるので、結果、思いがけない現金収入があったり、人から贈り物をもらう機会が増えたり、仕事が見つかったり、豊かさに結びつく出会いがあったりと、現実的な豊かさに結びついていくことが起こりやすくなります。

 

 また、飲んでいるうちに、「豊かである」という感覚が得られなていないのはなぜなのか、自分の中に潜んでいる豊かさの妨げとなっているブロックにたどり着く場合もあります。自分がどこかで”満たされていない”と感じていたり、”欠けている””足りていない”という思いが常にあったり、もしくは、”自分は豊かさを手に入れる資格がない””豊かになるためには何かを失わなければいけない””豊かさを求めることは卑しいことである”といった定義づけを無意識に行っていることもあります。

 いずれにしても、大元に潜んでいるこうした元凶にたどり着かないうちは、エッセンスを飲んで一時的に欠乏感がなくなったとしても、飲み終わってエッセンスの効果が薄れ始めると、結局また元の状態に戻ってしまいます。問題の表面だけにしか向き合っておらず、自分を豊かさから遠ざけている根本原因が未解決のままだからです。

 

 「豊かさ」をテーマにしたエッセンスに限らず、どのテーマのエッセンスを飲んでも、結局は自分の内側に深く入って心を見つめる作業を怠っているうちは、エッセンスの効力も表面上にしか効かないような気がします。そして、エッセンスのパワーがなくなってしばらくすると、再び似たような問題が浮上し、過去と同じパターンを繰り返すのです。

 

  悪しきパターンのサイクルから抜け出したかったら、エッセンスにどうにかしてもらおう、という依存的な考えではなくて、エッセンスの力を借りて私の心の奥にある元凶を探り当て、それを手放そう、という心持ちで挑む方が結果的に早く解決に導かれます。病気になった時、痛み止めを飲んで一時的に楽になったとしても、病気の大元が癒されない限りは同じ症状が繰り返しやってくるのと同じです。

 痛みは悪ではなく、病気の存在に気づかせるアラームのようなものです。それと同じように、現実生活の中で浮上している”問題”は、自分の奥底に眠っている不必要な縛りの存在に気づかせるために起こっているものだったりします。”問題”に真摯に向き合っていくと、自分の心に潜んでいる信念や執着、固定観念の存在に気づいていきます。今現象として起こっている問題に対して、私の何が抵抗しているのか。何を手放せば、私はこの現象を”問題”として見なくなるだろうか。今は不愉快でしかないこの出来事を、ただ起こっている現象として中立的に眺め、あるがまま受け入れるためには、私に何が必要なのだろうか。 

 エッセンスを飲んでいると、そうした気づきに導かれやすくなりますし、手放しも楽に行えるようになります。ただ、結局自分の意思の力と決断によって、心のお荷物を捨てる覚悟がないうちは、表面的な現象に一喜一憂したり、何かに頼ってうまくいかないことをそれのせいにしたりと、同じ場所を行ったり来たり、成長がないままのような気がします。苦しみの原因は外側ではなく、自分の内側にあります。そして、そこに取り組めるのは、自分しかいません。他の誰か(何か)が代わりにお荷物を取り去ってくれることなんて、絶対にないのです。

 

2017年

4月

25日

この世の闇

 憧れの(?)中学生となり、新生活に馴染むべく日々奮闘している娘。部活を何にしようか、目下お悩み中のご様子です。入学前から、ある部活(A部)に入る!と豪語していたのですが、何日か見学してみたところ、イメージと違っていたようで、違和感を感じるようになってしまったようです。極め付けは、同じ部活の一年上の先輩(小学校も同じだった)に、やや素行の悪い人がいること。小学校時代から何かと問題行動が多く、違う学年の子達の噂にも上るほどだったとか。

 しかもその先輩は娘とは帰宅方向が同じなため、部活の見学の帰りにいつも「一緒に帰ろう」と声をかけられるとのこと。わざわざ家の前までついてきたり、ある時はお金をせびられそうになったので、慌てて振り切って帰ってきたのだそうです。

 昨日、浮かない顔をして「私やっぱりB部に入ろうかな・・」というので話を聞いてみると、そんなことが明らかになりました。「私、あの先輩と二年間も一緒だったら、ストレスでおかしくなると思う」。

 

 

 ・・・という話を、夜遅く帰ってきた主人に報告してみました。すると、ふんふんと聞いていた主人の反応があまりにも普通なので、あれ、娘のことが心配じゃないのかなと疑問に思いました。そしてハッと思い出したのが、そういえば主人は、地元でも札付きの悪が集まる荒れた中学校で青春時代を過ごしたのだった、という事実。

 主人の実家がある場所は、「東北のシカゴ」とも呼ばれる地域。暴力団の抗争事件などが地元ニュースに度々上がるような場所でした。”団員”達の子息も数多く通う公立の中学校での三年間では、ドラマ顔負けの出来事が日常茶飯事だったそうです。シンナーの吸い過ぎで歯が溶けている人が何人もいた、トイレに入ったらそういう人達から「お前も吸う?」と袋に入った液体を見せられた、同級生の女の子で妊娠そして中絶した人がいる、校内で対立する二つの不良グループが暴力事件を起こし、誰かがスコップで頭を勝ち割られて流血し新聞沙汰になった、卒業してから数年後かつて不良だった同級生にたまたま出会ったら極道に入っていた、etc...そんな話を昔からたくさん聞いてきたのでした。主人曰く、「オレはあんな環境でよくまともに育ったと思う」。

 そうなのでした、そんな主人にしてみれば、お金を無心してくる先輩など「大したことない」部類のワルなのでした。「オレだって不良からカツアゲされたこと何度もあるし」。

 

「オレの中学時代に比べれば、全然大したことないよ。普通普通。そのくらい社会勉強として経験しといた方がいいよ。オレああいう経験したおかげで、強くなれたもん」

 

 たくましい。実にたくましい。そうだ、人はそういう経験をすると、強くなれるのだ。私は妙に納得し、心配で気をもんでいた気持ちがスーッとほぐれていくのを感じました。人は一度怖い経験、ショックな体験、辛い経験をすると、同じことが次に起こった時に以前ほど動じないものです。そういう経験をしたおかげで、前よりも強い自分になっているからです。

 そう考えると、純粋培養で何の問題も起こらない環境に身を置くより、ある程度厳しい経験をし、”免疫”をつけた方が強い人間になれるのかもしれない。どんな問題が起こっても動じない逞しさがあれば、世の中を渡っていくのもたやすくなることでしょう。社会に出れば厳しい現実が待っている、それが世の中というものです。闇と光が入り混じった世界に身を置いている限り、闇だけを遠ざけて生きていくわけにはいきません。大事なのは、”闇”に出会った時、そこに対処する知恵をつけることと、乗り切る力強さを身に着けることです。そのためには、ただ”闇”を避けて生きていくより、”闇”を経験し、向き合い、乗り越える体験を数多くこなすことが何よりの勉強になると思います。

 

 娘も、少しずつ社会の現実や世の中の闇に向き合う経験が増えてきました。人間としての強さを育んでいる時期なのだと思って、温かく見守っていこうと思います。

 

 

2017年

4月

21日

他人の感情的攻撃をかわすには

 ”嫉妬心”を表す英語の表現に、"green-eyed monster"というイディオムがあります。直訳すると、「緑色の目をした怪物」。シェイクスピアの戯曲で用いられた表現からきています。

 実際に嫉妬に狂った人の目の色が緑色に変わるということはないのでしょうが、私たちの感情が瞳の中に宿り、そしてその宿った感情が私たちの物事を見る目にバイアスをかけるという原理は理解できます。激情のために、冷静な視点を見失うという心の状態が、目の色が変わった怪物という言葉で上手く表わされていると思います。

 

 バイアス、偏見、で思い出すある出来事があります。学生の頃、日本に来たばかりの留学生の諸々のお手伝いをする、ボランティアサークルに入っていたことがありました。ある時、そのサークルの命を受けて、私はあるフランス人留学生(男性)の学務手続きを手伝うことになりました。指定された日に待ち合わせの場所に行ってみると、その人はもうそこに来ていました。私が声をかけると、とても不機嫌そうな様子で私のことをジロッと睨み、むすっとした表情のまま、スタスタと歩き始めました。こんにちはもよろしくも、何の挨拶もないままです。私は意味がわからず、初対面のこの人から、なぜいきなり嫌悪感を抱かれなければいけないのだろうかと、かなり混乱しました。

 その人としばらく一緒に過ごしてみて、私にはだんだんわかってきました。そのフランス人は、私という個人ではなくて、日本人、アジア人全般を小馬鹿にしていたのです。話す会話の節々から、態度から、私を見る目つきから、そのことが明瞭に伝わってきました(ではなぜ留学先に日本を選んだのかという疑問が湧いてきますが)。私が実体験として、人種や肌の色という分類で他人から差別的に扱われた、初めての経験でした。

 

 

 偏見という言葉が表す通り、「偏った見方」は、物事を中立に眺めることを難しくします。また、嫉妬や怒り、悲しみ、恐れといった感情を抱いている時もまた、自分が目にする景色に色付けをすることになり、結果として物事を善か悪か、白か黒か、好きか嫌いかのような二分法的な見方で眺めることになります。全ての出来事は本来中立で、意味なんかありません。意味づけをしているのは、私たちの物の見方、観念、思い込み、クセ、感情です。

 

 不妊治療に何年もの歳月を費やした女性が、治療中の精神的につらい時期、道で妊娠している女性や小さな子供連れの女性を見ると、嫉妬で怒りが湧いてきた、と話していました。全然知らない赤の他人に対してです。この場合、嫉妬の怒りを向けられた女性には当然ながら何の非もないわけで、怒りをぶつけられたとしても当然責任を感じる必要はありません。

 こうしたことは、私たちの日常でたくさんたくさん起こっていると思います。いわれのない怒りをぶつけられたり、差別や偏見の目で見られたリ、羨望もしくは侮蔑のまなざしを向けられたり。逆に私たちの方が、街で見かける人に対して、バイアスのかかった目で見てはジャッジしたり、感情が動いたり、ということだってあります。

 

 

 もし、今の私が、学生時代のあの時の自分(かなりショックを受けていた)にアドバイスをするとしたら、こんな風に言ってあげると思います。

 

「その人の態度を、個人的に受け止めなくていいんだよ」

 

 あのフランス人留学生は、私という個人の資質や性格や人となりをみて、あのような冷徹な態度をとったわけではありません。日本人である私を見た時、差別的な物の見方、偏見、思い込み、私的な好みというフィルターを通して眺めたために、彼の中の侮蔑的思考が刺激され、感情が動き、中立的な立場をとる冷静さを失ってしまったのです。彼は、自分の心の内に潜んでいた闇を、私に投影して見ていたにすぎません。彼のそれまでの人生の過程で、時間をかけて、育まれていった闇でしょう。偏見や思い込みが強ければ強いほど、愛とは対極的な態度をとらざるを得なくなります。それだけ負の感情が膨れ上がるので、自分をコントロールすることが難しくなり、相手を思いやる心の余裕がなくなります。

 

 

 誰かがもし、自分に向かって感情をぶつけてきたり、批判的なまなざしを向けてきたとしたら、それを私的に受け取らない方が身のためです。そんな風にいちいち他人から向けられる負のエネルギーを受け止めていたら、身が持ちません。本来、受ける義務も必要性もありません。

 その人がこちらに向けてきている負の感情は、その人の個人的なものです。その人が抱えている個人的な問題や、個人的な偏見が生み出しているものです。私はたまたまその場にいただけで、その人の心を動かす刺激やきっかけとなったかもしれませんが、「原因」となったのは私ではありません。個人的に受け取らないことです。たとえ家族という身近な関係同士でも、です。

 そして私たち自身も、他人や物事を見る時に、バイアスや個人的な問題・思い込みを通して見るのではなく、できるだけ中立の視点を保てるように努力したいものです。そうすれば、必要以上に感情に振り回されることもなく、冷静さをキープすることができます。そしてそれが、理解と受け入れにつながっていくのではないかと思います。

 

 

2017年

4月

20日

Life goes on

 新しい生き方、自分らしい生き方をしようと決心すると、それまでため込んできた様々な思いや感情、過去に受けた心の傷、トラウマ、そういったものが一時的に噴き出してくることがあります。殻を破って次のステージに進むために、お荷物となる古い縛りから解放される必要があるからです。過去に引っぱられ、過去に執着し続けていると、自由で縛られない生き方をすることは困難です。

 癒しと浄化の時期を経て(人生には休息も必要です)、それまで纏っていた重い鎖から解放されたら、あとは後ろを振り向かず、ただ前進するのみです。

 

 この時に注意しなければいけないことは、常に現実的な視点をキープするということです。スピリチュアルな世界、精神世界に目覚めた人で、そちらの世界に意識が向き過ぎるあまり、現実生活との折り合いがつけられなくなっている方々がいます。そういう方たちは、文字通り宙に浮いているかのように不安定で、物理次元で起こっている出来事を受け入れられず、自分で作り上げた妄想の世界に生きているように見えます。似たような仲間同士でグループを作り、現実逃避ともいえるような儀式やらセミナーやらグッズに次々手を出しては、そういった自己決定能力が欠けている人をターゲットにしている商売人や偽教師たちの恰好の餌食になっていたりします。確固たる軸が定まっていないがために、自分の代わりに人生を決めてくれる存在を追い求め、利用され、中途半端な目覚めの状態に酔いしれているのです。アイドルに現(うつつ)を抜かしている(なんという的を得た表現でしょうか)十代の若者と同じです。

 

 魂の成長の旅路は、空想世界を追い求めているうちは一歩も進めないままだと思います。意識が覚醒したからといって、毎日フワフワと夢見心地で何もせずにいられるわけではありません。もしそうだったら、一体何のためにこの世に生まれてきたのかがわかりません。

 むしろ、魂を磨いて意識を向上させた人ほど、謙虚になり、この世の現実に向き合い、無償の愛で他者に尽くしているようにみえます。きっと、自然とそうなっていくのだろうと思います。イエス様やお釈迦様、その他過去の聖人たちの生き方をみてみれば、ああいう人々がいかに地に足の着いた生き方をしていたかがわかります。イエス様もお釈迦様も、人生の後半はほとんど全て、他者を助けることに身体と時間を使ってました。神様に身を委ねながらも、現実的な仕事をしていたのです。

 

 思うに、本当に誰かの役に立ちたいと思うのだったら、妄想世界で遊んでいる暇はないのではないでしょうか。実際に手を動かさずして、一体誰を助けられるのでしょうか。魂の成長は永遠に続きます。この世に身を置いている限り、別の世界では生きられないこと、私たちは今ここで、具体的にやるべきことがあるから存在していることを受け入れて、現実を生きましょう。

 

 

2017年

4月

19日

お試し

 気づきは、その人の準備が整ったタイミングでやってきます。人生において、それまでの生き方を根本的に変えていくことになる(トランジション)時期には、まず最初に様々な形で”きっかけ”がやってきます。内なる声、ガイダンス、ウェイクアップコールを聴いたり、事故や病気、アクシデントといった現象が起こることもあれば、何かとの別れが、新しい生き方へ移行するためのショック療法的な役割を果たすこともあります(逆に何かとの出会いがそうさせることもあります)。

 

 どんな形でやってくるにしろ、一度気づきが起こって、その流れが始まってしまうと後戻りできないのが普通なので、腹をくくって運命に向き合うしかありません。外側で起こっていることなんかより、自分の内側で起きている現象にこそ、逆らえないものです。

 

 この移行期には様々な葛藤、変化、感情の浮き沈み、出会いと別れ、などが起こりがちです。そんな時こそ、自分という軸にしっかりと納まり、グラウンディングをして、1人静かになれる場所と時間を作って内観することが助けとなります。そうすることで、本当は誰もが繋がっている、大いなる存在に対する信頼感が高まり、自分は何があっても大丈夫だ、信じる道を進めば良いのだ、という揺るぎない確信が持てるようになるからです。外側で起こっていること、外部の声に必要以上に惑わされないためにも、1人でいることが大きな意味を持つこともあります。

 

 

 魂を磨く旅路において、人がある段階に達すると、様々な「お試し」のようなものがやってきます。このお試しは、魂が更に磨かれていくための通過儀礼ともいえるもので、ここでふるいにかけられ、堕ちていく魂もあれば、上昇を遂げていく魂もあります。後者の方が狭き門であることは言うまでもありません。魂の旅路でやってくる数々のお試しは、人のエゴを上手にくすぐるテクニックをうまく心得ています。この罠に引っかかる失敗は、誰しもが一度は経験するものです。

 

 魂磨きの旅で人が陥りがちなトラップや、障壁となるシチュエーションをいくつかご紹介します。

 

 

①孤独

 魂磨きの旅は、基本的に孤独です。ただし、現世的な見方をすればですが。私たちは、身近に全く同胞がいない状況で、ただ1人、自身の内側から湧き出てくる声だけを聴いて進んでいくことになったとしても、ぶれずにいるタフさが必要です。大いなる力とのコネクションを強くし、信頼し、身を委ねる勇気を持つことが求められます。また、どんな障害がやってきてもそれを乗り越えていく気力と意思の力も試されます。現実生活として、孤立するということを言っているのではありません。現世的なコミュニティーに属していたとしても、内面的な決断と選択は、常に個人的に行われるものです。

 

②虚栄心

 これは、ある一定レベルの魂の進化を迎えた人々が、皆直面している障壁だと思います。私たちが虚栄心の罠にはまるかはまらないかを見極めるために、敢えて権力や特殊な能力を授けられることだってあります。人より何かが秀でていたり、富や力を得たり、崇拝されるような立場にいる人ほど、この虚栄心の罠には注意しなければなりません。この段階で、かなり多くの魂が脱落していっていると思います。謙虚さを失わないために、常に自分を戒める必要があります。

 

③依存

 魂の進化の旅路は、ステップアップしていくほどに先人の数が少なくなります。自分が進んでいる方向性が合っているのかどうか不安になると、一見自分よりも「先」を進んでいるかのようにみえる、教師やグルに頼りたくなるものです。けれど、教師やグルだと思っている人が、まだまだ虚栄心の虜になっている段階にいたり、そもそも教師やグルのフリをしている詐欺師だったりすることさえあります。お互いの恐れとコンプレックスがうまく引き合うと、共依存の関係に陥りやすくなるので注意が必要です。面白いことに、人が共依存の関係に陥っていく時というのは、お互いが無意識の場合が多く、関係が切れてからか、もしくは切れる直前に片方が気づくというパターンが多いです。依存の関係を終わらせるためには、かなりのエネルギーを必要とします。

 

④焦り

 一度真理の道に目覚めると、先へ先へと急ぎたくなるものです。けれど、落とし切れていない垢がまだあるうちは先へ進んでも混乱するだけですし、癒すべき傷が癒えていないのに次へ進もうとしてもつまずいて転ぶことになります。一気に坂を上ろうとしたり、近道をしようとしたり、ドラマチックな変容を望む気持ちもまたエゴです。与えられたタイミングで、愚直に目の前の課題をこなしていく忍耐強さと、謙虚さを持ちましょう。

 

⑤期待

 私たちはとかく未来をあれこれ想像して、こうありたいとか、こうあるべきとか、華々しい妄想を抱きがちです。けれど、こうなったからああなるとか、こうすればこれがもらえるとか、方程式のように答えがやってくることをはなから期待しない方が身のためです。いずれ失望することになるかもしれません。この世はそう単純なものではないからです。世の中で起こっているネガティブな出来事や、人の未熟な点をあげつらっていても気分が沈むだけです。それがこの世というもの、それが人間社会というものです。そして、自分もそんな人間の一人です。できないこと、足りてない部分にばかりフォーカスし、完璧な姿じゃないことに失望するのはナンセンスです。人間なんだから欠点や裏表があって当たり前です。みんなそうです。そういうものです。今の自分を受け入れて、今やるべきことに集中しましょう。

 また、他人に対しても、こうなってほしいとか、この人はこうあるべきだとか、過度な思い込みや期待は最初から持たないことです。たとえ家族のような身近な存在であっても、その人の人生と選択を、尊重してあげましょう。自分は今、その人の世界をのぞかせてもらっているのです。

 

 

 

 トラップは実に巧妙なやり方で、私たちの意思を試してきます。忍耐、忍耐、忍耐。謙虚さ、手放す勇気。内省と洞察。疲れたら立ち止まりながら、自分のペースで、謙虚に、淡々と、旅路を進んでいきましょう。神様は、その人にこなせない課題は決して与えません。その人の準備ができた時に、乗り越えられる範囲の試練が与えられます。

 

2017年

4月

17日

自分にとっての真実を生きる

 アンジェリックエッセンスの、『Living One's Truth』(リビングワンズトゥルース)。次のようなエネルギーが入ったエッセンスです↓

 

『 自己の真実を生きる。個人の力を強めるためのエッセンス。自分にとっての真実とは何かを知り、(たとえ過去世からのトラウマや今生での抑圧によって、その真実から切り離されていたとしても)勇気と確信をもってそれを語り、それに従って生きることができるように助けてくれます。のどの周辺を開き、弁解せずに自己の真実を語ることをサポートします。その結果、自分本来のパワーへとより深くつながっていけるようになります。このエッセンスは、自分にとっての真実に従う能力を高めます。すべてのチャクラ(特にのどと太陽神経叢)を開き、サトルボディを一時的な整合状態に置きます。』

㈱ネイチャーワールドHPより抜粋

 

 自分にとっての真実とは何か。周りがこうだからとか、一般的にそうするべきだと思われているだとか、家族がこう言っているからだとか、本当の自分以外の声を聴いてばかりいると、だんだん自分にとっての真実から遠ざかった生き方になっていきます。それはとても息苦しく、窮屈な生き方です。そして、本来の生きる目的のルートからもどんどんずれていきますので、物事がうまく回らなくなったり、アクシデントばかり起こったり、精神的・肉体的な不調が生じたりすることになります。結局、本当の自分らしく生きることが、その人の人生が最もスムーズに流れるための鍵となるのですが、私たちはなかなかそこにたどり着くことができません。それまでの人生(特に幼少~青年期にかけて)において植え付けられた様々な信念や、自ら抱いた固定観念の縛りを強く受けているからです。

 

 私たちはものごとが思うようにいかない時、とかく自分以外の誰かのせいや、環境のせいにします。けれど、現象として起こっていることは、私たちが深層意識で抱いている信念が表に出ているにすぎません。

 「本当はこうしたいのに、○○がこうだからできない」。それは、○○のせいでそうなっているのではなくて、「私はこれができない」という信念、思い込みが自分の中にあるから、○○という現実を創り出しているのです。つまり、自ら障害を生み出して「できない」シチュエーションにしているわけです。(無意識レベルなので気づいていないことが多い)

 

 いつもここぞというときに失敗してしまう、なぜかいつもやろうとしていることがうまくいかない、自分が本当にやりたいことに取り掛かろうとすると、いつも妨害される、etc...

 そのようなパターンを繰り返しているとしたら、それは、自分の中に、

 

「私はいつも失敗する」

「私には物事をやり遂げる力がない」

「私にはやりたいことをする資格がない」

 

 といった負の信念が潜んでいるからです。その他のことは、その信念が形となって表れているだけです。

 そして、その全てが本当はです。邪魔をしてくる人も(本当は自分が思い込んでいるだけかもしれませんが)、障害となっている現実も、欠けているように見えている能力も、全部、幻想なのです。自分が心の中で創り出している思い込みは、幻想以外の何物でもありません。だとしたら、その幻想が目に見える形で出てきている現象もまた、幻です。

 

 自分が生み出した幻想に苦しむくらいなら、幻想を望ましいものに変えて楽になった方が良いのではないでしょうか。幸い信念、思い込みというものは自由自在に変えていくことができます。古い信念、必要のない思い込みは捨てて、新しい信念に塗り替えていけばいいだけです。

 

「私の人生の全てが良い方向にむかっている」

「私には物事をやり遂げる力が備わっている」

「私には人生を楽しむ資格がある」

 

 縛りを外して、自由になる過程では、時に抵抗する力や反発も受けるかもしれません。勇気と忍耐が試されます。それまで何年、何十年も抱き続けてきた信念を外していくには、エネルギーと時間がいるものです。ある日突然生まれ変わったような自分になることを期待しないでください。がっかりすることになると思います。ステップバイステップ、一進一退を繰り返しながら、少しずつ殻が外れて、少しずつ本当の自分らしさを取り戻していく。フラワーエッセンスなどの力を借りながら、気長にやっていきましょう。

 

2017年

4月

12日

「今」にいること

 娘の中学の入学式に出席してきました。満開の桜が窓の外で揺らめく中、吹奏楽部の部員達が奏でる音楽と一緒に、赤い絨毯の上を緊張した面持ちで歩く新一年生。その横顔を見ながら、私はふと、自分が中学生だった時の入学式はどうだったかな、と思いました。

 ところがどんなに思い出そうとしても、そのたった一場面さえも記憶に残っていないことに気づき、愕然としました。果たして入学式なるものがあったのかどうかさえわからないくらい記憶がないのです。おそらくちゃんと普通にあったはずなのですが。

 今私が出席している娘の中学の入学式のように、先生方や在校生、保護者、来賓の方々が見守る中、はじめの言葉とか祝辞とか校歌斉唱などを聞き、吹奏楽の演奏も見ただろうし、真新しい制服に身を包んで緊張と不安を抱きながら出席していたはずなのに。それなのに微塵の記憶もないとはなんということでしょう。入学式のためにいろいろ準備もしただろうし、様々な思いを抱いていたはずのに・・

 

 人の記憶とは、かくもはかないものなのだなと思います。中学の入学式に限らず、人生で起きるほとんどの出来事は記憶に残りません。今こうしてパソコンの前に座ってブログを書いている瞬間だって、あと数時間もすればきれいさっぱり記憶からなくなっているに違いありません。

 

 記憶に残る、残らない、なんて、執着する意味がないのかもしれないな、と思いました。私たちはとても嫌な出来事があると、「早く記憶がなくなってしまえばいいのに」とか、「早く忘れてしまいたい」と思い、反対にとても楽しい出来事や幸せなことがあると、「この思い出がずっと残りますように」とか「忘れたくない」と考えます。

 けれど私達の記憶に残るか残らないかの取捨選択は、えてして私達の意図するところと異なる形で行われるようです。意識的にコントロールしたくても、できないのです。それに、記憶というのは水物で、時間がたつにつれ色付けされたり、省かれたり、都合の良いように加工されたりしていきますし、とても流動的で不安定なものです。

 そもそも、私達の今生での記憶は、あの世で一度リセットされますから、最初から消えていく運命にあります。

 

 そんな流動的で不安定なものにしがみついていたら、「今」を集中して生きることができなくなるような気がします。意識が必要以上に過去に引っ張られたり、まだ起きてもいない未来に飛んでしまうと、「今」にいることができません。

 人が不安になる時というのは、過去に起きた嫌な出来事の記憶にどっぷり浸っているか、未来の出来事をネガティブに想像してしまっている時で、「今」この瞬間にしっかり地に足をつけていられる時は、不安は起こらないものです。「今」この瞬間には、何も恐れることがないからです。そして、人生は数限りない「今」の連続で、目の前にあるなすべきことを一つ一つこなしていくプロセスそのものです。

 

 常にどんな時でも、「今」に集中して生きていくことができれば、その瞬間の出来事が記憶に残ろうが残るまいが、悔いは残らないのではないかと思います。「今」に感謝して、瞬間瞬間を楽しみながら、愛おしみながら過ごしていれば、過去や未来に浸る必要もないし、不安や後悔とも無縁でいられます。

 

 

 

☆「今」にいることをサポートしてくれるエッセンス☆

 

Being in the Present』(ビーイングインザプレゼント)・・・アンジェリック

 

 ”今、この瞬間にいるということは人生に立ち向かう用意があるということです。人生の全ては、今この瞬間に起きていますが、多くの時間を私たちは未来や過去に意識を向けていて、現在を完全に体験する機会を逃しています。現在のみが人生に影響を与えます。現在においてのみ、明らかにすることができるのです。私たちは今にだけ生きることができます。このエッセンスは今この瞬間に生きること、完全に私たちの人生を生きることをサポートします。”

 

 

2017年

4月

06日

全ては神の御業

 イエス・キリストが亡くなった後、残された弟子たちは、ある話し合いをしました。12人の使徒のうちの1人であったユダは、イエス様を裏切って反対勢力に引き渡す手助けをした後、それで得たお金である地所を手に入れました。ところが、その場所でユダは、高い所から”さかさまに落ちて”死んでしまいます。

 弟子たちは、そのユダの代わりに誰を使徒に加えるか、神に祈った後、なんとくじを引いて決めることにします。その結果、くじはマッテヤという人物に当たり、彼が使徒に新たに加えられることになったのでした。

 

 こんな大事な決め事を、くじで決めるとは。現代人の私達の感覚では、安直とも思えてしまいます。けれど、神の御業に身を委ねる感覚が強かった昔の人にとって、くじの結果というのは神の御心を表すものであり、今よりも神聖な儀式だったのかもしれません。

 

 易やタロットといった占いもまた、神の啓示を目に見える形で表す方法として、古代から伝えられてきました。全ては神の御業、亀の甲羅や動物の骨に入ったヒビも、シャッフルした後に選ばれたカードも、この世を動かしている見えざる手によるメッセージであるのです。

 

 私が幼い頃、毎年お正月になると、南相馬市の祖父母の家の近くにあった小さな神社でおみくじを引くのが習慣でした。不思議なことに、「お年玉がたくさんもらえますように」とか、「○○を買ってもらえますように」といった、お金にまつわる願い事をすると、その後に引いたおみくじの中には必ず小さな小さな”金の神様”が入っていました。お金に関係のない願い事の時には、金の神様は入っていませんでした。これは私に限ったことではなく、毎年おみくじを一緒に引いていた兄やいとこたちにも同じように起きた現象でした。

 

 子供の通っている学校では、PTAの役員決めの際、委員長や副委員長といった役職を決めるのはいつもくじでした。そうした方が誰からも文句が出ないからなのでしょうが、そもそも人は潜在的に、くじの結果には逆らう感覚が起こらないものなのでしょうか。なぜか、くじの結果には有無を言わさぬ説得力があります。

 そして、くじで決まったメンバーというのは、なぜか常にしっくりくるのが不思議です。やはりくじには、神聖な力が働いているとしか思えません。

 

 来週、娘の中学校の入学式が行われます。式が終わった後、保護者は全員集められ、そこで一斉にくじを引かされることになっています。3年間全てのPTAの仕事がその場で割り振られるとのことです。委員長クラスのヘビーな仕事を引くのか、それとも軽い手伝い仕事が当たるのか。神の采配に委ねます。こんな風に考えていた方が、謙虚に取り組めるような気がします。

 

2017年

4月

03日

トランジション~転換点

 アンジェリックエッセンスの『Transition』(トランジション)。”転換点、過渡期、変わり目”といった意味です。

 

〈解説〉↓

変化。あらゆる変化の間に起こる感情や問題を助けます。このような変化には、日常生活の変化や意識の変化なども含まれますが、それだけではありません。新しいものを統合し、根付かせることを助けます。何か変化が起こると思ったら、その前と最中にこのエッセンスと摂るとサポートされます。このエッセンスは変化によって生じるおびただしい数の挑戦を私たちが受け入れることを助け、神の恩寵の元でたやすくそれらを乗り越えられるようにしてくれます。

(㈱ネイチャーワールドHPより引用)

 

 幼虫が蝶へと変容を遂げるには、蛹という形態を一度とる必要があります。その間、繭の中で一定期間を過ごし、成虫へと姿を変えるタイミングを静かに待ち続けます。私達が、古い殻を破って新しい自分に変容する際も、このようにある期間、過去の関係から遮断されたような環境の中で、静かに自身の内面に向き合う”トランジション”の時期が必要だったりします。

 

 この変容の時期の前後には、それまでの人生を一度清算するような出来事が起こりがちです。古い人間関係に終止符が打たれたり、それまでやっていたことに違和感を覚えるようになったり、所属していたコミュニティーが急に居心地悪く感じるようになったり。また、人によってはアクシデントや病気、怪我、身近な人の死といったような、現世的には事件ととらえられる出来事に遭遇する場合もあります。いわば強制的に生き方の流れを変えさせられるパターンです。

 

 現象として表に出てくる問題に対処するだけでも精神的・肉体的な負担がかかる上に、それまで自分が絶対的なものと信じてきた価値観も揺さぶられるために、いわば”軸”が壊れたような状態になり、心身ともに安定した状態を保つのはなかなかにハードです。

 

 そんな時期こそ、周囲の状況や他人の声に必要以上に振り回されず、内観をし、己の信じる道をただ突き進む。過去には目を向けず、執着を捨て、ゼロから始める気持ちで歩んでいくのが一番の近道です。その際、エゴの声を聴かないように自分自身をまずクリアーにすること(浄化)、外野の声は適当に聞き流して内なる声のみを信じること(バリアーを張る)、自分を守り導いてくれるスピリットガイドにサポートをお願いすること(祈り)、が大きな助けとなってくれます。

 それまで築き上げてきた経験や財産、人間関係、仕事、場所などと思い切って決別する必要がでてくるかもしれませんので、多少のゴタゴタや混乱は覚悟した方が良いでしょう。これらのことは他の誰でもなく自分が決断して進んでいくものなので、孤独に耐える強さと意思の力が試されます。また、行く手には数々の誘惑と挑戦が待っているので、脇道に逸れて堕ちた天使にならないように、注意が必要です。(堕ちた天使たちの見本は巷に溢れています)

 

 人によっては、この変容の期間が人生で一番過酷で苦しい時期だった、ということもあるかもしれません。けれど終わりの来ない夜はなく、”魂の闇夜”は来たるべき新しい人生の前に必要な、産みの苦しみでもあります。

 

 幸いにして私たちは1人ではなく、手を差し伸べてくれる存在は誰にでも必ずいます(生身の人間とも限りませんし、それは何かの形となってやってくるかもしれません)。謙虚にサポートを求めてもいいのです。フラワーエッセンスも、人生の転換期を迎えている人を助けてくれるものがたくさんあります。深いレベルで崇高な決断をした勇気ある魂が、美しくスムーズに変容を遂げるのをお手伝いしてくれます。

 自分が今転換点にいるような気がする、「次」に進むのに背中を押してもらいたい、いまいち自分の方向性に自信が持てずにモヤモヤしている、等々、フラワーエッセンスの助けを借りたい方は、ぜひうぶすなにご相談ください☆彡

 

 

2017年

3月

28日

カスタムエッセンス

 アンジェリックエッセンスには、『カスタムエッセンス』(Custom Essence)というものがあります。"custom"とは「オーダーメイドの、あつらえの」という意味ですが、このエッセンスを注文すると、注文した人に必要なエネルギーが、ボトルの水に転写され、送られてきます。まさに、オーダーメイドエッセンスです。

  1人1人、必要なエネルギーが異なるため、カスタムエッセンスは注文者に応じてユニークなものになります。もちろん、効果の表れ方も人それぞれです。

 

 私が以前、これを頼んだ時のこと。ボトルが届いて蓋を開けたところ、手元が滑って中身が少しこぼれてしまいました。せっかくなので、手にこぼれたエッセンスを両手でこすり合わせ、そのエネルギーを感じてみることにしました。手を合わせ、更に顔の周りに手をかざしてみた時、私はとても懐かしいような、ホッとする、けれどとても力強いエネルギーを感じました。「あ、これは私が”私”に戻れるエネルギーだ!」と瞬間的に思いました。

 

 飲み始めて数日後。私は、それまでに感じたことのない、ズシンと具体的な重みがわかるほどの、グラウンディング力を高めるエネルギーが自分の中に流れていくのを感じました。それはまるで、両方の足の裏から、ニョキニョキと地軸に向かって太い根っこが伸びていき、地球にがっちり体が固定されるような感覚でした。ともするとフワフワと霊的な世界に気持ちが向きがちな私を、しっかりと地球に結びつけておくためのエネルギーなのだな、と思いました。

 それまでも、意識的にグラウンディング力を高める努力はしてきたつもりでしたし、そういったエッセンスも度々取ってきてはいましたが、このエッセンスは力強さが全く違っていました。歩くたびに、地球に足が張り付くようなフィット感があり、地に足がつくとはまさにこのことだ、と思いました。そして、それまではどちらかというとメンタル、精神、魂の世界を重視しがちだった私に、肉体を持って地球で生きるという現実体験にきちんとフォーカスできる感覚をももたらしてくれました。肉体にこんなにもしっかりと納まっていられたことは、それまでなかったかもしれません。生きている、生きていいんだ、私は今この地球で全身全霊で生きる体験をしているんだ、”上”の世界はいつかまた行けるんだし、今は地球でこの肉体を使って、生きる時期なんだ。そんな思いと共に、力強い安心感と、守られている感覚がジワーッと湧き出してきて、私の全体を包んでいくのを感じました。(ちょうどその時期、娘の学校の謝恩会があり、そこで子供達が谷川俊太郎氏の『生きる』を朗読していたのも、偶然ではなかったかもしれません。この詩ほど、地球で生きるということを端的に表現したものはないと思います)

 

 

 また、このエッセンスを飲んでいるうちに、私が最初エッセンスに直接触れた時に感じた「私が”私”に戻れる」という感覚が、どんどん強くなっていきました。私は私のままでいいんだ、他の誰でもなく、”私”でいていいんだという感覚です。それまでは、何となく他にお手本があったり、見習うべき人や生き方があって、それに自分を合わせていかなければいけないという思いがどこかにあったのですが、そういった縛りがスーッと溶けてなくなっていき、とても楽に、とても軽くなりました。

 以前は、イエス様やお釈迦様やマリア様、その他たくさんのスピリチュアルリーダーたち、そういう人たちを尊敬するあまり、自分もああいう人たちのようにならなければいけない、なれないにしても努力して目指していかなければいけない、と思っていました。けれど、私のために作られたカスタムエッセンスを飲んでいる間に、その思い込みもまた幻想で、縛りもまた幻想、執着であったことに気づいたのでした。

 私が”私”でいていいんだという感覚は、何にも代えられない自由と幸福をもたらしてくれます。自分を責めなくなりますし、自分という存在が大切に感じられる分、他人にも優しい目を向けることができるようになります。私達が他者を受け入れるためには、他人に寛容になる努力を一生懸命するより、自分に寛容になるのがまず先です。

 

 カスタムエッセンスは、ルースさんが高次の存在達とチームを組んで作成してくれるものです。高次の存在達にしてみれば、私の今の状態や必要としているエネルギーなど、赤子の様子を見るようにわかりやすいことなのでしょう。

 

 

 

 

☆☆☆カスタムエッセンスはうぶすなでもご注文できます☆☆☆

 

【価格】

13,500円(税込み) *送料無料*

 

 

 ☆アンジェリックエッセンス創始者のルース・ジョイさんが天使や高次元の存在達の力を借りて作る、世界に一つしかないあなただけのカスタムエッセンス。注文をご希望される方は、うぶすな宛にメール(momonokunikara@gmail.com)もしくはお電話(080-6257-7130)でご連絡ください。その際、「名前、住所、電話番号、住所と名前のアルファベット表記」を明記してください。オーダーメイドですので、発注から到着まで、1~2週間程度かかります。

 

2017年

3月

27日

ダガーハキア

 オーストラリアン・ブッシュの「ダガーハキア」。このエッセンスは、家族や恋人のようにずっと親しくしていた人たちに対するわだかまりや恨み、怒りを感じている人のためのものです。

 

 『愛憎』という言葉がありますが、愛するあまりそれが憎しみ変わったり、相手に対する思いが強いが故に、執着も強くなることがあります。

 

 幼い子供と親との間には、エネルギー的にも心理的にも大変強い絆があります。大きくなるにしたがって、それらの繋がりが徐々に変化していくものなのですが、成長した後も幼い頃のような支配的・依存的な関係性が残ってしまうことがあります。

 

 私達が真に自由を感じて生きる上で、一番の障害が家族であるということも実は多いのです。

 

 そのことに気づき、大人になった自分が未だに親の強い影響下から抜け出せていない、ここを何とかしなければいけない、と思うに至った場合。今まで自分を”縛って”きた親に対する恨みや怒りが一時的に噴出してくることがあります。

 私は私らしく生きたい。いつまでも親の顔色をうかがい、親の反応を気にして生きるのは嫌だ。そのためには、一度自分の中で、心理的・エネルギー的に親と決別する必要があるのですが、その際怒りが強い原動力ともなるのです。

 時には、親に対して、謝ってほしい、自分の過ちを認めてほしい、という思いが湧いてくるかもしれません。自分の思いをぶちまけてスッキリしたいと願うかもしれません。

 

 けれど実際には、親自身の価値観と、自分が心から自由を感じていられるかどうかということは、あまり関係がありません。私が私らしく生きていられるかどうかということは、親がどうであるとか、彼らがどう考えているかということとは、別の問題なのです。もう、そこにとらわれない方が良いです。親といえど、違う人間です。違う人生、違う価値観、違う生き方を選択した人たちなのです。自分が認めてもらいたかったら、自分も相手の生き方を認めなければいけません。

 

 怒りは時として行動を起こすための起爆剤となることもありますが、怒りや恨みをいつまでも引きずっていると、そのネガティブエネルギーに今度は自分が参ってしまいます。他人の状態や過去に起こったこと、これらは自分の力ではどうにもならないことです。どうにもならないことを何とかしようとすると疲れます。それよりも、今の自分の心に目を向けて、価値観、執着、思考のクセを見つけて矯正していった方が、怒りを早く手放すことができます。

 

 

2017年

3月

23日

地球での転生を受け入れる

 アンジェリックエッセンスの、「Opening to / Embracing Earth Incarnation」(オープニングトゥ/エンブレイシングアースインカーネーション)というエッセンス。解説には、↓

地球への転生の受け入れ。自分の外見的な肉体、セクシュアリティ、そして地球とのつながっりをもっと受け入れられるように。性的虐待を受けた経験のある人に

(㈱ネイチャーワールドのサイトより引用)

とあります。

 

 スピリチュアルに傾倒している、もしくはスピリチュアルな世界に引っ張られる傾向のある人は、気を抜くとそちらの世界にばかり気持ちがいってしまい、「地球」との繋がりが薄れがちになることがあります。

 

 スピリチュアルな世界は確かに魅力的ではありますが、私たちは今、地球を学びの場として選んで生まれてきています。地球でしか経験できないこと、地球でしか学べないこと、地球でしか体感できないことがあり、それらを肉体で、感覚で、魂で感じ、経験することで得られる何かがあるのです。そこで得た何かを魂の成長の糧とし、あの世に持ち帰り、また戻ってくるかもしれないし、戻ってこないかもしれない。それは私達にはわかりません。わかっているのは、私達が今ここで、地球という星の下に、肉体を纏って生きているということです。それが私達に与えられた環境であり、そこをまず受け入れなければいけません。

 

 『性的虐待を受けた経験のある人に』と解説にはありますが、そこまでひどい虐待を受けたことがないにしても、心に深い傷を負ったり、恐怖体験が多かったり、生きづらさを抱えてきたり、自分らしさをオープンにすることが難しい環境にいた人などは、地球との繋がりが薄れていく傾向があるようです。ある種の逃避です。現実生活において、生き生きと自分らしさを開花させる場所がなく、自分らしくあっていいのだという安心感が抱けずにいると、自分がまるで根無し草になってしまったかのように感じることがあります。人間は地球と繋がってこそ現実創造の力を得ることができるので、自分の軸がしっかり定まらない状態だと、とても不安定になり、孤独や絶望を感じることになってしまいます。自分はどうせ認められない存在なのだと自己卑下の感覚が強くなったり、何をやってもうまくいかないのだと諦めの境地に安住したりすることになります。

 

 地球とのつながりは、いわゆるスピリチュアル用語で「グラウンディング」と呼ばれるものです。エネルギー的に、しっかりと地球と繋がっている状態を「グラウンディング」と言います。このグラウンディングがちゃんとできていないと、スピリチュアルな世界に惹かれるあまり現実生活との折り合いがつけづらくなったり、フワフワと空想の世界で遊んでしまうような、いわゆる地に足のついていない感覚になったりします。

 グラウンディングができている状態だと、肉体の中にしっかりと納まることができているので、霊的な世界にばかり気持ちが動くことがありません。そして、今身を置いている自分の現実を正面から受け止めることができ、どこか別の世界に自分の居場所があるような錯覚を抱くこともありません。どんなことがあっても大丈夫だという安心感で満たされていますので、たとえ問題が起こったとしても、必要以上に動揺することなく現実的に対処することができます。自分の役目を理解し、今自分がやるべきことに落ち着いて向き合うことができます。

 

 

 生まれながらにしてスピリチュアルな世界との強い結びつきを感じながら生きてきた人は、肉体を重く感じたり、地球で生きるという宿命を受け入れることに抵抗を感じることが多いようです。そんな人は、辛いことがあるとスピリチュアルな世界に逃げ込んでしまいたくなるかもしれません。けれど、今自分が生きている環境を否定したり受け入れられずにいると、グラウンディング力はどんどん弱くなり、現実に向き合いそして新しいものを創造していくパワーが得られなくなります。現実に目を背けている間は、現実を変えることができないのです。結果的に更に地球に生きることがつらくなっていきます。

 

 天と地と自分。この三つがバランスよく繋がった状態でこそ、最もエネルギーが充満し、地球での生を全身全霊で謳歌することができます。まずは、自分が地球での転生を選んで今ここにいるのだということを、受け入れることから始めましょう。そして、必要のないおもりを外し、身軽さと自由を手に入れて、地球でのアドベンチャーを大いに楽しみましょう。

 

2017年

3月

15日

キャラじゃないことをすると

 「元型」「アーキタイプ」とは、人々の集団意識に存在する、象徴的なイメージを表します。この言葉は、スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングが提唱したことで有名ですが、元型の概念自体は、古代から私達に受け継がれてきたものです。

 例えば、『母親』の元型というと、ふくよかで温かく、料理が上手で世話好き、おおらかで包み込むような優しさを供えた女性、『王様』の元型はというと、どっしりとした体型で威厳があり、カリスマ性と明瞭な判断力を兼ね備えた、不動の自信に満ち溢れた頼りになる男性、といったイメージでしょうか。『孤児』『道化師』『魔術師』『破壊者』等々、元型の種類はたくさんあります。

 

 私達1人1人の中にも、その人となりを形作る要素として、いくつかの元型が存在しているといいます。それは、私達が生まれもった気質、キャラクター、といったものですが、中には埋もれたままだったり無理やり封じ込められたりして、人生で上手く表出し切れていないものもあります。例えば、本当は『自由人』という元型を持っているのに、育った環境がその要素を表に出すことを許さず、無理やり自分を別のタイプに当てはめて生きてきた場合など。その人本来の、自由を求める気質が押さえつけられているので、常に窮屈さと生きづらさを感じ、何となく自分が自分じゃないような、ちぐはぐな感覚を抱くことになります。

 または、ある一定の年齢に達してから、殻が破れたように、眠っていた元型が表に出てくることもあります。逆に、幼い頃表に強く出ていた元型が成人後には鳴りを潜め、別の元型が大きな影響力を持つようになることもあります。

 

 その人が元々持っている気質、要素は生まれながらのものなので、自分が何か別のものになろうとしても、疲れるだけですし、徒労に終わることがほとんどです。「キャラじゃない」ことをしても、しっくりこないし、物事もうまく進まないのです。

 

 

 私の娘は友達を作るのが私よりはるかに上手で、友達との付き合いをとても大事にします。学校だけでなく、習い事先でも必ず仲の良い友達がいて、それぞれの友達と実にマメにコミュニケーションをとっており、その律儀さには頭が下がります。たくさんの友達とワイワイやっているのが一番楽しいようで、放課後や休日時間がある時には、必ず予定を入れてどこかに遊びに出かけます。1人静かな場所で過ごすことが大好きだった私の子供時代とは全く違っているのですが、それは私と彼女とでは持っている要素(元型)が違うからです。

 娘はいうなれば『コミュニケーター』『旅人』『仲介者』といった元型の保持者であるのに対して、私は『隠遁者』『修道女』『求道者』辺りがしっくりくるタイプ。1人の時間がとても大切で、大勢の人がいる場所に長くいると疲れてしまいます(だから学校が苦手だったのかもしれません)。

 そんな私が、一念発起して娘のように大勢の友人を作ろうと頑張っても、きっと空回りしてうまくいかず、最後には心身ともに疲弊して強制終了することになるでしょう。たくさんの人との付き合いを同時にこなすことが不得手で、映画や舞台鑑賞なども、1人で行った方が楽しめます。一方で、娘にとって友人がいないという状況は「寂しい」以外の何物でもないそうで、その場所が楽しいものになるためには、友人の存在が必要不可欠なのだそうです。彼女にとっては、孤独は癒しというより苦痛に近いかもしれません。

 そういえば、会社勤めをしていた頃、最初は事務の仕事をしていたのですが(物足りなさはあったがしっくり感はあった)、その後営業的な仕事をする部署に異動になり、急に自分じゃない人間になることを求められたような状況が苦痛で仕方なかったのを思い出します。それでも、命じられるがままに精一杯仕事を務めようと、頑張ってノルマをこなしていたのですが、無理やり「キャラじゃない」自分を演じ続け、やりがいも感じられない環境に身を置いていることに対して体が先に悲鳴を上げました。思い返せばあの頃は、軽いアル中気味だったし(お酒の力を借りなければ眠りにつけなかった)、ホルモンバランスも乱れていたし、しょっちゅう寝込んでいたし、心の悲鳴を無視し続けた結果、様々な形で問題が表出していたのだなあと思います。

 

 

 自分が持っていないものを他人に見出して羨ましいと思ったり、いいなと憧れるのは、人間の自然な性かもしれません。そして、周りが求めてくる期待に応えようと、本来の自分を押し殺して違う人間になろうとするのも、誰しもが一度は経験することなのかもしれません。

 けれど結局は、自分が持っていないものは持っていないわけですし、どう頑張っても手に入らないものもあります。潔く諦めることと、受け入れることが大切なのだろうと思います。それと同時に、今度は自分が「持っているもの」に目を向けて、それを大事にしていかなければいけません。自分の気質、キャラクター、才能、得意分野、これらは皆神様から与えられた特別なギフトです。どんな人でも、ギフトは必ずあります。それも、一つだけではなく、いくつもあります。

 持っていないものは諦め(持っている人に任せましょう)、持っているものを大事にする。私自身も、数々の失敗を繰り返して、ようやくそこに目を向けられるようになってきました。

 

 

2017年

3月

09日

決意とフラワーエッセンス

 フラワーエッセンスは、その人の人生をより生きやすくするために、大きな力となってくれるものです。

 

 自分が生まれた環境を否定し、与えられた試練(ギフトでもある)を拒絶し、人からされた仕打ちを憎み、現状に不満を持ち、他人を恨み、嫉妬し、文句を言い・・・

 

 そんなこと、本当はもう終わりにしたい。そんな自分でいたくない。誰もがそう思っていると思います。

 

 不毛なことだとわかっていても、なぜかネガティブサイクルから抜け出すことができない。そんな時は、とにかく後ろを見ずに、前を見て、新しい自分になることです。古い自分を捨てることです。過去に何をやってきたかとか、どんな家に生まれたとか、どんな親に育てられたとか、どんなトラウマがあるとか、人それぞれいろんなことがあると思います。けれど、そういったことにいつまでも引っ張られていては、新しい自分になれませんし、新しい人生をスタートすることができません。

 

 過去は過去、もう終わったことです。そこにいつまでもとらわれていては、自由になれません。

 

 

 フラワーエッセンスは、本当の意味で自由になりたいと望んでいる人にとって、頼もしい存在となってくれます。その過程を後押ししてくれるからです。

 本当の意味での自由とは、自分が何物にもとらわれていないという感覚でいることです。過去の自分からも、自由でいるということです。

 

 それには、覚悟が必要だと思います。しがらみや習慣、パターンを一度打ち壊すことになるので、自分をしっかり保っていなければいけません。周囲との関わり方も変わっていくことになるので、勇気と気力も必要です。時として、障害や試練、決別もやってきます。意思を強く持ち続けなければ、乗り越えていけません。

 

 

 フラワーエッセンスは、大きな決心をした人ほど、より強いサポートを受けるように感じています。結局、その人の中での意思が弱いと、その程度にしか効かないのです。それは、アンジェリックを使った場合、顕著に表れると思います。アンジェリックエッセンスは、その人の準備ができた段階までしか作用しません。

 逆に、「私は変わるんだ」と心の底から強く決心した人には、ダイレクトな変化が起こったり、チャンスやサポートがたくさん与えられたり、ということが多いです。

 

 そして、変わろうと決心したら、とにかくどんなに小さなことでもいいから、行動に移すことです。動くことです。何もしないで変化が起こると思わない方が良いです。チャンスがやってきたら、思い切ってトライしてみてください。これをやったらどうなるかとか、失敗したらどうしようとか、周りがなんて言うかなとか、そんなことは微塵も考えない方がいいです。頭で考えたことは、全くあてになりませんし、何の役にも立ってくれません。(今まで役に立ったことがあるでしょうか?)

 今までこういうことをして失敗してきたから躊躇してしまう、という話もよく聞きますが、それは過去の自分はそうだっただけです。新しい自分はかつての自分と同じではありません。同じことが起こるとなぜいえるのでしょうか。過去の自分が嫌だったら、違う自分になればいいだけです。

 

 フラワーエッセンスには、新しく人生を切り開こうとする人が抱きがちな、恐れや不安を緩和してくれるものがたくさんあります。古いパターンを脱ぎ捨てる過程で起こりがちな問題を、上手に切り抜けるサポートをしてくれるものもいろいろあります。やってくる障害に打ち勝つ勇気を育んでくれるもの、周囲との軋轢を緩和してくれるもの、内なる力を開花させるお手伝いをしてくれるもの、信じる力を高めてくれるもの、混乱を鎮めてくれるもの、インスピレーションを受け取る力を高めてくれるもの、etc...

 

  

 具体的に動いていくのは自分自身なのですが、フラワーエッセンスは、その工程をよりスムーズに、エレガントに、迷いなく進んでいくお手伝いをしてくれます。

 

2017年

3月

08日

被害者意識

 自分の身に起こったことや、人からされたことをいつまでも恨み続け、心の傷と共に怒りを保持したまま生きていくなんて、苦でしかありません。本当は赦したい、赦せたらどんなに楽になるか、そこに気づいた人はもうその段階から癒しが始まっています。

 

 まずは、自分が「被害者」であるという認識を取り去ることです。時として、人は自分を正当化したいがために、自分を被害者に仕立てることがあります。悪いのは「加害者」だと決めつけてしまえば、ただ相手を責めるだけで済みます。相手がこうしたから、私はこうなったのだと思った方が楽なのです。

 

 けれどそのように、起こった出来事を誰か他の人に責任転嫁しているうちは、古いパターンの中に居続け、不満と怒りと劣等感から逃れることができないまま人生が終わるでしょう。人生の舵取りをしているのは自分なのだという認識、人生の創造には自分の意思が大きく関わっているという認識、決定権を握っているのは実は私なのだという認識がありません。自分の人生で起こる出来事全てを引き受ける覚悟もありません。なにより、起こったことをあるがまま受け入れる謙虚さがありません。

 だから、思い通りにならないことが起こったら、何が悪いからこうなった、誰のせいでこうなったと、何かのせいや人のせいにします。もしくは、今は何がないからできないとか、こんな状況だからできないのだと、できない理由をあれこれ見つけて言い訳し続けます。

 

 悲劇の主人公を演じている方が、一見現実を受け入れやすく思えるかもしれません。けれど、自分を「被害者」だと思っている間は、自分の身に起こったこと全てを、本当の意味で受け入れることはできないままでしょう。

 

 そうした被害者意識の裏側には、自分にとって都合の良いことは受け入れて、都合が悪いことは受け入れたくないという、思いあがった人生観があるように感じます。そもそも、人生のあらゆることを「私」がコントロールできるなんてことは絶対にないのです。人生のある領域においては、個人の力が及ばないことがあります。この世界を1人の人間が動かせるはずがないように。私達が生きているこの世界は、人智を超えた大きな力で動かされているのだから、思い通りにならない領域は必ずあります。自分の身に起こることや、世の中で起こっていることをいちいち「良い」「悪い」でジャッジして、不満の行き所を見つけることに労力を注ぐよりも、あらゆる出来事を取りあえず一度受け入れてしまった方が、もっと楽に、柔軟に、しなやかに生きられます。

 

 なるようにならないこともある。けれど、なるようになることもある。私たちは、与えられた領域で、与えられたギフトをフルに使い、奉仕の精神を持ちながら人生を花開かせることだけに集中していればいいのかなと思います。

 

 

2017年

2月

28日

思春期と怒り

 娘が2歳になるまで、横浜の社宅に住んでいました。とても古くて狭い社宅でした。社宅での記憶は、まだ小さかった娘との思い出ばかりです。

 

 今思えば贅沢なロケーションだったとつくづく思うのですが、みなとみらいへは自転車で行ける距離でした。私はママチャリに娘を乗せて、毎日のようにみなとみらいに遊びに行っていました。福島の盆地で山に囲まれ生まれ育った私にとって、海風が薫るあの場所の雰囲気はなんだか開放的で清々しく、いつもリフレッシュできたのです。

 

 ある時、娘とみなとみらいのカフェで一息ついていた時のこと。私よりも一回りくらい年上のお母さんグループが、近くで楽しそうにワイワイとお茶を飲んでいました。テーブルの周りをヨチヨチ動き回る娘を見て、その中の1人のお母さんが、「あんな時期もあったのねえ・・」とつぶやきました。すると、他のお母さんたちも一斉に、「ほんとね!」「まったく!」とため息交じりにつぶやきます。

 

「今じゃああいえばこう言う、だものね」

「(全員で)ねーー!」

 

 推測するに、小学校高学年~中学生くらいのお子さん達のお母さんグループのようでした。その会話を聞いた時、私は、「そんなものなのかな」と思いました。当時の私には、子供が学校に行っている間に仲のいいお友達と楽しくお茶を飲めることが、とても優雅で羨ましいことに思えました。自分の時間が少しでもほしかったあの時の私にとって、子供の反抗的な態度など、自由が手に入るならいくらでも我慢するのに、くらいに考えていました。

 

 

 娘が思春期を迎えた今、あの時のお母さん達のため息交じりのつぶやきに、心から共感している自分がいます。

 

 思春期とは、体の変化と共に、世の中を眺める視点が徐々に変わっていく時期なのだな、と感じています。それまでは、親や先生といった、周りの大人達が言うことを絶対的なものとしてとらえていたのが、少しずつ、そういう人たちが言っていることの矛盾点に気づくようになる時期です。今まで絶対的権威だと思っていた大人達の、嘘やごまかし、実は適当な部分などを見抜くようになり、自分達だって不完全なのに、子供に対して偉そうにしている態度が許せないと感じるようになります。

 そして、そういった矛盾に気づきながらも、自分が大人達に完全に逆らうことができない弱い立場であることも、また歯がゆいのです。100%逆らうことに対しては躊躇があり、たくさんの憤懣や怒りを飲み込んでいます。それに、自分の気持ちを整理して言葉で表す能力もまだまだ未熟です。そもそも、自分でも自分の心の状態がよくわかっていないことが多いです。人生で最も複雑な時期なのですから、混乱するのも当たり前かもしれません。荒れ狂う心のさざ波に、自分でもどう対処したら良いのかわからないのです。

 

 過渡期ほど、物事が劇的に変わります。そこに関わる周囲の大人達は、思春期の子供の大きなエネルギーの動きに飲まれることなく、どーんと落ち着いていることが求められます。

 

 特に母親には、一番自分を受け止めてくれる存在でいてほしいと望むようです。私も最近ようやく気付いたのですが(もっと早く気づけば良かったのですが)、子供が母親に対して怒りをぶつけてきた時に、その怒りをそのまま受けてしまったら、自分の怒りスイッチを点火するだけだということです。思春期の子供は、行き場のない怒りのはけ口を必要としています。それが内側に行く子もいれば、外に向かっていく子もいます。その両方もいます。

 自分が一番甘えられる存在、自分を無条件で受け入れてくれる存在が母親である場合、その母親を怒りの緩衝材役として無意識に選び、怒りをぶつけます。そんな時に、やってきた怒りを自分に引火させないためには、怒りを受け取るのではなく、流すことが必要になります。スーッと透明な存在になって、怒りをただ通り抜けさせるのです。

 

 どんなにイライラした子供でも、数分間も怒りをぶつけていれば、そのうち落ち着いてきます。ある瞬間から急にトーンダウンし、次第に口調が穏やかになり、目から怒りの炎が和らぐのが見て取れます。怒りを吐き切ったら、後は怒りようがありません。怒りの持続性は長くありません。

 

 慣れないうちは、子供がぶつけてくる怒りにいちいち反応してしまっていた私ですが、それではお互いの怒りが増幅し合うだけで全く意味がないことがわかり(何よりこちらが疲弊します)、最近は自分が透明な存在になることに徹しています。フラワーエッセンスにも助けられています。

 

 

 10年前、みなとみらいのカフェで出会ったお母さんグループのお子さんたちは、今頃はご立派に成人されていることでしょう。今、あの時期のことを振り返ったら、何と言うのか聞いてみたいです。

 

 

2017年

2月

27日

無条件の赦し

 アンジェリックエッセンスの『Unconditional Forgiveness』(無条件の赦し)。次のようなエネルギーが入っています。

 

「すべてのレベルにおいて完全なる許しをもたらすことを助けてくれます。許すことができないという重荷から私たちを解放してくれます。許すことによって私たちは自由になるのです。この自由とともにさらなる更なるエネルギーがもたらされます。」

(ネイチャーワールド㈱様HPより転載)

 

 ”Unconditional”(無条件の)という単語が入っている所がポイントです。赦しとは本来、条件付きでは起こりえないものなのです。

 あの人が~してくれたら、~と言ってくれたら、~をくれたら、私の望むように変わってくれたら、赦す。これらは無条件の赦しではありません。

 

 

 過去を手放せずにいたり、過去に受けた傷を引きずってそこに縛られ続けている場合、それらに対して「赦せない」という思いがあることが多いです。そして、そこに関わった人や、自分を傷つけた人々をも、やはり赦せていないのです。

 自分を傷つけた人から直接謝罪の言葉がほしいと思っていたり、その人が反省をして、変わってほしいと望んでいたりします。もしくは、自分と同じような苦しみを味わって、私のつらさを身をもって知ってほしい、と考えていることすらあります。

 

 けれど、条件付きで結果を期待している限り、本当の意味で心の平安がやってくることはありません。起こった出来事そっくりそのままを受け入れて、自分の中で消化できさえすれば、相手が変わろうが変わるまいが、謝ろうが謝るまいが、反省しようがするまいが、他人は関係なくなります。全て自分の中の問題です。

 

 自分を傷つけた相手、ひどい仕打ちをした人に対して、どうしても恨みや復讐をしたい気持ちが湧いてくることがあります。謝ってもらわなければ気が済まないと思うこともあります。それは人間としてごく自然な感情かもしれません。

 

 自分がした行為は必ず自分の元に跳ね返ってくるという宇宙の法則がある限り、誰かを傷つける行いをした人は、必ずその行いの報いを受ける日がやってきます。けれど、その報いを与えるのが、”私”である必要はありません。そして、その人が謙虚さを学ぶタイミングも、”今”ではないのかもしれません。

 それを決めるのは、”私”ではないのです。わざわざ私が手を汚すことはありません。

 

 私が傷つき、学び、成長して強くなれたら、もうレッスンは終わっています。相手がどんな状態かなんて関係ありません。微塵も反省していなかったとしても、私が知ったことではありません。そこにとどまっていたら、次へ進むことができません。相手をどうにかしようなんて、余計なエネルギーを使っている時間がもったいないです。恨みも怒りも、自分の波動を下げるだけで何の得にもなりません。

 

 この世で起こっていること、自分の身に起こること、他人の行動、これらを全てコントロールしようとする欲求をまず手放してしまった方が、あれこれと他人に不満の矛先が向かうこともなくなります。赦しとは、手放すこと、そして委ねることでもあります。

 

 

2017年

2月

24日

虚栄心という罠

 フラワーエッセンスの勉強をし始めた頃、私は講習会やワークショップのような集まりにちょくちょく通っていました(今でも必要に応じて講座を受けたりしています)。

 

 引き寄せやスピリチュアル系の”マスター”を名乗る人々とも出会いました。または、世界的に有名な”マスター”の門下生であることを誇らしげに語る人もいました。

 

 一体誰が、どのような基準で”マスター”を決めるのだろう。どの段階に達したら、どんなスキルを身に着けたら、はたまた弟子が何人できたら、”マスター”になれるのだろう。この人達は、一体何をもって、自らの立場を人よりも上に位置付けているのだろうか。見ていて私は疑問に思うようになりました。

 

 実のところ、そんな明確な基準はまったくどこにもないのでした。ただ、その人が自分が”マスター”だと言いさえすればいいのです。資格もスキルも根拠も関係ありません。とても曖昧な、個人的認識に基づいた称号でしかないのです。

 更にいえば、自分が師であるとか達人であるとかマスターであるということを自ら積極的にアピールしている人ほど、自己顕示欲と虚栄心に基づいて自我のキャラクターを作り上げていることに気づきました。そして、”弟子”の数と知名度に固執し、金銭的な豊かさや、いかに本が売れているか、どんな有名人を教えているかといった表面的な状況を「成功」と称し、そこを強調します。その講師の表面的な華やかさと、自信を得た人特有のカリスマエネルギーによって、更なる人々が虚栄心を刺激されて吸い寄せられていき、ノウハウを教えてほしい、私も「成功」して華やかな人生を送りたいと、派閥がどんどん膨らんでいきます。実際には、それらのノウハウも、人々の自立心を奪い、講師を頂点としたヒエラルキーを盤石化するために巧妙に編み出されたツールだったりもします。中には、完全に共依存の関係に陥って、心理的にも金銭的にも持ちつ持たれつの呪縛にはまり込んでいる人々もいました(過去形で書いていますが、こうしたシチュエーションはそこかしこで今現在も起こっていると思います。あまりにも分かりやす過ぎるほどシステム化されていたり、価格設定が法外だったり、ホームページやSNSなどの宣伝媒体でのアピールに全く隙が無く、やたら数字的な評価を強調してくる団体⦅個人の講師でも⦆、などは要注意です)。

 

 

 

 ある時から、私はこんなくだらないパワーゲームから距離を置こうと決めました。自分が目指しているのは、虚栄心に心を奪われた人たちが目指す「成功」ではないのだということに気づいたからです。そもそも、表面的な意味での成功とか失敗なんて、人生の本質には何ら関係がないと思います。物理的な世界で見えている部分に必要以上に惑わされ、心を奪われてしまったら、視界が曇り、魂が本来目指すべき道が見えにくくなってしまいます。

 余計な道草を食って時間を無駄にしたくないですし、エゴがエゴに訴えるだまし合いには全く魅力を感じません。教える側も、教えられる側も、エゴが刺激されてエゴが肥大化していくだけです。

 

 スピリチュアルに目覚めた人は、行く手のあちこちに巧妙な罠が潜んでいることを、心して進んでいった方がいいと思います。

 

2017年

2月

22日

惹かれ合う関係

 昔あんなに気が合って毎日何時間でも一緒にいられたのに、久しぶりに会ってみたら、昔とはなんだか感覚が違っていた。話もなんとなくかみ合わないし、お互いの価値観のズレを感じる。何より、かつてのような響き合うワクワク感が全くない。

 

 こんな経験は誰にでもあるのではないでしょうか。私たち人間は常に変化し続けている存在です。波動も変化しています。けれど人によってそのスピードはまちまちだったり、変化の種類や大小も異なります。だから、かつては波長がとても合ってビリビリ共鳴し合っていた関係でも、時間がたってお互いの波動が大きく変化した後に会ってみると、かつてと同じような共鳴が感じられないことは当然ありえます。

 

 誰かと大変親しい関係性でいる時や、「離れたくても離れられない」関係性(共依存)の時というのは、お互いの波長が強力に引き合っているものです。時として、それぞれの人間の”傷”を映し合い、”傷”によって引き寄せられている関係性であることもあります。

 似たような”傷”を持つ同士が、説明のつかないような魅力を相手に感じ、お互いその”傷”を投影し合う。友人、恋人、夫婦、家族、時には芸能人やスターのような存在にもその”傷”を見出すことがあります。”傷”によって引き寄せられている時というのは、不思議な安堵感と守られている感覚があり、孤独感が緩和されるので居心地が良く感じるものです。

 

 けれど本当の意味で人が孤独でなくなる時というのは、「誰かがいてくれるから大丈夫」という他者ありきの状態ではなくて、「私は誰かに依存しなくても生きていける」という絶対的な安心感を持てている時です。

 

 依存的な関係性はみせかけの安心感は与えてくれるかもしれませんが、どこか不安定で、それ故に恐れも伴っています。その人がいなくなったら、その人に裏切られたら、1人になったら私は弱い存在になってしまう、そんな不安感が常について回ります。

 

 ある段階で、1人が自分の弱さを乗り越えて、長年持ち続けてきた傷を手放す決心をしたとします。私は弱い人間ではないのだと気づき、意思の力でもって、新しい生き方をしようと心に決めたとします。私には、傷を映し合い、傷をなめ合い、傷を温め合う関係はもう必要ないのだということに気づき、そんな関係を終わりにしたいと感じます。そして、恐れの代わりにやってきた強さと勇気を武器に、新しい生き方に従事し始めます。少しずつ変わっていくその人のエネルギーフィールドが、もう今までのような依存的な関係性を必要としなくなっていきます。それまで惹かれ合っていた人と波長が合わなくなっていきます。一緒にいて違和感を感じるようになり、距離を置きたいと思うようになります。

 

 自分が変わっていくタイミングで相手も変わることは稀です。相手にしてみれば、「なぜこの人は急に素っ気なくなってしまったんだろう」と、戸惑いを覚えるだけかもしれません。何が起こったのかがわからないからです。「私、何も悪いことしていないのに!」と憤りさえ覚えるかもしれません。相手に、自分と別れる心の準備ができていないのであれば、関係を引き留めようと様々な手段を用いてくることもあるでしょう。物や奉仕をチラつかせてきたり、高圧的な態度もしくは感情に訴えて、罪悪感に付け込んでくるかもしれません。自分が弱い存在だと思っている人にとっては、傷を埋め合う関係を失うことは恐怖でしかないのです。

 

 けれど、一度波長が合わなくなった相手と、以前のように共鳴し合うことはもう無理です。別れるタイミングだったのだと、受け入れるしかありません。かつての関係性から、私も相手も何かを学んだはずです。どんなに過去に親しかったからといって、この先も同じような関係性を続けなければいけない義務なんて本来ありません。終わりにしたければ、いつだって終わりにできます。感謝して手放せばいいだけです。名残惜しい気持ちに引っ張られたり、相手に気を遣って偽りの自分を演じ続けていても、苦痛を感じるだけで得るものはありません。相手だって本当は違和感を感じています。無理して会っていても、焦りと苛立ちだけが募っていきます。そんな関係性、誰が得するでしょうか。

 

 

 そもそも、常に変わらない、永遠に続く関係を求めるなんて、『万物は常に変化し続ける』というこの宇宙全体を支配している法則に抗うことでもあり、幻想です。変化を受け入れ、変化に柔軟に対応できる自分になった方が、よほど宇宙に調和して生きていけるので楽です。

 

 

2017年

2月

20日

理解と受け入れ

 もうすぐ中学生になる娘。今でも時間が合えば私と一緒にお風呂に入るのですが、そんな時には気持ちがほぐれるのか、普段話さないような学校の話をいろいろしてくれます。

 

 6年生の後半となってくると、受験や卒業準備などで何かと気ぜわしくなってくるので、先生も若干カリカリしているのかな?と感じる発言が増えたり、クラスの雰囲気がギクシャクするようなことも度々あるようです。

 

 お友達に辛辣な言葉を投げかけたり、かけられたり、仲間割れをしたり、もめごとがあったり、先生が感情的になったり・・子供なりに「どうしてこんなことをするんだろう」と信じられない思いでモヤモヤすることもあるようです。

 

 だいたいは、お風呂の中でポツポツとそういう話をしてくれるのですが、話しているうちにだんだんヒートアップしてくるらしく、「もう、ホントなんでああなんだろう!」とか「みんなやめてほしいって思ってるんだけど、本人は気づいてないんだよね!」といった感じで次第に怒り文句に変わっていきます。

 そんな時にはとりあえず、最初に吐き出すだけ吐き出させておきます。相槌も、「ふんふん」「えー、そうなんだ」「そっか~」程度で、特に何も意見めいたことは言いません。娘もしばらく話していると、次第に落ち着いてきて、トーンが穏やかになっていきます。感情が吐き出されて、スッキリするのです。

 

 だいぶ感情が落ち着いて表情が柔らかくなってきたくらいのタイミングで、私はいつも、

 

「○○ちゃんは、どうしてそういうことをするんだろうね?」

 

 といった質問を投げかけます。誰かに怒りを感じている時、許せないと思っている時は、その人本人の心の内側にまで目がいっていないことが多いです。なぜその人がそのような行為をするのか、何がそうさせているのかがわからない上に、自分の感覚や常識で当てはめてみているから、怒りや信じられないという思いが湧き出てくるのです。

 

 自分の感覚ではとても考えられないようなタイプの人がいたとしたら、一度落ち着いて(怒りなどの感情は抑え込まず、素直に吐き出してしまった方が冷静になれます)、その人の立場になって考えてみます。その人の事情や置かれている状況を察します。その上で、その人の心の内側を感じてみます。その人の心には、どのような思いがあるんだろう。どんな苦しみがあるんだろう。そして今私たちの目に触れている姿や行動は、その人の中の一体何が表に出てきたものなのだろうか。

 

 

 娘にも、そういった見方に切り替えて考えてもらうために、少し手助けをします。「○○ちゃんは、どんな気持ちでいるんだろうね」とか、「○○ちゃんは、本当はどうなりたいんだろう」といった質問を投げかけます。そして、学校の中でしか見えていないその子の姿だけでなく、お家の事情や、お父さんお母さんとの関係、塾や習い事のことなど、少しでも知っていることがあれば、そういった情報も取り入れながら、できるだけその子の”全体像”をとらえるように促します。

 すると、しばらく考えた後、いろんなことに気づいていきます。そういえば、○○ちゃんはお父さんがいないって言ってた。寂しいのかもしれない。△△君は夜中まで毎日パソコンゲームをやってるって言ってた。睡眠不足でイライラしてるのかもしれない。□□先生、私たちがあんまり言うことをきかないから、焦ってるのかもしれない。etc...

 私が特に大人目線の意見を言わなくても、本人の口からいろいろな気づきが出てきます。視点を変えただけで、驚くほどその人の心の内を慮ることができるのだなと思います。その推察がどれだけ合っているかはわかりませんが、少なくとも、一度「相手の気持ちになって考えてみる」ということをしてみると、その人はもう以前のような理解不能な人物ではなくなっています。自分と同じように、悩み、苦しみ、様々な葛藤と戦っている人間、になるのです。嫌悪が理解へと変わり、そして拒絶から受け入れへと変わっていくのは、そんな時です。

 

2017年

2月

15日

信じること

 アンジェリックエッセンスに、『Trust』(信頼)というエッセンスがあります。その名の通り、信じる心を高めてくれるエネルギーです。

 

 人生の転換期を迎えている方にとって、これから先どのように事が進んでいくのか、果たして良い方向に向かっていけるのか、それとも失望に終わってしまうのか、先行きが見えないと不安になることも多いかと思います。

 転換期とまではいかなくとも、アクシデントに見舞われたり、困難な状況に陥っている時にも、不安や恐れに支配されて、冷静な心を保つのが難しくなりがちです。

 

 そんな時こそ、本当は気持ちを落ち着かせ、この先に対する不安ではなく、希望と明るい未来を思い描くポジティブな心を抱き続ける必要があるのですが、大変なシチュエーションにいる時にポジティブでいるなんて、そう簡単にできることではありません。

 思いもしなかった出来事に見舞われたり、人生が大きく揺れ動いているような時期に、いかに自分と、自分の人生を動かしている大いなる力(神)を信じられるかという部分で、人は試されるものなのかなあと思います。

 

 イエス様は何度も何度も、人々に「信仰を持ち続けること」の大切さを説きました。私が思うに、この「信仰」というものこそが、自分と大いなる力に対する信頼のことなのではないかと感じます。自分と神との太いパイプを築く内なる力のことです。イエス様は、おそらくそれがほぼ完ぺきにできていた人なのではないかと思います。だから、誰よりも神様と繋がることができ、人を瞬時に癒したり、数々の奇跡を起こすことができたのではないでしょうか。

 イエス様はこうも言っています。

 

「私がやっていることは、あなたたちにもできる」

 

 

 私たちの外側で起こっていることは、あまり大きな問題ではないのかもしれません。環境や状況にばかりフォーカスしてしまうと、それが指標となってしまい、本質が見えにくくなります。本来は、外側ではなく内側の状態こそが大事で、内面の状態をいかに平和で満たすか、いかに信頼に身を委ねていられるかということが、究極の課題であるような気がしています。